どうして人は孤独死を恐れるのか?
Why do Japanese fear "KODOKUSHI," death in solitude ?
WHY KODOKUSHI?
"Kodokushi (孤独死)
or lonely death refers to a Japanese phenomenon of people dying alone
and remaining undiscovered for a long period of time.[1] The phenomenon
was first described in the 1980s.[1] Kodokushi has become an increasing
problem in Japan, attributed to economic troubles and Japan's
increasingly elderly population.[1][2] It is also known as koritsushi (孤立死) and dokkyoshi (独居死)."- Kodokushi.
「孤独死(こ どくし)とは主に一人暮らしの人が誰にも看取られることなく、当人の住居内などで生活中の突発的な疾病などによって死亡することを指す。特に重篤化しても 助けを呼べずに亡くなっている状況を表す。/なお関係する語としては後述する孤立死(こりつし)が公的にも使われるが、ほかにも単に独居者が住居内で亡く なっている状況を指す独居死(どっきょし)のような語も見いだせる[3]。」-孤独死 .
語の起源(the origine of KODOKUSHI):「この言葉は日本で核家族化の進んだ1970年代に独居老人の死後、だいぶ経って久し振りに訪ねてきた親族に発見されたという事件 の報道で登場、同種の事例がたびたび発生した1980年代ごろからマスメディアに繰り返し用いられた。ただし孤独死に相当する事件は具体的名称に欠くもの の明治時代より報道されている[4]。」-孤独死 .
【私(池田光穂)の仮説】
阪 神・淡路大震災(1995年1月17日)の罹災者の集合住宅での孤独死が、災害が社会関係を分断するという危機言説とあいまって、孤独死「問題」が社会問 題の構築として浮上してきたのではないか? 1995年以降は、人口超高齢化や、認知症400万人のこれまた政府が煽る「恐怖言説」により、震災や津波以 外の大災害以降の犠牲者たちの「無残な死に方」が悲惨視されて、今日に膾炙したのではないか?その論拠は以下の文章
「孤独死(death
in
solitude)の問題が、(今日的な意味で)日本でクローズアップされたのは、阪神・淡路大震災(1995年1月17日)以降の、仮設住宅による生活
が長期におよび、震災復興以降の「社会資本(ソーシャル・キャピタル)」の崩壊が、孤独死を産んだのではないかという指摘である。額田勲(1940-
2012)は、震災後に仮説住宅に診療所「クリニック
希望」を開設し、被災者によりそいながら診療をつづけてきており、孤独死がおきる現場を、社会(関係)資本の喪失などという理論用語などを用いずに、現代
社会における孤独死の問題を的確に指摘した」池田「孤独死」)
これらの問題は、その恐怖を鎮めることを社会的使命
とする政府や地方の行政府にとっては、近隣住民の「声がけ」や、東日本大震災(2011年3月11日)以降、つとに声高に主張されるようになった「絆(き
ずな)」という全国民的な官製キャンペーンにも反映されている。また、超高齢化とその帰結である「認知症の蔓延」は、認知症キャラバンメイトなどの、市井
の人の「認知症理解」と「声がけ運動」など、動員体制がそれらを補完すると言っても過言ではない。
また、公衆衛生研究における、社会資本と健康の相関関係を主張するハーバド・マフィアの連中は、《社会資本(つまり社会関係性の強度)と健康》を強調するので、孤独死は、絶対悪の存在になる。
それゆえに、社会資本(社会関係資本)に対する 文化人類学者や社会学者からのもっともシンプルで重要な批判はこれである:「ロバート・パットナムのコミュニティの定義は狭すぎる。コミュニティの衰退を 食い止めなければならない彼の正義感はわかるが、コミュニティが衰退の危機に瀕しているのだろうか。古くは電話、現在ではインターネットの普及を通して、 コミュニケーションの概念が拡張した結果、コミュニティはさまざま新たな形態をもって登場しすぎている。その証拠は、コミュニティのユーザーから意見を聞 けばもっとも用意にわかる。ロバート・パットナムのコミュニティの定義は狭すぎるどころか、古すぎるのである」と(→出典.)。
孤独死がよくないのなら、無垢の人たちを一緒に殺戮するのはどうか? 孤独ではないというブラックジョークを言ってみると、真面目な連中の顰蹙を買うだろう。さて、ここで軌道修正して、ハンナ・アーレントにお越しいただこう。
アーレントは、隔離・孤立・孤独の区別をした。「 1)隔離(isolation)[大 久保訳:孤立]:政治領域においておこる;私は一 緒に行動できる人がいないので行動できない。「アイソレーションと は、人々が共同の利益を追って相共に行動する彼らの生活の政治的領域が破壊された時に、この人々が追い込まれるあの袋小路のことである」[アレント 1981:319]2)孤立(loneliness)[大久保訳:ロウンリネス]:人間生活全般にかかわる[アレント 1981:320]。隔離されていなくても孤立を感じる(疎外感を感じる)ことがある。3)孤独(solitude)[大久保訳:孤独]1人(alone)でいることを必要とする[アレント 1981:320; Arendt 2004:613]。
そこでは、孤独は人間が時には必要とする「認識論的 な手段」である。しかし、孤立は、人々と一緒にいても、孤立することがある。人間の生存のためには、他者の媒介を必要とするならば、孤立は時にその個人に とって危険な兆候になる。他方、隔離は物理的で強制力をもった暴力形態のひとつである。隔離は、人間の尊厳を犯す潜在的可能性をつねにもっている。
アーレントの議論と冒頭の、孤独死/孤立死の概念に
照らしあわせてみると、孤独であることは権利概念の範疇に入り(→安楽死を選択したり自殺したりする「権利」がもしあるとするならば、この範疇にはい
る)、つぎに、孤立状態における死は、その人が社会の中にいようがいまいが、他者の媒介が極小化される点でこれは、社会にとっては回避されるべき課題とな
り、最後の隔離死とは、死刑制度のように(あるいはガス室による大量虐殺のように)人間の生存と権利の伸展にはあってはならない行為ということになる。
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