死の問題について
What is important for us to think about through the representation of the Xoloitzcuintli dog?
「方法とテクスト」という論考(『Co* Design』1:53-66.)は、私にとって完全に 失敗だったと思う。それを反映した予稿集も失敗作である。では、そこから立ち直るために私は何を考えることできるのか? それについて触れて、この発表を 終える。
"El pachuco y otros extremos" という章からはじまるオクタビオ・パス『孤独の迷宮(El laberinto de la soledad)』は1950年の出版以来、長く、メキシコ人およびメキシコ社会論だというふうに理解されてきた。1968年10月2日のトラテロルコの 悲劇(虐殺)によりインド大使を辞任したパスは翌年10月30日テキサス大学オースティン校でハケット記念講演に就く。それが『迷宮』の後書き (Postdata)になって加筆出版される。その中でこの書物は出版以来「メキシコなるものについての哲学」や「国民性」について議論されてきたが、そ うではないと彼は断言する[パス 1982:229]。自分の関心は、「我々」=メキシコ人は、自分の著作が示すものと言われてきたものが「仮面」であり、その背景に潜むものにあると、自 分自身へのこれまでの評価の方向性を訂正(=弁明)する。そして、そのような「仮面」は私たちを表現する一方で窒息もさせると警告する。パスのこの著作へ の論評と批判が的外れであり、そのような仮面の背景にあるものに関心があるとすれば、それは作者自身がその表象を生産しながらも常に反省的であろうとする ことであろう。パスは言う「メキシコらしさとは、本質ではなく、歴史である」と[パス 1982:229]。
私の先の研究ノートへの自己批判とは、そのような哲 学や仮面を私自身が再生産し、屋上屋を重ねようとしていたことである。それは古代アステカ人における「愛情と食欲」の奇妙な一致とその謎、パスも指摘した グロテスク趣味やネクロフィリア——この発表演題における「死の位相」もそのようなテーマの一環にある——の伝統に回帰させようとしたこと、そして、歴史 と出来事という時間軸を平板な年表の中に回収しようとしたこと、などである。
では、もっと重要な問題の所在はどこにあるのか? ——エスノヒストリーの原典資料が使われていない?ジェンダー論の観点がない?宗教的分析がない?図像論的分析がない?マヌエル・ブラボの有名な写真にも ショロ犬がいる?栄養学的分析はどうなっている?エコロジカルな分析は?新大陸の先住民表象にみられる両義性のテーマが論じられていない?歴史研究の実体 論者と構築主義の対立図式が整理されていない?など、論じられていないテーマを百科全書的にそして多角的に検証することなのだろうか?もちろん、そうでは あるまい。
オクタビオ・パスの「〜らしさとは、本質ではなく、 歴史である」という指摘の顰みに倣うと、日本においてラテンアメリカ研究をおこなうこの私と、その研究対象のあいだに横たわるクロノトポスの政治性に、私 が無自覚であったことだ。ラテンアメリカの文化研究者のなかにも十分に膾炙しているポストコロニアル研究から得られる批判の声に耳を傾けてみたい。
ヴァレンティン=イヴ・ムデンベ(Valentin
-Yves Mudimbe, 1941-
)は、彼の著作『アフリカの発明:グノーシス、哲学、知識の秩序』[1988]において、西洋がその(統一的なものを持ちえない)広大な地域をアフリカと
してまとめるために旅行記や滞在記、行政文書などに通底する哲学や認識論の総体が動員されてきたものをグノーシス(知恵)と呼んだ。エドワード・サイード
の言うところのオリエンタリズムを産みだしてきた知と権力の混成体のようなものである。アルゼンチン生まれの記号学者・思想家であるワルター・ミグノーロ
(Walter Mignolo, 1941- )は、それを表象される側(=被征服者)にもグノーシスが共有されており、北米のラグナ先住民の作家レスリー・マーモン・シルコ(Leslie
Marmon Silko, 1948- )の長編小説『死者の暦(The Almanac of the
Dead)』[1991]に登場する米墨国境を境にする図像と文字による不思議な500年間の暦【図版】を手がかりに、国境に住む先住民のクロノトポロジ
カルな知恵を「ボーダー・グノーシス」と名づけている[Mignolo
2000:10-11,25]。つまり、帝国/植民地の国境地において住まうことによる感じとられ知りえることが、ボーダー・グノーシスなの
である。
ラテンアメリカに関する社会文化政治に関する諸研究 は、植民地支配や帝国の中心地だったところからやってきた研究者と、現地の側の研究者、そして、植民地支配や帝国の中心地だったところでポストコロニアル な感覚を意識的/無意識的に身に付けた研究者、そして我々のように域外からそれらの知識人と交流しながら自分たちの言語で、そして他者のたちの言葉で、ラ テンアメリカという自己と他者の表象を紡いできた人たちによって担われている。これらの知識の権力配分のなかでもっとも周縁化されているのが(クロノトポ ロジカルにおける)ボーダーにいる人たちのグノーシス(知恵)であろう。それは、サバルタンたちの発語にも似て、常に権力の中心から科学的にあるいは政治 的に公正的に修正され正しく解釈づけられることを待っているからである。これらのグノーシスは二重の意味で疎外を被っている。
もちろん、それらの知識とて不変的なものではないだ ろう。またラテンアメリカから「遠く離れた」——現在ではグローバルな移民現象により隣の存在に私たちがいるかもしれないが——リモートなグノーシスを私 たちは相変わらず紡いでいるかもしれない。そのことに無自覚になり、つねに、自分たちの研究者、研究対象者あるいは研究の中心地つまりヘゲモニックな中枢 いると認識論的にワープできるというのも傲岸な考え方である。研究者として、ポストコロニアルになるというのは、研究対象がおかれたクロノトポスの政治性 に自覚的になるということであり、表象のナイーブな知的操作のことでない。ちょうど私が、ショロ犬の宇宙論的な位相(=冥界の主、死すべき運命、死から生 まれる生命など)は、メキシコ人におけるグロテスクなもの(=避け難い死)との共存(=和解)に表れていると、この研究の当初に感じたように……。つまり 本報告の前半は、地域研究の好事家的趣味(=蝶々収集)の議論からなんら脱却するものがなく、まるで研究というもののパロディであった。そして、それらが クロノトポロジカルな意味で不変だと現在でも私が考え続けているように……。
聴衆の諸兄諸姉にとっては前代未聞で迷惑な発表ではあろうが、文化研究においてやってはいけない最悪の例をここで示して、皆様にとっての躓きの石(=家屋の「隅のかしら石」:ペテロ第1 2:27)としてもらいたい。
クレジット:ショロイツクイントゥリ犬という表象を通して何を考えることが私たちにとって重
要であるのか? What is important for us to think about through the
representation of the Xoloitzcuintli dog?
リンク
文献
■クレジット:日本ラテンアメリカ学会第38回大会・分科会10文学と表象(21KOMCEE EAST 212)1100-1300,池田光穂「ショロイツクイントゥリ犬に関する語りとメキシコにおける死の位相」
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