はじめによんでください

意味の四角形

On semiotic rectangle by Algirdas Julien Greimas

池田光穂(IKEDA, Mitsuho)

言語学者のアルジルダス・ジュリアン・グ レマス(Algirdas Julien Greimas, 1917-1992)は、意味 論研究(1992)において、特定のテクストのある項目に注目すれば、そのテクストに明示されていない項目が 何であるかを予測発見することを可能にする「意味の四角形」(semiotic rectangle)という論理的図式を考案した[図1.]。まずある意味体系Sにおいて、 s1とその反対の意味をもつs2を反対の関係にとれば、すなわちグレマスによれば「相反する意味素に分節」すれば、それぞれに対応して矛盾する意味である ‾s1(s1ではない)と‾s2(s2ではない)[→図中ではこれをSの上部に−が引かれた表記形で示している]が、同じく反対の関係として存在すること を示唆することができる。否定の否定は肯定であるから、s1と‾s2、s2と‾s1の間には含意関係がなりたつ。大文字で書かれたSは相反するs1とs2 を分離と接合という二重の関係によってs1とs2を複合的な意味として再定義され、〜SはSと矛盾するものとして、すなわち「意味の絶対的な不在として」 対立することになる(グレマス 1992:156-8)。

 すなわちひとつの項目を取れば、その一 方は反対の関係と含意の関係という2つの要素が並び、2つの対角線の要素は矛盾の関係で構築される というものである。これによって一つの項目が決まると他の項目も自動的に決まり、特定のテクストにある一つの項目に注目すれば、テクストに明示されていな い項目が何であるかを予測・発見することができるというのが、グレマスの主張である。

 このモデルを流用して、文化遺産として の遺跡(s1)という現象から残りの3つの項目を導出してみることにしよう。まず文化遺産としての 遺跡がしばしば巨大な建築物である——アメリカ大陸の考古学遺跡にはそれが著しい——ことを念頭におくと、その反対は現代建築モニュメント(s2)であ る。現代建築モニュメントの欠如概念は、モニュメンタルなものではないもの(‾s2)であり、文化遺産としての考古学遺物を含意するものである。古代的な ものという意味で遺跡と遺物は含意関係にあると言ってよいだろう。他方「文化遺産としての遺跡に矛盾し、かつ遺物ではないもの」(‾s1)は何であろう か。これにあたるものは現代の宝飾品である。そしてこれは、現代的なものという意味で現代建築モニュメントと関連づけられてい。

 グレマスによればSと〜Sはそれぞれ矛 盾の関係にある意味体系である。これらの四角形の要素を眺めてみれば、Sはモニュメンタルな建造物 の体系であり動くことのない不動産の体系でもある。またそれに矛盾する〜Sは価値を担わされた動産という事物の体系であることがわかる。私の議論にひきつ けて考えると、これらの体系間の関係は事物(〜S)とそれが置かれる社会的文脈(S)の関係に対応する。このことが明らかにしたわけだが、ここでさらに事 物と文脈の関係を別の角度から考えて、これらの4つ項目から発見される文化的事象を考察してみよう[図 2]。

 私が新たに導入したいのは、異所性(heterotopia, heterotopy)という分析的診断用語である。もともとこの用語は、医学の分野で「内臓が本来の場所とは異なる所にある異常」のことである。異所性 の概念は、生命体の個体発生過程において臓器が配置する本来の場所は決まっているという前提にもとづくものである。これをヒントにして、事物の系列(〜 S)が本来置かれるべき社会的文脈の系列(S)と含意関係をもつ場合と矛盾項の関係をもつ場合について考察してみよう。

 1.文化遺産としての遺跡という社会的文脈に置かれている考古学遺物の組み合わせがある(s1と‾s2の関係)。この典型的な例として、 遺跡から発掘されつつ彩色土器について考えてみよう。ここでは学問的鑑識眼によって遺物の価値が決定されると同時に出土品の内容如何では遺跡の学問的位置 づけ、すなわち学問的価値そのものをも変えてしまうこともある。発掘された遺物の偉大さによって、出土した遺跡そのものの価値が格上げされるような場合で ある。

