権力概念の考察
Studing on productive power
Painted sabotage of Otto Dix.” Page from the programme (Ausstellungsführer) for "Degenerate Art"
権力(power) とは、あらゆる意味での強制力のことであ る。権力を物理的諸力(=暴力)と区別してはならない。なぜなら、西洋 語の権力はすべて英語のパワーに他ならないからだ——もちろん政治権力(political power)という狭い言い方も存在する(→「権力」)。
このことは、ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』第1篇、第3章にある。カール・シュミットは次のように簡潔にまとめる。「力は物理 的権力であるし、強盗の発射するピストルもまた権力である」(シュ ミット『政治神学』田中浩ら訳、26ページ)。
一般的な権力の用語法は我々のいうところの、政 治的権力であり、しばしば「抑圧的権力(opprestive power)」と呼ばれるものである(→それの対抗概念は、ミッシェル・フーコーの「生産的権力」)。
★冒頭の絵の説明
「オッ トー・ディックスの絵画による妨害行為」 1937年にミュンヘンで初めて開催された美術展「退廃芸術」のプログラム(Ausstellungsführer)のページ。来場者ガイドは、フリッ ツ・カイザーによって執筆され、Verlag für Kultur- und Wirtschaftswerbung(1926年から1945年の間、ナチス党の宣伝中央本部であったNSDAPの文化局)から出版された。このパンフ レットは、1938年に展覧会がベルリン(2月26日から5月8日までベルリン美術館で開催)をはじめとする他の都市を巡回した際に発行された。著作権上 の制約は知られていない。退廃芸術展(ドイツ語:Die Ausstellung 「Entartete Kunst」)は、1937年7月19日から11月30日までミュンヘンでアドルフ・ジーグラーとナチス党によって開催された。この展覧会では、ドイツ国 内の美術館から没収した650点の美術品が展示され、同時期に開催されていた「ドイツ美術展」と対照的な内容となっていた。退廃芸術とは、「ドイツ人の感 情を侮辱し、自然な形を破壊または混乱させ、あるいは単に適切な手作業や芸術的技術の欠如を露呈する」作品と定義された。数ヶ月後にはベルリンで、その後 ライプツィヒ、デュッセルドルフ、ワイマール、ハレ、ウィーン、ザルツブルクでも退廃芸術展が開催され、さらに100万人もの人々が訪れた。
“Painted
sabotage of Otto Dix.” Page from the programme (Ausstellungsführer) for
"Degenerate Art", an art exhibition first shown in München 1937. The
visitor's guide was written by Fritz Kaiser and published by Verlag für
Kultur- und Wirtschaftswerbung for the Amtsleitung Kultur of the
Reichspropagandaleitung der NSDAP, the Nazi Party's propaganda central
office in Germany 1926–1945. The brochure was published in 1938 when
the exhibition went on tour to Berlin (shown in Kunsthalle Berlin from
26 February to 8 May) and other cities until 1941. No known copyright
restrictions. The Degenerate Art Exhibition (German: Die Ausstellung
"Entartete Kunst") was organized by Adolf Ziegler and the Nazi Party in
Munich from 19 July to 30 November 1937. The exhibition presented 650
works of art, confiscated from German museums, and was staged in
counterpoint to the concurrent Great German Art Exhibition. Degenerate
art was defined as works that "insult German feeling, or destroy or
confuse natural form or simply reveal an absence of adequate manual and
artistic skill". Another Degenerate Art Exhibition was hosted a few
months later in Berlin, and later in Leipzig, Düsseldorf, Weimar,
Halle, Vienna and Salzburg, to be seen by another million or so people.
