毛沢東の戦略
On Mao Zedong's
revolutionary warcraft
strategy
解説:池田光穂
毛沢東(1893-1976)の 戦争理論において重要なものは、
という3点にまとめられるように思われ
る。毛沢東の戦術
は、近代戦争における合理性をゲリラ戦に持ち込んで、前近代的な義賊が醸し出す神話的イメージから「人民解放軍の合理主義的哲学」を産んだことが特色であ
る。すなわち軍事的な実践が革命戦士を育てるということであるが、それは同時に支援者からなる人民の海の自由に泳ぐ魚として表現される、神秘的なカモフ
ラージュにも彩られている。毛沢東自身もゲリラ戦争の経験を積むたびに、革命戦争と政治についての隠喩的表現が洗練されてゆくようになる。彼は詩人となっ
た不死身のロベスピエールと化する。
農村から都市への包囲戦の基本は、農村に おける貧農への「土地解放」戦術にある。井岡山の闘争(1928年11月25日)では「土地問題」つい て以下のように分析する。
省境地区の土地状況——大まかにいえば、土地の六〇パーセント以上が地主ににぎら れ、農民の手にあるものは四〇パーセント以下である。江西省方面では、土地がもっとも集中しているのは遂川県で、約八〇パーセントが地主のものである。永 新県がそれにつぎ、約七〇パーセントが地主のものである。万安県、寧岡県、蓮花県では自作農が比較的多いが、やはり地主の土地が多くて、約六〇パーセント をしめ、農民の土地は四〇パーセントしかない。湖南省方面では、茶陵、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県の両県とも約七〇パーセントの土地が地 主の手中にある。
中間階級の問題——さきにのべたような土地状況のもとでは、すべての土地を没収して再分配する〔17〕ことが、大多数の人びとの支持をう ける。しかし、 農村のなかは大体三つの階級、すなわち大・中地主階級、小地主・富農の中間階級、中農・貧農階級にわかれている。富農はたいてい小地主と利害が結びついて いる。富農の土地は、総土地面積のうちではすくない方であるが、小地主の土地とあわせると、かなり多いものになる。このような状態は、おそらく全国的にみ ても大差ないであろう。省境地区では、土地を全部没収し、徹底的に分配する政策をとっている。したがって、赤色地域では、豪紳階級も中間階級も、おなじよ うに打撃をこうむる。政策はそうであるが、実際にそれを実施したら、中間階級からひどく妨害をうけた。革命の初期には、中間階級は表面的には貧農階級に屈 服するが、実際には、以前からの社会的地位や同族主義を利用して、貧農をおどし、土地分配の時期をひきのばす。どうしてもひきのばせなくなると、土地の実 際の面積をごまかしたり、自分が肥えた土地をとって、人にはやせた土地をやる。貧農は長いあいだうちひしがれてきたし、また革命の勝利もたしかでないよう な気がして、この時期には、しばしば中間階級の意見をいれ、積極的な行動にふみきれない。県全体、さらには数県にわたって政権を手に入れ、反動軍隊を何回 かうちやぶり、赤軍が何回か威力を発揮するような革命の高まりがこなければ、農村で中間階級にたいする積極的な行動はおこらない。たとえば、永新県の南部 は、中間階級のもっとも多い地方で、土地分配のひきのばしや土地のごまかしがもっともひどかった。ここでは、六月二十三日に竜源口で赤軍が大勝利をおさめ たのち、さらに区政府が土地分配のひきのばしをやった人を何人か処分したので、やっと実際に分配がおこなわれるようになった。しかし、どこの県でも、封建 的な同族組織が非常に普遍的で、一村一姓、あるいは数村一姓のところが多く、比較的長い期間をかけなければ、村内の階級分化は完成されないし、同族主義も 克服されない。