 2.遺跡から発掘された考古学遺物が研究室に持ち込まれ分析の対象になったり、また学問上の評価が確立され考古学の博物館に収蔵、展示さ れるような関係(‾s2とs2の関係)がある。これは、考古学遺物が本来あるべき場所(埋蔵されていたオリジナルの場所)から離れて存在している異所性 (矛盾項の関係)である。この異所性には、そのオリジナルの場所との関係において強度の違いがある。つまり考古学博物館は異所性が弱いが、現代美術館には 異所性がより強くなるという具合である。本来の場所である考古学博物館にあるべきような彩色土器が、脱コンテクスト化された状況である政府の迎賓館や現代 美術のギャラリーに存在することを想定すれば、この事態は容易に推測できる(これはs2と‾s1の関係にあたる)。異所性の強度が強いということは、遺物 にとっては疎外状態にあるということである。

 3.考古学遺物(‾s2)と「文化遺産としての遺跡に矛盾し、かつ遺物ではないもの」(‾s1)の関係は意味の四角形によると相反項の関 係にあるため、この例として現代の宝飾品を先に挙げた。しかし、これは考古学遺物が異所性の性質をもち、別の価値が付与されたときには、遺物そのものの属 性が変わりうるということを指している。この代表が芸術品としての考古学上の盗掘品である。なお盗掘品の定義は相対的に決定される。ロゼッタストーンのよ うに歴史的に組織的な盗掘結果掘り起こされたと場合でも、事物の異所性よりも固有の価値に力点がおかれることもある(これはs2と‾s1の関係がs2と ‾s2の関係に移行することを意味する)。


 4.文化遺産でもなく、遺跡を含意するものでもない社会的文脈に置かれた物の例は、観光客が記念に買い求める彩色土器の複製品や模倣とし てのフォークアートである(s1と‾s1の関係)。おみやげ品は、そこにしか売っていないという理由で購入されることがあるが、それはおみやげ品が遺跡と いう空間領域(s1)に属していることを証明する。しかし、結果として観光客によって自宅に持ち帰えられるわけ(=異所性を増す)であるから、これらの項 目の関係は図式のどおり矛盾項の関係にある。おみやげ品は本来あったところ(制作された工房や売店の店頭)から矛盾した場所を見いだす。これは見方を変え ればコレクションの一員として新しい場所を見いだすことにほかならない。複製品が遺跡との関 連性を失い、脱コンテクスト化された彩色土器の複製品が装飾という機能だけになるような場合もある(‾s2と‾s1の関係)。例えば、観光案内所や旅行代 理店に置かれている複製品は脱コンテクスト化された状況にあるが、遺跡観光を演出するだけに機能している(=異所性という概念が意味をもたなくなる)。極 端な例は遺跡にも考古学遺物にも属さなくなった意匠や商標である。

