政治的暴力と人類学を考える
Political Violence and Anthropology in contemporary Guatemala.
池田光穂
「この戦争がいかように終わろうとも、おまえたちとの戦いは我々の勝ちだ。生き延びて証言を持ち 帰るものはないだろうし、万が一だれか逃げ出しても、だれも言うことなど信じないだろう。おそらく疑惑が残り、論争が巻き起こり、歴史家の調査もなされる が、証拠はないだろう。なぜなら我々はおまえたちとともに、証拠も抹殺するからだ。……ラゲール(強制収容所)の歴史は我々の手で書かれるのだ」。(ナチ ス親衛隊の兵士)(1)
一 はじめに
本稿は、現代のグアテマラの人びとが内戦時代(一九六〇—九六年)の政治的暴力をどのように体験し、それを語っているのかについての人類学的 考察である(2)。グアテマラの内戦時、とくに一九七〇年末から八〇年代にかけて西部高地を中心に暴力が激化するラ・ビオレンシア(La Violencia)の時期——広義には内戦時全般をさすと同時に、狭義には一九七九—八二年頃の出来事を呼ぶ——については、紛争時から現代に至るまで ジャーナリストのみならず社会科学者たちがさまざまな記録を残しており、その作業は現在も続いている[例えば CARMACK 1986; MONTEJO 1986; SMITH 1990; FALLA 1992; MONTEJO y AKAB' 1992; PERRERA 1993; STOLL 1993; BASTOS y CAMUS 1994; LOVELLL 1995; CABRERA 1995; IKEDA 2000]。またグアテマラ全土におよぶ、この悼むべき史実を明らかにし、次世代に伝えてゆく公式記録の編纂もすすんでおり、グアテマラ政府の歴史の真相 究明委員会(CEH)や、グアテマラ司教区の歴史的記憶の回復プロジェクト(REMHI)が、膨大な証言記録とその原因と責任の所在の究明について報告出 版している[CEH 1999; REHMI 1998]。諸報告に述べられているように、この種の作業は、常に中間報告にならざるをえず、不断の努力によって継続させてゆかねばならないのものであ る。
グアテマラの内戦時における政治的諸暴力の解決の模索は、それらの真相究明と、責任者の「処罰」ならびに、罪を認めた「加害者」と死者ならび に遺族の「被害者」との間の調停、つまり公正な「処罰」と「恩赦」を前提とした双方の「和解(reconciliacio'n)」(3)という具体的な社 会正義の実現に向けられたものである。処罰と恩赦が公正におこなわれる社会的条件のひとつは、さまざまな政治的暴力とその説明が誰の眼にも明らかな公共性 を獲得することである。このような諸作業に、社会人類学・文化人類学はどのような寄与ができるのであろうか。これらの問題に関わることは人類学が動員する 方法や知見が真相究明の一助になるのみならず、翻って現代の人類学が抱えている実践的かつ理論的諸問題[太田 一九九八]にさまざまな処方の糸口を与えるものであると私は信じる。
私はこの理念をもってグアテマラにおける政治的暴力の諸相について考えてゆきたい。本稿での政治的暴力の概念は、ハンナ・アーレントによる権 力論、つまり権力の確立において暴力は極小化されるという独特の見解をとる。ではなぜアーレントなのだろうか。近代国家における暴力現象とその分析手法 (=現代政治学)は、暴力を強度の概念でしか捉えられないのに対して、アーレントのそれらは人間活動における即物的力のみならずシンボル的力を視野に入れ ることができる。この視点は、暴力現象に関する人類学研究の諸成果と親和性をもつ。本稿では「恐怖の文化」概念の検討を通して、テロ、麻薬、政治的腐敗、 独裁や革命といったラテンアメリカ地域全般に投影されてきたステレオタイプと不可分である暴力研究における心理学パラダイムの限界を指摘し、「構成的当事 者と向き合う」社会学的な視座の有効性を主張する。これによって構成的当事者と向き合う可能性と限界についてグアテマラにおける私の体験を検討してゆく。 私の主張の核心は、構成的当事者と向き合う作業の中で生じる主体的関与に関する人類学考察にある。
二 政治的暴力の概念
「政治的暴力」を理解する鍵として、私はアーレントの議論に負う。アーレントは、一九六〇年代末からのアメリカ合州国の大学キャンパスを中心 とする若い世代による暴力の横溢現象を、国家が戦争を手段として行使する時代の終焉と関連づけて論じている[アーレント 一九七三、一九九五]。彼女によ れば、戦争はテクノロジーに依存した暴力を行使することに他ならないが、破壊のテクノロジーが肥大化してもはや限界に達した時、戦争が意味をもっていた国 際関係以外の文脈——とくに革命——において暴力そのものの意義が浮上してくるのだという。その際に彼女の認識論的作業における留意すべき点を指摘してお かねばならない。彼女は、政治的次元においては、暴力と権力を相矛盾する概念としてとらえている。権力とは「行動する力のみならず、他人と協力して行動す る人間の能力に対応」し、個人においてはそれを所有できないものだとする。つまり権力を集団的強制力そのものではなく、それを産み出す力と見るのである [アーレント 一九七三:一二二]。個人的に所有できる力は、「権威」と呼び彼女はそれを「権力」から区別する。それに対して暴力は道具による即物的 「力」であり、その道具に依存する性格からして自然の力を倍増するものとして設計使用される。しかし最終的にはその暴力は自然の力に代替できるものであ る。
彼女は、権力と暴力を次のように区分する。「権力と暴力との間のもっとも明白な一つの相違点は、権力が常に数を必要とするのに対し、暴力は道 具に依存しているために、あるところまでは数に頼らないでやっていけることである。……権力の極端な形態は全員が一人に敵対するものであり、暴力の極端な 形態は一人が全員を敵とするものである。後者は道具なしには実行できない」[アレント 一九七三:一二五]。したがって、暴力の反対語は、我々が考える非 暴力ではない。暴力の相反物は個的なシンボル的力である権威であり、権力は個的には所有できない点で暴力とは矛盾するものである。権力を正常化するために は、暴力を極小化しなければならないという点で権力と暴力の関係はトレードオフの関係にある(4)。
彼女のビジョンは、警察や軍隊という暴力装置の所有と行使が唯一国家に与えられていると理解する現代の国家観とは明らかに異質な考えかたであ る。我々の伝統的な暴力観によれば、暴力の相反物は非暴力であり、国家に管理されている暴力(例えば警察、軍隊)とは権力の表象そのものに他ならないから である。したがって、我々はこれまで「政治的暴力」を国家暴力装置の濫用あるいは誤った行使と見てきたのである。権力とは本質的に暴力の行使とは無縁どこ ろか、矛盾するものであるとみるアーレントの見解は、我々が陥りがちな別種の「常識」に疑問を投げかけるものである(5)。
近代国家における暴力装置の必要性についての議論は、「暴力は決してなくすことはできない」という現代の我々の心を支配する諦念に援護され て、暴力の根源性についてのイデオロギッシュな議論や、後述するように深層心理学というドグマによって独占されてきたからである。つまりアーレントの言う 「誰の眼にも明らかな」暴力の実態を、人類学という具体的な「方法」を通して表象し、議論の俎上に載せる必要がある。
三 政治的暴力とくに国家テロについての人類学的分析
