M・フーコー『臨床医学の誕生』の読解
Michel Foucault, The Birth of the Clinic, 1994,1973[1963]
解説:池田光穂
英訳者(A.M. Sheridan Smith)の解説
la clinique の二重の意味:(1)臨床医学、(2)教育病院(teaching hospital)*
* 映画『パッチアダムス』には、学生が教育病院で教 育される有り様が描かれているので参照する。
regard は眼差し・まなざしで英訳では gaze となっている。
"One of the most
influential figures of biolitics is Michel Foucault, whose 1963 work, Birth of the Clinic, examines how
political and social changes impacted approaches to medical care and
conceptualizations of individual's health. These changes included the
increased administration of reproduction, the management of chronic
illness and death, and the maintenance and optimization of the human
body . Furthermore, these changes reflect broader social changes as the
state shifted to focusing on the obedience of citizens through
political power, a process Foucault referred to as biopower" - Biopolitical -
from medianth
もくじ
● 本書の目論見=臨床医学誕生の「神話」の解体あるいは脱構築(小野正嗣 2006:42-43)
1.自由主義が臨床医学を可能にしたという神話の解体
2.18世紀末までの道徳観や偏見が死体解剖に対する障害となり病理解剖を妨げていたという神話の解体
3.これまでのブルッセ(François Joseph Victor Broussais, 1772-1838)に対する歴史的評価を解体する。
フー コーには主体概念がないのか?
■ カッシーラーとの比較問題
「実際、フーコーを、カッシーラーの新カント派の体系から の光に当てて読むのは興味深いことである。フーコー初期の著作…は観念論的主張として読むことが可能であり、それによれば、社会諸制度は、医学的言説のエ ピステーメー、すなわち基底にある認識的構造の産物なのである。さらには、医学的言説によって認識すなわち「まなざし」が形成されること、そして、言説的 実践を通して医学の対象が構成されることにフーコーが注目しているのは、カッシーラーの体系に似ている。しかし、フーコーははっきりと主体の役割あるいは 意識の構成的役割を否定する。つまりここで、彼は、知識を形作る意識の役割についてのカントの主張を拒絶しているように思われる」(p.117)。「(そ れは)人類学者のフィールド研究における人間や間主観的経験の重要性を否定する。そして社会的実践の対象としての「身体」への注目にもかかわらず、フー コーの著作では、経験と理解の源泉としての身体への注目がほとんどなされていない」(p.118)。
出典:B・グッド『医療・合理性・経験』(該当部分は大月康義訳)誠信書房、2001年
健康の政治学
医療における権力論の研究は、M・フーコーの、生−権力や統治性の議論が登場して根本的な変 化を遂げました。
それまで、医療が考えてきた権力は、患者をコントロールするむき出しの力、患者をモルモット にする服従を強制する権力というのが定番でした。今でも、このような権力論の図式にのっかって、「医者は権力を行使するからリベラルでなければならない」 「医師の権力は神聖」(→医療聖職論)ということを主張する主に高齢者を中心としたオールド・リベラストの方々がおられます。
ところが、権力の作用の多様なあり方や、統治性(governmentality)にかんす るフーコーの議論に触れたものは、権力というものは、我々が考えるほど(1)狭い範囲の出来事ではない、(2)容易に統御されるものではない、しかし、か と言って(3)人間をがんじがらめにする絶望的なものでもない、という認識に到達しつつあります。
もっともフーコーの理論が魅力的であればあるほど、そのエピゴーネンも多く登場しました。い わゆる全部フーコーの議論で解釈して満足する連中のことです。
フーコーの権力論は、保健=健康の権力を考察する際には、最初の梯子であることを、くれぐれ も忘れず、フーコーよりももっと興味深い、保健=健康の権力を探究しましょう
M・フーコー『臨床医学の誕生』神谷美恵子訳、みすず 書房、1969年
名訳の誉れ高い——ユマニスト的曲解があると言われるがここでは論評は避ける——が、 ho^pital を病院と施療院と訳し分けたり、comfiguration, constellationをゲシュタルトとするなど、読むときには、もう一ひねりしないとならないので、留意する。
