はじめによんでください
暴 力
definition
of violence
★暴力とは、人間に関わる「破壊的な強制力のこと」である
暴力とは、人間に関わる「破壊的な強制力のこと」である。人間がなぜ暴力を使うのか、それは殺傷行為を含めて相手をある状態(=生殺与奪の権 限)従 属させることであり、暴力とは〈従属させる強制力〉にほかならない。〈従属させる強制力〉すなわち〈暴力〉の帰結とは、動産の破壊、人間や 動物の殺傷などがある。このために、人は暴力の被害が被らないように、命乞いのように懇願したり、(因果関係の認識として)謝る必要のない謝罪を口にす る。
通常は、暴力概念は権力の発露として捉えることができるが(→「ソレルの暴力論」 を参照)、以下の、ハンナ・アーレントの暴力概念は、そのように捉えない特異的な解釈なので、注意が必要である。暴力の反対語は、ある意味空間(A)にお いては、非暴力であり、非暴力が含意するものは、誰でも想像がつくように「平和」である——下図2.「近代国家における暴力装置概念」の図を参照せよ。他 方、「人を従属させる非破壊的な強制力」としての「権威」を暴力に対峙するもの、つまり反対語/反対概念とみなす立場もある。それが、ハンナ・アーレントの暴力概念であり、この概念は、アーレントが影響を受けた夫 ハインリッヒ・ブリュッヒャーとヴァルター・ベンヤミンの影響を受けているものと、私(池田)は考えている——下図1.「アーレントの暴力概念」を参照の こと。。
★常識的な暴力の定義
(1)意味の四角形をとおして理解する、我々の常識的理解にもとづく「暴力」——《暴力と平和の「意味の四角形」》
近代国家や平和学における「暴力」に対立する概念は「非暴力」である。そして、非暴力のコノテーションこそが「平和」ないしは「平和的状態」で
ある。従って、これをグレマスの意味の四角形に議論に落とし込む
と、暴力の矛盾項は「平和」であり、暴力が存在する平和な状態は存在しない、という我々
が日常で抱く常識的な概念のマッチングができあがる。ここから導かれるのが権力(パワー)であり、それは権威が管理する暴力装置、例えば警察や(治安出動
を目的とする)軍隊とコノテートすることで、暴力装置に正当性が与えられる。これが我々の考える、暴力——権力による暴力装置——非暴力——平和という4
つの項目の関係性である。(→応用問題としてガルトゥングの「構造的暴力」
を考えてみよ!)
★アンオーソドックスなハンナ・アーレントの暴力概念
(2)《暴力と権威は共存しないというハンナ・アーレントの「意味の四角形」》——K・シュミットとは異なる「暴力を手中にする」方法について
上記の暴力と平和の「意味の四角形」という我々の常識に疑問符を付すのがハンナ・アーレントの暴力論である。アーレントにとって、暴力の反対概 念は、権威である。つまり、彼女によると、権威のあるところに暴力は存在しない。この権威は、グラムシのいうヘゲモニー概念にある種近いものかもしれない。権威とコノテートするのが権威である。 この点は、我々と承服するところだろう。というか、権威と権力の合致こそがヘゲモニーの確立を意味するからだ。このような意味の導出は、暴力と権力を矛盾 項の関係として定義する。権力はしばしば、抑圧的権力を権力そのものであると感じる人はまさに暴力の権化のようだ。しかし、権威が確立しているところに権 力は機能しているという(我々が具有する)スタティックな社会観を経由すると、それは確かに、権力は(暴力を独占しているがゆえに、暴力の自由な発露(= 「万人の万人に対する闘争」)を禁止する。したがって、彼女の指摘は、異様なものではなく、近代啓蒙主義の始祖の一人にも数えられるホッブス(→さまざまな国家論)の権力行使論と齟齬をきたさない。そして、さらに隠された第四項には、 革命が存在する。これによると革命と暴力はコノテーション関係であり、これも歴史的事実としては理解可能である。そして革命は権力と相反するわけだから、 革命は、既存の権力を否定する意味で相反なものであり、革命後には権威による支配が確立するが、革命という現在進行形の状態は権力掌握を通して権威を希求 するものであり、権威と革命は矛盾項の関係にある。
