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神谷美恵子訳『臨床医学の誕生』の翻訳にまつわる課題

Naissance de la clinique: Une archéologie du regard médical

池田光穂

『臨床医学の誕生』は、1963年のミッシェル・ フーコーの単著である。臨床教育での現場であるクリニークを、18世紀の医学的知識の認識論的再編成について論じている。そのため、かつては構造主義的著 作と評価されたが、レヴィ=ストロース流の、構造が時代のなかの行為者や制度の構造を形づくという単純な構造決定論ではなく、むしろ、認識(フーコーは 「医学的まなざし・医学的視点」という視覚表現を使う)と、方法などの実践と、知の蓄積(アーカイブ化による創造と再利用)などの関係を論じた、ペダン チック(衒学的)な著作である。高度に衒学的であるゆえに、多くの人たちを魅了すると同時に、過度に医学的著作の大作(magmun opus)ともてはやされすぎた嫌いのあるやや不幸な著作である。

09■神谷美恵子訳『臨床医学の誕生』の翻訳に まつわる問題

MICHEL FOUCAULT, Naissance de la clinique: Une archéologie du regard médical. Paris: PRESSES UNIVERSITAIRES DE FRANCE, 1963.

【文例1】=================== ====

原文

L'expérience clinique --- cette ouverture, première dans l'histoire occidentale, de l'individu concret au langage de la rationalité, cet événement majeur dans le rapport de l'homme à luimême et du langage aux choses --- a vite été prise pour un affrontement simple, sans concept, d'un regard et d'un visage d'un coup d'oeil et d'un corps muet, sorte de contact préalable à tout discours et libre des embarras du langage, par quoi deux individus vivants sont « encagés » dans une" situation commune mais non réciproque (p.XI).

神谷美恵子(1969)訳

「臨床医学的経験とは、西洋の歴史の上で、具体的な 個体が、初めて合理的な言語にむかって開かれたことを意味するのであって、人間対自己、及びことば(ラ ンガージュ)対〈もの〉という関係における重要な事件である。ところが、この臨床医学的経験は、たちまち次のように誤解されてしまった。すなわち、なんの 観念も介在することなく、一つのまなざしが一つの顔と対面すること、あるいは眼の一べつ(クードーユ)がもの言わぬからだと対面すること、と考えられてし まったのである。この種の接触は、あらゆる論述(ディスクール)以前のものであり、言語(ランガージュ)という邪魔者のないものであって、この接触によっ て、二人の生きた個人が、一つの情況の中に《とじこめられる》とされる。しかもその情況は二人にとって共通なものであるが、相互的なものであるわけではな い」(神谷訳 p.9[2011年新装版 p.16])。

英訳(A.M. Sheridan Smith の翻訳による)

Clinical experience -- that opening up of the concrete individual, for the first time in Western history, to the language of rationality, that major event in the relationship of man to himself and of language to things -- was soon taken as a simple, un conceptualized confrontation of a gaze and a face, or a glance and a silent body; a sort of contact prior to all discourse, free of the burdens of language, by which two living individuals are 'trapped' in a common, but non- reciprocal situation (pp.xiv-xv).

スペイン語訳(Francisca Perujo の翻訳による)

La experiencia clínica -- esta apertura, la primera en la historia occidental, del individuo concreto al lenguaje de la racionalidad, este acontecimiento decisivo en la relación del hombre consigo mismo y del lenguaje con las cosas -- ha sido tomada muy pronto por un emparejamiento simple, sin concepto, de una mirada y de un rostro, de una ojeada y de un cuerpo mudo, especie de contacto previo a todo discurso y libre de los embarazos del lenguaje, por el cual dos individuos vivos están "enjaulados", en una situación común, pero no recíproca (pp.8-9).

