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ミッシェル・フーコーの2つの権力論

On Michel Foucaut's Power and Bio-Power

解説:池田光穂


ミッシェル・フーコー権力論(主に前期から中期の)における4つの諸相

1.言説編制体を経由した権力の行使:社会の権力行使のタイプ

2.系譜学的アプローチを使った「権力の意味理解」への反省:権力への系譜学的探究

3.権力行使を微視的に観察するミクロロジーという方法:権力行使の分析法

4.身体を規格・規範化を通して「従順な身体」へと構成すること:身体を統治する


フーコー権力論(後期あるいは晩年)における権力論(→生産的権力論/バイオパワー)

権力そのものの生産性に着目する。つまり、権力制度の元に置かれる人々も、自らも外部からの指示に応じて、あるいは、それに抵抗して自分の行為や思念を組 み替えることがある。

「権力というものを、否定と拒否と排除の メカニズムの総体だと考えてはならないことを想起する必要があります。権力は実際 に、作りだす力をもつ ものなのです」(フーコー2008[June, 1975]:30)■出典:ミッシェル・フーコー『私は花火師です』中山元訳、筑摩 書房、2008年

ミッシェル・ フーコー権力論(主に前期から中期の)における4つの諸相

1.言説編制体を経由した権力の行使:社会の権力行使のタイプ

2.系譜学的アプローチを使った「権力の意味理解」への反省:権力への系譜学的探究

3.権力行使を微視的に観察するミクロロジーという方法:権力行使の分析法

4.身体を規格・規範化を通して「従順な身体」へと構成すること:身体を統治する

権力について考えるフー コー『知への意志』ノートアイデンティティと生き方ミッシェル・フーコー監視と処罰=監獄の誕生///

医療における権力論の研究は、ミッシェル・フーコー(Michel Foucault, 1926-1984)の、生−権力統治性の 議論が登場して根本的な変化を 遂げました。それまで、医療について考えられてきた権力像は、患者をコントロールするむき出しの力、患者をモルモットにす る服従を強制する権力というのが定番でした。今でも、このような権力論の図式にのっかって、「医者は権力を行使するからリベラルでなければならない」「医 師の権力は神聖」(→医療聖職論)ということを主張する主に高齢者を中心としたお目出度いオールド・リベラストの方々がおられます。

ところが、権力の作用の多様なあり方や、統治性(governmentality)に かんする フーコーの議論に触れたものは、権力というものは、我々が考えるほど(1)狭い範囲の出来事ではない、(2)容易に統御されるものではない、しかし、かと 言って(3)人間をがんじがらめにする絶望的なものでもない、という認識に到達しつつあります。

もっともフーコーの理論が魅力的であれば あるほど、そのエピゴーネンも多く登場しました。いわゆ る全部フーコーの議論で解釈して満足する連中のことです。

フーコーの権力論は、保健=健康の権力を 考察する際には、最初の梯子(はしご)であることを、くれぐれも忘 れず、フーコーよりももっと興味深い、保健=健康の権力(Biopolitical)を探究 しましょう。

「真理には権力が伴う」「私たちは誰も が、権力のターゲットであるだけでなく、権力を結ぶ結節点(リレー)であり、ここからある種の権力が発揮 されるからです」(フーコー2008[June, 1975]:46)上掲書。

ニーチェに倣って、真理は戦争の用語で理 解すべきだろう(フーコー2008[June, 1975]:51)上掲書。

「フーコーが倦むことなく証明しようとし たように、権威はエクリチュールではなく言述の特性であるか(つまりエクリチュールが言述形式の規則に従うものであるか)、あるいは分析概念であって現実 に利用可能なものではないかのどちらかである」(サイード 1992:30)

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フーコーの思想的展開において、もっとも重要なことは、コレージュ・ド・フランスでの1975- 1976年の講義「社会は防衛しなければならない」(Il faut deferndre la societe)[同名のタイトルで筑摩書房刊、2007年]につきると言えます。

フーコーの 主張がくっきりと前期/後期と分かれるのかについては、私は専門家ではありませんの で、それほど興味はありません。しかし、この講義が終わった年(1976年)に出版される『性の歴史1』から、続刊が発刊されるまでの8年間のブランク に、後期フーコーの思想で表象されるさまざまな著作が登場します。【以下の表を参照】