白色テロ下の中間階級の寝がえり——中間階級は革命の高揚期に打撃をうけたので、白色テロがひとたびやってくると、たちまち寝がえりをう つ。反動軍隊を 手びきして永新県、寧岡県の革命的な農民の家をさかんに焼きはらったのは、この両県の小地主と富農であった。かれらは反動派の指示にしたがって、家を焼き はらい、人をつかまえたりして、なかなか勇ましかった。赤軍が二度目に寧岡、新城、古城《クーチョン》、[”龍”の下に”石”]市《ロンシー》一帯にやっ てきたとき、数千の農民は、共産党がかれらを殺すという反動派の宣伝を真にうけて、反動派について永新に逃げていった。われわれが「寝がえりをうった農民 を殺さない」、「寝がえりをうった農民が刈り入れに帰ってくるのを歓迎する」と宣伝したので、やっと一部の農民がそろそろ帰ってきた。
革命の全国的退潮期に、割拠地区のもっとも困難な問題は、中間階級をつかめないことである。中間階級が裏切るのは、革命によってあまりに もひどい打撃を うけたことがおもな原因である。しかし、革命が全国的に高揚していれば、貧農階級はよりどころができて勇気づけられ、中間階級もまたおそれをなして、勝手 なふるまいができなくなる。李宗仁と唐生智との戦争が湖南省へ発展してくると、茶陵県の小地主は農民に和解をもとめ、お歳暮に豚肉を贈ったものもいた(こ のとき赤軍はすでに茶陵県から撤退して遂川県にむかっていた)。李・唐間の戦争が終わると、もうそんなことは見られなくなった。現在、全国的に反革命が高 まっている時期なので、打撃をうけた中間階級は、白色地域内ではほとんど完全に豪紳階級についてしまい、貧農階級は孤立してしまった。この問題はきわめて 重大である〔18〕。
日常生活の圧迫による中間階級の寝がえり——赤色地区と白色地区とが敵対し、二つの敵対国ができている。敵の厳重な封鎖と、小ブルジョア 階級にたいする われわれの扱いかたの不手ぎわという、この二つの原因によって、二つの地区の貿易はほとんど完全にとだえ、食塩、綿布、くすりなどの日用必需品は欠乏し、 値段が高くなり、木材、茶、油類などの農産物は輸出できず、農民には現金収入の道が絶たれて、その影響は一般人民にまでおよんでいる。貧農階級はそれでも まだ、この苦しみにたえることができるが、中間階級はたえられなくなると、豪紳階級に屈服する。もし、中国で豪紳・軍閥の分裂と戦争がつづけられていず、 また全国的革命情勢が発展していないとすれば、小地区での赤色割拠は、経済的にきわめて大きな圧迫をうけ、割拠の長期的な存在は問題になってくるであろ う。なぜなら、このような経済的圧迫には、中間階級がたえられないばかりでなく、労働者、貧農および赤軍もたえられなくなるときがくるかもしれないからで ある。永新、寧岡両県では塩がなくなり、綿布、くすりは完全にこなくなり、その他のものはいうまでもない。現在、塩は買えるようになったが、値段はひどく 高い。綿布、くすりは依然としてない。寧岡県、永新県の西部、遂川県の北部(以上はいずれもいまの割拠地)の最大の産物である木材や茶や油類は、依然とし て運びだせないでいる〔19〕。
土地分配の基準——郷を土地分配の単位としている。山が多く、農地が少ない地方、たとえば永新県の小江《シァオチァン》区では、三つか四 つの郷を一つの 単位として分配したところもあるが、そういうところはきわめて少ない。農村では老若男女の別なくすべてに、均等に分配された。現在は党中央の規定にしたが い、労働力を基準とすることにあらため、労働できるものには労働できないものの二倍分を分配するようにした〔20〕。
自作農に譲歩する問題——これはまだ詳細には討議されていない。自作農中の富農は、生産力を基準にしてもらいたい、つまり働き手と資本 (農具など)の多 いものには、多く土地を分配してもらいたい、という要求をだしてきている。富農は、均等分配の方法も、労働力に応じた分配の方法も、どちらも自分たちに不 利だと考えている。かれらとしては、働き手の面では、いっそう努力するつもりがあり、それに資本の力がくわわると、自分たちはより多くの収穫をあげること ができる、と考えている。もし一般の人とおなじように分配されるならば、かれらの特別の努力と余分の資本とが無視される(なおざりにされる)ことになるの で、かれらはそれをのぞまない。ここでは、やはり党中央の規定にしたがって実施している。しかし、この問題はなお討議する必要があり、結論をえてからあら ためて報告する。