暴力と権力を対極のものとするアーレントの理念とは裏腹に、現実の近代国家の暴力装置はその行使を常態的に逸脱してきたことは歴史的に明白で ある。それを国家によるテラーの行使と位置づけたワルターは、その先駆的な研究『恐怖と抵抗(Terror and Resistance)』において、国家が濫用する暴力の特長をつぎの三点にまとめている[WALTER 1969]。まず、国家テロは、文化によってさまざまな形態がみられる一方で、通文化的共通点もみられること。次に、通常の国家がテロ行為を行うことは、 それほど珍しい現象ではないし、現実にすべての国家においてそれを準備できる能力をもっている。そして最後に、テラーの行使はいつも「最後の手段 (ultima ratio)」と思われているが、実際には「優先手段(prima ratio protestatis)」として使われている。つまり、近代国家を生きる我々にとって、テラーとは日常生活からかけ離れた非日常な出来事ではない。むし ろテラーとは、我々の生活空間と壁一枚隔てたところで進行している事態であり、それらは局所的な特殊事象でありながら同時にかつグローバルな一般的事象で ある。したがって政治的暴力の意味を社会的現実に押し戻して人類学的に考えることの意義がここで浮上する。
では政治的暴力の研究について、人類学者は今までどのような貢献をしてきたのだろうか。スルカによれば、この種の研究領域は「恐怖の文化 (culture of terror)」という言葉でまとめられる[SLUKA 2000]。タウシグは、政治的拷問や殺人が局所的(endemic)に流行すれば、そこに恐怖の文化が繁茂するという[TAUSSIG 1992]。このような文化が「存在」したのが、ラテンアメリカでは、一九七〇年代後半から八〇年代初頭のアルゼンチン、ピノチェト政権時代(一九七三— 八九年)のチリ、そして内戦期のグアテマラであるというのだ。実際グリーンはグアテマラの内戦時の状況を「恐れの常套化(routinization of fear)」と呼んでいる[GREEN 1995]。恐怖の文化とは、恐怖つまりテラーを統治手段として採用することにともなう、一種の共同幻想の産物である。いささかスキーマ的になるが、それ をまとめると次のような社会的経過をたどる。(i)武装左翼勢力の政治的成功、(ii)それに対する管理当局の潜在的危険視、 (iii)予防的拘束、(iv)強制的自白、(v)拷問の日常化、そして(vi)失踪者の増大である。これらの事態が起こるとそれに連鎖して事後的に社会 の人びとの中に次のような意味が形成、共有される。つまり(I)人びとの失望感と危機、(II)「敵」の動向についての知識と幻想の増大、(III)テロ 行動の正当化、(IV)「敵意」の実証的確認、(V)拷問エキスパートの出現、そして(VI)テロの社会的意味の確立、に至る。
「貧困の文化」概念が登場した時と同じように、このような主張は文化概念についての理解を矛盾する二極に分解化してしまう[LEWIS 1966; LEACOCK 1971]。つまり「暴力の文化」において、一方では政治的暴力の発動のプロセスを普遍的メカニズム(作用機序)として説明する。しかし、他方では、この 概念化によって政治的暴力が生起した社会の特殊状況に還元するという本質主義的説明に回収してしまう。これらは一度に両立することができないために「貧困 の文化」論争と同様の問題を抱えてしまう。暴力の文化を措定した際に、普遍主義に立つ説明では、ある政治的暴力が生起した歴史的社会的状況における偶然的 諸条件についての考察を過小評価してしまう危険性があるからだ。また個別還元主義では、アーレントのいうところの「権力」を政治的暴力が無力化した際に は、アルゼンチン、チリ、グアテマラのように「恐怖の文化」は社会の固有の文化状況に強く結びつけて説明されてしまう。しかしながら、暴力あるいは暴力後 の世界を生きる人間にとって重要なことは、このような用語法と概念を通して、どのような経路を通って、それが不可避となったのか、ならなかったのか、ある 歴史的時点における、より適切な防止策とはなんだったのか、ということを具体的に知ることにある。その審問の動機は、歴史現象から教訓を得るということよ りも、同時代的あるいは対位法的に暴力と暴力の対照事象を見ることにある[例えば、サイード 一九九八、二〇〇一]。 他方、政治的暴力についての人類学調査にともなう具体的困難も指摘されている。まず政治的暴力の「現場」という問題である。それは、実際に暴力が行使さ れる現場に居合わせるという機会に遭遇することの困難である。現実に拷問の現場に参与観察が可能であるとは思われないし、待ち伏せ攻撃の最中で質問票を回 すことなど考えることはできまい。より多くの研究が結果的に暴力的状況に巻き込まれてしまった結果の産物である[NORDSTROM and ROBBEN 1995]。もちろん、この現場というのは狭義の政治的暴力のことを指している。広義の政治的暴力とは、たんに暴力が行使される現場だけで知り得るもので はないし、むしろそのような暴力的状況は日常性の中に組み込まれ、身体的経験をともなう「記憶」として、我々の前に投げ出されている。また裁判や集会さら には宗教儀礼の現場において様々な形で表出する集合的な想起行為を含んでいる。したがって政治的暴力の研究は、最初から対象を刮目することにともなう困難 がある。隠喩的に言えば、政治暴力についての人類学的現場は、当事者ならびに人類学者が抱えている恐怖というシートに覆われていて見ることができない。と すれば、先のタウシグのいう恐怖の文化とは、暴力の現場を覆い隠そうとする隠喩的暴力(=恐怖)、つまり政治的暴力に対して沈黙を強いようとする恐怖に対 抗する研究領域であるとも言える[TAUSSIG 1992]。
また直接的暴力が行使された場合、被害者と加害者の対立構図というのは、その原因や社会的背景とは別個に比較的明確になる(この問題点は次節 で検討する)。このようなはっきりした枠組の中で、いわゆる文化相対主義をとる調査というものは苦境に立たざるを得ない。特に加害者についての調査研究の 場合は、調査者は微妙な立場に立たされることになる。ロビン[ROBIN 1996]は、アルゼンチンの「汚い戦争」時における、拷問や超法規的処刑に携わった軍関係者へのインタビューを続けてゆく過程で、加害者たちは、しばし ば我々がステレオタイプするような残忍な性格の持ち主ではなく、高い教養をもつ紳士たちであったことを感じた。それゆえ加害者に対してある種の好意的な感 情移入をしてしまう危険性を彼は危惧している。同様に、政治的暴力をめぐって、加害者と被害者の相互の調査を続けてゆくうちに、そのギャップに苛まれると いうストレスも感じる。彼はこのような民族誌学調査にまつわるストレス状況を民族誌的誘惑(ethnographic seduction)と呼んでいる[ROBIN 1996:72]。
このストレスの原因は、研究対象を純粋に客体化することや、逆に人権擁護を前提に調査をおこなうことが、研究者自身の道徳的距離のとり方を自 動的に決定してしまうことに起因する。ここから通常の状態ではなかなか遭遇しないような恐怖の事例を、民族誌的に構成することが、いかに異例のことである かがわかる。そのような研究対象について人類学の民族誌記述の方法論がいまだ十分に検討されていないことも明らかだ。