「社会は防 衛しなければならない」という講義録は、一見ばらばらな授業の集まりのようにも感じま す。思想の系譜学と権力論についての講義(1976年1月7日)、戦争論・生権力論・規律実践や人間科学についての多様なアイディアの披瀝(1月14 日)、クラウゼビッツや権力の弁証法(1月21日)、人種間戦争(1月28日)、ホッブス「リヴァイアサン」論(2月4日)、アンリ・ド・ブーランヴィリエ(Henri de Boulainvilliers, 1658-1722)と文書に代 表される歴史知の話(2月11日)、引き続きブーランヴィリエ論(2月18日、2月25日、3月3日)、国家の統一とナシオン(3月10日)、お世辞にも 大団円とは言えないが魅力的な生権力論(3月17日)です。

Essais sur la noblesse de France : contenans une dissertation sur son origine & abaissement / par feu M. le C. de Boullainvilliers ; avec des notes historiques, critiques & politiques, un projet de dissertation sur les premiers François & leurs colonies, et un suplément aux notes par forme de dictionnaire pour la noblesse, 1732, Amsterdam : [s.n.](英訳)An historical account of the antient parliaments of France, or States-General of the Kingdom in fourteen letters, The Count de Boulainvilliers ; and now translated for the use and instruction of such British Lovers of Liberty, as cannot read the original by Charles Forman, Printed for J. Brindley, 1739

この 1976年にはフーコーの前期と後期をブリッジする重要な著作『監視と懲罰』(邦訳 『監獄の 誕生』)——ただし冒頭のレトリックはその13年前の『臨床の誕生』を彷彿させる——が公刊されています。

フーコーは この講義のなかで、自分が追求してきたことは首尾一貫しているが、今までそれほど意識 していなかった議論すなわち生権力論がこの頃徐々に浮かびあがってきたことを吐露しています。

「権力の知 への不断の連接、知の権力への不断の連接が存在するのであり……権力はしかじかの発見 を必要とする、しかじかの知の形を必要とする、といって満足していてはならないのであって、権力を行使することは、知の対象を創造し、これを浮きあがら せ、情報を集積し、これを利用する、といわねばならないのです」(ミッシェル・フーコー 1975)。

もしフーコーを、たんなる強力な知的 権威として引用紹介してそれで安心するというむき(=研究 者)には、不用な話ですが、オリジナリティのある生権力をもってフーコーの思想の真の独自性が発揮されたと考える奇特な研究者にとっては、 この時期のフー コーの考え方を追いかけることは大変魅力です。

またホッブ ス論に異様な興味をもつことから、生権力(bio-politic)リ ヴァイアサン における身体政治論(body-politic)の地口的転倒として使ったとも言えます。

さらに蛇足 として言えば、スティーブン・シェイピンとサイモン・シェーファー『リヴァイアサンと 真空ポンプ』(1986)やそれに触発されて書かれたブルーノ・ラトゥール『私たちは近代であったことはない』(1993)における、社会科学と自然科学 おける「真理」の証明という議論に連なるものでもあります。

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以上、ほと んどまとまりのない、フー コーの生権力(バイオパワー)に関する与太話でした。

National Penitentiary Cuba, Isle of Pinesフーコーの考古学的方法から明らかにされる3つの著作、すなわち『狂気の歴史(1961)』『監獄の誕生(1963)』そして『知の考古学(1969)』では、言葉や概念がつ くられる歴史的な相があり、それはしばしば「言説編制体」と呼ばれていました。フーコーによれば言説編制体を経由して、権力が行使されるという主張です。 例えば、17,18世紀の合理性の時代における「狂気」は、合理性の枠組みで理解できない人が排除され、19世紀のブルジョア道徳が支配した時代では、性 的放縦や同性愛など「道徳」に従わない人が排除されたと言います。