土地税——寧岡県では二〇パーセント徴収しており、党中央の規定より五パーセント多いが、いま徴収中なので変更するわけにもいかず、明年
あらためて引き
さげることにする。このほか、遂川、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県、永新各県の一部は割拠地域内にあるが、いずれも山地で農民はあまりにも
貧しいので、徴税するわけにはいかない。政府や赤衛隊の経費は、白色地域の土豪からの徴発に依存している。赤軍の給養については、米はいまのところ、寧岡
県の土地税のうちからとっているが、現金はやはり全部土豪からの徴発に依存している。十月には遂川県を遊撃して、一万余元を調達した。これで一時はまにあ
うので、つかってしまったときにまた方法を考えよう。
出典:http://www.geocities.jp/maotext001/maosen-1/maosen-1-109.html
軍事的には厳しい統制主義をとる。
赤軍第四軍が党中央の指示をうけてから、極端な民主化の現象はだいぶすくなくなっ た。たとえば、党の決議はわりあいよく実行されるようになった。赤軍内でいわゆる「下から上への民主集権制」とか、「まず下級に討議させ、それから上級で 決議せよ」とかいったことの実行を要求するあやまった主張をもちだすものは、もういなくなった。だが、実際には、このような減少も一時的な、表面的な現象 にすぎず、極端な民主化の思想が一掃されたのではない。つまり、極端な民主化の根が多くの同志の思想のなかにまだ深く食いこんでいる。たとえば、決議の実 行にあたって示されるさまざまなふしょうぶしょうの態度は、その証拠である。
是正の方法
(一)理論のうえで極端な民主化の根をとりのぞく。まず第一に、極端な民主化の危険は、党の組織を傷つけ、さらにそれを完全に破壊し、党 の戦闘力を弱 め、さらにそれを完全に壊滅させて、党が闘争の責任をおえないようにし、それによって革命の失敗をまねく、という点にあることを指摘しなければならない。 そのつぎには、極端な民主化の根源が小ブルジョア階級の自由放漫性にあることを指摘しなければならない。このような自由放漫性が党内にもちこまれると、政 治上、組織上の極端な民主化の思想になる。このような思想はプロレタリア階級の闘争任務と根本的に相いれないものである。
(二)組織のうえでは、集中的指導のもとでの民主的生活を厳格におこなう。その路線はつぎのとおりである。
1 党の指導機関は正しい指導路線をもち、問題があれば解決策をうちだす。こうすることによって、指導の中核を確立していく。
2 上級機関は下級機関の状況や大衆生活の状況をはっきりつかみ、それを正しい指導の客観的基礎とする。
3 党の各級機関は、問題を解決するにあたって、軽はずみにやってはならない。いったん決議となった以上は、断固として実行する。
4 上級機関の決議のうち、すこしでも重要なものは、すみやかに下級機関と党員大衆につたえなければならない。そのやりかたとしては、活動者会議をひら
くか、細胞会議ないし縦隊㈰の党員総会をひらくかして(条件がゆるすかどうかを見たうえで)、それに人をおくり、説明させることである。
5 党の下級機関や党員大衆は、上級機関の指示の意義を徹底的に理解し、その実行方法を決定するために、指示をくわしく討議する。
出典:http://www.geocities.jp/maotext001/maosen-1/maosen-1-140.html