Algirdas Julien Greimas (French: [alɡiʁdas ʒyljɛ̃ gʁɛmas];[1] born Algirdas Julius Greimas; 9 March 1917 – 27 February 1992) was a Lithuanian literary scientist who wrote most of his body of work in French while living in France. Greimas is known among other things for the Greimas Square (le carré sémiotique). He is, along with Roland Barthes, considered the most prominent of the French semioticians. With his training in structural linguistics, he added to the theory of signification, plastic semiotics,[2] and laid the foundations for the Parisian school of semiotics. Among Greimas's major contributions to semiotics are the concepts of isotopy, the actantial model, the narrative program, and the semiotics of the natural world. He also researched Lithuanian mythology and Proto-Indo-European religion, and was influential in semiotic literary criticism.
アルギルダス・ジュリアン・グレイマス(仏: [alɡ ʒ ʁ [alɡ ʒ gɛ];[1] 本名アルギルダス・ユリウス・グレイマス、1917年3月9日-1992年2月27日)はリトアニア出身の文学者で、フランス在住中にほとんどの作品をフ ランス語で執筆した。グレイマスはグレイマス広場(le carré sémiotique)などで知られる。ロラン・バルトと並び、フランスの記号学者の中で最も著名な人物とされている。構造言語学の訓練を受け、記号論に 造形記号論を加え[2]、パリ学派の基礎を築いた。グレイマスの記号論への主な貢献には、アイソトピーの概念、行為モデル、物語プログラム、自然界の記号 論などがある。また、リトアニア神話と原インド・ヨーロッパ語族の宗教を研究し、記号論的文学批評にも影響を与えた。
Biography
Greimas's father, Julius Greimas, 1882–1942, a teacher and later school inspector, was from Liudvinavas in the Suvalkija region of present-day Lithuania. His mother Konstancija Greimienė, née Mickevičiūtė (Mickevičius), 1886–1956, a secretary, was from Kalvarija.[3] They lived in Tula, Russia, when he was born, where they ran away as refugees during World War I. They returned with him to Lithuania when he was two years old. His baptismal names are Algirdas Julius[4] but he used the French version of his middle name, Julien, while he lived abroad. He did not speak another language than Lithuanian until preparatory middle school, where he started with German and then French, which opened the door for his early philosophical readings in high school of Friedrich Nietzsche and Arthur Schopenhauer. After attending schools in several towns, as his family moved, and finishing Rygiškių Jonas High School in Marijampolė in 1934, he studied law at Vytautas Magnus University, Kaunas, and then drifted toward linguistics at the University of Grenoble, from which he graduated in 1939 with a paper on Franco-Provençal dialects.[5] He hoped to focus next on early medieval linguistics (substrate toponyms in the Alps).[6] However, in July 1939, with war looming, the Lithuanian government drafted him into a military academy.

The Soviet ultimatum led to a new "people's government" in Soviet-occupied Lithuania which Greimas was sympathetic to. In July 1940, he gave speeches urging Lithuanians to elect leaders who would vote in favor of annexation by the Soviet Union. As his friend Aleksys Churginas advised, in every speech he would mention Stalin and end by clapping for himself. In October, he was discharged into the reserve, and he began teaching French, German, Lithuanian and humanities at schools in Šiauliai. He fell in love with socialist Hania (Ona) Lukauskaitė, who later became an anti-Soviet conspirator with Jonas Noreika, served ten years in a lager in Vorkuta, and was a founder of the Lithuanian Helsinki Group of anti-Soviet dissidents. Greimas became an avid reader of Marx. In March 1941, Greimas's friend, Vladas Pauža, a boy scout and fellow teacher, enlisted him in the Lithuanian Activist Front. This underground network was preparing for a Nazi German invasion as the opportunity to restore Lithuania's independence. On 14 June 1941, the Soviets detained his parents, arresting his father and sending him to Krasnoyarsk Krai, where he died in 1942. His mother was deported to Altai Krai. Meanwhile, during these traumatic deportations, Greimas had been mobilized as an army officer to write up the property of detained Lithuanians. Greimas became an anti-Communist but retained a lifelong affinity with Marxist, leftist and liberal ideas.[7]

Nazi Germany's invading forces entered Šiauliai on 26 June 1941. The next day, Greimas met with other partisans and was put in charge of a platoon. He handed down an order from the German Commandant to round up 100 Jews to sweep the streets. He felt uncomfortable and did not return the next day. Nevertheless, he became an editor of the weekly Tėvynė, which urged ethnic cleansing of Jews from Lithuania.[8] The nominal editor, Vladas Pauža, was a proponent of genocide.[9] In 1942, in Kaunas, Greimas became active in the underground Lithuanian Freedom Fighters Union, which derived from the Lithuanian Nationalist Party, which the Nazis had banned in December 1941. He grew close to life long liberal-minded friends Bronys Raila, Stasys Žakevičius-Žymantas, Jurgis Valiulis.

