II 政治的暴力の概念
On Political Violence in Guatemaa; 政治的暴力と人類学を考える(グアテマラの現在)
池田光穂
「政治的暴力」を理解する鍵として、私はアーレントの議論に負う。ハンナ・アーレントは、一九六〇年代末からのアメリカ合州国の大学キャンパスを中心と する若い世代による暴力の横溢現象を、国家が戦争を手段として行使する時代の終焉と関連づけて論じている[アーレント 一九七三、一九九五]。
彼女によれば、戦争はテクノロジーに依存した暴力を行使することに他ならないが、破壊のテクノロジーが肥大化してもはや限界に達した時、戦争が 意味をもっていた国際関係以外の文脈——とくに革命——において暴力そのものの意義が浮上してくるのだという。その際に彼女の認識論的作業における留意す べき点を指摘しておかねばならない。
彼女は、政治的次元においては、暴力と権力を相矛盾する概念としてとらえている。権力とは「行動する力のみならず、他人と協力して行動する人間 の能力に対応」し、個人においてはそれを所有できないものだとする。つまり権力を集団的強制力そのものではなく、それを産み出す力と見るのである[アーレ ント 一九七三:一二二]。
個人的に所有できる力は、「権威」と呼び彼女はそれを「権力」から区別する。それに対して暴力は道具による即物的「力」であり、その道具に依存 する性格からして自然の力を倍増するものとして設計使用される。しかし最終的にはその暴力は自然の力に代替できるものである。
彼女は、権力と暴力を次のように区分する。
「権力と暴力との間のもっとも明白な一つの相違点は、権力が常に数を必要とするのに対し、暴力は道具に依存しているために、あるところまで は数に頼らないでやっていけることである。……権力の極端な形態は全員が一人に敵対するものであり、暴力の極端な形態は一人が全員を敵とするものである。 後者は道具なしには実行できない」[アレント 一九七三:一二五]。
したがって、暴力の反対語は、我々が考える非暴力ではない。暴力の相反物は個的なシンボル的力である権威であり、権力は個的には所有できない点 で暴力とは矛盾するものである。権力を正常化するためには、暴力を極小化しなければならないという点で権力と暴力の関係はトレードオフの関係にある (4)。
(4)アーレントの意味する暴力と権力と権威の関係をグレマス[一九九二]の「意味の四角 形」に配列してみると興味深いことが判明する[図1]。暴力(S1)は権力(‾S1)と矛盾項の関係をなし、権力(‾S1)と権威(S2)は集団と個人の 属性の区分があるが、暴力のように即物的力は存在しない点で含意関係をもつ。この三項を四角形の中に配列すると、即物的力をもち集団で力を行使する項目 は、アーレント[一九九五]が国家と暴力の関係を論じた際に重要な鍵概念となった「革命」(‾S2)であることがわかる。彼女によると戦争と異なり、革命 は人間の「自由」——これもまた彼女の思想を理解する上で重要な概念である——の達成を自然権にもとづき集団的に行使する点で、きわめて近代に特異的な社 会事象であるという。この図式から見る限り、アーレントが扱っている暴力概念は、動物的本能や深層心理学などの解釈を不用とし、近代における社会事象その ものに向かっていることは明らかである。次の註(5)も参照のこと。
彼女のビジョンは、警察や軍隊という暴力装置の所有と行使が唯一国家に与えられていると理解する現代の国家観とは明らかに異質な考えかたであ る。我々の伝統的な暴力観によれば、暴力の相反物は非暴力であり、国家に管理されている暴力(例えば警察、軍隊)とは権力の表象そのものに他ならないから である。したがって、我々はこれまで「政治的暴力」を国家暴力装置の濫用あるいは誤った行使と見てきたのである。権力とは本質的に暴力の行使とは無縁どこ ろか、矛盾するものであるとみるアーレントの見解は、我々が陥りがちな別種の「常識」に疑問を投げかけるものである(5)。
(5)現代の国家観における暴力装置概念を註(4)と同様にグレマス[一九九二]の「意味の 四角形」に配列してみたのが図2である。暴力(S1)の相反項はもちろん非暴力(S2)である。国家は社会契約にもとづき個々の人民が武装し暴力(S1) を行使する権利を国家権力を介して回収する。権力(‾S2)は暴力装置を維持するために不可欠なものにほかならないが、それは国家が人民の合意にもとづき 行使されるべきものである。暴力装置が不要になる状態(=警察や軍隊のない社会)とは、権力が極小化された状況すなわち平和(‾S1)に他ならない。この ような理想的状況においては、国内の秩序維持に暴力装置(=警察)を行使することは不要になり、ただ国民を守るためのもの(=軍隊)だけが必要となる。前 の註(4)も参照のこと。
近代国家における暴力装置の必要性についての議論は、「暴力は決してなくすことはできない」という現代の我々の心を支配する諦念に援護されて、 暴力の根源性についてのイデオロギッシュな議論や、後述するように深層心理学というドグマによって独占されてきたからである。つまりアーレントの言う「誰 の眼にも明らかな」暴力の実態を、人類学という具体的な「方法」を通して表象し、議論の俎上に載せる必要がある。
文献目録
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