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ハンナ・アーレント

(年譜)

Hanna Arendt, 1906-1975

解説:市智河團十郎池田光穂垂水源之介

ハンナ・アーレント(Hanna Arendt)年譜(→文書記述の評伝は「ハンナ・アーレント」を参照してください)

1906 10月14日ドイツ・ハノーファー郊外(Hanover, Wilhelmine, Germany)にて、ロシア系ユダヤ人夫婦(Paul and Martha (Cohn) Arendt)の唯一の子供として生まれる

1909 ケーニスベルグに移転。ブ ルーメンフェルト「ドイツ・シオニスト機構」事務局長に就任

1913 父・パウルが梅毒性の進行麻痺にて死亡

1918 レーテ評議会結成(ドイツ革命)

1920 母マルタ再婚(Martin Beerwaldと)。彼女には義姉のEva and Clara Beerwaldができる。

1924 文学に興味をもち、またカントとゲーテに心酔。この年にKoenigsbergの 高校を卒業後、大学入学資格試験に合格、マーブル グ大学に進学。17歳年上のハイデガーと出会い親しくなる。実存哲 学を学ぶ。ハンス・ヨナスと友人となる。

撮影 1924年(18歳)

1925 フライブルグ大学で一学期間フッサールに学ぶ。

1926 ハイデルベルグ大学でヤスパースに師事。ブ ルーメンフェルトに出会う。

1927 ハイデガー『存在と時間』

1928 アウグスティヌスにおける愛の概念(Der Liebesbegriff bei Augustin)で、学位論文で博士号。クルト・ブレーメンフェルトと出会い、シオニズム運動に関心をもつ。

1929 ギュンター・シュテルン(Günther Stern:ペンネームは Günter Anders)と結婚(彼のいとこはヴァルター・ベンヤミン)。ラーエル・ファルンハーゲン伝記的資料を収集し執筆をおこなう(→ Rahel Varnhagen: The Life of a Jewish Woman, 1958)。『アウグスティヌスの愛の概念 』を公刊した。しかしハビリタチオンがユダヤ人に認められず、ドイツでの教職の希望を失う。ニューヨーク株式市場大暴落(10月)

1930 レオ・シュトラウス(1899 -1973)が求婚、しかし彼女は袖に振る、彼は生涯恨みにもつ(シカゴ大学時代に同僚になり彼女は辟易)(ヤング=ブルーエル 1999:153)。


Arendt, 1930年

1931 フランクフルトに移転。カール・マンハイムやパウル・ティルリッヒの授業に親し む。

1933 ヒトラー政権掌握(1月)。ドイツ国会議事堂放火事件(2月)。「職業官吏再建法 暫定施行令」(4月)。アーレントは、Kurt Blimenfeldの指導によるドイツ・シオニズム運動に参加する(ブルーメンフェルト経由の非合法活動)。ゲシュタポに逮捕され、その直後、パリに逃 亡、フランスに亡命する。1951年まで18年間「無国籍人」となる。パリでヴァル ター・ベンヤミンやレーモン・アロンたちと親交する(→戦後にベンヤミンの論集の英訳の刊行に尽力)。アロン経由でコージェヴの ゼミナールにも出席。

1935 ニュー ルンベルグ法の制定(9月)。「ユース・アーリア(Youth Aliyah)」(パレスチナ移住のための支援組織, 1933年創設)に加入(→Youth Aliyah:http://en.wikipedia.org/wiki/Youth_Aliyah)。ユース・アーリアの訓練生を連れて、はじめてパ レスチナの地を踏む(ヤング=ブルーエル 1999:204)。

1936 マルクス主義者で(ローザ・ルクセンブルグの)スパルタカス同盟のメンバーハイン リッヒ・ブリュッヒャー(Heinrich Blücher)と出会う。「反ユダヤ主義反対国際連盟」運動に参加。

1937 ゲルショム・ショーレム、ザルマン・ショッケン宛の書簡のなかで「私はカバリスト になろうと思ったことは一度もありませんでした」 と書く(ビアール『カバラーと反歴史』邦訳、134ページ)。

「「容器の破損は神の秘義に劇的な要素をもたらした。カバリストの幻想では原人間から発する 光は神の領 域に属していた。それは神の一部であった。容器の破損は、したがって、神自身のなかで起こった出来事 だった。その衝撃はルーリアの宇宙論の隅々に現われている。容器の破損が起こらなかったら、すべての 事物は割り当てられた場所にきちんと収まっていただろう。ところがいまやすべての事物はばらばらにな ってしまった。セフィロースでさえ、流れ込む天の光を容器で受けとめ、それを、流出の法則にしたがっ て、存在のより低次な秩序へ渡すことになっているのに、もはや本来あるべきはずの場所にいない。その 時から、すべてのものは不完全で、不十分であり、いわば「壊れ」、「堕落して」しまっている。本来なら 自分に割り当てられた然るべき場所にいたはずのものが別の方向へ動いている。居るべき場所にいない、 適正な場所から離れているこの状況こそ、「追放」という表現で意図されているものにほかならない。」(ショーレム 2009[上]:46-47)。

