神的暴力
Divine Violence
神的暴力とは、法を超えた正義の、野蛮な侵入のこと をさす。つまり、法を措定する暴力(=神話的暴力)に抵抗する暴力のことである。それに対して、神話的暴力は、法を措定する暴力であり、民衆に犠牲を要求 する暴力である。
「パリのサン・キュロットはフランス革命での不安定 要素で、ブルジョワ主導の国民議会を悩ませた。立法議会になってもその傾向は変わらず、武装民兵と化した彼らが度々起こしたデモや暴動は議会への圧力とな り、生活の改善を求める運動は、革命を急進化させた。各党派は、パリのサン・キュロットに迎合せざるを得ない状況にあったため、フランス革命が極端な平等 主義や富の再分配といった、社会主義的な政策を途中で取り入れようとしたのは彼らの影響であった」(ウィキペディア)
したがって、フランス革命初期の、サン・キュロット の半ば無定形な暴力とは、「法を超えた正義の、野蛮な侵入」であるので、連中の暴力は、神的暴力に相当する。それに対して、ブルジョワ主導の国民議会は、 サン・キュロットの暴力を抑止させるためにさまざま法を措定する力、すなわち神話的暴力を行使して、最終的にはサン・キュロットたちの神的暴力を制御管理 しようとしているのである。
■旧クレジット:神的暴力:スラ
ヴォイ・ジジェクの暴力論 06.「スラヴォイ・ジジェ
ク『暴力:6つの考察』ノート」レクチャーより.
パラグラフ番号(垂水源之介式) |
ページ |
原著ページ |
ノート |
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218 |
《ベンヤミンをヒッチコックとともに》
サイコと神的暴力。神的暴力=法を超えた正義の、野蛮な侵入。 |
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2 |
218-219 |
ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」9。 |
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3 |
●IX
Mein Flügel ist zum Schwung bereit
ich kehrte gern zurück
denn blieb' ich auch lebendige Zeit
ich hätte wenig Glück.
Gerhard Schalem, Gruß vom
Angelus
Es gibt ein Bild von Klee, das Angelus Novus heißt. Ein Engel
ist darauf dargestellt, der aussieht, als wäre er im Begriff, sich
von etwas zu entfernen, worauf er starrt. Seine Augen sind aufgerissen,
sein Mund steht offen und seine Flügel sind ausgespannt.
Der Engel der Geschichte muß so aussehen. Er hat das
Antlitz der Vergangenheit zugewendet. Wo eine Kette von Begebenheiten
vor uns erscheint, da sieht er eine einzige Katastrophe,
die unablässig Trümmer auf Trümmer häuft und sie ihm
vor die Füße schleudert. Er möchte wohl verweilen, die Toten
wecken und das Zerschlagene zusammenfügen. Aber ein Sturm
weht vom Paradiese her, der sich in seinen Flügeln verfangen
hat und so stark ist, daß der Engel sie nicht mehr schließen
kann. Dieser Sturm treibt ihn unaufhaltsam in die Zukunft, der
er den Rücken kehrt, während der Trümmerhaufen vor ihm
zum Himmel wächst. Das, was wir den Fortschritt nennen, ist
dieser Sturm. ●「ひとりの天使が描かれていて、この天使はじっと見詰めている何かから、いままさに遠ざかろ うとしているかに見える。その眼は大きく見開かれ、口はあき、そして翼は拡げられている。 歴史の天使はこのような姿をしているにちがいない。彼は顔を過去の方に向けている。私たち の眼には出来事の連鎖が立ち現れてくるところに、彼はただひとつ、破局(カタストローフ)だけを見るのだ。 その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。 きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ 集めて繋ぎ合わせたいのだろう。ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはら まれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けて いる未来の方へ引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上 がって天にも届かんばかりである。私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ」(219)。 |
