我々自身のなかに主体的関与(agency)を見つけること
政治的暴力と人類学を考える(グアテマラの現在):6 結論
池田光穂
冒頭で、その暴力概念を紹介したアーレントは、彼女の政治的アイデンティティとして深く関係する 著書『人間の条件』において「説明を伴わない恩赦」が実行されることについて危惧し、それを批判する[アーレント 一九九四:三七〇—三八〇]。なぜな ら、説明を伴わない恩赦は、正義のあらゆる希望が取り除かれることで民主主義の形成が蝕まれ、民主主義の遂行そのものも焦点の定まらないものになるから だ。そして、「恩赦」以外の選択肢は「処罰」であり、ふつう恩赦の反対だと思われている「復讐」ではない。恩赦と処罰は、終わりのない相互干渉を避け、何 ものかを終焉に至らしめる点で共に共通点をもつと指摘している。彼女が紛争解消を目論む営為において「恩赦」を言葉による説明と関連づけていることは、人 類学にとっても重要な指摘となる。人間行動を社会的に理解する(=言葉によって説明する)人類学の目標と、その学問の方法論(=部分的とは言えフィールド ワークというある種の社会参画を行う)が、紛争解消の活動と接点をもつからである。グアテマラ、エルサルバドル、アルゼンチン、チリなどのラテンアメリカ 世界のみならず、過去・現在・未来のすべての世界にとって、この指摘は通用すると私は信じる。
FRGの勝利に地団駄を踏む外国人「人権擁護派」観光客、「抑圧されてきた我らの町に利益を誘導 するため戦略的にFRGを支持することが、なぜそれほど悪いのか」と反語表現によって反論する先住民の友人、「理想的には真実が明らかにされ、それが公開 され、それらの責任者が処罰されることが理想的だ。しかし、私はそれが不可能だと信じる……我々はもっと現実的にならなければ」と言った元大統領 (11)、暴力の傷跡について何らコメントをせずマヤのエキゾチックな世界観だけに注目して書物を認める「マヤ研究者」。そして暴力の社会科学という専門 領域を構築すべくデータ収集に邁進する研究者(私の人格はそれに一部同一化している)。このような人たちの活動に、他者性のなかに主体的関与を見つける実 践をしていることを認めるのは難しい。
(11)『La Hora』紙、一九九一年一二月二七日付のラミロ・デ・レオン・カルピオ元大統領へのインタビュー記事。ただし引用はリンダ・グリーンによった [GREEN 1995:14]。
ところが、このような倫理的審問を、構成的当事者としての「我々」に課してみるとどうだろうか。 私は調査のある時点から半世紀以上も前に終焉した「我々の戦争」とグアテマラの政治的暴力について、「比較して考える」のではなく、「同時に考える」よう になった。膨大な報告書や資料は出来た/出来つつあるかも知れない。しかし責任の所在を明らかにし、適切な処罰をおこない、さらに加害者と被害者の恩赦を 含めた和解をおこない、その成果を次世代に伝える努力を我々は不断におこなっていると言えるだろうか。政治的暴力の横溢という事実以外には、歴史的にも社 会的にもほどんど共通点を見いだし得ない二つの出来事。それらを、結びつける唯一の同時代的繋がりとは、他者性を認めるのみならず、我々自身のなかに主体 的関与を見つけることに他ならない。本稿は永遠に終わらせることのない、この作業の中間報告である。
リンク
文献
その他の情報
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099