M・フーコー「健康を語る権力」(『ミッシェル・フーコー1926-1984 権力・知・歴 史』新曜社、1984年)
M・フーコー『知への意志』(『性の歴史』の後期フーコー3部作のひとつ)
富永茂樹『健康論序説』河出書房
健康の社会化、社会の健康化という二重の過程が市民社会において強力な力を発揮する。
健康というものが権力性をもつ場合、それが最もよく発動されているのは、病気であるというこ とを<強制的>に忘れさせようとする作用においてである。これを、健康による<病気の組織的忘却>の作用と呼んでおこう(2000.03.16 M.ikeda)。
■ 近代思想によってヒポクラテスが発見される(カバニスの事 例)
「カバニスによれば、人間にかんする模範的な観察者はヒポ クラテスであった。近代人は「自然の作用が普通に起こっている状態を変化させることによって自然に問いかける技術」、つまり実験的方法の発明によって科学 を大きく進歩させたが、観察の才能においては近代人よりも古代人のほうが優れていた、とカバニスはいう。近代人は自分たちの仮説にしたがって対象を見、書 物から知識をえることに心を奪われて、自然の観察をなおざりにしている。それに対して、ヒポクラテスは空虚な思弁をしりぞけて病気をあるがままに見る観察 者、「高みからしかも詳細に観察し、対象を大局から考察すると同時に細部を見落とさない」*すぐれた観察者だった。こうして医学を観察にもとづく科学にす るためには、ヒポクラテスに学ぶことが必要だとされた」(p.24)
*Cabanis, Discours d'ouverture du cours sur Hippocrate, CEuvres, t. II, p.309
Cabanis, P. J. G. (Pierre Jean Georges), 1757-1808
『心身相関論(Rapports du physique et du moral de l'homme)』英訳( On the relations between the physical and moral aspects of man / by Pierre-Jean-George Cabanis ; edited by George Mora ; with introductions by Sergio Moravia and George Mora ; translated by Margaret Duggan Saidi. -- (BA21356940) Ann Arbor, Mich. : University Microfilms International, 1991 2 v. (xci, 796 p.) ; 24 cm)
■ 体質の問題
「『百科全書』の「体質」の項目は、ガレノス以来の体液に よる四つの体質(気質)に簡単にふれたのちに、「今日の医学においては、体質について考えることははるかに少なくなっている」と述べた。しかし一八世紀の 最後の四半世紀、とりわけ革命期に公衆衛生の概念が重要性をもつようになると、「体質」の観念は一方では大気や水などの環境と人間の関係の結節点として、 他方では身体的なものと精神的なものの関係を考える環として、ふたたび人間科学のパラダイムとしての位置を獲得する」(pp.30-1)。
■ 観察の地位の向上
「観察という技術の採用は、人間と社会にかんする知識の生 産様式に大きな変化をもたらした。ヴィレルメは書いている。「どこでも行政官や医師や工場主やたんなる労働者が熱心に私を助けてくれた。彼らの助力で、私 はすべてを見、聞き、知ることができた。彼らは競って情報を提供してくれた」。人間の本性や社会の本質についての哲学者の思弁にかわって、医師や官僚など を中心とする実務家的な知識人たちの共同作業が重きをなすことになったのである。それは同時に、知識と社会秩序を生みだすための統治の技法との緊密な関係 が生まれる過程でもあった」(p.47)。
出典:阪上孝「観察の技術、統治の技法」『統治技法の近 代』阪上編、Pp.21-50、同文舘出版
●ブルッセ(François Joseph Victor Broussais, 1772-1838)という医師
「フランスの医師。サン・マロで 医師の子に生まれ,サン・マロ(Sant-Maloù)のオテル・ディユ(Hôtel‐Dieu)病院で医学を習い,ついでブレストの海軍軍医学校に入り 乗艦勤務で学資を蓄えた後,1798年パリ大学に進学し1802年学位を得た。軍医となりナポレオンに従ってヨーロッパ各地を転戦,14年パリに帰ってバ ル・ド・グラース陸軍病院 Hôpital d'instruction des armées du Val-de-Grâce(第五区)教授となり臨床医学を講じて人気を博した。30年パリ大学教授。胃腸カタルがあらゆる病気の根本原因になると考え,胃の病的状態を究明することが病理学の鍵だと主張し,食養生とヒルによる局部瀉血を推奨した」ブルッセ【François Joseph Victor Broussais】.
●近代医学は、死(の概念)を、医学的思考の中に取り込むことで「個人の科学」となる、と主張する。
ヘルダーリン、ニーチェ、フロイト。
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