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4 |
神的暴力=この天使の野蛮な介入? 進
歩の破壊的な影響に復讐する。 ・人間の歴史全体は、この不正を正す過程をとしてみる(=歴史化すること)。 ・神的な領域における「記憶」 ・神的な暴力が、報復的な破壊的怒りを爆発させる |
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5 |
220 |
・不正としての神的暴力、気まぐれな神
の暴力(ヨブ記) ・自分の身にかかる不幸には意味がない(ヨブ)。 |
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6 |
220 |
・フロイトのみた、イルマの注射の夢 【イルマの夢】 「イルマはフロイトのヒステリー患者でした。 治療は一部成功し、不安はなくなりますが、さらにフロイトが治療を試みようとした時、イルマは治療法を受け入れられず拒否し、治療は途中で終わってしまっ た。その後友人のオットーに様子を見てきてもらうと 「少しはよさそうでしたが完全には治ってはないようだ」 と言いました。 それはフロイトがオットーに非難されたように感じたそうです。その晩フロイトは仲間の中でリーダー的であったドクター・Mに見せるためにイルマの病状を書 きました。そしてその夜「イルマの注射の夢」を見ます。 「イルマの注射の夢」とはだいたい次のようなものです。 大きなホールの中の大勢の客達の中にイルマがいるので、フロイトはイルマに話しかけ、手紙の返事と、「治療法」を受け入れないのを非難した。 するとイルマは顔色がよくなく、どうも内臓器関係のことを見落としていたと察する。 すぐに診断すると、口の中に斑点を見つける。ドクター・Mと友人のレオポルトも診断し、友人のオットーはイルマの側に立っている。 ドクター・Mは「伝染病だが、問題にはならない」と言う。 伝染病の原因はわかっている。 オットーがイルマが病気になってすぐぐらいに注射をし、その消毒がちゃんとなされていなかったから」出典はこちら)。 →「イルマの注射の夢 (dream of Irma’s injection) 精神分析学 S.フロイトが自己の無意識内にある罪悪感や欲望を発見した夢です。 実在の人間関係を借りたこの夢は、フロイトの自身の過ちや、友人への感情を歪曲して描きだしました。イルマの夢により、フロイトは、夢とは「願望充足」 をはたそうとするものであるという発見に至ります。 イルマについて フロイトはイルマに精神分析を施していましたが、部分的にしか改善しないまま治療を中断しました。フロイトはそのときに自分が見た夢を分析します。そし て、夢の中で彼女の状態が思わしくない責任を、不完全な治癒状況を報告したオットーらなど他の要素に転嫁していたことを発見しました。 これによりフロイトは、夢が願望充足であることを確信しました。」出典はこちら) ・トラウマをみないように、3人の医師への会話が登場(=ヨブ記における三人の聖職者の友人の役割) |
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7 |
221 |
・あらゆるカタストロフの理由は無益。 ・保護者としての神は死んでいる。深層の意味を拒絶せよ。 |
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8 |
221-222 |
・911の図像学とヒッチコック |
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9 |
222 |
・映画『ユナイティッド93(United 93)』
『ワールドトレードセンター(World
Trade Center)』 |
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10 |
223 |
・ジェリー・ファルウェル(Jerry Falwell,
1933-2007)、パット・ファルウェル(Pat Robertson,
1930- ): アメリカの罪深い生活のために、神はアメリカを見捨てた。 |
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11 |
224 |
・ファルウェルやロバートソンと異な り。911のカタストロフを祝福として捉える。 | |
12 |
224 |
チェスタトン(Chesterton, G. K.)の原著「犬のお告げ」の前ふり | |
13 |
224-225 |
《引用》チェスタトン
(Chesterton,
G. K.)の原著「犬のお告げ(The