このようなジレンマに対して研究者に一種の避難場所を与えるのが心理学的解釈を動員することである。一九七〇年代後半のアルゼンチンの政治的 暴力の被害者である失踪者(desaparecido)の家族についてロスアンゼルスで調査研究したスウァレス=オロスコは、犠牲者の家族と加害者に心理 学的テストを含めた民族誌的作業を通して「声なき声に我々がどのように声を与えることができるか」を研究課題として掲げている[SUARES- OROZCO 1990:354]。しかし、彼の分析には「精神病的(psychotic)」「ヒステリー的拒絶(hysterical denial)」「幻想(fantasies)」「幻覚(hallucination)」「集合的誤認(collective delusion)」「偏執的エトス(paranoid ethos)」など定義不明確な精神病理的隠喩表現に満ちあふれており、声を与えると言っておきながら、実際には心理学パラダイムの用語によって声を代弁 する。また用語の解釈の妥当性においては、それ自体が論争的なものになっている。政治的暴力の意味を日常の社会的次元に還元して論争をより公共的なものに するためには、心理学的説明は、失われる声の代価が高すぎるように私には思える。
四 構成的当事者と向き合う
それでは、グアテマラでの民族誌的調査を通して私は果たして、どのような立場をとるのだろうか。それを「構成的当事者と向き合う」という用語 で表現したい。
具体的な政治的暴力を理解する際に我々が従来取ってきた視座とは、政治的暴力の場における当事者を「加害者」と「被害者」の二極に分解し、そ れらを交換不可能な対立をもって描くやり方である。加害者とは、軍隊/警察/死の部隊(death squads)/「人民の敵」/加害者としての市民であり、被害者とは、特定の民族・「人種」・教徒・政党支持者/破壊者(subversive)/被害 者としての市民である。しかし、このような二項対立は、「恐怖の文化」という特殊な社会環境を想定し、我々の日常的感覚では理解不能とする社会的カテゴ リーを導き出す。つまり「信じがたい事」を神秘化し、永遠に理解不能な演劇論的舞台を作り出してしまう。舞台に没入する観客になる誘惑から逃れる唯一の方 策とは、政治的暴力における当事者を首尾一貫した一枚岩の超越論的な集団として見ることを拒否することである。その代わりに、政治的暴力の過程で客体化さ れ、主体として語られ、そして操作されるカテゴリーつまり、暴力的現象における構成的当事者としてみなすことが求められる[例えば、栗本 一九九六]。
構成的当事者に面した際に人類学者がおこなう作業とは、その人びとの声を聞くことになるのだが、問題は、(i)それらの声をどのように聞くの かということなる。そして、人びとの声とは、調査者にとっては他者の声に他ならないわけであるから、引き続いてどのように他者の声を聞くのかという姿勢や 態度についての次の問いが発せられるだろう。他者であること、つまり(ii)「他者性」を人類学者はどのように捉えるのかであり、それらについて人類学者 は具体的に表明せざるをえない。
太田好信によると、人類学者が他者の声を聞く——これは隠喩的表現(6)であると同時に具体的で現実的な表現である——という社会的行為に は、二つの責任が生じるという。つまり、自分の調査という実践について説明するという説明責任(accountability)と、相手の呼びかけに応え るという応答責任(responsibity)である[上村ほか 一九九九:五二]。この二つの責任について人類学者が遂行した結果、人類学者の発話や実 践に対して、現地の人びとがそれを理解し、批判を加えるという新たな状況が誘発される。このような言語遂行行為が実現される社会的条件について、太田はグ アテマラのマヤ運動をめぐる論争や事例検証のなかで多角的に論じている[太田 一九九九、二〇〇〇]。ここで新たな状況の誘発とは、人類学者の仕事を通し て研究対象の人々をエンパワーすることに他ならないが、これまでの彼の業績から、それは同時に従来の人類学の実践的パラダイムそのものを組み換えるもので あることは明白であろう[太田 一九九八]。
エンパワーとは、何かを可能にする生産的権力を導入することであり、人間の様々な「可能態」を実践することである[例えば、田辺 一九九七]。またこの言葉には、それまで我々を縛っていた固定観念を取り払い、「自ら解放される」ことをも意味すると私は信じる。これは他者の理解を通し て自己の理解に到達するとしてきた人類学の基本的命題を大きく逸脱するものではない。むしろその営為の延長上にあるものだ。人類学は、これらの実践を通し て、ただ他者を理解するという定言的命令(categorical imperative)から自由になり、他者性のなかに主体的関与(agency)を認めることを可能にする社会的条件を獲得するからである[太田 二〇 〇〇;スピバック 一九九八; SPIVAK 1993:294]。このことは、他者のなかに自由な発話主体が存在できる/できないというあれかこれかの議論を飛び越えて、発話の場そのものが歴史的か つ社会的に構造化された権力関係の不均衡にあり、発話は常にそこから始まるという現状認識から出発することを我々に要求する。
五 政治的暴力についての様々な諸相
これまでの議論を通して、政治的暴力がもたらす社会文化現象に対する視座と、それを人類学的に理解する立場について表明した。六つの下位区分 たるテーマから構成される本節では、グアテマラの内戦終期(一九八七年頃以降)から現在にいたるまでの政治的暴力の諸相について紹介をおこなう。
1 恐怖
グアテマラでは一九八三年を分水嶺として左翼ゲリラ勢力の軍事的敗北が決定的になっていたことが現在では明らかになっている[飯島ほか 二〇 〇〇:二二]。また実際に、キチェ県で活動していたORPA(武装人民革命組織)の元活動家は一九八一年九月末にイエズス会士ペジェセル神父が政府に「寝 返った」時点で、ORPAならびにEGP(貧民ゲリラ軍)は敗北していたと一九九九年に私に語った。なぜなら、その時点を前後して予定されていたゲリラの 作戦は、いつも事前に「敵の知るところとなっていた」からである。しかしながら、一九八七—八年当時のグアテマラでは、一般の人びとやマスコミはそのこと について知る由もない。実際にゲリラ勢力は、軍隊に対して散発的に待ち伏せや襲撃をおこなっていたし、軍隊もまた先住民を中心とした市民に対して多様な人 権弾圧を依然として続けていた。
この時期(八〇年代末)に、とくに軍隊の暴力について公に語ることは実質的にタブーとなっていた。このこと自体がグアテマラにおいて人びとが 曝されている危険性を示唆するものであったことは疑い得ない。アメリカ合州国政府外交筋はグアテマラへの一般観光客の渡航を警告していた。当時の観光客は 現在の水準に比べれば格段に少なかった。これは一九八八—九一年にチマルテナンゴ県で調査に従事した人類学者の報告によっても、それほど事情は変わらな かった[GREEN 1995]。