In 1944 he enrolled for graduate study at the Sorbonne in Paris and specialized in lexicography, namely taxonomies of exact, interrelated definitions. He wrote a thesis on the vocabulary of fashion (a topic later popularized by Roland Barthes), for which he received a PhD in 1949.[10]

Greimas began his academic career as a teacher at a French Catholic boarding school for girls in Alexandria in Egypt,[6] where he would take part in a weekly discussion group of about a dozen European researchers that included a philosopher, a historian, and a sociologist.[11] Early on, he also met Roland Barthes, with whom he remained close for the next 15 years.[6] In 1959 he moved on to universities in Ankara and Istanbul in Turkey, and then to Poitiers in France. In 1965 he became professor at the École des Hautes Études en Sciences Sociales (EHESS) in Paris, where he taught for almost 25 years. He co-founded and became Secretary General of the International Association for Semiotic Studies.

Greimas died in 1992 in Paris, and was buried at his mother's resting place,[12] Petrašiūnai Cemetery in Kaunas, Lithuania.[13] (His parents were deported to Siberia during the Soviet occupation. His mother managed to return in 1954; his father perished and his grave is unknown, but he has a symbolic tombstone at the cemetery.[14]) He was survived by his wife, Teresa Mary Keane.[15]


略歴
グレイマスの父ユリウス・グレイマス(1882-1942)は教師で、後に監察官となったが、現在のリトアニア、スヴァルキヤ地方のリウドヴィナヴァス出 身。母親のコンスタンチヤ・グレイミエネ(旧姓ミッケヴィチウテ、1886-1956、秘書)はカルヴァリヤ出身であった[3]。彼が生まれた時、二人は ロシアのトゥーラに住んでいたが、第一次世界大戦中に難民として逃げ出し、彼が2歳の時に一緒にリトアニアに戻った。洗礼名はアルギルダス・ユリウス [4]だが、外国に住んでいた間はミドルネームのフランス語版であるユリアンを使っていた。リトアニア語以外の言語を話すようになったのは、中学校の準備 教育でドイツ語、フランス語に触れたことがきっかけだった。家族の引っ越しに伴いいくつかの町の学校に通い、1934年にマリヤンポレにあるリギシュキų ヨナス高校を卒業した後、カウナスのヴィタウタス・マグヌス大学で法律を学び、グルノーブル大学で言語学に傾倒し、1939年にプロヴァンス方言に関する 論文を発表して卒業した。 [しかし1939年7月、戦争が迫る中、リトアニア政府は彼を陸軍士官学校に徴兵した。

ソ連の最後通牒により、ソ連占領下のリトアニアでは新しい「人民政府」が樹立され、グレイマスはこれに同調した。1940年7月、彼は演説を行い、ソ連に よる併合に賛成する指導者を選出するようリトアニア人に促した。友人のアレクシス・チュルギナスが忠告したように、彼は演説のたびにスターリンに言及し、 最後は自分のために拍手を送った。10月、予備役に除隊した彼は、シャウレイの学校でフランス語、ドイツ語、リトアニア語、人文科学を教え始めた。社会主 義者のハニア(オナ)・ルカウスカイテレと恋に落ち、彼女は後にヨナス・ノレイカとともに反ソの陰謀家となり、ヴォークタの収容所で10年間服役し、反ソ 反体制派のリトアニア・ヘルシンキ・グループの創設者となった。グレイマスはマルクスの熱心な読者となった。1941年3月、グレイマスの友人で、ボーイ スカウトで教師仲間のヴラダス・パウジャは、彼をリトアニア活動家戦線に参加させた。この地下ネットワークは、リトアニアの独立を回復する機会として、ナ チス・ドイツの侵攻に備えていた。1941年6月14日、ソビエトは彼の両親を拘束し、父親を逮捕してクラスノヤルスクに送り、1942年に亡くなった。 母親はアルタイに追放された。一方、このトラウマ的な強制送還の間、グレイマスは陸軍将校として動員され、拘束されたリトアニア人の財産を書き上げてい た。グレイマスは反共産主義者となったが、マルクス主義、左翼、リベラルの思想との親和性を生涯持ち続けた[7]。