革命的暴力は「神的暴力」になるべきだという考え方はこれに由来する(→「ジョル
ジュ・ソレルの暴力論」「ヴァルター・ベンヤ ミンの暴力批判論」)
これらの関係についてのより詳しい関係は次のページにある:池田光穂「政治的暴力の概念」
★ヴァルター・ベンヤミンの暴力の概念
(3)神的暴力と神話的暴力(→より詳しくは「ヴァルター・ベンヤミン「暴力批判論(1920/1921)」ノート」)
神的暴力と神話的暴力とは、ヴァルター・ベンヤミンによる特有の暴力概念の区別である。つまり、神的暴力とは、法を超えた正義の、野蛮な侵入の ことをさす。つまり、法を措定する暴力(=神話的暴力)に抵抗する暴力のことである。したがって、神話的暴力とは、法を措定する暴力であり、民衆に犠牲を 要求する暴力である。
︎▶ヴァルター・ベンヤミン「暴力批判論(1920/1921)」ノート︎▶︎︎神的暴力と神話的暴力▶︎神的暴力▶暴力について考える(シラバス)︎︎▶︎暴力について考える(対話術F)▶︎︎ジジェク『暴力:6つの考察』▶︎残虐行為論▶︎︎▶︎▶︎
★パターナリズムと暴力の関係について
日本語に明るくない学習者の方に,裏書とは「物事が確実であることを別の面から証明すること」という意味です.すなわち「パターナリズムは
暴力により裏書きされる」と僕が言う時パターナリズムを「社会学的に」認定する時にそこに暴力あるいは暴力の痕跡を探し出せということです。
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リンク
・Naumann, Bernd. 1966. Auschwitz. New York: Frederick A. Praeger. のアーレントの序文より 「アウシュヴィッツでは、だれもが善になるか悪になるかを自分で決めることができたということである……。そしてこの決定は、ユダヤ人であるかポーランド 人であるかドイツ人であるかにけっして関わりがなかった。またSS の隊員であることにすら関わりがなかった」引用は(ヤング=ブルーエル 1999:490)[→出 典]
・Naumann, Bernd. 1966. Auschwitz. New York: Frederick A. Praeger. のアーレントの序文より
「被告が臨床的に正常であるにもかかわらず、アウシュヴィッツでの最大の人間的要素はサディズムであった。そしてサディズムは基本的に性的 である。……アウシュヴィッツの人間的要素に関するかぎり、二番目に重要なものは、おそらくまったくの気まぐれであったにちがいない。……彼等の絶えず変 る気分は、すべての実体的中身を——善いか悪いか、優しいか残忍か、「理想主義的」阿呆か皮肉屋の性的倒錯者かというような個人のアイデンティティの堅固 な外面を——破壊してしまったかのようであった。もっとも重い判決の一つ——終身プラス八年——を当然に受けた同じ人物が、ときには子供にソーセージを分 け与えることもあった。ベナレクは、囚人たちを踏みつけて殺すという特技をやった後、部屋へ戻って祈った。それは彼がそのときは正常な気分だ/ったからで ある。何万人もを死に送り込んだ同じ医務官が、彼の母校で学んだ、それゆえ彼の青春時代を思い出させた一人の女性を助けたこともあった。翌日にはガスで殺 されることになっていたが子供を生んだ母親に、花とチョコレートが贈られることもあり得た。……死はアウシュヴィッツでの最高の支配者であった。しかし、 死と並んで収容者たちの運命を決定していたのは、偶然——死の下僕どもの移ろいやすい気まぐれと一体となったもっとも非道で気まぐれな偶然であった」(ヤ ング=ブルーエル 1999:490-491)[→出典]
関連情報は→「アーレ ント暴力論:まとめ」に続きます。
リンク(授業関連)
リンク(アーレント関連)
文献
その他の情報
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