★抑圧的権力の3社会要素
それらの3要素が目的とする5つの機能
生命に介入するテクノロジー行使によって実現させられる権力
その背景にある理念
●暴力について
私が与える暴力の定義とは、「人を従属させる破壊的な強制力のこと」である。〈従属させる強 制力〉すなわち〈暴力〉の帰結とは、動産の破壊、人間や 動物の殺傷などがある。このために、人は暴力の被害が被らないように、命乞いのように懇願したり、(因果関係の認識として)謝る必要のない謝罪を口にす る。通常は、暴力概念は権力の発露として捉えることができるが(→「ソレルの暴力論」を参照)、以下の、ハンナ・アーレントの暴力概念は、そのように捉え ない特異的な解釈なので、注意が必要である。暴力の反対語は、ある意味空間(A)においては、非暴力であり、非暴力が含意するものは、誰でも想像がつくよ うに「平和」である。他方、「人を従属させる非破壊的な強制力」としての「権威」を暴力に対峙するもの、つまり反対語/反対概念とみなす立場もある。それ が、ハンナ・アーレントの暴力概念であり、この概念は、アーレントが影響を受けた夫ハインリッヒ・ブリュッヒャーとヴァルター・ベンヤミンの影響を受けて いるものと、私(池田)は考えている(→「暴力:その定義」)。
■フーコーの権力概念——生産的権力論
「私は、権力関係の新たなエコノミーをさ
らに推し進めるための別の方法を提案したい。それは、より経験的で、より直接的に現在の状況に関連しており、理論と
実践の間のより多くの関係を暗示するものである。それは、さまざまな権力形態に対する抵抗の形態を起点とするものである。別のメタファーを用いるなら、こ
の抵抗
を化学反応における触媒として利用し、権力関係を明らかにし、その位置を特定し、その適用点と使用される手法を見つけ出すことである。権力をその内部の合理性という観
点から分析するのではなく、権力関係を戦略の対立を通じて分析することである。権力行使の定義に戻ろう。それは、ある行動が他の可能な行動
の領域を構造化
する方法である。したがって、権力関係にふさわしいのは、行動に対する行動様式である。つまり、権力関係は社会の結びつきに深く根ざしており、社会の上に
再構成されることはない。社会の上に再構成されることは、おそらく根本的な消滅を夢見ることができる補足的な構造としてではない。いずれにせよ、社会で生
きるということは、他の行動に対する行動が可能であるように生きるということであり、実際、進行中である。権力関係のない社会は、抽象的な
ものにすぎな
い。これは、特定の社会における権力関係の分析、その歴史的形成、強さや脆さの源泉、一部を変革したり、他を廃止したりするために必要な条件を、より政治
的に必要とするものである。権力関係のない社会はありえないとい
う主張は、確立された権力関係が必然であるとか、あるいは、いかなる場合でも権力が社会の
中心に宿命として存在し、それを弱めることができないという主張ではない。むしろ、権力関係の分析、精査、そして権力関係と自由の非直線性との間の「対
立」を問題視することは、あらゆる社会的存在に内在する永続的な政治的課題であると言えるだろう。実際、権力関係と闘争の戦略の間には、相互に惹きつけ合
い、絶え間なく結びつき、そして絶え間なく反転し合うという関係がある。権力関係は、つねに二つの敵対者間の対立となる可能性がある。同様に、社会におけ
る敵対者間の関係は、つねに権力のメカニズムが作動する余地がある。この不安定さの結果、同じ出来事や同じ変容を、闘争の歴史の内側から、あるいは権力関
係の観点から解読できる能力が生まれる。その結果生じる解釈は、同じ歴史的背景を参照しているとはいえ、同じ意味の要素や同じつながり、同じ種類の理解可
能性から構成されるものではない。また、2つの分析はそれぞれ、もう一方を参照していなければならない。実際、2つの解釈の相違こそが、多数の人間社会に
存在する「支配」の根本的な現象を明らかにするのである。」
The Subject and
Power [pdf]
with password Michel Foucault Critical Inquiry 8 (4):777-795 (1982) Copy BIBTEX Abstract I would like to suggest another way to go further toward a new economy of power relations, a way which is more empirical, more directly related to our present situation, and which implies more relations between theory and practice. It consists of taking the forms of resistance against different forms of power as a starting point. To use another metaphor, t consists of using this resistance as a chemical catalyst so as to bring to light power relations, locate their position, and find out their point of application and the methods used. Rather than analyzing power from the point of view of its internal rationality, it consists of analyzing power relations through the antagonism of strategies.[…]Let us come back to the definition of the exercise of power as a way in which certain actions may structure the field of other possible actions. What, therefore, would be proper to a relationship of power is that it be a mode of action upon actions. That is to say, power relations are rooted deep in the social nexus, not reconstituted "above" society as a supplementary structure whose radical effacement one could perhaps dream of. In any case, to live in a society is to live in such a way that action upon other actions is possible-- and in fact ongoing. A society without power relations can only be an abstraction. Which, be it said in passing, makes all the more politically necessary the analysis of power relations in a given society, their historical formation, the source of their strength or fragility, the conditions which are necessary to transform some or to abolish others. For to say that there cannot be a society without power relations is not to say either that those which are established are necessary or, in any case, that power constitutes a fatality at the heart of societies, such that it cannot be undermined. Instead, I would say that the analysis, elaboration, and bringing into question of power relations and the "agonism" between power relations and the instransitivity of freedom is a permanent political task inherent in all social existence.