英語からの翻訳

臨床経験——それは西洋史において最初の経験なのだ が、具体的な個人が合理性の言語に対して開かれたのであり、そのことは、人間にとっての彼自身との関 係、そして言語にとってのモノそのものの関係にとっての一大事だった。この臨床経験は、その後すぐに単純化されるように、ひとつの顔にひとつの眼差しを向 けること、あるいはひとつの沈黙した身体にひとつの一瞥を向けることという、一種の概念化された対峙というものであった。それは、言葉=言語の負担から自 由になり、共通に閉じこめられた2人の個人が、しかしながら相互にやり取りができないことにより引き起こされるという、すべての発話のやり取り(=言説) の先立つある種の接触=遭遇のことであった。

スペイン語からの翻訳

臨床経験——それは西洋史における原初であるが、具 体的な個人が合理性の言語に開かれること、人間とそれ自身の関係、そして言語と事物の関係におけるこの 断固とした出来事だった。この臨床経験は、単純な出会い(=対になること)によって、深く考えられることなく、ひとつの視線とひとつの顔(表情)によっ て、ひとつの一瞥と黙りこんだひとつの身体によって、すぐに採用されるようになるが、(それ自身は)あらゆるお喋りと言語の困惑から自由になった、それら に先立つ出会いの空間であり、情況を共有したなかで、ふたりの個人が「閉じこめられて」いるが、しかしながら相互交流もしないことによるものなのである。

この文章のフーコーの学説に基づいた合理的で可能な 解釈

臨床経験は、西洋史においてその当時はじめて生まれ た実践であった。その含意は、具体的な個人が医師による臨床経験を通して合理的に説明されることであ り、それはあたかも人間が自分のことを意識して説明することや、観察にもとづいて言語を使って事物を記述するという点で、とても厳然とした(あるいは革命 的な)出来事だったのだ。臨床経験は、それを受け入れた医師や医 学生たちによって、現場で患者と純粋に出会うこと、ベッドサイドに行かねば臨床は始まらな いと単純に理解されているが、そんな単純なものではない。臨床の現場は、医師と患者が「逃れられない」情況のなかでのみ生まれる固有で貴重な経験とみなさ れているが、実際には、医学的に統制された環境のなかで、予断と偏見から自由になれたと思いこまされる、つまり客観的な遭遇の空間ではあるが、実際には医 師と患者は(思ったほどには、あるいは全く)コミュニケーションしていない遭遇の空間なのだ

【文例2】=================== ====

フランス語原文
"Cette structure, où s'articulent l'espace, le langage et la mort --- ce qu'on appelle en somme la méthode anatomo-clinique --- constitue la condition historique d'une médecine qui se donne et que nous recevons comme positive. Positif est à prendre ici au sens lourd. La maladie se détache de la métaphysique du mal à laquelle, depuis des siècles, elle était apparentée et elle trouve dans la visibilité de la mort la forme pleine où son contenu apparaît en termes positifs. Pensée par rapport à la nature, la maladie était l'inassignable négatif dont les causes, les formes, les manifestations ne s'offraient que de biais et sur un fond toujours reculé; perçue par rapport à la mort,la maladie devient exhaustivement lisible, ouverte sans résidu à la dissection souveraine du langage et du regard. C'est lorsque la mort s'est intégrée épistémologiquement à l'expérience médicale que la maladie a pu se détacher de la contre-nature et prendre corps dans le corps vivant des individus."(Foucault 1963:200)

神谷訳

「ひと口に言って、解剖= 臨床医学的方法とよばれる構造は、そこで空間と、言語と、死とが発言するところであるが、この構造こそ、ポジティヴな医学の歴史的条件なのである。ポジ ティヴとは、この医学が自称するところであり、われわれがそれとして受けとるところでもある。ここでポジティヴという場合、これを重い意味にとるべきであ る。病は幾世紀も前から、病の形而上学に結びついていたのだが、ここでそれから分離する。そして死の可視性の中に、病は自己の充実した形を見いだす。そこ では、病の内容がポジティヴな形であらわれているのだ。病というものを自然との関係において考えるならば、病とは所属不明のネガティヴなもので、その原因 や形態や表現は、斜にしかあらわれず、しかもつねに遠のく背景の上にしかあらわれなかった。ところが病を死との関係において知覚するならば、病とは完全に 読みつくせるものになり、ことばとまなざしによる、至高の分析に対して、余すところなく開かれたものとなる。死が医学的経験の、具体的なア・プリオリと なった時こそ、病は反自然から離れることができ、個人の生きた体のなかで、具体化することができたのである」(神谷訳 2011:323-324)。