フーコーの 系譜学的アプローチでは、ニーチェに範をとり、例えば刑罰方法の変化を、人道主義が生 まれてきたなどとは理解せず、社会を統治かる制御する、最も効率的(だと考えられた)方法により、変化したと考えます。より、効率的に人々を統治し管理し ようとする歴史における一連の流れの中でとらえます。系譜学とは、親族や家族(時には部族)の来歴を知るための方法ということですが、フィクションも含め て「事物の来歴」を示すものであり、「事 物の来歴」を決めるイデオロギーである(それゆえに異端的解釈がつねに少数派からあがる)。また、「これは〜から由来した」という説明を与えるものである が、しばしば、系譜の継承者には恣意的な理解や、経路の継げ変えがおこる。それゆえ、バシュラールやカンギレムの「認識論切断」という発想法も動員される こともある(→「臨床概念の誕生」)。

パノプティコンは、 権力のミクロロジーを観察することのできる視座です。それは、ジェレミー・ベンサムのシステムというよりは、人々を隅々まで監視し、管理する、微視的な権 力の行使のシステムであり、それらを分析するには、権力行使のシステムを微視的に分析することが重要です。それが、フーコーのいうミクロロジーです。

National Penitentiary Cuba, Isle of Pines

もうひとつ は、身体の管理における規格化・規範化です。すなわち、カンギレム流の「正常」 概念が権力によって定義され、そこからの逸脱が定義され、分析され、監督の 対象になります。そのような規格化を通して、人間は「従順な身体」への飼いならされてしまいます。


フーコー権力論(後期あるいは晩年)における権力論(→生産的権力論/生権力論

権力そのものの生産性に着目する。つまり、権力制度の元に置かれる人々も、自らも外部からの指示に応じて、あるいは、それに抵抗して自分の行為や思念を組 み替えることがある。

■フーコーの権力概念——生産的権力論


「私は、権力関係の新たなエコノミーをさ らに推し進めるための別の方法を提案したい。それは、より経験的で、より直接的に現在の状況に関連しており、理論と 実践の間のより多くの関係を暗示するものである。それは、さまざまな権力形態に対する抵抗の形態を起点とするものである。別のメタファーを用いるなら、こ の抵抗 を化学反応における触媒として利用し、権力関係を明らかにし、その位置を特定し、その適用点と使用される手法を見つけ出すことである。権力をその内部の合理性という観 点から分析するのではなく、権力関係を戦略の対立を通じて分析することである。権力行使の定義に戻ろう。それは、ある行動が他の可能な行動 の領域を構造化 する方法である。したがって、権力関係にふさわしいのは、行動に対する行動様式である。つまり、権力関係は社会の結びつきに深く根ざしており、社会の上に 再構成されることはない。社会の上に再構成されることは、おそらく根本的な消滅を夢見ることができる補足的な構造としてではない。いずれにせよ、社会で生 きるということは、他の行動に対する行動が可能であるように生きるということであり、実際、進行中である。権力関係のない社会は、抽象的な ものにすぎな い。これは、特定の社会における権力関係の分析、その歴史的形成、強さや脆さの源泉、一部を変革したり、他を廃止したりするために必要な条件を、より政治 的に必要とするものである。権力関係のない社会はありえないとい う主張は、確立された権力関係が必然であるとか、あるいは、いかなる場合でも権力が社会の 中心に宿命として存在し、それを弱めることができないという主張ではない。むしろ、権力関係の分析、精査、そして権力関係と自由の非直線性との間の「対 立」を問題視することは、あらゆる社会的存在に内在する永続的な政治的課題であると言えるだろう。実際、権力関係と闘争の戦略の間には、相互に惹きつけ合 い、絶え間なく結びつき、そして絶え間なく反転し合うという関係がある。権力関係は、つねに二つの敵対者間の対立となる可能性がある。同様に、社会におけ る敵対者間の関係は、つねに権力のメカニズムが作動する余地がある。この不安定さの結果、同じ出来事や同じ変容を、闘争の歴史の内側から、あるいは権力関 係の観点から解読できる能力が生まれる。その結果生じる解釈は、同じ歴史的背景を参照しているとはいえ、同じ意味の要素や同じつながり、同じ種類の理解可 能性から構成されるものではない。また、2つの分析はそれぞれ、もう一方を参照していなければならない。実際、2つの解釈の相違こそが、多数の人間社会に 存在する「支配」の根本的な現象を明らかにするのである。」