また、アジテーションの天才的才能をもつ「小さな火花も広野を焼きつくす」http://www.geocities.jp/maotext001/maosen-1/maosen-1-153.html
さらに、軍事論的には、極めて慎重で確実な戦術をとる(中国革命戦争の戦略問題、1936年12月))
では、中国革命戦争の特徴はなにか。
わたしは、主要な特徴が四つあるとおもう。
第一の特徴は、中国が政治的、経済的発展の不均等な半値民地の大国であり、また、一九二四年から一九二七年までの革命をへていることであ る。
この特徴は、中国革命戦争に発展と勝利の可能性があることをしめしている。一九二七年の冬から一九二八年の春にかけて、中国の遊撃戦争が 発生してまもな く、湖南《フーナン》、江西《チァンシー》両省の省境地域——井岡《チンカンシャン》山の同志のなかの一部のものから、「赤旗はいったいいつまでかかげら れるか」という疑問がだされたとき、われわれはこのことを指摘した(党の湖南・江西省境地区第一回代表大会〔11〕)。なぜなら、これはもっとも基本的な 問題であり、中国の革命根拠地と中国赤軍が存在し発展しうるかどうかという問題にこたえなければ、われわれは一歩も前進することができなかったからであ る。一九二八年の中国共産党第六回全国代表大会では、もう一度この問題についてこたえた。それいらい、中国の革命運動は、正しい理論的基礎をもつように なった。
いま、この問題を分解して見ることにしよう。
中国の政治的、経済的発展が不均等であること——貧弱な資本主義的経済と根づよい半封建的経済が同時に存在しており、近代的な若干の商工 業都市と停滞し ている広大な農村が同時に存在しており、何百万かの産業労働者と古い制度の支配のもとにある何億もの農民、手工業労働者とが同時に存在しており、中央政府 を統轄している大軍閥と各省を統轄している小軍閥が同時に存在しており、反動軍隊のなかには、蒋介石配下のいわゆる中央軍と各省の軍閥配下のいわゆる雑軍 との、こうした二種類の軍隊が同時に存在しており、また若干の鉄道、航路、自動車道路と、いたるところにある一輪車しか通れない道、徒歩でしか通れない 道、徒歩でさえ通りにくい道とが同時に存在している。
中国は半植民地国であること——帝国主義の不統一が、中国の支配者集団のあいだの不統一をひきおこしている。いくつかの国が支配している 半植民地国と、 一国が支配している植民地とのあいだには、差異がある。
中国は大国であること——「東が暗くても西は明るく、南で消えても北で燃えている」のであるから、動きまわる余地がないなどと心配するこ とはない。
中国は大革命を一度へていること——赤軍の種子が用意されており、赤軍の指導者、すなわち共産党が用意されており、また革命に一度参加し たことのある民 衆が用意されている。
だから、われわれは、中国は革命を一度へた、政治的、経済的発展の不均等な半植民地の大国で、これが中国革命戦争の第一の特徴であるとい うのである。こ の時徴は、われわれの政治上の戦略と戦術とを基本的に規定しているばかりでなく、われわれの軍事上の戦略と戦術をも基本的に規定している。
第二の特徴は敵が強大なことである。
赤軍の敵である自民党は、どんな状況にあるのか。それは政権をうばいとっており、しかもその政権を相対的に安定させている政党である。そ れは全世界の主 要な反革命諸国の援助をえている。それは、すでに自己の軍隊を、中国の歴史上のどの時代の軍隊とも異なった、世界の近代国家の軍隊とほぼおなじものに改造 しており、武器やその他の軍需物資の供給が、赤軍よりずっとまさっているばかりでなく、兵員の多い点でも、中国の歴史上のどの時代の軍隊をもしのぎ、世界 のどの国家の常備軍をもしのいでいる。その軍隊と赤軍をくらべると、じつに雲泥の差がある。国民党は全中国の政治、経済、交通、文化等の中枢あるいは命脈 をにぎっており、その政権は全国的な政権である。