英語

"This structure, in which space, language, and death are articulated---what is known, in fact, as the anatomo-clinical method --- constitutes the historical condition of a medicine that is given and accepted as positive. Positive here should be taken in the strong sense. Disease breaks away from the metaphysic of evil, to which it had been related for centuries; and it finds in the visibility of death the full form in which its content appears in positive terms. Conceived in relation to nature, disease was the non-assignable negative of which the causes, forms, and manifestations were offered only indirectly and against an ever-receding background; seen in relation to death, disease becomes exhaustively legible, open without remainder to the sovereign dissection of language and of the gaze. It is when death became the concrete a priori of medical experience that death[disease の誤りか?] could detach itself from counter-nature and become embodied in the living bodies of individuals.(p.196)

空間、言語、そして死が相互に関連している、[(臨 床医学という)臨床と(その後の)解剖とがカップリングされた方法として実際に知られている]この「構 造」は、実証的なものとして想定され、また受け入れられている医学の歴史的条件を形づくるのである。実証的とは、ここでは強い意味として理解しなければな らない。疾病は、それまで幾世紀にも長く関連づけれていた[思弁的な]悪の形而上学から切り離されて、また疾病というものは、実証的用語のなかで、その (=疾病の)内容が形をあらわすことを通して、死の可視性を具体的な全体として表現するのだ。自然(という概念)のなかで関連づけられた疾病は、(これま で)その原因、形態、そして表出が、ただ間接的にかつ、これまでに背景に押し留まっていたところから反していた、具体的には与えられていない否定的なもの であった。死との関連性のなかで見受けられていたものとしては、疾病は徹底的に判別可能なものとなり、[形而上学のごとく]言語とまなざしによる至高の解 剖によって思い起こされることなく、より開放(オープン)なものになった。その時とは、死が医学的経験の確固とした先験的なものであった。つまり、この時 期、死が医学的経験を認識論的に組み込まれていた時期であるこの医学経験は、反ー自然から疾病を分離することができ、かつ諸個人が生きている諸身体を具現 化することができたのである。【要チェック】

ポルトガル語

"Essa estrutura em que se articulam o espaço, a linguagem e a morte - o que se chama, em suma, de método anatomoclínico --- constitui a condição histórica de uma medicina que se dá e que recebemos como positiva. Positivo deve ser tomado aqui em sentido forte. A doença se desprende da metafísica, do mal com quem, há séculos, estava aparentada, e encontra na visibilidade da morte a forma plena em que seu conteúdo aparece em termos positivos. Pensada com relação à natureza, a doença era o negativo indeterminável cujas causas, formas e manifestações só se ofereciam de viés e sobre um fundo sempre recuado; percebida com relação à morte, a doença se torna exaustivamente legível, aberta sem resíduos à dissecção soberana da linguagem e do olhar. Foi quando a morte se integrou epistemologicamente à experiência médica que a doença põde se desprender da contranatureza e tomar corpo no corpo vivo dos indivíduos.(Tr. de Roberto Machado, 2006:216-217)"

The Birth of the Clinic: An Archaeology of Medical Perception (Naissance de la clinique: une archéologie du regard médical, 1963), by Michel Foucault, presents the development of la clinique, the teaching hospital, as a medical institution, identifies and describes the concept of Le regard médical ("the medical gaze"), and the epistemic re-organisation of the research structures of medicine in the production of medical knowledge, at the end of the eighteenth century. Although originally limited to the academic discourses of post-modernism and post-structuralism, the medical gaze term is used in graduate medicine and social work.[1]
クリニック=診療所の誕生。ミシェル・フーコーによる『診療所の誕生- 医学的認識の考古学』(Naissance de la clinique: une archéologie du regard médical, 1963)は、18世紀末の医療機関としての診療所(教育病院)の発展を提示し、Le regard médical(「医学的まなざし」)の概念、医学知識の生産における研究構造のエピステーメー再形成を同定し記述しています。本来はポストモダニズムや ポスト構造主義の学問的言説に限定されるが、医学的まなざしの用語は大学院医学やソーシャルワークで使用されている[1]。
The medical gaze
In the genealogy of medicine—knowledge about the human body—the term Le regard médical (The medical gaze) identifies the doctor’s practise of objectifying the body of the patient, as separate and apart from his or her personal identity. In the treatment of illness, the intellectual and material structures of la clinique, the teaching hospital, made possible the inspection, examination, and analysis of the human body, yet the clinic was part of the socio-economic interests of power. Therefore, when the patient’s body entered the field of medicine, it also entered the field of power where the patient can be manipulated by the professional authority of the medical gaze.[2]