1941年6月26日、ナチス・ドイツの侵攻軍がシャウレイに入城した。翌日、グレイマスは他のパルチザンと会い、小隊の責任者となった。彼はドイツ軍司 令官から、街路を掃除するために100人のユダヤ人を集めよという命令を言い渡された。彼は不快に感じ、翌日には戻らなかった。1942年、カウナスでグ レイマスは、ナチスが1941年12月に禁止したリトアニア民族主義党から派生した地下のリトアニア自由戦士同盟で活動するようになる。リベラル派の友人 ブロニス・レーラ、スタシス・ジャケヴィチウス・ジマンタス、ユルギス・ヴァリウリスらと親交を深めた。

1944年、パリのソルボンヌ大学大学院に入学し、辞書学、すなわち正確で相互に関連する定義の分類学を専攻した。彼はファッションの語彙(このテーマは後にロラン・バルトによって広められた)に関する論文を書き、1949年に博士号を取得した[10]。

1959年にはトルコのアンカラとイスタンブールの大学に移り、その後フランスのポワチエに移る。1965年にはパリの社会科学高等研究院(EHESS)の教授となり、そこで25年近く教鞭をとった。国際記号学会を共同設立し、事務局長に就任した。

グレイマスは1992年にパリで死去し、リトアニアのカウナスにある母の眠るペトラシウナイ墓地に埋葬された[12]。母親は1954年に戻ることができたが、父親は亡くなり、墓は不明だが、墓地には象徴的な墓石がある[14]。

Work
Early

Greimas's thesis was on old Parisian fashion words.
Greimas's first published essay Cervantes ir jo don Kichotas ("Cervantes and his Don Quixote")[16] came out in the literary journal Varpai, which he helped to found, during the period of alternating Nazi and Soviet occupations of Lithuania. Although a review of the first Lithuanian translation of Don Quixote,[17] it addressed partly the issue of one's resistance to circumstances[18] – even when doomed, defiance can at least aim at the preservation of one's dignity (Nebijokime būti donkichotai 'Let's not be afraid to be Don Quixotes').[16] The first work of direct significance to his subsequent research was his doctoral thesis La Mode en 1830. Essai de description du vocabulaire vestimentaire d' après les journaux de modes [sic] de l'époque 'Fashion in 1830. A Study of the Vocabulary of Clothes based on the Fashion Magazines of the Times'.[19] He left lexicology soon after, acknowledging the limitations of the discipline in its concentration on the word as a unit and in its basic aim of classification, but he never ceased to maintain his lexicological convictions. He published three dictionaries throughout his career.[citation needed] During his decade in Alexandria, the discussions in his circle of friends helped broaden his interests. The topics included Greimas's early influences – the works of the founder of structural linguistics Ferdinand de Saussure and his follower, Danish linguist Louis Hjelmslev, the initiator of comparative mythology Georges Dumézil, the structural anthropologist Claude Lévi-Strauss, the Russian specialist in fairy tales Vladimir Propp, the researcher into the aesthetics of theater Étienne Souriau, the phenomenologists Edmund Husserl and Maurice Merleau-Ponty, the psychoanalyst Gaston Bachelard, and the novelist and art historian André Malraux.[20]

Discourse semiotics

Semiotic square
Greimas proposed an original method for discourse semiotics that evolved over a thirty-year period. His starting point began with a profound dissatisfaction with the structural linguistics of the mid-century that studied only phonemes (minimal sound units of every language) and morphemes (grammatical units that occur in the combination of phonemes). These grammatical units could generate an infinite number of sentences, the sentence remaining the largest unit of analysis. Such a molecular model did not permit the analysis of units beyond the sentence.