中国の赤軍は、このような強大な敵を前にしている。これが中国革命戦争の第二の特徴である。この特徴は、赤軍の作戦が戦争一般や、ソ連の 国内戦争や、北 伐戦争とも多くのちがいをもたざるをえないようにしている。
第三の特徴は赤軍が弱小なことである。
中国の赤軍は、第一次大革命が失敗したのちにうまれ、遊撃隊からはじまったものである。それは、中国の反動的時期におかれていたばかりで なく、また、世 界の反動的資本主義諸国が、政治的、経済的に比較的安定した時期におかれていた。
われわれの政権は、山地あるいは僻地《へきち》にある分散し孤立した政権であり、いかなる外部からの援助もない。革命根拠地の経済的条件 と文化的条件 は、国民党地区にくらべるとおくれている。革命根拠地には農村と小さな町しかない。その地区は、はじめは非常に小さかったし、その後も、そう大きくなって はいない。しかも根拠地はつねに流動しており、赤軍にはほんとうに強固な根拠地はない。
赤軍の数はすくなく、その武器はおとっており、食糧、被服などの物資の供給は非常に困難である。
この特徴は、前にあげた第二の特徴とするどい対照をなしている。赤軍の戦略戦術は、こうしたするどい対照の上にうまれたのである。
第四の特徴は、共産党の指導と土地革命である。
この特徴は、第一の特徴の必然的な結果である。この特徴から、二つの面の状況がうまれている。一つの面では、共産党の指導と農民の援助が あるので、中国 革命戦争は、中国および資本主義世界の反動的時期におかれてはいても、勝利できるものである。われわれには農民の援助があるので、根拠地は小さいながらも 大きな政治的威力をもっており、膨大な国民党政権に厳然と対立し、国民党の進攻にたいして、軍事上大きな困難をあたえている。共産党の指導のもとにある赤 軍の成員は、土地革命のなかからうまれ、自分たちの利益のために戦っており、しかも、指揮員と戦闘員のあいだが政治的に一致しているので、赤軍は小さいな がらも、強大な戦闘力をもっているのである。
もう一つの面では、自民党がこれとするどい対照をなしていることである。自民党は土地革命に反対しているので、農民の援助がない。その軍 隊は多いが、兵 士大衆、小生産者出身の多くの下級幹部たちに、みずからすすんで国民党のために命をなげださせるようにすることはできない。将校と兵士のあいだは政治的に くいちがっており、これがその戦闘力をよわめている。
出典:http://www.geocities.jp/maotext001/maosen-1/maosen-1-274.html
戦略論として、反「包囲討伐」という手法 を堅持する。
十年このかた、遊撃戦争がはじまったその日から、どの独立の赤色遊撃隊、あるいは赤軍でも、またどの革命根拠地でも、その周囲では、い つも敵の「包囲討伐」にであった。敵は赤軍を怪物とみなして、あらわれるとすぐにつかまえようとする。数はいつも赤軍をつけまわし、とりかこもうとする。 このような形態は、過去十年間、変わっていず、もし、民族戦争が国内戦争にとってかわらないなちは、敵が弱小となり、赤軍が強大となるその日まで、このよ うな形態はやはり変わることはない。
赤軍の活動は、反「包囲討伐」の形態をとっている。勝利というのは、主として反「包囲討伐」の勝利をいうのであり、これが、戦略と戦 役での勝利である。 一回の反「包囲討伐」が一つの戦役であって、それは通常大小いくつかの、ないし数十の戦闘からなりたっている。一回の「包囲討伐」を基本的にうちやぶらな いかぎり、たとえ多くの戦闘で勝利をえたとしても、戦略上あるいは全戦役上で勝利したとはいえない。十年間の赤軍の戦争の歴史は、反「包囲討伐」の歴史で あった。