誘拐は首都圏や大都市のみならず軍の基地がある地方都市でもしばしば行われた。一九八〇年代初頭にあった時のことを目撃した男性は、カーキー 色のトラックが住宅に横付けされて、突然大勢の兵隊がふつうの市民を拉致していったことを、昨日の事のように述べた。彼らの記憶はいつも鮮明で生々しく語 られる。拉致された人の家族は、すぐに軍基地に出かけて、掛け合うのだが、軍関係者は一様に「知らない」「調べてみよう」と答える。家族らは心配になっ て、地元のコミッショナードス(退役軍人で地元の徴兵を担当する民間人)や、軍と深い関係をもつ党派、例えばMLN(国民解放運動)の地元の顔役にすぐに 相談する。なぜなら拷問や処刑にあって事態が「手遅れにならないように」である。家族は諦めることはなく、何度も足繁く、軍の情報部の窓口に押し掛ける。 地方都市で拉致にあった場合は、首都まで出かけ、何日も何日も出かける。そのようなわけで、軍の基地の窓口は、いつも失踪家族を捜す人びとでごった返して いた。
恐怖は身体化をともなう。カイビルと称する対反乱作戦のために訓練された特殊部隊の兵隊——彼らは迷彩服を着て、顔にカモフラージュ用のメイ クをする——に対する恐怖は、それを体験したものにしか分からない。カイビルは、ある先住民男性に言わせれば「何日も水や食糧なしにジャングルで生活し、 犬や鼠を食べながら生きる訓練をする。また殺した敵の血を飲んだり、トカゲを食べたりして、残忍な性格をもつように教育される。人を平気で殺すようになっ た動物のような兵隊」だという。
迷彩服、ジープ、ヘリコプターなどは、人びとにとって恐怖を喚起する条件刺激となる。一九八七年当時のクチュマタン高原の町で行われた守護聖 人の祭りの最中に、赤いベレー帽をかぶりレイバンのサングラスをかけた迷彩服づくめの巨漢の男性がジープに乗り、まわりに数名の兵隊を従えて「見物」—— あるいは視察——にやってきた。知らずに群衆の後から近づいてきた彼らを認めた時、周囲の人たちは飛び退くように兵隊たちに対して場所を空けた。兵隊と人 びとの間には数メートルほどの空白地帯ができる。彼らが去ったあと、男性は酔った勢いだろうか勇敢にも「彼らがいると祭りが白ける」と小声で毒づいていた が、他の人たちはただただ押し黙っている。だが人々は見過ごしているようでも、兵隊たちにじっと神経を尖らせていたのだった。
2 市民パトロール
リオス・モント政権によって一九八二年六月以降、クチュマタン高原のこれらの村落では、「市民防衛パトロール(Patorulla Civil Autodifensa, PAC)」(7)——クチュマタン高原のその町では通称「市民パトロール」と呼ばれた——が組織されるようになる。そこでは旧式のM—1ライフル銃で武装 した民兵組織が形成された。彼らの仕事は当番制で、数人のグループが詰所を基点にして、町内の警邏や道路での検問をおこなうものであった。
市民パトロールは、軍人たちが厳しい教練を人々に課してから、直接彼ら自身で管理するようにしむけた制度だ。歴史の記憶回復プロジェクトや真 相究明委員会の報告書では、軍隊に協力するだけでなく、自発的に村落内の住民の虐殺に関与した事例も多くあると伝えている[REMHI 1988; CEH 1999]。ある村落では、PACは直接殺害の手を下したことはないものの、当番の時間に遅れた者を裸にして、深く掘り水を張った縦穴のなかに放り込んで 一晩放っておくという制裁などを科した。村落は標高二四〇〇メートルの土地にあり、夜間は特に冷え込み、時には最高三六〇〇メートルの峰々から冷たい風が 吹きすさぶ[OAKES 1951:3]。
導入当時、市民パトロールの制度は、村落内にある種の混乱と衝撃をもたらした。というのは、この制度が導入される以前には町長 (alcalde)が治安判事(Juez de Paz)を兼任し共同体成員からなるボランティアの警吏(alguacil)を使って警察権を行使していた。しかし原則として六〇歳以下の成人男性の全員 が参加し、町の治安維持機能に重点が置かれる市民パトロールの存在は、それ自体が自律した警察権を行使するため、治安判事としての町長の機能は、罰金や処 罰の処理のみへと縮減されていった。市民パトロールの司令官や副司令官は、町の有力リネージの家族が支配し、彼らに対する「畏敬と信頼」——もちろん合議 によって決められてはいるが決定後は当然のことながら強制力として機能する——が芽生えた。つまり村落内に新たな権威構造が生まれた。
一九八七年暮れから八八年にかけての時点では、しかしながらクチュマタン高原では左翼勢力の目立った軍事攻勢はすでになく、市民パトロールの 詰所の雰囲気も、設置当初のような厳しさはなくなっていた。小春日和のある日、当番にあたっていた知人をたずねて詰所を訪れたことがある。自動車が通って も地元の知り合いの者だけが通る道ではもはや検問もおこなわれることはない。当番兵は誰も眼につかない詰所の裏の芝生の上で寝転がって、私に対して日本で の生活に矢継ぎばやに質問を投げかけていた。話が一段落終わってから「じゃみんなで(普通の)記念写真をとろうじゃないか」と私が提案したら、突然、彼ら は詰所の奥にしまってある銃を取り出してきて隊列を組んだ。彼らは銃を掲げてさまざまなポーズをとり、どのスタイルがいいのか議論を始めた。もう住民に よって十分に骨抜きにされた(飼い慣らされた)と思っていた市民パトロール制度は彼らのハビトゥスとして十分に刻印されていることを私は感じた。
市民パトロールは強制的に設置された制度であり、その暴力の濫用の実態についても、つとに知られている。しかし、この町では治安維持の制度と して定着したことも確かだ。当時は町で起きるいざこざや暴力事件、酒乱などは、市民パトロールに通報されて、彼らは連中を町の牢屋に放り込み、翌朝には役 場による書類手続きを経て行政的に処分がなされる。そのような権力装置の一部として機能していた。また男性らしさを鍛える残酷な徴兵よりも、市民パトロー ルへの参加は地元に居られる点で良い制度なのだという評価もあった。一九九三年二月に民法が改正されて町役場には治安裁判事務所(Juzgado de Paz)がおかれるまで、市民パトロールは権威を維持してきたのである。
そのために一九九六年暮れの政府と左翼ゲリラ連合の和平合意後の翌年に開催された市民パトロールの武装解除の儀式の際には、多くの現役あるい はOBの民兵たちが教会前の広場にあつまり式典に参加した。国連の監視団が乗り付けた白塗りの大きな四輪駆動車数台が町から去った後、元市民パトロールの 兵隊は、通りの酒場や、元司令官の家——彼の小さな店は酒も商っていた——の前に集まって、酒に酔いながら市民パトロールの解散を悲しんだ。実際、その夜 は、遅くまで男たちの群が通りで酔っぱらい、道端に寝入るまで飲んでいる者たちが数多くいた。
それから数ヶ月後、町で起きる暴力事件や酒乱などが、町役場だけの手では十分に取り締まれていないという不満を町の多くの人から聞いた。もち ろん市民パトロールを復活せよという主張はないものの、市民パトロールによる治安維持の時期を懐かしむ声はあった。それからさらに国軍の治安警察機構は解 体され、市民警察(Policia Nacional Civil, PNC)の警官が、一九九七年よりこの町にも配置されることになった。しかし、導入当初は濃紺の制服と制帽を着用した地元先住民ではない警官には、不審と 違和感を覚える者が多かった。
3 打ち明ける
一九九〇年代後半とは異なり、一九八七年末当時は、グアテマラの公共の場でさまざまな政治的暴力、特に虐殺のことについて話すことはタブーで あった。しかしながら、それを抑圧することは誰にもできない。今は廃止された国立インディヘニスタ研究所(IIN)の職員が、一九八七年当時、私にこっそ りと軍の秘密部隊に注意を促し「こんなこと誰にも言ったらだめだよ……誰もが知っているけど。あなたもくれぐれも気を付けるんだよ」と耳打ちしたことを思 い起こす。人々は、いつもどこかでグアテマラで起こっていた「恐ろしいこと」の何かを伝えようとしていた。しかし、それを伝えようとすることと同時に、そ れに耳を傾けるという機会がいつも訪れるわけではない。それはほとんど意図しない時に訪れる。