Oracle of the Dog)」: ”People readily swallow the untested claims of this, that, or the other. It's drowning all your old rationalism and scepticism, it's coming in like a sea; and the name of it is superstition." He stood up abruptly, his face heavy with a sort of frown, and went on talking almost as if he were alone. "It's the first effect of not believing in God that you lose your common sense, and can't see things as they are. Anything that anybody talks about, and says there's a good deal in it, extends itself indefinitely like a vista in a nightmare. And a dog is an omen and a cat is a mystery and a pig is a mascot and a beetle is a scarab, calling up all the menagerie of polytheism from Egypt and old India; Dog Anubis and great green-eyed Pasht and all the holy howling Bulls of Bashan; reeling back to the bestial gods of the beginning, escaping into elephants and snakes and crocodiles; and all because you are frightened of four words: `He was made Man.'" -The Oracle of the Dog. 「世間の人たちは、あれこれなんでも、実証されていない主張をたやすくうのみにしてしまう。これにかかったら、おなじみの合理主義も懐疑主義も沈没です。 まったく海の波のように押しよせてくる。その名は迷信という」ブラウン神父(224) |
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14 |
225 |
「チェスタトンが超自然的な魔術に性急
にうったえることをせず、むしろ平凡な説明を好むのは、まさに彼のキリスト教によるのである。これが彼の探偵小説の出発点である」(225) |
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15 |
226 |
・「われわれ人間がもちつづけるのは、
われわれを高いところから見守ってくれる権力者ではない。ただ、自由と、神の創造した世界の運命に対する——したがって、神そのものに対する——責任とい
う、途方もない重荷だけである」(226)。 |
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16 |
226 |
《神的暴力:ではないものからはじめ
て……》 ・神的暴力の候補としてのルサンチマン ・ペーター・スローターダイク:Zorn und Zeit ・サイモス(承認願望)→妬み、競争、承認 |
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17 |
・1990年は、スローターダイクによ
ると、メシア的論理が終焉した年だという。 ・忿怒の歴史、 ・イーリアスは憤怒(忿怒)から始まる |
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18 |
228 |
・左翼政治運動は「憤怒の銀行」のよう
なものだ。 |
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19 |
229 |
・憤怒資本の枯渇 ・ファシズムは、解放を生み出す忿怒の左翼のプロジェクトのパクリみたいなものらしい。 ・ポルト・アレグレは忿怒・憤怒を貯めるグローバルな銀行になれなかった。 ・グローバルな憤怒にはもはや可能性がない、とスローターダイクは主張。 ・「アカデミズムの端っこでぶつぶついっている、再登場した〈左翼ファシスト〉」としてのジジェク(229) |
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20 |
229-230 |
・まず必要なのは、ルサンチマンの概念
を再生することだ(230) ・スローターダイクの処方箋:1)ルサンチマンを超えよ、2)ルサンチマンと繋がる社会理論と決別すべし、3)新しいリベラリズムを享受せよ、4)エリー ト主義と平等主義のバランスをとれ、5)リベラル行動規範を確定せよ |
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21 |
230 |
W・G・ゼーバルトの引用 |
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22 |
231 |
同害報復(ius talionis)=Eye for an eye.