敵の「包囲討伐」と赤軍の反「包囲討伐」は、たがいに進攻と防御という二種類の戦闘形態をとっており、これは、古今東西のあらゆる戦 争と変わりはない。 だが、中国の国内戦争の特徴は、この二つの形態が長期にわたってくりかえされることにある。一回の「包囲討伐」において、敵は進攻をもって赤軍の防御にた ちむかい、赤軍は防御をもって敵の進攻にたちむかう、これが反「包囲討伐」戦役の第一段階である。敵が防御をもって赤軍の進攻にたちむかい、赤軍が進攻を もって敵の防御にたちむかう、これが反「包囲討伐」戦役の第二段階である。いずれの「包囲討伐」にもこの二つの段階があり、しかも、それは長期にわたって くりかえされるのである。
長期間のくりかえしとは、戦争と戦闘形態のくりかえしのことをいう。これは事実であって、だれにも一目ですぐわかることである。「包 囲討伐」と反「包囲 討伐」は、戦争形態のくりかえしである。敵が進攻をもってわれわれの防御にあたり、われわれが防御をもって敵の進攻にあたる第一段階と、敵が防御をもって われわれの進攻にあたり、われわれが進攻をもって敵の防御にあたる第二段階とは、毎回の「包囲討伐」のなかでの戦闘形態のくりかえしである。
戦争と戦闘の内容となると、それは単純にくりかえされるものではなく、毎回ちがうものである。このこともまた事実であって、だれにも 一目ですぐわかるこ とである。ここでの法則は、「包囲討伐」と反「包囲討伐」の規模が一回ごとに大きくなり、状況も一回ごとに複雑となり、戦闘も一回ごとにはげしくなること である。
しかし、それに起伏がないわけではない。五回目の「包囲討伐」ののちは、赤軍の力がひどくよわまり、南方の根拠地が全部失われ、赤軍 が西北にうつり、南 方にいたときのように、国内の敵を脅かすもっとも重要な地位をしめなくなったので、「包囲討伐」の規模と状況と戦闘は、わりあいに、小さくなり、単純にな り、緩和してきた。
赤軍の失敗とは何か。戦略上からいえば、反「包囲討伐」が根本的に成功しなかったばあいにだけ失敗といえるのであって、しかも、それ は、局部的な、一時 的な失敗だとしかいえない。なぜなら、国内戦争の根本的な失敗とは、赤軍全体の壊滅ということであるが、そのような事実はないからである。広大な根拠地の 喪失と赤軍の移動は、一時的な、局部的な失敗であって、その局部には、党と軍隊と根拠地の九〇パーセントがふくまれてはいたが、永久的な、全面的な失敗で はない。このような事実を、われわれは防御の継続とよび、敵の追撃を進攻の継続とよぶのである。これはつまり、「包囲討伐」と反「包囲討伐」の闘争におい て、われわれが防御から進攻に転ずることがなく、逆に、敵の進攻によって、われわれの防御がうちやぶられたので、われわれの防御は退却に変わり、敵の進攻 は追撃に変わったということである。だが、赤軍が新しい地区に到達したとき、たとえば、われわれが江西省などの地方から陝西省にうつってきたとき、「包囲 討伐」のくりかえしが、ふたたびあらわれた。だからわれわれは、赤軍の戦略的退却(長征)は、赤軍の戦略的防御の継続であり、敵の戦略的追撃は、敵の戦略 的進攻の継続であるというのである。
中国の国内戦争は、古今東西のどの戦争ともおなじように、基本的な戦闘形態には攻撃と防御の二種類しかない。中国の国内戦争の特徴 は、「包囲討伐」と反 「包囲討伐」の長期にわたるくりかえしと、攻撃と防御というこの二種類の戦闘形態の長期にわたるくりかえしであり、しかも、そのなかには、一万余キロにお よぶ偉大な戦略的移動(長征)〔14〕というようなものがふくまれている。
敵の失敗というのも、こうしたものである。かれらの戦略的失敗とは、かれらの「包囲討伐」がわれわれにうちやぶられ、われわれの防御 が進攻に変わり、敵 が防御の地位に転じて、もう一度「包囲討伐」をするには、あらためて組織しなおさなければならないことである。敵は全国的な支配者であり、われわれより ずっと強大であるから、われわれのような一万余キロの戦略的移動というような状況はおこらない。しかし、部分的にはそういうことがあった。若干の根拠地で 赤軍から包囲攻撃をうけた白色拠点内の敵が、その包囲を突破して、白色区に退却し、そこであらためて進攻を組織しなおすというようなことはおきたことがあ る。もし、国内戦争が長びき、赤軍の勝利する範囲がいっそう拡大したときには、このようなことは多くなるだろう。だが、かれらには人民の援助がなく、将校 と兵士とのあいだも一致していないから、その結果は赤軍とくらべることはできない。かれらがもし赤軍の長距離移動をまねるならば、きっと消滅されてしまう にちがいない。