あることを説明するために意図的に打ち明ける、あるいはたまたま「その話」が出て打ち明けてしまった。しかし、打ち明け話は、いつも対話者が 二人きりでいる時だけである。意図的に打ち明ける者は「君はもう知っていると思うけど……」「もう他の連中から聞いたかな」という糸口を聞き手に投げかけ る。何かの話の文脈で、結果的に打ち明けた人は、周りの状況をきちんと把握してから、声を潜めたり、トーンを変えたりして、明らかに聞き手に注意を喚起す るようにして話す。打ち明け話は、話法における儀礼的な手続きを踏んで開示されるのである。
暴力について語る者と、それを聞こうとする者の間にはさまざまな障壁があった。それはいわゆる「信頼関係」の深度というパラメータだけでは測 れない。私には隠匿された政治的暴力の話を聞きたいという欲望があった。それが何に由来するのか、私自身の無意識から政治的正しさの主張まで、その事由は いくらでも挙げられよう。もちろん私の欲望のままにそれは成就されない。さらに、全く矛盾することだが、欲望をもつことを抑制しようする気持ちが同時に あった。受苦に対して敬意を払うこと。だが何のための敬意なのだろうか。想起させることで二重の苦しみを味あわせること。しかし果たしてそれらは同じ種類 の苦しみなのか。「慎み」という快い響きの言葉がその感情をカモフラージュする。それゆえに、クロード・ランズマン監督の『ショアー』[一九八五年制作] が一九九〇年代の中頃に日本で紹介された頃、このドキュメンタリー作品の中でホロコーストの生存者が感極まって涙ぐみ話せなくなった時に、姿の見えない監 督が彼に発話を強く促し「語らせようとする意志」に私は驚愕と当惑を覚えた(8)。また同時に強い共感も私は覚えた。私の共感は、語ってもらわなければ、 決して事実は明らかにはならないという「説得する動機」の具有に由来する。だが、このような動機をもち意志を行使する権利はいったい誰に対して、そして、 どのような時に持ち得るのか。
仮にこの「語らせようとする意志」を行使する権利が私には無いものとしても、なぜ相手は私に打ち明けたのだろうか。相手の「語る意志」は満た されるだろうか。問題は、打ち明け話や内緒話という、一種の信頼を担保とする話法には限界があることだ。しかし不思議なことに打ち明け話は、一度なりとも 対話者の間に共有されると、発話する者だけの言説に留まることをやめて、解釈の共同体における通貨のように、理解の尺度になり、流通してゆく(9)。この 作業を通して、打ち明け話は、はたして対話者の共通事項から人間共通の資産に形を変えてゆくのだろうか。そして政府の真実究明委員会がとる公式的インタ ビューの方法とは異なり、歴史的記憶の回復プロジェクトの人たちが、現地の人たちからなる「和解のアニマドーレス(animadores de reconciliacio'n)」を組織して、現地語による暴力についての歴史を発掘する作業の意義ついて我々は気づくのである[飯島ら 二〇〇〇:一 一—一五]。
4 十字架
なぜ自分たちの身の回りに政治的暴力が吹き荒れるのか。なぜ我々はこれほどの苦しみを受けなければならないのか、という構成的当事者たちによ る質問。なぜ彼/彼女らの身の回りに政治的暴力が吹き荒れたのか。なぜ、彼/彼女らはこれほどの苦しみを受けなければならないのか、という共感する我々に とっての質問。
これらの答えは無数にある。そして、すべての答えが某かの因果論ないしは言説というものを含んでいる。その現場に居合わせた者には、ほとんど 理解不能なもの(=暴力)が、その経験を想起し伝えていくという作業の中で、様々な理由を付け加えていく。因果論は、単に身の回りにおこった事象を説明 し、納得させる社会的機能だけをもつのではない。行為者である語り手は、それにもとづいて、未来にむかってなんらかの投企をおこなう。苦悩を想起し因果を 語ることは生きるための実践そのものである。
私が調査しているその町については、マウド・オークスが一九四五—七年に調査したマヤ系先住民の世界観について記載された古典的民族誌がある [OAKES 1951; PERRERA 1993:135-153]。彼女の著作の書名『トドス・サントスの二つの十字架』にみられる二つの十字架とは、ひとつはキリスト教の、そしてもうひとつ はマヤの世界観を表象するものであると説明されている。現在(一九八七—九九年当時)でも、この町ではプリンストン大学出版局から出たペーパーバックのリ プリント版(一九六九年刊行)を所有する人たちがおり、時にそれを取り出して、本にある写真を指さしながら解説してくれることもある。だが写真にある教会 の正面の高い木製(マヤ)のものと低い白いセメント製(キリスト教)の二つの十字架は、一九六〇年代初頭には、メリノール修道会神父たちによってすでに撤 去されていた。伝統的マヤの儀礼執行者(chman)は教会から追い出され、教会内にあった聖像は撤去され、そして教会の外における聖地のひとつの遺跡に おいて儀礼をおこなうことも禁止された(10)。このようなマヤ宗教に対する弾圧によって、マヤ儀礼は公共儀礼として性格を急速に失い、わずかに守護聖人 の祭りや信徒講社(cofradi'a)のための儀礼としてあるいは個人や家族単位の相談に応えるものへと変貌していった。
この伝統宗教の軽視傾向は、グアテマラ全土ではじまったカトリック教会の刷新運動——アクション・カトリカ——や、アメリカ合州国由来のエバ ンヘリコと呼ばれる福音主義のプロテスタント布教活動の台頭で、さらにその加速度が増していった。この町で一九七〇年初頭にはじまるカトリック教会の刷新 運動では、神父たちは在俗の教理教育者(catequista)を養成したり、土地不足に悩む農民たちにイシュカン地区への移民を薦めたり、保健普及員を 養成しかつ簡易診療所を設置した。また教会敷地内にバスケットボールコートをつくって若者の親睦とカトリック青年組織の養成に力を注いだ。
さて一九八一年初頭にはじまる紛争も八二年三月二三日頃を境として、この町にもたらされた激しい暴力は次第に変化——住民にとっては沈静化 ——していった[池田 一九九八:七二]。実際には国内難民化によってこの時期の町の人口は極度に少なく、再び暴力が横溢するといった不安が未だ解消され ない暗い時期において、儀礼執行者たちのグループが一九八二年四月一五日付で等身大の木製十字架を、教会の前と儀礼の聖地であるマヤ文化遺跡に一つずつ設 置した。このお互いに離れた二つの十字架を設置した彼らの動機は次のように語られた。この町に空前絶後の暴力が降り注いだのは、かつてあった二つの十字架 が当時から数えて二〇年前に撤去され、昔から続いてきた「父なる祖先」と「四つの山の峰の神々」が、この町の人たちに天罰を下したからに他ならない。した がって「二度とこのような暴力がおこらないように」と二つの十字架をそれぞれ教会の前と遺跡の聖地に再び敷設したという。しかしながら、マヤの儀礼は以前 のような公共性をもつ影響力を取り戻すことはなかった。すでに一九八二年、エバンヘリコの別の宗派が、以前よりもカトリックや伝統宗教に対するより攻撃的 な布教をはじめていた。その翌年の守護聖人の祭りの時期に、カトリック教徒の人たちが宗教行列をしていた時に、それを非難したエバンヘリコの在俗説教師 (predicador)と諍いになり、彼をリンチにかけ重傷を負わすという事件もおこっていた。複雑なことに、この被害者はカトリック神父たちが一九七 〇年代初頭に起こしたイシュカン地区への開拓移民に参加し、七六年にエバンヘリコへと改宗し、八二年に虐殺を逃れてメキシコ領内を三ヶ月間ジャングルの中 ——「難民キャンプはまだなかったのだ」(本人の弁)——を彷徨ったあげく、同年に夢見による啓示を受け説教師となり、この町に福音主義を布教する使命を もって帰還したばかりだった。