In the 18th century, when the French (1789–1799) and the American (1775–1783) revolutions inaugurated the Modern era those events also established a meta-narrative of scientific discourse that presented scientists as sages—specifically, the medical doctors—who would abolish sickness and resolve the problems of humanity. By that cultural perception, 19th-century society replaced the scientifically discredited mediaeval clergy with medical doctors. The myth of medical sagacity was integral to the meta-narrative discourse of Humanism and of the Age of Enlightenment (17th–18th c.)—a historical period when people[specify] believed that the human body was the person[citation needed]. Such biological reductionism gave power of authority to doctors when they applied their medical gaze to the body of the patient, an interaction that allowed unparalleled medical understanding of patient and illness. In turn, the cultural perception of the medical gaze was the doctor’s near-mystical capability to discover hidden truth.[3]
医学的なまなざし
医学の系譜-人間の身体に関する知識-において、Le regard médical(医学的な視線)という言葉は、患者の身体を、その個人のアイデンティティから切り離して客観化する医師の実践を示すものである。病気の治 療において、ラ・クリニック(教育病院)の知的・物質的構造は、人体の検査、診察、分析を可能にしたが、クリニックは権力の社会経済的利害関係の一部で あった。したがって、患者の身体が医学の分野に入ったとき、それはまた、医学的まなざしの専門的権威によって患者が操作されうる権力の分野にも入ったので ある[2]。

18世紀、フランス革命(1789-1799)とアメリカ革命(1775-1783)によって近代が始まったとき、これらの出来事はまた、科学者を、病気 を撲滅し人類の問題を解決する賢者、特に医学博士として提示する科学言説のメタ物語を確立した。このような文化的認識により、19世紀社会は、科学的に信 用されていなかった中世の聖職者を医学博士に置き換えたのである。医学的知性の神話は、人文主義や啓蒙時代(17-18世紀)のメタ物語的言説に不可欠な ものであり、人体が人間であると信じられていた歴史的時代[要出典]であった。このような生物学的還元主義は、医師が患者の身体に医学的視線を向ける際に 権威を与え、その相互作用によって、患者と病気に対する比類ない医学的理解が可能になった。その結果、医学的なまなざしの文化的な認識は、隠された真実を 発見する医師の神秘的ともいえる能力であった[3]。
The epistemic change
Foucault's thesis about the birth of the clinic (teaching hospital) contradicts the histories of medicine that present the late 18th century as the beginning of a new empirical system "based on the rediscovery of the absolute values of the visible" material reality.[4] The birth of modern medicine was not a common-sense move towards seeing what already existed, but actually was a paradigm shift in the intellectual structures for the production of knowledge, which made clinical medicine a new way of thinking about the body and illness, disease and medicine:

The clinic—constantly praised for its empiricism, the modesty of its attention, and the care with which it silently lets things surface to the observing [medical] gaze without disturbing them with discourse—owes its real importance to the fact that it is a reorganization-in-depth, not only of medical discourse, but of the very possibility of a discourse about disease.[5]

In that light, the empiricism of the 18th and 19th centuries was not a dispassionate act of looking, noting, and reporting the disease presented before the doctor's eyes. The relationship between doctor and patient (subject and object) is not about the one who knows and the one who tells, because doctor–patient interactions are not "mindless phenomenologies" that existed before their consultation (medical discourse) as patient and doctor.[6] Clinical medicine came to exist as part of the intellectual structure that defines and organises medicine as "the domain of its experience and the structure of its rationality" as a field of knowledge.[7]

That epistemic change allowed a new way of thinking that replaced old scientific concepts with new scientific concepts. In The Order of Things: An Archaeology of the Human Sciences (1966), Foucault showed how history replaced taxonomy, systematic knowledge replaced collections of data. The teaching hospital, la clinique, was established upon the new medical praxis of verifiable observation, which is scientifically more accurate than the old medical praxis based upon religious interpretations of disease.