[…]In effect, between a relationship of power and a strategy of struggle there is a reciprocal appeal, a perpetual linking and a perpetual reversal. At every moment the relationship of power may become a confrontation between two adversaries. Equally, the relationship between adversaries in society may, at every moment, give place to the putting into operation of mechanisms of power. The consequence of this instability is the ability to decipher the same events and the same transformations either from inside the history of struggle or from the standpoint of the power relationships. The interpretations which result will not consist of the same elements of meaning or the same links or the same types of intelligibility, although they refer to the same historical fabric, and each of the two analyses must have reference to the other. In fact, it is precisely the disparities between the two readings which make visible those fundamental phenomena of "domination" which are present in a large number of human societies.Michel Foucault has been teaching at the Collège de France since 1970. His works include Madness and Civilization , The Birth of the Clinic , Discipline and Punish , and History of Sexuality , the first volume of a projected five-volume study |
主題と権力 ミシェル・フーコー クリティカル・インクワイアリー 8 (4):777-795 (1982) BIBTEXのコピー 要約 私は、権力関係の新たなエコノミーをさらに推し進めるための別の方法を提案したい。それは、より経験的で、より直接的に現在の状況に関連しており、理論と 実践の間のより多くの関係を暗示するものである。それは、さまざまな権力形態に対する抵抗の形態を起点とするものである。別の比喩を用いるなら、この抵抗 を化学触媒として利用し、権力関係を明らかにし、その位置を特定し、その適用点と使用される手法を見つけ出すことである。権力をその内部の合理性という観 点から分析するのではなく、権力関係を戦略の対立を通じて分析することである。権力行使の定義に戻ろう。それは、ある行動が他の可能な行動の領域を構造化 する方法である。したがって、権力関係にふさわしいのは、行動に対する行動様式である。つまり、権力関係は社会の結びつきに深く根ざしており、社会の上に 再構成されることはない。社会の上に再構成されることは、おそらく根本的な消滅を夢見ることができる補足的な構造としてではない。いずれにせよ、社会で生 きるということは、他の行動に対する行動が可能であるように生きるということであり、実際、進行中である。権力関係のない社会は、抽象的なものにすぎな い。これは、特定の社会における権力関係の分析、その歴史的形成、強さや脆さの源泉、一部を変革したり、他を廃止したりするために必要な条件を、より政治 的に必要とするものである。権力関係のない社会はありえないという主張は、確立された権力関係が必然であるとか、あるいは、いかなる場合でも権力が社会の 中心に宿命として存在し、それを弱めることができないという主張ではない。むしろ、権力関係の分析、精査、そして権力関係と自由の非直線性との間の「対 立」を問題視することは、あらゆる社会的存在に内在する永続的な政治的課題であると言えるだろう。実際、権力関係と闘争の戦略の間には、相互に惹きつけ合 い、絶え間なく結びつき、そして絶え間なく反転し合うという関係がある。権力関係は、つねに二つの敵対者間の対立となる可能性がある。同様に、社会におけ る敵対者間の関係は、つねに権力のメカニズムが作動する余地がある。この不安定さの結果、同じ出来事や同じ変容を、闘争の歴史の内側から、あるいは権力関 係の観点から解読できる能力が生まれる。その結果生じる解釈は、同じ歴史的背景を参照しているとはいえ、同じ意味の要素や同じつながり、同じ種類の理解可 能性から構成されるものではない。また、2つの分析はそれぞれ、もう一方を参照していなければならない。実際、2つの解釈の相違こそが、多数の人間社会に 存在する「支配」の根本的な現象を明らかにするのである。ミシェル・フーコーは1970年よりコレージュ・ド・フランスで教鞭をとっている。著書に『狂気 と文明』、『臨床の誕生』、『監獄の誕生』、『性の歴史』などがある。『性の歴史』は5巻からなる研究計画の第1巻である。 |
https://philpapers.org/rec/FOUTSA |
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★統治性、論文
◆ 権力と言説
From left to right; Jean-Jacques Rousseau, Ernst Jünger and Carl Schmitt, and Hannah Arendt
一方に権力の言説があり、そ れに対峙して、他方に権力に対 抗するもうひとつの言説があるのではない。
言説は、力関係の場における 戦術的な要素あるいは塊であ る。
同じ一つの戦略の内部で、相 異なる、いや矛盾する言説すら あり得る。反対に、それらの言説は、相対立する戦略の間で姿を変えることなく循環することもあり得る。
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これらの言説に問いかけねばならぬのは、二つのレベルにおいて であり、それはこれらの言説の戦術的生産性(権力と知とのいかなる相互作用をそれは保証しているのか)と、その戦略的統合(いかなる局面、いかなる力関係 が、その時生ずる様々な対決のかくかくの情景においてこれらの言説の使用を必要たらしめているのか)なのである。
M・フーコー(渡辺守章訳)『知への意志』新潮社、 p.131、1986年
★政 治学における「権力」(Power (social and political))(→「権力」に移転)
★リンク
★文献
★その他の情報
“Painted sabotage of Otto Dix.” Page from the programme (Ausstellungsführer) for "Degenerate Art", an art exhibition first shown in München 1937. The visitor's guide was written by Fritz Kaiser and published by Verlag für Kultur- und Wirtschaftswerbung for the Amtsleitung Kultur of the Reichspropagandaleitung der NSDAP, the Nazi Party's propaganda central office in Germany 1926–1945. The brochure was published in 1938 when the exhibition went on tour to Berlin (shown in Kunsthalle Berlin from 26 February to 8 May) and other cities until 1941. No known copyright restrictions. The Degenerate Art Exhibition (German: Die Ausstellung "Entartete Kunst") was organized by Adolf Ziegler and the Nazi Party in Munich from 19 July to 30 November 1937. The exhibition presented 650 works of art, confiscated from German museums, and was staged in counterpoint to the concurrent Great German Art Exhibition. Degenerate art was defined as works that "insult German feeling, or destroy or confuse natural form or simply reveal an absence of adequate manual and artistic skill". Another Degenerate Art Exhibition was hosted a few months later in Berlin, and later in Leipzig, Düsseldorf, Weimar, Halle, Vienna and Salzburg, to be seen by another million or so people.
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099Copyleft,
CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099