紛争によって撤退したメリノール派の神父が去った後、一九八〇年代を通して教勢を保っていたカトリックも九〇年代に入ると急速に影響力が衰退 し、エバンヘリコが共同体内で一定の地歩を築くようになる。この時点でマヤの伝統的儀礼とは、実質的に個人的呪術としか見なされなくなった。しかし、全国 レベルでのマヤ運動の展開、とくに西部高地中央でのマヤ司祭による儀礼復興運動が進むにつれて、儀礼執行者の共同体における公共的性格を復活させようとす る動きが出てきた。一九九七年当時、八二年製の十字架設置者の一人で高齢かつ著名だった儀礼執行者にかわって、最強の呪術をもつと人々に信じられていた中 年の儀礼執行者が畏敬を集めつつあった。彼は、九八年初頭に町の人々に対して教会の前に新たな十字架をつくろうと提案し、それまでばらばらに活動をしてい た儀礼執行者を組織して、町の人々から寄付金を募る運動を開始した。同年七月には、八二年製の古い十字架を取り去り、新しい二つの十字架——それらは以前 とは違ってひとつは巨大で他のひとつは腰の丈ほどのもので互いにぴったりと密着している——が建てられた。しかし、十字架がある教会前の広場は、すでに土 曜ごとの定期市の際のトラックやバスの駐車場と化し、家畜を繋いだり、時には小便をかけるものもいた。とうとう十字架には小さな注意書き「この十字架を汚 すものには罰金が科せられる」が貼られる始末である。中年の儀礼執行者もまた、もはやこの世にいない。人々の説明では、彼の呪術力ゆえ人々が儀礼の執行を あまりにもたくさん依頼するので、そのための飲酒による中毒——儀礼では供犠のために蒸留酒を大量に消費する——で死んだという。
5 非難
三六年間におよぶ内戦が終わり四年が過ぎてもグアテマラに暴力はなくならなかった。これは紋切り表現だが真実だ。一九九八年四月のファン・ヘ ラルディ司教の暗殺をはじめ、労働運動や人権擁護運動の関係者への度重なる脅迫や殺害。九九年五月の国民投票における先住民族権利を憲法改正に盛り込む案 の否決、そして二〇〇〇年一月右派のFRG(グアテマラ共和戦線)のアルフォンソ・ポルティジョ大統領とエフライン・リオス・モント元将軍の国会議長就 任。グアテマラの政治について国内外の人権擁護派を自認する者には「憂慮すべき事態」は変わらぬどころか悪化していると映るのである。人権派にとっての精 神的ストレスの原因は、このような異常事態が続く社会的理由が「分からない」ということである。他方、西部高地での先住民を中心とする人々と話せば、その 「憂慮すべき事態」の指示内容は変わる。貧富の差の増大、物価の高騰、犯罪とくに強盗、誘拐、殺人の増加がそれであり、人々の不満はこれらの原因である 「悪者たち」を取り締まり厳罰をくだせない政府の「無責任さ」にぶつけられた。
一九九九年の大統領選挙キャンペーンでは、グアテマラの主要なメディアは右派政党FRGと、それまでの中道右派で政権政党だったPAN(国民 行動党)とはほとんど互角だと報道していた。また実際に、その年の暮れにあった最初の投票では双方の候補者は過半数に足らず、決戦再投票の際には投票率の 低さもあったがFRG候補のポルティジョが圧勝し、FRGは初めての政権与党になった。
私はグアテマラの三つの先住民地域でさまざまな人に選挙のことを聞いたが、FRG支持者以外の人を含めて、すべての人がFRGの勝利を予告し ていた。その理由は、異口同音に「FRGはリオス・モントの党」であり「グアテマラは強い政府を求めている」というものであった。そこにはPANが進めて きた地方分権や公共機関の民営化への非難が込められていた。もちろん、それに反射的におこなう私の次の質問も紋切り型のものだ。「どうしてたくさんのイン ディヘナを殺した将軍をインディヘナ自身が支持するのか?」ところが、今度は人々の返答は多様である。ある者は沈黙する、別の者は「わからない」と言う。 ある者は「我々のところではそうでは(=将軍の軍隊が虐殺し)なかった」と言い、別の者は「軍部が先住民を洗脳しているから」「彼はグアテマラのために実 際によく働いている」「他に誰がいる」等々、と返答した。
この町には地元のNPOの語学学校(PLEM)がある[池田 一九九七]。受講者はマム語(マヤ諸語のひとつ)とスペイン語のバイリンガルの 先住民家族の家に下宿し学校ではスペイン語を学ぶ。先住民族の生活にも親しめるという普通では味わえない民族観光もできる利点があり、そのために人気を博 してきた学校だ。一九九七年には、この学校で働いていた講師が独立して別のNPOの学校(EENA)を創設し、同様の教育をおこなっている。この町の住民 もまた虐殺の経験をもつために、スペイン語の課外授業として「この町の歴史と文化を学ぶ」カンファレンスが夜間に行われる。老若男女の外国人受講生のう ち、中高年でかつ北米から来た人たちは、グアテマラにおける先住民への虐殺の歴史的事実についてある程度知っており、このカンファレンスの討議に積極的に 参加する。このカンファレンスのボランティア・コーディネーターをしていた私も含めてこれらの人たちは人権擁護派であることを自他共に許す。一九九九年当 時もっとも沸騰した話題は、「人民の味方であるはずのゲリラがなぜこの町で暗殺行為に加わることが多かったのか?」という歴史的な事情[池田 一九九八] と、「どうして人々はFRGを支持するのか?」という臍を噛むような難問についてである。
私は自分が知悉するかぎりの情報を動員してこの難問について説明するが——勿論私自身にも全体像は皆目分からない——いくら説明をしても、結 局、彼らには合点がいかなかい。それは、結局のところ、その事態についてある種の説明を与えても、人権派にとって快く思わない状態(=不満)は解消されな いということだった。このような解消されない不満は、不幸なことに、一般住民へのルサンチマンとなる。例えば、同じタイトルの暴力の講義に以前参加したこ とのある受講生からは、「講師はちょっと右傾化したのではないか」という非難や、ゲリラによる処刑のことを軍部による完全な謀略としたり、単に「ゲリラが 悪いことをするとは信じられない」という反応を示す人もいた。内戦中において軍隊が反ゲリラキャンペーンとして盛んに「彼らは破壊者 (subversivos)の野獣である」というプロパガンダを繰り返していたが、私には人権派のルサンチマンは、軍隊の反ゲリラキャンペーンの「歪んだ 鏡像」として映る。
このルサンチマンは同時に私自身のものでもあった。これを解消すべく、私は当時のFRGの選挙運動キャンペーン当事者や、「恐ろしさに抗し て」——私は一九八〇年代初頭の当時の将軍の軍隊の残虐性と九八年当時の党派イデオロギーを同一視するという錯認をしていた——FRGの国会議員候補に面 談したり集会に参加した。その際に、ラディノ(あるいはクリオージョ)の候補者が先住民に対して親切に発話する行為を見れば、それは人種主義のカモフラー ジュとして見え、「ひとつの国民になる」という主張を聞けば、それは「国民統合を妨げる」先住民運動への非難として聞こえ、「強い国」というフレーズは全 体主義的な軍事国家と、それこそ偏執的に私は聞いてしまった。