Greimas begins by positing the existence of a semantic universe that he defined as the sum of all possible meanings that can be produced by the value systems of the entire culture of an ethno-linguistic community. As the semantic universe cannot possibly be conceived of in its entirety, Greimas was led to introduce the notion of semantic micro-universe and discourse universe, as actualized in written, spoken or iconic texts. To come to grips with the problem of signification or the production of meaning, Greimas had to transpose one level of language (the text) into another level of language (the metalanguage) and work out adequate techniques of transposition.

The descriptive procedures of narratology and the notion of narrativity are at the very base of Greimassian semiotics of discourse. His initial hypothesis is that meaning is only apprehensible if it is articulated or narrativized. Second, for him narrative structures can be perceived in other systems not necessarily dependent upon natural languages. This leads him to posit the existence of two levels of analysis and representation: a surface and a deep level, which forms a common trunk where narrativity is situated and organized anterior to its manifestation. The signification of a phenomenon does not therefore depend on the mode of its manifestation, but since it originates at the deep level it cuts through all forms of linguistic and non-linguistic manifestation. Greimas' semiotics, which is generative and transformational, goes through three phases of development. He begins by working out a semiotics of action (sémiotique de l'action) where subjects are defined in terms of their quest for objects, following a canonical narrative schema, which is a formal framework made up of three successive sequences: a mandate, an action and an evaluation. He then constructs a narrative grammar and works out a syntax of narrative programs in which subjects are joined up with or separated from objects of value. In the second phase he works out a cognitive semiotics (sémiotique cognitive), where in order to perform, subjects must be competent to do so. The subjects' competence is organized by means of a modal grammar that accounts for their existence and performance. This modal semiotics opens the way to the final phase that studies how passions modify actional and cognitive performance of subjects (sémiotique de passions) and how belief and knowledge modify the competence and performance of these very same subjects.

Mythology

Algirdas Julien Greimas on a 2017 stamp of Lithuania
He later began researching and reconstructing Lithuanian mythology. He based his work on the methods of Vladimir Propp, Georges Dumézil, Claude Lévi-Strauss, and Marcel Detienne. He published the results in Apie dievus ir žmones: lietuvių mitologijos studijos (Of Gods and Men: Studies in Lithuanian Mythology) 1979, and Tautos atminties beieškant (In Search of National Memory) 1990. He also wrote on Proto-Indo-European religion.
仕事
初期

グレイマスの学位論文はパリの古い流行語に関するものだった。
グレイマスが最初に発表したエッセイ『セルバンテスと彼のドン・キホーテ』(Cervantes ir jo don Kichotas)[16]は、ナチスとソ連が交互にリトアニアを占領していた時代に、彼が創刊に関わった文芸誌『Varpai』に掲載された。ドン・キ ホーテ』の最初のリトアニア語訳の批評であったが[17]、状況に対する抵抗の問題を部分的に取り上げていた[18]。1830年のファッション』(La Mode en 1830. Essai de description du vocabulire vestimentaire d' après les journaux de modes [sic] de l'époque)である。彼は間もなく辞書学から離れ、単位としての単語への集中や分類という基本的な目的における学問の限界を認めたが、辞書学的な信 念を絶やすことはなかった。アレクサンドリアでの10年間は、友人たちの輪の中で議論を重ねることで、興味の幅を広げていった。構造言語学の創始者フェル ディナン・ド・ソシュールとその追随者であるデンマークの言語学者ルイ・ヒェルムスレフ、比較神話学の創始者ジョルジュ・デュメジル、構造人類学者クロー ド・レヴィ=ストロース、ロシアの童話専門家クロード・レヴィ=ストロースなどである、 ロシアの童話専門家ウラジーミル・プロップ、演劇美学の研究者エティエンヌ・スーリオー、現象学者エドムント・フッサールとモーリス・メルロ=ポンティ、 精神分析学者ガストン・バシュラール、小説家・美術史家アンドレ・マルローなどである。 [20]