The Subject and Power [pdf] with password
Michel Foucault
Critical Inquiry 8 (4):777-795 (1982)   Copy   BIBTEX
Abstract

I would like to suggest another way to go further toward a new economy of power relations, a way which is more empirical, more directly related to our present situation, and which implies more relations between theory and practice. It consists of taking the forms of resistance against different forms of power as a starting point. To use another metaphor, t consists of using this resistance as a chemical catalyst so as to bring to light power relations, locate their position, and find out their point of application and the methods used. Rather than analyzing power from the point of view of its internal rationality, it consists of analyzing power relations through the antagonism of strategies.[…]Let us come back to the definition of the exercise of power as a way in which certain actions may structure the field of other possible actions. What, therefore, would be proper to a relationship of power is that it be a mode of action upon actions. That is to say, power relations are rooted deep in the social nexus, not reconstituted "above" society as a supplementary structure whose radical effacement one could perhaps dream of. In any case, to live in a society is to live in such a way that action upon other actions is possible-- and in fact ongoing. A society without power relations can only be an abstraction. Which, be it said in passing, makes all the more politically necessary the analysis of power relations in a given society, their historical formation, the source of their strength or fragility, the conditions which are necessary to transform some or to abolish others. For to say that there cannot be a society without power relations is not to say either that those which are established are necessary or, in any case, that power constitutes a fatality at the heart of societies, such that it cannot be undermined. Instead, I would say that the analysis, elaboration, and bringing into question of power relations and the "agonism" between power relations and the instransitivity of freedom is a permanent political task inherent in all social existence.[…]In effect, between a relationship of power and a strategy of struggle there is a reciprocal appeal, a perpetual linking and a perpetual reversal. At every moment the relationship of power may become a confrontation between two adversaries. Equally, the relationship between adversaries in society may, at every moment, give place to the putting into operation of mechanisms of power. The consequence of this instability is the ability to decipher the same events and the same transformations either from inside the history of struggle or from the standpoint of the power relationships. The interpretations which result will not consist of the same elements of meaning or the same links or the same types of intelligibility, although they refer to the same historical fabric, and each of the two analyses must have reference to the other. In fact, it is precisely the disparities between the two readings which make visible those fundamental phenomena of "domination" which are present in a large number of human societies.Michel Foucault has been teaching at the Collège de France since 1970. His works include Madness and Civilization , The Birth of the Clinic , Discipline and Punish , and History of Sexuality , the first volume of a projected five-volume study
主体と権力
ミシェル・フーコー
クリティカル・インクワイアリー 8 (4):777-795 (1982) BIBTEXのコピー
要約

私は、権力関係の新たなエコノミーをさらに推し進めるための別の方法を提案したい。それは、より経験的で、より直接的に現在の状況に関連しており、理論と 実践の間のより多くの関係を暗示するものである。それは、さまざまな権力形態に対する抵抗の形態を起点とするものである。別の比喩を用いるなら、この抵抗 を化学触媒として利用し、権力関係を明らかにし、その位置を特定し、その適用点と使用される手法を見つけ出すことである。権力をその内部の合理性という観 点から分析するのではなく、権力関係を戦略の対立を通じて分析することである。権力行使の定義に戻ろう。それは、ある行動が他の可能な行動の領域を構造化 する方法である。したがって、権力関係にふさわしいのは、行動に対する行動様式である。つまり、権力関係は社会の結びつきに深く根ざしており、社会の上に 再構成されることはない。社会の上に再構成されることは、おそらく根本的な消滅を夢見ることができる補足的な構造としてではない。いずれにせよ、社会で生 きるということは、他の行動に対する行動が可能であるように生きるということであり、実際、進行中である。権力関係のない社会は、抽象的なものにすぎな い。これは、特定の社会における権力関係の分析、その歴史的形成、強さや脆さの源泉、一部を変革したり、他を廃止したりするために必要な条件を、より政治 的に必要とするものである。権力関係のない社会はありえないという主張は、確立された権力関係が必然であるとか、あるいは、いかなる場合でも権力が社会の 中心に宿命として存在し、それを弱めることができないという主張ではない。むしろ、権力関係の分析、精査、そして権力関係と自由の非直線性との間の「対 立」を問題視することは、あらゆる社会的存在に内在する永続的な政治的課題であると言えるだろう。実際、権力関係と闘争の戦略の間には、相互に惹きつけ合 い、絶え間なく結びつき、そして絶え間なく反転し合うという関係がある。権力関係は、つねに二つの敵対者間の対立となる可能性がある。同様に、社会におけ る敵対者間の関係は、つねに権力のメカニズムが作動する余地がある。この不安定さの結果、同じ出来事や同じ変容を、闘争の歴史の内側から、あるいは権力関 係の観点から解読できる能力が生まれる。その結果生じる解釈は、同じ歴史的背景を参照しているとはいえ、同じ意味の要素や同じつながり、同じ種類の理解可 能性から構成されるものではない。また、2つの分析はそれぞれ、もう一方を参照していなければならない。実際、2つの解釈の相違こそが、多数の人間社会に 存在する「支配」の根本的な現象を明らかにするのである。ミシェル・フーコーは1970年よりコレージュ・ド・フランスで教鞭をとっている。著書に『狂気 と文明』、『臨床の誕生』、『監獄の誕生』、『性の歴史』などがある。『性の歴史』は5巻からなる研究計画の第1巻である。
https://philpapers.org/rec/FOUTSA