一九三〇年の李立三路線の時期に、李立三同志は、中国の国内戦争の持久性がわからなかったので、中国の国内戦争が発展するなかで、 「包囲討伐」につぐ 「包囲討伐」、それにたいする粉砕につぐ粉砕という、長期にわたるくりかえしの法則(当時、すでに湖南・江西辺区の三回にわたる「包囲討伐」、福建《フー チェン》省の二回にわたる「包囲討伐」などがあった)をみいだせなかった。したがって、全国の革命を急速に勝利させようとはかり、赤軍がまだ幼少であった 時期に、武漢攻撃を命令し、全国で武装蜂起をおこなうことを命令した。これで「左」翼日和見主義のあやまりをおかしたのである。
一九三一年から一九三四年にあらわれた「左」翼日和見主義者も、「包囲討伐」のくりかえしというこの法則を信じなかった。湖北《フー ペイ》・河南《ホー ナン》・安徽《アンホイ》辺区根拠地では、いわゆる「補助軍」説がうまれた。ここの一部の指導的な同志は、三回目の「包囲討伐」に失敗したのちの国民党 は、補助軍にすぎなくなったので、赤軍を攻撃するには、帝国主義がみずから出馬して主力軍を担当するほかないと考えた。こうした評価のもとでの戦略方針 が、赤軍の武漢攻撃であった。このことは、江西省の一部の同志が赤軍に南昌《ナンチャン》攻撃をよびかけ、各根拠地を一つにつなぐ活動に反対し、敵をふか く誘いいれる作戦に反対し、省都および中心都市の奪取をその省での勝利の基点にしたこと、および「五回目の『包囲討伐』に反対する闘争は、革命の道と植民 地の道との決戦である」とみなしたことなどと、原則的に一致するものである。この「左」翼日和見主義は、湖北・河南・安徽辺区の四回目の「包囲討伐」に反 対する闘争と江西省中央地区の五回目の「包囲討伐」に反対する闘争におけるあやまった路線の根をつちかうことになり、敵のきびしい「包囲討伐」を前にし て、赤軍を手も足もだせない状態に追いこみ、中国革命に非常に大きな損失をもたらした。
「包囲討伐」のくりかえしを認めない「左」翼日和見主義と直接結びついて、赤軍はどうあっても防御手段をとるべきではないという意見 もあるが、これもま た、まったくあやまりである。
革命と革命戦争は進攻的である——このようないいかたには、もちろんそれなりの正しさがある。革命と革命戦争が、発生から発展へ、小 から大へ、政権をも たない状態から政権の奪取へ、赤軍のない状態から赤軍の創設へ、また革命根拠地のない状態から革命根拠地の創設へとすすむには、どうしても進攻的でなけれ ばならない。保守的であってはならず、保守主義の偏向には反対すべきである。
革命と革命戦争は進攻的ではあるが、また防御も後退もある——こうしたいいかたこそが完全に正しいのである。進攻のための防御、前進 のための後退、正面 へのための側面へ、直進のための迂回《うかい》、このようなことは、多くの事物の発展過程でさけることのできない現象であり、まして、軍事行動ではなおさ らのことである。
以上のべた二つの論断のうち、まえの論断は、政治のうえでいえば正しいことにもなるが、それを軍事のうえにもってくるとまちがいにな る。政治のうえで も、それはある状況のとき(革命が前進するとき)にだけ正しいのであって、他の状況(革命が退却するとき、たとえば一九〇六年のロシア〔15〕、一九二七 年の中国のような全面的退却のとき、また一九一八年のブレスト条約当時のロシア〔16〕にのような局部的退却のとき)にもってくるとまちがいになる。あと の方の論断だけが、全面的に正しい真理である。一九三一年から一九三四年までの「左」翼日和見主義が、軍事的防御手段をとることに機械的に反対したこと は、非常に幼稚な考えにすぎない。
