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安楽死の研究

Euthanasia Studies in Japan

逆しまの世界(Roman d’Alexandre, Tournai ca. 1338-1344 (Bodleian Library, MS. Bodl. 264, fol. 94v))

池田光穂

安楽死(euthanasia)とは、文字通り「幸 せな(eu-)」と死(thanasia)のことである。[a. Gr. εὐθανασία, f. εὐ- (see eu-) + θάνατ-ος death.]

OEDには、1.優しくて簡便な死、2.優しくて簡 便な死の状態に導く手段、3.[今日的用法]優しくて簡便な死を導く行為とある。それぞれ、初出は、1.1646,年[1646 Bp. Hall Balm Gil. 337 But let me prescribe and commend to thee, my sonne, this true spirituall meanes of thine happy Euthanasia. ]、2.1742年[1742 Hume Essays (1875) I. 120 Death is unavoidable to the political as well as to the animal body. Absolute monarchy‥is the easiest death, the true Euthanasia of the British constitution. ]、3.1869年[1869 Lecky Europ. Morals I. xi. 233 An euthanasia, an abridgement of the pangs of disease.]とある。

ウィキペディア(日本語)には、「世界保健機関、世 界医師会、国際連合人権理事会、国家の法律、医療行政機関、医師会などの公的な機関による、明確または統一的な定義は確認されていない」としながらも、 「安楽死に至る方法として、積極的安楽死(英語:positive euthanasia , active euthanasia)と、消極的安楽死(英語:negative euthanasia , passive euthanasia)の二種類がある」という、方法について論述しているのみである。(出典:http://bit.ly/25qBHNm

人類の文明史を通覧しても、死というものは、辛くて 苦しいものだと思われてきたので、まず「安楽死」という用語は、撞着語法であることを私たちは確認しなければならない。そして、人類史のどの局面において も、この辛くて苦しい死の局面を避けるために、安楽な死に方への希求する思いが生じてきたものであろうことは、推測に難くない。したがって、安楽死の方法 を云々して、積極的/消極的と分類することは、誰がどのように死に至らしめる(=殺害の主体になる)のか?という重要な問題を隠蔽することに繋がり、安楽 死の本質的議論とは何の関係もないことを、まず指摘しておこう。

安楽死というのは、したがって、死が辛くて苦痛に満 ちたものであり、それを回避するために生まれてきた方法である(OEDの用法の第2番目)。これは、死に立ち合うひとが「死につつある人(dying person)」の苦痛に対して、当人の依頼あるいは忖度により、苦痛を緩和する方法(palliative method)を行使する方法でもある。その際に「〜死」を帰結することが分かっているわけであるので、ただ単に死ぬにまかせるのではなく、本人の死期を 早めたり、または死なない程度に苦痛を除いてあげるという「生命現象への介入」を何らかのかたちで意味している。したがって、死という帰結を伴う現場に居 合わせることで、安楽死ではなく、安楽殺(palliative killing)ということも可能である。とりわけ、健全あるいは病気の動物を人間がさまざまな理由(例:家畜の食肉利用のため、ペットが治癒不能な状態 にいて費用やケアをこれ以上かけないことを飼い主が希望していること)のために殺すことがあるが、これは典型的な安楽殺であるが、これは倫理的問題をクリ アすれば、人間にも使えるし、実際に「積極的安楽死」において使われている方法である。

今日において、安楽死が社会問題化しているのは、上 のOEDにおける3.のように、制度としてその行為をきちんと合法化できるかに関する、生命倫理的問題の解決と、それを裏打ちする法制度の整備である。こ れに関するさまざまな立場表明があるが、カソリック教会のように、生死に関して人為的な介入を禁じる生命の尊厳派から、功利主義的な考え方において、あら ゆるタイプの安楽死を容認すべきであり、そのための法整備は不可欠という立場まで、幅広い立場がある。これらの立場には、それを正当化する論理というもの があり、それぞれの立場の違いから論争をみることが多い。

安楽死が近代社会で容認される傾向がある理由は、明 快な説明はできないが、1)功利主義的生命観にもとづいて倫理要件を満たせばよいという思潮がつよくなってきたこと、2)「死につつある人(dying person)」の苦痛に対してその除痛目的の殺害に対して社会的容認がされるようになってきたこと、3)「死ぬ権利」という近代において生殺与奪の権利 を個人のものとしようとするトレンド、4)安楽死は医療資源の軽減にも寄与するという功利主義的な思潮の容認、などの複数の要因がからまって、大きなトレ ンドをなしていることは間違いがない。

医療技術の発展と、その発展は人間が成し遂げてきた という、脱神学的/世俗倫理的発想があり、そのことが安楽死をして、死を荘厳な神仏のものとせず、医療化(medicalization)のもとに死がおかれつつあること と無関係ではないだろう。

そのため、現在の安楽死(つまり安楽殺)の手法は、 致死量以上の麻薬の処方や、麻薬による沈静情況下あるいは(コーマ・スケールに従う)「刺激しても覚醒しない」レベルでの人工呼吸器等のスイッチ・オフで おこなわれる。そのため、現在の医療監視下における安楽死(つまり安楽殺)は、「医療支援による死(medically assisted death)」と呼ぶべきだという研究者もいる。

安楽死トレンド論への危惧の論理は、以下の3要素に まとめられよう。

1)良きパターナリズムと死の医療化の カップリング——現在の状況からの説明、2)2)安楽死を容認すると安直な「自殺幇 助」の適用が拡大する《ゲレンデ仮説》——自殺幇助の社会化の自動仮説、3)3)自殺誘導を忌避したいがために、逆 に、安楽死への(忌避)論理が逆にパターナリズムになっているのではないか?——自殺幇助のパターナリズムを批判するためにカウンセンリング受診制度をパ ターナリズム化するという「目的と手段の矛盾」

以下、個別に考えてみよう。

1.良きパターナリズムと死の医療化の カップリング

死というものが医学的コントロール可能になっている という状況を「常識」として、現在の死の医療化を容認した上で、感情論としての、臨死の患者の「苦しみ」を軽減させてあげたいという専門家の一方的な思い 込みではないか。これは、医師は患者の苦痛を助長に関わってはならないというヒポクラテスの誓詞という原則にも適うが、死を生命体にとって「最大の苦痛」 と定義すると、逆に、ヒポクラテスの誓詞(ないしはドグマ=教説)に反することになる。

2.安楽死を容認すると安直な「自殺幇助」の適用が 拡大する《ゲレンデ仮説》

自殺幇助に加担するだけでなく、医師の診療には患者 の保護と営利という2つの目的が混在するために、患者の言うことの「真意」の理解への努力を放棄し、本人の希望=自殺願望を営利のラインで判断するのでは ないか、つまり無反省に加速する——止まり方のしらない坂道のスキーヤーのように——のではないかという危惧

3.自殺誘導を忌避したいがために、逆 に、安楽死への(忌避)論理が逆にパターナリズムになっているのではないか?

医師とて、自殺誘導を避けたい、臨死患者のQOLを 維持したいという願望があるが、それは安楽死選択が最後のQOL選択であるという論理を導くことも可能である。でも、これは結果的に患者の自殺願望を承認 してしまい、終末期の命の価値を患者とともに対話する——たとえそれがパターナリズムに繋がらないとしても——責務を放棄することにつながる。

逆しまの世界(Roman d’Alexandre, Tournai ca. 1338-1344 (Bodleian Library, MS. Bodl. 264, fol. 94v))

安楽死で、大阪大学総合図書館のOpac 検索をした出力結果(日本語)95件。出版時期は1965年〜2015年——2016年2月23日

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文献


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