主体/サブジェクト
主体とは、主体性を行使し、意識的な経験をし、それ自身の外側に存在する他のものとの関係に おいて位置づけられる存在であり、したがって主体とはあらゆる個人、人間、観察者である。
★ 統治性、論文

●後期フー コーの権力概念へのこちらです

フーコー『性の 歴史』読解入門︎▶フーコー『知への意志』ノート︎▶生権力(せい・けんりょく)︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎︎▶︎▶︎

生 権力=バイオパワー

生権力=バイオパワーとは、他者の身体に介在する権力(性)のことをさす。生権力は、この項目のよ うに生・権力(せいけんりょく)と書かれたり、英語の外来語ふうに「バ イオパワー(biopower)」——洗 剤の効能のようだが——と呼ばれたり、フランス語風にカッコよく「ビオプヴァー(le biopouvoir)」と呼ぶ人 がいる。呼称はたくさんあるが、指し示す内容を統一しないと、混乱の原因になるので、この項目は、ミッシェル・フーコーの議論に沿いながら解説する(→ 「バイオポリティクス」「同研 究ノート」)。 ミッシェル・フーコーによると、(1)身体の従属主体 の構築=アナトモポリティークと、(2)個体数(人口)の制御=ビオポリティーク、という2つの側面からなる多種多様な技法の開花=爆発によって生まれ る。( “[A]n explosion of numerous and diverse techniques for achieving the subjugations of bodies and the control of populations” (Foucault, History of Sexuality, Vol.I, p.140).) 医療における権力論の研究は、M・フーコーの、生−権力や統治性の議論が登場して根本的な変化を 遂げた。 それまで、医療が考えてきた権力は、患者をコントロールするむき出しの力、患者をモルモットにす る服従を強制する権力というのが定番であった。今でも、このような権力論の図式にのっかって、「医者は権力を行使するからリベラルでなければならない」 「医 師の権力は神聖」(→医療聖職論)ということを主張する主に高齢者を中心としたオールド・リベラストの方々がいる。 ところが、権力の作用の多様なあり方や、統治性 (governmentality)にかんするフーコーの議論に触れたものは、権力 というものは、我々が考えるほど(1)狭い範囲の出来事ではない、(2)容易に統御されるものではない、しかし、かと言って(3)人間をがんじがらめにす る絶望的なものでもない、という認識に到達しつつある。

◎思考集成 (→思考集成リスト)(完全リストはこちら)番号はエッセイの通し番号

 第6巻(1976-77) 『セクシュ アリテ/真理』

  • ・166  容認しえない死
  • ・168  18世紀における健康政策
  • ・170  医学の危機あるいは反医学の危機?
  • ・179  〈生物—歴史学〉と〈生物—政治学〉
  • ・187  社会は防衛しなければならない
  • ・192  真理と権力 (→「真理には権力が伴う」)
  • ・196  社会医学の誕生
  • ・209  監禁、精神医学、監獄
  •   第7巻(1978)  『知/身体』
  • ・220  19世紀司法精神医学における「危険人物」という概念の進展
  • ・222  狂気と社会
  • ・239  「統治性」
  • ・255  治安・領土・人口
  • ◎講義集成 (筑摩で刊行中)