「包囲討伐」のくりかえしという形態は、いつ終わるのか。わたし の考えでは、もし国内戦争が長びくとすれば、それは敵と味方の強弱の対比に根本的な変化 がおきたときである。もし赤軍がひとたび敵よりいっそう強大になったときには、こういうくりかえしは終わりをつげてしまう。そのときには、われわれが敵を 包囲討伐し、敵は反包囲討伐をくわだてることになるが、しかし政治的、軍事的な条件は、敵に赤軍とおなじような反「包囲討伐」の地位をしめることをゆるさ ないだろう。そのときになれば、「包囲討伐」のくりかえしという形態は、たとえ完全に終わったとはいえなくても、一般的に終わったということは断言してよ い。
出典:http://www.geocities.jp/maotext001/maosen-1/maosen-1-
280.html
中国共産党の軍事的な強さを造ったのは、
強大な敵であった、旧・日本陸軍であるとも言える。毛沢東は、中国国内においてゲリラ戦争を定着するさ
せるために、日本軍の強さと、それへの対処作戦を冷静に分析している。
抗日遊撃戦争の戦略問題 1938年5月 (『毛沢東』選集第二巻、三一書房、1957)[→電 子テキストへのリンク]
「暴力は国際関係においてしだいに疑わし くて確実とはいえない道具になってきたが、国内問題では、とくに革命においては、評判と魅力を 獲得する にいたっている。新左翼の強烈なマルクス主義的レトリックは、毛沢東が宣言した「権力は銃身から生じる」というまったく非マルクス主義的な確信 の着実な成長とぴったり符合する。たしかにマルクスは歴史における暴力の役割に気が ついていたが、しかしこの役割はかれにとっては第二義的なも のであった。古い社会の終鷲をもたらすのは暴力ではなくて、その社会に内在するもろもろの矛盾なのだ。新しい社会が姿をあらわすに先立って暴動 が起こるとしても、暴動が新しい社会の登場の原因ではない。それは、出産に先立って陣痛がくるとしても、陣痛が出産の原因ではないのと同じ こと である。同様に、マルクスは、国家を支配階級の意のままになる暴力の道具とみなしたが、支配階級の実際の権力は暴力からなるとか暴力に依拠して いると考えたのではない。その権力は支配階級が社会のなかで果たす役割によって、もっと正確にいえば、生産過程における支配階級の役割によって 規定されるとしたのだ」(アーレント, p.105)。
"The urban guerrilla, however, differs radically from the criminal. The criminal benefits personally from his actions, and attacks indiscrimminately without distinguishing between the exploiters and the exploited, which is why there are so many ordinary people among his victims. The urban guerrilla follows a political goal, and only attacks the government, the big businesses and the foreign imperialists." - Carlos Marighella
「しかし、都市ゲリラは犯罪者とは根本的
に異なる。犯罪者は自分の行動から個人的に利益を得ており、搾取者と被搾取者を区別することなく無差別に攻撃する。都市ゲリラは政治的な目標に従い、政
府、大企業、外国の帝国主義者だけを攻撃する。」——カルロス・マリゲーラ
リンク
文献
その他の情報