談話記号論

記号論の四角形
グレイマスは、30年の歳月をかけて発展させた言説記号論の独自の方法を提唱した。彼の出発点は、音素(あらゆる言語の最小音単位)と形態素(音素の組み 合わせで生じる文法単位)のみを研究する世紀半ばの構造言語学に対する深い不満から始まった。これらの文法単位は無限の文を生成することができ、文は最大 の分析単位であり続けた。このような分子モデルでは、文を超える単位の分析はできなかった。

グレイマスはまず、民族言語共同体の文化全体の価値体系によって生み出される可能性のあるすべての意味の総和として定義した意味宇宙の存在を仮定する。グ レイマスは、意味宇宙をその全体としてとらえることは不可能であるとして、文字や音声、図像化されたテキストに現れる意味的ミクロ宇宙や言説宇宙という概 念を導入するに至った。グレイマスは、意味論や意味の生成の問題に取り組むために、あるレベルの言語(テクスト)を別のレベルの言語(メタ言語)に移し替 え、適切な移し替えの技法を考え出さなければならなかった。

グレイマスの言説の記号論の根底には、物語学の記述的手続きと物語性の概念がある。彼の最初の仮説は、意味は明瞭化され、あるいは物語化されて初めて理解 できるというものである。第二に、彼の場合、物語構造は、必ずしも自然言語に依存しない他のシステムでも認識することができる。このことから、彼は分析と 表象の2つのレベルの存在を仮定する。表層レベルと深層レベルであり、物語性がその顕在化の前に位置づけられ、組織化される共通の幹を形成している。それ ゆえ、ある現象の意味づけは、その表出の様式に依存するのではなく、深層レベルに由来するものであるため、言語的・非言語的な表出のあらゆる形式を貫くの である。生成的かつ変容的なグレイマスの記号論は、3つの発展段階を経る。彼はまず、行為の記号論(sémiotique de l'action)を構築することから始める。そこでは、主体は対象への探求という観点から定義され、正統的な物語スキーマ(命令、行為、評価という3つ の連続したシークエンスからなる形式的枠組み)に従う。そして、物語文法を構築し、主体が価値ある対象と結びついたり離れたりする物語プログラムの構文を 構築する。第二段階として、彼は認知記号論(sémiotique cognitive)を構築する。主体の能力は、その存在と遂行を説明する様相文法によって組織される。この様相記号論は、情念が主体の行為的・認知的パ フォーマンスをどのように変化させるか(情念の記号論)、そして信念と知識がこれら全く同じ主体の能力とパフォーマンスをどのように変化させるかを研究す る最終段階への道を開く。

神話学

2017年のリトアニア切手に描かれたアルギルダス・ユリアン・グレイマス
その後、彼はリトアニア神話の研究と再構築を始めた。彼はウラジミール・プロップ、ジョルジュ・デュメジル、クロード・レヴィ=ストロース、マルセル・デ ティエンヌの手法に基づいて研究を行った。その成果をApie dievus ir žmones: lietuvių mitologijos studijos(Of Gods and Men: Studies in Lithuanian Mythology)1979年、Tautos atminties beieškant(In Search of National Memory)1990年に発表した。また、原インド・ヨーロッパ語族の宗教に関する著作もある。







リンク

文献

  • グレマス,アルジダス・ジュリアン,1992,赤羽研三訳『意味について』,水声社
  • Du sens : essais sémiotiques / Algirdas Julien Greimas,  [1], 2. - Paris : Seuil , c1970-c1983
  • On meaning : selected writings in semiotic theory / Algirdas Julien Greimas ; translation by Paul J. Perron and Frank H. Collins ; foreword by Fredric Jameson ; introduction by Paul J. Perron, Minneapolis : University of Minnesota Press , c1987. - (Theory and history of literature ; v. 38)
  • Del sentido II : ensayos semióticos / A.J. Greimas ; versión española de Esther Diamante, Madrid : Gredos , c1989. - (Biblioteca románica hispánica ; 2 . Estudios y ensayos ; 370)
  • Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099