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23 |
・本物のルサンチマン |
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24 |
232 |
・ユダヤ的正義と、キリスト的慈悲は対
立す。 |
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25 |
233 |
・カフカの父への手紙 ・ブハーリンの即時処刑を止めるスター リンのパフォーマンスの意味 |
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26 |
・ラース・フォン・トリア監督の映画3
部作 ・ドッグビル(Dogville 2003 DVDrip) |
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27 |
235 |
・住民を殺し、グレースはヘーゲル的な
意味での承認する(→ヘーゲルと親殺し) |
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28 |
236 |
・刑罰 |
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29 |
真正のルサンチマン——罰(復讐 | | 赦し—————————忘却 |
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30 |
・懐疑の解釈学 |
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31 |
・ラカンのアンティゴネー解釈 ・「カントの倫理学上の厳格主義の真実は、法のサディズムである」 (237) |
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32 |
239 |
《……最後に、これぞ神的暴力のという
ものへ》 |
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33 |
239 |
引用、エンゲルスの、パリ・コミューン
解釈 「最近、社会民主主義者の俗物たちがふたたび〈プロレタリアート独裁〉という言葉に健全な恐れを抱いている。よろしい、だが紳士諸君、この独裁がいかなる ものかを知りたいか。パリ・コンミューンをみるがいい。あれこそは〈プロレタリアート独裁〉であったのだ」(239) |
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34 |
・1792-1794年の革命(恐怖)
政治、これが神的暴力? |
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35 |
・ベンヤミンの暴力批判論より、前口上 |
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36 |
ベンヤミンの暴力批判論引用(→ベンヤミンの暴力批判論) "If mythic violence is lawmaking, divine violence is law-destroying; if the former sets boundaries, the latter boundlessly destroys them; if mythic violence brings at once guilt and retribution, divine power only expiates; if the former threatens, the latter strikes; if the former is bloody, the latter is lethal without spilling blood. The legend of Niobe may be contrasted with God's judgment on the company of Korah, as an example of such violence. God's judgment strikes privileged Levites, strikes them without warning, without threat, and does not stop short of annihilation. But in annihilating it also expiates, and a profound connection between the lack of bloodshed and the expiatory character of this violence is unmistakable. For blood is the symbol of mere life. The dissolution of legal violence stems (as cannot be shown in detail here) from the guilt of more natural life, which consigns the living, innocent and unhappy, to a retribution that "expiates" the guilt of mere life-and doubtless also purifies the guilty, not of guilt, however, but of law. For with mere life, the rule of law over the living ceases. Mythic violence is bloody power over mere life for its own sake; divine violence is pure power over all life for the sake of the living. The first demands sacrifice; the second accepts it." - パラグラフ17. ●「あらゆる領域において神が神話に対立するように、神的暴力は神話的暴力に対立する。しかも あらゆる点において対立する。神話的暴力が法を措定するとすれば、神的暴力は法を破壊する。 前者が境界を設けるとすれば、後者はどこまでも境界を破壊する。神話的暴力が罪と懲罰を同 時にもたらすとすれば、神的暴力はただ罪を消滅させる。前者が威嚇するとすれば、後者は衝 撃をあたえる。前者が血なまぐさいとすれば、後者は血を流さずともきわめて破壊的である。 [……]というのも、血はたんなる生命のシンボルだからである。法的暴力の解消は[……]たん なる自然的生命の罪から生ずる。この罪を通じて、無垢で不幸な生活者は、たんなる生命の罪 を「消滅させる」——そして、まちがいなく罪悪、ただし罪を犯したことの罪悪ではなく、法 の罪悪を浄化する——天罰にゆだねられる。というのも、たんなる生命の終わりとともに、生 活者に対する法の支配も終わるからである。神話的暴力は、それ自身のために、たんなる生命 を支配する血なまぐさい力であり、神的暴力は、生活者のために、あらゆる生命を支配する純 粋な力である。前者は犠牲を要求し、後者は犠牲を受け入れる」(240)。 +++++++++++ +++++++++++ "For the question "May I kill?" meets its irreducible answer in the commandment "Thou shalt not kill." This commandment precedes the deed, just as God was "preventing" the deed. But just as it may not be fear of punishment that enforces obedience, the injunction becomes inapplicable, incommensurable, once the deed is accomplished. No judgment of the deed can be derived from the commandment. And so neither the divine judgment nor the grounds for this judgment can be known in advance. Those who base a condemnation of all violent killing of one person by another on the commandment are therefore mistaken. It exists not as a criterion of judgment, but as a guideline for the actions of persons or communities who have to wrestle with it in solitude and, in exceptional cases, to take on themselves the responsibility of ignoring it. Thus it was understood by Judaism, which expressly rejected the condemnation of kill- ing in self-defense.-But those thinkers who take the opposite view refer to a more distant theorem, on which they possibly propose to base even the commandment itself. This is the doctrine of the sanctity of life, which they either apply to all animal and even vegetable life, or limit to human life. Their argument, exemplified in an extreme case by the revolutionary killing of the oppressor, runs as follows: "If I do not kill, I shall never establish the world dominion of justice ... that is the argument of the intelligent terrorist.... We, however, profess that higher even than the happiness and justice of existence stands existence itself."" - パラグラフ18. ●「[……]「わたしは殺してもよいのか」という開いに対する確たる答えは、「汝殺すなかれ」とい う戒律のなかにある。神が行為を「見越して」いるように、この戒律は行為に先だって存在す る。しかし、罰に対する恐れが、服従を強いる力にならないかもしれないように、この命令も いったん行為がなされれば、適用も通用もできなくなる。行為に対する判断を、この戒律から 導くことはできない。だから神の判断も、神の判断の基盤も、前もって知ることはできない。 したがって、あるひとがあるひとになした暴力的な殺害行為を、この戒律にもとづいて断罪す る者は、まちがっている。この戒律は、判断の基準として存在するのではない。そうではなく、 この戒律と孤独のなかで格闘しなければならない人々やコミュニティ、例外状況においてこの 戒律を無視する責任を引き受けねばならない人々やコミュニティの、行為の指針として存在す るのである」(240-241)。 |
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37 |
241 |
・至高の領域としての神的暴力 |
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38 |
242 |
神話的暴力は供儀を要求し、むき出しの
生を支配する。神的暴力は生贄を求めず、罪を消滅させる。 |
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39 |
ベンヤミンの引用 "For only mythic violence, not divine, will be recognizable as such with certainty, unless it be in incomparable effects, because the expiatory power of violence is invisible to men. Once again all the eternal forms are open to pure divine violence, which myth bastardized with law. Divine violence may manifest itself in a true war exactly as it does in the crowd's divine judgment on a criminal. But all mythic, lawmaking violence, which we may call "executive," is pernicious. Pernicious, too, is the law-preserving, "administrative" violence that serves it. Divine violence, which is the sign and seal but never the means of sacred dispatch, may be called "sovereign" violence."- パラグラフ19. ●「しかしながら、純粋な暴力がこれまで、いつ特定の事例として実現されたことがあるか決定す ることは、人間にとってほとんど不可能であり、また急を要することでもない。というのも、 それとしてはっきり認識できるのは、神話的暴力だけであってlli ただし、それが比類なき効 果を発揮する場合、話はべつだが——神的暴力ではないからだ。暴力のもつ、罪を消滅させる 力は、人間の眼にはみえないのである。[……]神的暴力は、一罪人に対する群集の神的な審判 おいて現れるが、それと同じように、真の戦争においですがたを現すかもしれない。(……) 神的暴力は、聖なる殺害のしるしであって、けっしてその手段ではないが、「摂理的」暴力と 呼べるかもしれない」(242-243)。 |