1939 ギュンター・シュテルンと離婚

1939 9月ドイツのポーランド侵攻、第二次大戦はじまる。

1940 マルクス主義者ハインリッヒ・ブリュッヒャーと結婚。フランス領内にあるギュル (Gurs internment camp)難民収容所に収容される。この収容所は、スペイン内戦崩壊後のフランコに協力したドイツに対抗してその前年に作られたが、1940年以降は、フ ランス国籍以外のユダヤ人を収容する施設となった。6月フランスの敗北により収容所から解放される。ユース・アーリアの活動により夫ならびに彼女には米国 渡航ビザが与えられたが、母親マルタにはまだビザが発給されなかった(翌年5月)。ヴァルター・ベンヤミン、ピレネー山中でスペイン税関に拒絶され翌日、 自殺する。マルセイユで、ベンヤミンはブリュッヒャー&アーレント夫妻に「歴史哲学テーゼ」を含む草稿を託す(ヤング=ブルーエル 1999:223)。 この原稿は、亡命組織フランクフルト社会研究所とりわけアドルノに手渡されることになるが、連中のベンヤミンに対するアンビバレントな態度を、ベンヤミン を通して知っているアーレントはとても葛藤する(ヤング=ブルーエル 1999:238,240)。

1941 5月夫および母マルタとともにアメリカに亡命。1945年まで、ドイツ語新聞 "Aufbau" のコラム"This means you"を書く。また、the Commission of European Jewish Cultural Reconstruction の研究グループを組織する。また全体主義の起源に関する原稿の執筆。


Aufbau, 1942年3月27日付,"This means you"

1945 ドイツの降伏。「シオニズム再考」を執筆。ドイツに帰国し、ユース・アーリアの活 動に協力ヤスパースの妻が、ユダヤ人であっため に、彼とより深い親交を結ぶ。

1946 ショッケン出版社の編集に携わる(後編集長:1954年まで)、ショッケン出版社 は、ドイツのユダヤ系出版社であったが、戦後に、 ニューヨー クとパレスチナに再建される。この頃、the journal Jewish Social Studies に関わり、編集者のSalo and Jeannette Baron と知己になる。Jewish Frontier and Aufbau などにユダヤ人軍の創設に関する文章を執筆。パルチザン・レビュー誌を編集していた、Dwight Macdonaldやメアリー・マッカーシー( Mary McCarthy)と親友になり、特に後者は、生涯の友人になる。「実存主義とはなにか」を執筆。パルチザンレビューのサークルの中の、批評家 Alfred Kazinが、全体主義の起源の構想を聞き、出版を強くすすめる。

ショッケン出版社(Schocken Books)は、Theodore Ernst Schocken(1914.10.08, Zwickau, Germany-1975.03.20, White Plains, New York)の父(Salman Schocken, 1877-1959) がドイツで創業したユダヤ系出版社であった。ザルマンはドイツでデパート事業に成功、(ユダヤ人問題への関心から)1930年代に出版にも乗り出す。その 後、パレスチナで営業開始。エルサレムの日刊紙『ハアレツ』を買収。ドイツでナチスが出版関係を閉鎖するにいたり、テル・アビブに出版社を設立。戦後 1946年に、 ニューヨー クとパレスチナに再建されるが、デオドールは、その経営者になる。——ザルマン・ショッケンに関する情報(pp.247-):カバラーと反歴史 : 評伝ゲルショム・ショーレム / デイヴィッド・ビアール著 ; 木村光二訳,晶文社 , 1984年。

1948 母マルタの死亡。イスラエル建国(5月)ベングリオンが初代首相に。「ユダヤ文化 再興機関」の専務理事(〜1952年)。「強制収 容所」(パルチザン・レビュー)


Arendt, 1948

1949-1950 「ユダヤ文化再興機関」を代表してヨーロッパ旅行。

1951 『全体主義の起源』を刊行し、知識人の間に評判となる。アメリカの市民権獲得

1952 グッゲンハイム基金を得て、マールブルグ大学、ハイデルベルグ大学で講演。

1954 イスラエル(パレスチナ人に対する)国籍剥奪法?、アーレント強く抗議。

1958 『人間の条件(The Human Condition)』を公刊。『全体主義の起源』の増補改訂版が出るが、これは1956年のハンガリー革命(ソビエト連邦に対する大衆蜂起とソ連軍侵攻 による鎮圧)に影響を受け、ハンガリー革命について追補する(ヤング=ブルーエル 1999:283)。