町でのFRGの大統領選挙キャンペーンの幹事を務める先住民の友人に、二人きりになった時、「私は信頼する君がFRGを支持する理由が依然と してわからないのだが」と勇気を出して聞いてみた。彼の口から出たのは意外な、そしてアイロニーに満ちた次のような趣旨の内容の言葉だった。彼は毒づくほ どではないにせよ、私にたいして、どうしてそんなことがわからないのかといったニュアンスの口ぶりだった。
彼の言を要約すればこうである。リオス・モントが先住民に対しておこなったことは彼自身も理解している。しかしながらFRGは現在、大統領選 挙に勝利しようとしている。この町で同じ党派の町長が当選すれば、ネポティズム(縁故贔屓)ゆえに中央政府からの援助を期待することができる。彼の次のよ うな言葉は私の胸に突き刺さった。「長い間『インディオ』と呼ばれ蔑まれてきた我らの町に、実際に中央政府からの利益を誘導するためFRGを支持すること が、なぜそれほど悪いのか。君も知っているように、リゴベルタ・メンチュは先住民の苦境を訴えるために、支配者の言語たるスペイン語を学んだ。我々も同じ ようにしているのさ」。翌年、彼の予言通りFRG派の町長が誕生した。
6 人類学者から人類学者へ
人類学者のミルナ(仮名)がマサテナンゴ市サマヤックにいるエスピリトゥイスタ(espirituista)つまり交霊術者のところに出かけ たのは、一九八〇年代の中ごろだという。というのは、当時は「とても暴力的(muy violento)」な社会状況であり、同じ職場の同僚で、当時二六歳の秘書が「誘拐」されたから、その消息を著名な交霊術師に訊ねに行こうということに なった。どうして「行方不明」ではなくて「誘拐」と言えるのでしょうか、と私が質問したら、ちょうど彼女が失踪した時に目撃者がいて、数人の男が彼女を自 動車に押し込め連行したからである。
家族の必死の捜索にもかかわらず、誘拐された彼女はいっこうに戻ってこなかった。ミルナは、この失踪した秘書について手がかりを得るために、 サマヤックにいる著名な女性の交霊術者のところに職場の同僚とともに訪れた。ミルナは、探している秘書が「誘拐」されたということを隠して、この女性交霊 術者に相談したが、交霊術者はすぐに失踪女性が軍隊に誘拐されていることを指摘した。ミルナは、交霊術者に相談している間に交霊術師自身が憑依し始めてい ることに気づいた。交霊術者の声色が変わり、やがて「彼女」が呻きながら「お、お……私は痛い」と言い始めたのだった。そして「皆さん、私を探すのはもう 止めてください……私は、もう遠いところにいます……私はもう休みにつきました……」と途切れ途切れに話をするようになったという。その時にはミルナ自身 の表現によると「(彼女は)研究者でも人類学者でもなくミルナ自身その人」に戻って、涙を流しながら聞いていたという。
犠牲者の父親は、彼女の失踪後、軍隊の事務所にある調査申請記録簿に娘の名前を記載し、娘の写真を拡大してポスターにして、さまざまなところ で彼女の消息を訊ねていたが、とうとう娘の消息を知ることなく、死んでいったという。ミルナによると、彼は失踪した娘を探すことで、命を縮めて死んでいっ たのである。ミルナは、犠牲者の父親が死ぬまで、このエスピリトゥイスタへの相談とそこで起こったエピソードを結局彼に話をすることはなかった。「話すこ となどできるものですか!」
これが、サマヤックにおけるミルナと交霊術者との出会いであり、彼女は、グアテマラの各地で起こったこの種の話をたくさん知悉しているが、私 と話した現在(一九九九年初頭)でもなお、この事実をグアテマラ人として公表することには、恐れ(miedo)を覚えるという。だから、外国人である私 が、彼女の経験も含めた、この種の話をどしどし発掘して、より多くの海外の人に伝えてほしいと言った。このような悲劇が、二度と起こらないように。
六 結論
本稿冒頭で、その暴力概念を紹介したアーレントは、彼女の政治的アイデンティティとして深く関係する著書『人間の条件』において「説明を伴わ ない恩赦」が実行されることについて危惧し、それを批判する[アーレント 一九九四:三七〇—三八〇]。なぜなら、説明を伴わない恩赦は、正義のあらゆる 希望が取り除かれることで民主主義の形成が蝕まれ、民主主義の遂行そのものも焦点の定まらないものになるからだ。そして、「恩赦」以外の選択肢は「処罰」 であり、ふつう恩赦の反対だと思われている「復讐」ではない。恩赦と処罰は、終わりのない相互干渉を避け、何ものかを終焉に至らしめる点で共に共通点をも つと指摘している。彼女が紛争解消を目論む営為において「恩赦」を言葉による説明と関連づけていることは、人類学にとっても重要な指摘となる。人間行動を 社会的に理解する(=言葉によって説明する)人類学の目標と、その学問の方法論(=部分的とは言えフィールドワークというある種の社会参画を行う)が、紛 争解消の活動と接点をもつからである。グアテマラ、エルサルバドル、アルゼンチン、チリなどのラテンアメリカ世界のみならず、過去・現在・未来のすべての 世界にとって、この指摘は通用すると私は信じる。
FRGの勝利に地団駄を踏む外国人「人権擁護派」観光客、「抑圧されてきた我らの町に利益を誘導するため戦略的にFRGを支持することが、な ぜそれほど悪いのか」と反語表現によって反論する先住民の友人、「理想的には真実が明らかにされ、それが公開され、それらの責任者が処罰されることが理想 的だ。しかし、私はそれが不可能だと信じる……我々はもっと現実的にならなければ」と言った元大統領(11)、暴力の傷跡について何らコメントをせずマヤ のエキゾチックな世界観だけに注目して書物を認める「マヤ研究者」。そして暴力の社会科学という専門領域を構築すべくデータ収集に邁進する研究者(私の人 格はそれに一部同一化している)。このような人たちの活動に、他者性のなかに主体的関与を見つける実践をしていることを認めるのは難しい。
ところが、このような倫理的審問を、構成的当事者としての「我々」に課してみるとどうだろうか。私は調査のある時点から半世紀以上も前に終焉 した「我々の戦争」とグアテマラの政治的暴力について、「比較して考える」のではなく、「同時に考える」ようになった。膨大な報告書や資料は出来た/出来 つつあるかも知れない。しかし責任の所在を明らかにし、適切な処罰をおこない、さらに加害者と被害者の恩赦を含めた和解をおこない、その成果を次世代に伝 える努力を我々は不断におこなっていると言えるだろうか。政治的暴力の横溢という事実以外には、歴史的にも社会的にもほどんど共通点を見いだし得ない二つ の出来事。それらを、結びつける唯一の同時代的繋がりとは、他者性を認めるのみならず、我々自身のなかに主体的関与を見つけることに他ならない。本稿は永 遠に終わらせることのない、この作業の中間報告である。
註
(1)この発話は特定の個人によるというよりも、ユダヤ人絶滅のための収容所においてユダヤ人「囚人」に対してドイツ親衛隊の兵士が異口同音に 語っていたものであるという[レーヴィ 二〇〇〇:三—四]。