In the 18th century, the professional authority of the doctor was based upon his command of the organised medical knowledge of his time; in the 19th century, a doctor's authority derived from his command of the new, verifiable clinical medicine. An 18th-century doctor would examine a diseased organ as would a 19th-century doctor, yet, because of their different medical cultures, these doctors would reach different conclusions about the cause and treatment of the disease. Despite their perceptual differences of diagnosis, each medical report would be "true", because each doctor diagnosed according to a generally accepted way of thinking (an episteme) in which their respective forms of organised medical knowledge were considered factual. Hence, despite their medical researches having occurred thirty years apart, the father of anatomical pathology, Giovanni Battista Morgagni (1682–1771), and the father of histology, Xavier Bichat (1771–1802), did not practise the same human anatomy.[8]
医学的なまなざし
医学の系譜-人間の身体に関する知識-において、Le regard médical(医学的な視線)という言葉は、患者の身体を、その個人のアイデンティティから切り離して客観化する医師の実践を示すものである。病気の治 療において、ラ・クリニック(教育病院)の知的・物質的構造は、人体の検査、診察、分析を可能にしたが、クリニックは権力の社会経済的利害関係の一部で あった。したがって、患者の身体が医学の分野に入ったとき、それはまた、医学的まなざしの専門的権威によって患者が操作されうる権力の分野にも入ったので ある[2]。

18世紀、フランス革命(1789-1799)とアメリカ革命(1775-1783)によって近代が始まったとき、これらの出来事はまた、科学者を、病気 を撲滅し人類の問題を解決する賢者、特に医学博士として提示する科学言説のメタ物語を確立した。このような文化的認識により、19世紀社会は、科学的に信 用されていなかった中世の聖職者を医学博士に置き換えたのである。医学的知性の神話は、人文主義や啓蒙時代(17-18世紀)のメタ物語的言説に不可欠な ものであり、人体が人間であると信じられていた歴史的時代[要出典]であった。このような生物学的還元主義は、医師が患者の身体に医学的視線を向ける際に 権威を与え、その相互作用によって、患者と病気に対する比類ない医学的理解が可能になった。その結果、医学的なまなざしの文化的な認識は、隠された真実を 発見する医師の神秘的ともいえる能力であった[3]。

その認識力の変化は、古い科学的概念を新しい科学的概念に置き換えるという新しい思考法を可能にした。The Order of Things: An Archaeology of the Human Sciences, 1966)において、フーコーは、歴史が分類学に取って代わり、体系的知識がデータの収集に取って代わることを示した。教育病院であるラ・クリニークは、 検証可能な観察という新しい医学的実践の上に成立した。これは、病気に関する宗教的解釈に基づく古い医学的実践よりも科学的に正確である。

18世紀の医師の権威は、当時の医学の知識を整理したものであったが、19世紀の医師の権威は、検証可能な新しい臨床医学の知識に基づくものであった。 18世紀の医師は19世紀の医師と同じように病気の臓器を診るが、医学文化の違いから、病気の原因や治療法について異なる結論に達するだろう。なぜなら、 それぞれの医師は、組織化された医学的知識が事実であるとする一般に認められた考え方(エピステーメー)に従って診断しているからである。したがって、解 剖病理学の父であるジョヴァンニ・バティスタ・モルガニ(1682-1771)と組織学の父であるグザヴィエ・ビシャ(1771-1802)は、医学研究 が30年離れていたにもかかわらず、同じ人体解剖学を実践していたわけではない[8]。
The Archaeology of Knowledge
https://www.deepl.com/ja/translator
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Birth_of_the_Clinic




旧クレジット:池田光穂「言語の翻訳に成功した神谷美 恵子は、なぜ思想の翻訳に失敗したのか?」

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Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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