Arendt, 1958年

1959 プリンストン大学教授(女性では初だが、彼女はこのような紹介を嫌悪しこの職を辞 退したいと思ったほどだった)。ハンブルグ市の レッシング賞受賞。『ラーエル・ファルンハーゲン:あるドイツユダヤ女性の生涯』を公刊。論 争になった論文「リトル・ロックについての考察(Reflections on Little Rock (1959))」を発表(ヤング=ブルーエル 1999:417-421)。

1960-61 エルサレムに飛びアイヒマン裁判を傍聴。『過去と未来のあいだで (Between Past and Future)』出版。

1962 交通事故に遭遇。アメリカ芸術科学アカデミー・フェローに選出。

1963 『革命について』刊行、『エルサレムのアイヒマン(Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil )』を公刊。シカゴ大学教授(〜1975)


Arendt, ca.1963 (いろいろなところで引用されいますがこの写真にはPhoto by Alfred Bernheim とあります)

1964 アメリカ芸術文学アカデミーの会員に選出。

1966 ミルトン・コトラー Neighborhood government, 1966(ヤング=ブルーエル 1999:538)出版。Naumann, Bernd. 1966. Auschwitz. New York: Frederick A. Praeger.に序文を書く。

1968 ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ教授。『暗い時代の人々(Men in Dark Times)』『革命について(On Revolution)』刊行。


Arendt, 1968年

1969 ヤスパースの葬儀に出席

1970 ブリュッヒャー死亡。『暴力について』刊行

1971 『政治における虚偽』刊行

1972 『共和国の危機』刊行


Hannah Arendt en su apartamento de Manhattan, en 1972. (-->> origen)

1973 「思考」についての講義(スコットランド・アバディン大学)→『精神の生活』

1975 デンマーク・ソニング賞受賞。12月心臓マヒにて死亡(69歳)。ブリュッヒャー と同じ


Grave stone at Bard College Cemetery in Annandale-on-Hudson, New York.(photo by Keijiro Suga)

1978 マッカーシー(Mary McCarthy)編『精神の生活(The Life of the Mind)』——「思考」「意志」「判断」(未完)——刊行

1982 『カントの政治哲学講義』刊行。エリザベス・ヤング=ブルーエル『ハンナ・アーレント伝』晶文社 1999年(Hannah Arendt : for love of the world / Elisabeth Young-Bruehl.New Haven : Yale University Press, 1982)

1987 12月ガザ地区で発生した第一次インティファーダ(First Intifada ;1987-1993)がパレスチナ全域に拡大した際、同地区の「ムスリム同胞団」最高指導者シャイク・アフマド・ヤシン(2004年死亡)が、武装闘争 によるイスラム国家樹立を目的として設立した武装組織としてハマス(Harakat al- Muqawamaal-Islamiya, HAMAS)が誕生(出典:公 安調査庁

1993 8月のオスロ合意およびパレスチナ自治政府の設立。

1994 Arendt, Hannah. Essays in understanding : 1930-1954, New York; Harcourt Brace & Co., 1994.

2000 第二次インティファーダ(Second Intifada; 2000-2005)

2006 1月のパレスチナ自治評議会(国会に相当、定数132議席)選挙でハマスは過半数 の74議席を獲得し、「パレスチナ解放機構」(PLO)主流派「ファタハ」との連立政権を発足させた。6月、イスラエル軍の砲撃でガザ地区住民が死亡した ことから武装闘争を再開し、2009年1月、2012年11月、2014年7月及び2021年5月、イスラエル軍と大規模な戦闘を繰り広げた(出典:公 安調査庁

2011 Elisabeth Young-Bruehl(アーレント伝の著者)死亡。


ベルリンにおけるハンナ・アーレント通り(「総統地 下壕」跡の近くにある) Hannah-Arendt-Strasse

2023 10月ガザ地区からのハマスのミサイル攻撃で、イスラエル人に対する無差別殺傷が はじまり、それに対してイスラエルは挙国一致体制になり、ガザ地区に対するハマスへの地上攻撃を示唆。

アーレントのリンク集 (Miscellaneous)

文献(古いものですのでリンク切れもあるかもしれません)

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ハンナ・アーレントの暮石(撮影:管啓次郎、2023年秋)at Bard College Cemetery in Annandale-on-Hudson, New York.

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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