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40 |
243 |
「神話的暴力と神的暴力の対立は、手段
としるしとの対立である」(243) |
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41 |
244 |
・殺人の禁止 |
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42 |
・■「神的暴力は、人間の出過ぎた行為
を罰するために全能の神が直接介入すること、最後の審判のあ
る種の予告あるいは前ぶれではない。神的暴力と、われわれの無力な/暴力的なアクティング・
アウト[行為への移行 passages a l'acte]との決定的なちがいは、神的暴力が、神の全能の表現ではなく、
むしろ神自身(大きな〈他者〉)の無力さのしるしである、ということだ。神的暴力と盲目的な
アクテイング・アウトとのあいだでは、ただ無力さの場所だけが変わる」(244-245)。 ・アクティング・アウト |
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43 |
245 |
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44 |
245 |
・民の声は神の声(vox
populi, vox dei)の神は、神的暴力でいう神と同じ(あるいはそう理解すべき) |
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45 |
246 |
・ロベスピエールのルイ16世の処刑を
求める演説。 "Peoples do not judge in the same way as courts of law; they do not hand down sentences, they throw thunderbolts; they do not condemn kings, they drop them back into the void; and this justice is worth just as much as that of the courts. " (171) ・「人民は裁判所のようには裁かない。人民は判決を下すのではない、雷電を放つのである。人民は王に刑を宣言するのではない、王を無に戻すのである。この 正義には裁判所の正義と同等の価値がある」 |
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46 |
246-247 |
ロベスピエールが自分自身が処刑される
前日の演説(1794年テルミドール8日) "But there do exist, I can assure you, souls that are feeling and pure; it exists, that tender, imperious and irresistible passion, the torment and delight of magnanimous hearts; that deep horror of tyranny, that compassionate zeal for the oppressed, that sacred love for the homeland, that even more sublime and holy love for humanity, without which a great revolution is just a noisy crime that destroys another crime; it does exist, that generous ambition to establish here on earth the world's first Republic. (172) |
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47 |
247 |
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48 |
チェ・ゲバラの2つの言説のひとつ "At the risk of seeming ridiculous, let me say that the true revolutionary is guided by a great feeling oflove. It is impossible to think of a genuine revolutionary lacking this quality." (172) |
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49 |
247-248 |
チェ・ゲバラの2つの言説のひとつ(も
ちろん評判の悪いものでゲバラのヒューマニスト的側面を持ち上げる人はしばしば忘却傾向にあるもの) "Hatred is an element of struggle; relentless hatred of the enemy that impels us over and beyond the natural limitations of man and transforms us into effective, violent, selective, and cold killing machines. Our soldiers must be thus; a people without hatred cannot vanquish a brutal enemy." (172) |
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50 |
248 |
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51 |
キルケゴールより "the demand to hate the beloved out of love and in love ... So high - humanly speaking to a kind of madness - can Christianity press the demand oflove if love is to be the fulfilling of the law. Therefore it teaches that the Christian shall, if it is demanded, be capable of hating his father and mother and sister and beloved. " (173) |
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52 |
249 |
・「純粋な暴力の領域、法(法的権力)
の外部の領域、法措定的でも法維持的でもない暴力の領域は、愛の領域である、というふうに」 |