    リンク(知と権力)

    リンク(フーコー関連)

  • いく たびもミッシェルフーコー 思考集成・目次M・フーコー『臨床医学の誕生』の読解監視と処罰:監獄の誕生フー コー『言葉と物』読書検討会フーコー『知への意志』ノートミッシェル・フーコー『狂気の歴史』(古典時代における狂人の歴 史)生・権力(せい・けんりょく)///////権力について考える
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  • M・フーコー『臨床医学の誕生』神 谷美恵子訳、みすず書房、1969年——名訳の誉れ高い——ユマニスト的曲解があると言われるがここでは論評は避ける——が、ho^pital を病院と施療院と訳し分けたり、comfiguration, constellationをゲシュタルトとするなど、読むときには、もう一ひねりしないとならないので、留意する。

    M・フーコー「健康を語る権力」(『ミッ シェル・フーコー1926-1984 権力・知・歴史』新曜社、1984年)

    M・フーコー『知への意志』(『性の歴 史』の後期フーコー3部作のひとつ)

    富永茂樹『健康論序説』河出書房——健康 の社会化、社会の健康化という二重の過程が市民社会において強力な力を発揮する。

    ミッシェル・フーコーインタビュー「権力 の戯れ」(1975)M. Foucault, Entretien sur la prison: le livre et sa méthode.

    始まりの現象 : 意図と方法 / エドワード・W.サイード[著] ; 山形和美, 小林昌夫訳, 法政大学出版局 , 1992.

    簡単な著作目録

  • 『精神疾患とパーソナリティ』(中山元・訳、筑摩書房[文庫])Maladie mentale et Personnalit・ Paris: PUF, 1954.
  • 『精神疾患と心理学』(神谷美恵子・訳、みすず書房)Maladie mentale et Psychologie (Paris: PUF, 1962). = second and extensively revised edition of Maladie mentale et Personnalte
  • 『臨床医学の誕生』(神谷美恵子・訳、みすず書房)Naissance de la clinique: une archaologie du regard m仕ical (Paris: PUF, 1963).
  • 『レーモン・ルーセル』(豊崎光一・訳、法政大学出版局)Raymond Roussel. (Paris: Gallimard, 1963), date of issue May 1963.
  • 『言葉と物』(渡辺一民ほか訳、新潮 社)Les Mots et les Choses. Une archaologie des sciences humaines. Paris 1966.
  • 『知の考古学』(中村雄一郎訳、河出書房新社)L'Archaologie du savoir (Paris: Gallimard, March 1969).
  • 『言説表現の秩序』(中村雄一郎訳、河出書房新社)L'ordre du discours (Paris, Gallimard, 1971)
  • 『狂気の歴史:古典主義時代における』(田村俶訳、新潮社)Histoire de la folie a l'age classique. Gallimard, 1972
  • 『監獄の誕生』 Surveiller et punir, naissance de la prison (Paris: Gallimard, February 1975).
  • 『性の歴史 1権力への意志』Histoire de la sexualit・1. La volonte de savoir (Paris: Gallimard, 1976).
  • [未訳]Le desordre des familles. Lettres de cachet des archives de la Bastille au XVIIIe siècle with Arlette Farge (Paris: Collection Archives, 1982), date of issue October 1982.
  • 『性の歴史 2快楽の活用』Histoire de la sexualite II, L'usage des plaisirs (Paris: Gallimard, 1984)
  • 『性の歴史 3自己への配慮』Histoire de la sexualite III, Le souci de soi (Paris: Gallimard, 1984)
  •  

    クレジット:池田光穂「ミッシェル・フーコーの権力論」(旧版名: 「フーコーの生権力論」→「生・権力(せい・けんりょく)」)。

    健康というものが権力性をもつ場合、それ が最もよく発動されているのは、病気であるということを<強制的>に忘れさせようとする作用におい てである。これを、健康による<病気の組織的忘却>の作用と呼んでおこう (2000.03.16 M.ikeda)。


    いくたびもミッシェル
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