(2)本稿で用いられた資料は、平成一〇・一一年度文部省科学研究費補助金国際学術「都市化環境における実践コミュニティの人類学的研究」(研 究代表者:田辺繁治・国立民族学博物館教授)および平成一〇・一一年・一二年度同研究費補助金国際学術「グローバル化におけるグアテマラ国家ナショナリズ ムと汎マヤ・エスニシティの形成」(研究代表者:太田好信・九州大学大学院教授)によって、グアテマラ西部のウェウェテナンゴ県やトトニカパン県での現地 調査のほかに、首都グアテマラ市やサカテペケス県などさまざまなところで私が経験したものから得られた。また内容の一部は日本ラテンアメリカ学会第二二回 定期大会パネル「グアテマラ—和平合意後のゆくえ—」(二〇〇一年六月三日名古屋大学)で発表された。また本誌編集委員会の井上眞先生ほか三名の匿名の査 読者の方々から拙稿の改善に関して、きめ細かくかつ心暖かい助言を受けた。以上の関係する諸先生方に謝意を表したい。本稿の内容は、これまでの私の既報告 [池田 一九九七、一九九八、二〇〇一; IKEDA 2000]の個別テーマとは異なっているものの、政治的暴力と地域の開発現象の関係を明らかにするという点で問題意識は共通している。
(3)局地的な暴力行使を中心とするイデオロギー紛争、「人種」問題、民族紛争の国際的解決に、この「和解」という用語が多様され流行語のよう に取り扱われる[WHITTAKER 1999]。しかし「和解」という用語は、スペイン語でも形式ばった文書の中には歴史的によく使われてきた用語である。この用語は、宗教的には告解あるい は分派した人がもとの教会に復帰するという意味がある。つまりある権威構造への復帰を促す言葉でもある。一九八二年のリオス・モント将軍期のグアテマラ国 軍の対反乱キャンペーンの内部文書『勝利八二』における「現下の国家諸課題」の中には「好ましい国家平和と調和のために一つのグアテマラ家族における和解 を達成する」という文言がみられる[BLACK 1984:189]。
(4)アーレントの意味する暴力と権力と権威の関係をグレマス[一九九二]の「意味の四角形」に配列してみると興味深いことが判明する[図 1]。暴力(S1)は権力(‾S1)と矛盾項の関係をなし、権力(‾S1)と権威(S2)は集団と個人の属性の区分があるが、暴力のように即物的力は存在 しない点で含意関係をもつ。この三項を四角形の中に配列すると、即物的力をもち集団で力を行使する項目は、アーレント[一九九五]が国家と暴力の関係を論 じた際に重要な鍵概念となった「革命」(‾S2)であることがわかる。彼女によると戦争と異なり、革命は人間の「自由」——これもまた彼女の思想を理解す る上で重要な概念である——の達成を自然権にもとづき集団的に行使する点で、きわめて近代に特異的な社会事象であるという。この図式から見る限り、アーレ ントが扱っている暴力概念は、動物的本能や深層心理学などの解釈を不用とし、近代における社会事象そのものに向かっていることは明らかである。次の註 (5)も参照のこと。
(5)現代の国家観における暴力装置概念を註(4)と同様にグレマス[一九九二]の「意味の四角形」に配列してみたのが図2である。暴力 (S1)の相反項はもちろん非暴力(S2)である。国家は社会契約にもとづき個々の人民が武装し暴力(S1)を行使する権利を国家権力を介して回収する。 権力(‾S2)は暴力装置を維持するために不可欠なものにほかならないが、それは国家が人民の合意にもとづき行使されるべきものである。暴力装置が不要に なる状態(=警察や軍隊のない社会)とは、権力が極小化された状況すなわち平和(‾S1)に他ならない。このような理想的状況においては、国内の秩序維持 に暴力装置(=警察)を行使することは不要になり、ただ国民を守るためのもの(=軍隊)だけが必要となる。前の註(4)も参照のこと。
(6)読者にはここで言う「発話」というものを、その古典的序列——「単声/論理整合的/雄弁」が「複声/非論理的/寡黙」よりも優越する—— の中でのみとらえないでいただきたい。当事者が暴力を語り、民族誌家が耳を傾けている中にも、沈黙と饒舌、涙と笑い、冷静と混乱、同情と軽蔑が同居するこ とを誰しもが知っている。私は見えたり聞こえなくても感じるものも含めた人間の相互行為そのものを「発話」とそれに「関わる行為」という隠喩の中で表現し ているのです。
(7)通常の略語様式によればPCA(ペーセーエー)なのであろうが、最初の二語から取られてPAC(パック)と通称として呼ばれている。軍事 政権担当者が、ニックネームとして語呂のよいPACを採用したのであろう。ちなみに人々がこの制度や民兵について言及する時、肯定的否定的を問わずこの用 語を政治的に表現する場合にはパックないしは正式名称で呼ばれることが多く、より一般的には警邏を意味するパトルージャないしはパトルージャ・シビルと略 されて呼ばれていた。
(8)活字になった脚本における該当個所は[ランズマン 一九九五:二六一—二]にある。
(9)発話の流通の例としては、冒頭エピグラフのナチス兵士と同様、ユダヤ人絶滅収容所からの生存者に関するものが数多くある。『ショアー』の 中では、アウシュビッツ収容所の「特別労務班」で働き五度にわたる抹殺の危険性の中でを生き残ったフィリップ・ミュラーというチェコ系ユダヤ人が内省的か つ自発的に語る次の発話が異色である。「また、生きているかぎり、人間には、つねに希望が残っている、と確信していました。生きている間は、決して希望を 捨ててはならないのです。このようにして、私たちは、あの苛酷な生活の中で、毎日毎日、毎週毎週、月を追い、年を追って、闘っていたのです。おそらくは、 いつの日か、この地獄から逃げ出せるかもしれない。そういう希望を、心にはぐくみながら」(原テキストでは改行が施してある)[ランズマン 一九九五:三 一九]。特別労務班とは、同胞の抹殺遂行のために焼却炉等において労働に従事させられていた人たちで、数ヶ月後にはおなじく証拠隠滅のために抹殺される運 命にあった儚い生存の中を生きていた両義的な——加害者と犠牲者の間に位置する——存在であった[レーヴィ 二〇〇〇:五〇—五一]。
(10)現在ではグアテマラ全土でこのような儀礼執行者をスペイン語訳のマヤ司祭(Sacerdote Maya)と呼ぶことが多いが、マム語圏におけるチマン(chman)は、マヤ司祭の代表例としてよく指摘されるようなトトニカパンやチチカステナンゴで みられるアハ・キーフ(aj q'ij)とは、その社会的性格が異なる。もちろんマム語圏でもアハ・キーフやアハ・カーバ(aj kab'a)という呼称もありチマンと一口に言っても、カルゴシステムが機能している/していた共同体におけるチマンと、一九六〇年代以降、ムニシピオの 公共的職分から後退したようなこの町のチマンとは、その社会的意味はかなり異なり、多種多様なチマン像が描けることは想像に難くない。
(11)『La Hora』紙、一九九一年一二月二七日付のラミロ・デ・レオン・カルピオ元大統領へのインタビュー記事。ただし引用はリンダ・グリーンによった [GREEN 1995:14]。
文献目録
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(いけだ・みつほ 大阪大学COデザインセンター・副センター長/社会イノベーション部門教授)
■クレジット:池田光穂、政治的暴力と人類学を考える——グアテマラの現在——,『社会人類学年報』,第28 巻,Pp.27-54,2002年8月 【AnnSociAnthro28-p22-57_2002.pdf】【査】