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《処女の乳首を摘むこと、について》 「ガブリエル・デストレとその姉妹」の日本語のいまいちな解説がグーグルの上位に出てくる。しかし、旧約聖書の淫行姉妹、オホラとオホリバ(エゼキエル 23)の逸話に淫行の比喩表現に、乳房を握り、乳首を摘む——後者は3回もでてくるが——とある。オホラはサマリア、オホリバはエルサレム。淫行の戒めと いうよりも、この姉妹を石で撃ち殺し、親族を皆殺しにせよ、という神の命令を正当化するものだ、そうすることにより人民は神を「知る」ことになる。つま り、法を措定する暴力=犠牲を要求する暴力=神話的暴力(ベンヤミン)を表現しているのではないかと思う。婚姻指輪は偶像にすぎないために乳首のように摘 まれる。てな、解釈はどうかと、素人ながらに思うのだ。 |
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パラグラフ番号(垂水源之介式) | ページ |
原著ページ |
ノート ◎「こうしてわれわれの探求は、円環を閉じるように完結する。われわれは、あやまっ た反暴力を退 けることからはじめ、政治的・社会的解放をもたらす暴力に到達したのである。主観的暴力と戦う 一方で、自分が忌み嫌うその現象自体を生み出す、システム的暴力の関与している者たち——われわ れは、そうした者たちの偽善から話をはじめた。そして、暴力の究極の原因を隣人に対する恐れの なかに位置づけ、その恐れが、暴力を克服する媒体そのものである言語自体に備わった暴力にもと づくことをあきらかにした。つづいてわれわれは、こんにちのメディアにとりついた3つのタイプ の暴力、2005年のパリ郊外における若者の暴動、最近のテロ攻撃、ハリケーン・カトリーナが もたらしたニューオーリンズのカオスを分析した。またわれわれは、デンマークの新聞に掲載され たムハンマドの風刺画に対する暴力的な抗議に関連して寛容的理性のアンチノミーを論証し、さら にこれをうけて、こんにちのイデオロギーを支える寛争という支配的観念の限界をめぐって議論を 展開した。最後にわれわれは、ヴァルター・ベンヤミンによって記述された、神的暴力というカテゴリー の解放的な側面に正面から取り組んだ。では、本書から得られる教訓はなにか」(252)。 |
1 |
252 |
・誤った反暴力を退けることから始め
て、政治的解法をもたらす暴力に到達する。 ・主観的暴力に反対し、システム的暴力に関与しているものたちの偽善を暴く ・暴力の究極の原因は、隣人に対する恐れ。その恐れは、言語に備わったものである。(言語自体に備わった暴力) ・メディアに取り付いた3つの暴力(2005年パリ郊外暴動、最近のテロ攻撃、ハリケーンカトリナのニューオーリンズのカオス) ・寛容的理性のアンチノミー(ムハンマドの風刺画に対する暴力的な抗議) ・寛容という支配的観念の限界 ・神的暴力というカテゴリーの解法的な側面 |
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2 |
・本書から得られる教訓:1)暴力を即
座に非難することのイデオロギー操作の問題 |
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3 |
・2)本当の意味での暴力になること、
社会的生活の中に、暴力による揺さぶりをかけることは、難しい ・邪悪であり続けることは、努力しなければならない。 |
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4 |
・アクティングアウトの、自壊的側面、
自殺的要素。 ・攻撃性は、自分自身の鏡像に向けられるから |
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5 |
255 |
・アクティングアウトとしての文革 ・文革における、資本主義の再生産に伴う、あらゆる生活の破壊に比べれば、紅衛兵の暴動と破壊など可愛いものだ。 |
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6 |
・(物議をかもす)ヒトラーは資本主義
改革を避けるために、ユダヤ人を標的にするスペクタクルを打ち立てた。 |
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7 |
・スターリンの集産主義も、大粛清
(1936-1937)を生み出す、無力なアクティングアウトだ |
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8 |
・アーチ・ゲッティらの引用 ・スターリン主義の暴力の解説 |
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9 |
258 |
・クリスティの作品の分析 |
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10 | 259 |
・暴力的なアクティングアウトの扇動 |
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11 |
259 |
・3)同じ行為が暴力的と見なされる
か、非暴力なのかは、コンテクストによる ・それをヒッグス場で説明する。 |
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12 |
260 |
・ジョゼ・サマラーゴの小説 |
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13 |
・(承前)前節を受けた解説 |
||
14 |
261 |
・(承前)ガンディー的な非暴力が、暴
力的事態を招く? |
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15 |
262 |
・マイケル・ウッド |
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16 |
・引用文 |
||
17 |
・(承前) | ||
18 |
・排除は抑圧よりもラディカル |
||
19 |
263-264 |
・何もしないことが、もっとも暴力にな
る(→「イデオロギーとテラー」) |
●神的暴力と神話的暴力(→On Walter Benjamin's "Zur Kritik der Gewalt," 1920-1921.)
神話的暴力(mythic
violence, mythische Gewalt ) |
法を措定する( mythic
violence is lawmaking,
rechtsetzend);たんなる生命に対する、暴力それ自体のための、血の匂いのする暴力;犠牲を要求する(野村訳 Pp.59-60) |
神的暴力(divine violence, die göttliche) | 法を破壊する(divine
violence, rechtsvernichtend,);すべての生命にたいする、生活者のための、純粋な暴力;犠牲を受け入れる |
「文明人は語り、野蛮人は沈黙する。語る者はつねに
文明人である。より正確に言えば、言語が文明の表現ある限りにいて、暴力は沈黙的である。言語と文明が世界を構成するとすれば、暴力が文明からのみなら
ず、人間自身からも(なぜなら人間と言語は同じものだから)追放されるのは必至であろう」澁澤龍彦(1989:89)
本文……
リンク
文献
その他の情報