アイデンティティと生き方
The one's identity and the way of life of
one's self
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田辺繁治『生き方の人類学』講談社・現代 新書[→文化人類学、はじめの一歩;人類学の最前線]
【第6章】アイデンティティと 生き方(220ページ)
私はこれまでの章で、実践はたんなる個人
の主観的な行いや営みではなく、社会関係のなかで生みだされることを述べてきた。実践はコミュニティという社会関係のなかにおいてはじめて具体的な意味を
もってくる。では、行為者はそうした社会的に構築される実践のなかでいかに自分の位置を確認し、自分の生き方を追求していくだろうか。 |
・実践は、個人の主観的なおこないや、営
みではない。 ・実践は、社会関係のなかでうみだされる。 ・コミュニティは社会関係を生成させるものである。 ・社会的に構築されるものが実践である。 ・自分の位置を確認すること、自分の生き方の追求は、「実践のなかで」おこなわれる。 |
この最終章では、実践する行為者がコミュ
ニティに参加しながら、その一員であることを自覚するとともに、さらにそのなかで自分の位置を占有し、位置取りを確保していく可能性を追求してみたい。ア
イデンティティとは集団のなかに自分を見いだすことだけではなく、自分が自己に対する関係を築いていく過程をともなっている。 |
・行為者は実践することもあるし、実践し
ないこともある? ・実践者はコミュニティに参加しながら、そのメンバーであることを自覚することがある。 ・自分の位置を占有し、位置取りを確保していくことに、田辺は何らかの意味・意義を見いだす ・アイデンティティとは、「集団のなかに自分を見いだす」+(プラス)「自分が自己に対する関係を築く」ことでもある。 |
こうしたアイデンティティの形成とは、コ
ミュニティの規則や規範に同一化することではなく、世界に対する多様な関係を構築していく〈自由の実践〉、すなわち生き方の探求なのである。これまで検討
してきた北タイの霊媒カルト、エイズ自助グループやその他の事例を中心にしながら考えてみよう。 |
・したがって、アイデンティティの形成と
は、「世界に対する多様な関係を構築していく〈自由の実践〉」のことである。 ・「世界に対する多様な関係を構築していく〈自由の実践〉」こそが、田辺のいう生き 方である(田辺 2003:220)。 |
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・実践はコミュニティのなかで意味をもつ
・アイデンティティ構築に関する新概念を提唱
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■帰属意識
・帰属意識としてのアイデンティティ構築は、知識=技能の取得過程と表裏一体 (p.221)。
・実践コミュニティのアイ デンティティ形成をオートマチズムとしてとらえない(p.222)
■ウェンガー『実践コミュニティ』(→[Introduction to communities of practice, Etienne and Beverly Wenger-Trayner, 2015])
・ウェンガー主張のアイデンティティ形成の3プロセス(p.223-):アイデンティティ= 〈参加〉という行為+〈物象化〉プロセスの介在.
(1)実践へ参加:直接経験による形成開始
(2)想像を介在する:アイデンティティの形成
(3)指導者の人格資質/権威への追従:アイデンティティの強化(-p.224)
(4)〈交渉〉
■交渉により、意味を所有し、〈意味の経済〉のプロセスに参与する(pp.224-):意味の経済(メトリク ス)は、心のカウントと経済現象のむすびつきすなわち後の「行動経済学」の誕生を予感する。
(アメリカの保険会社の保険金支払い請求部門への調査)
・帰属意識と交渉(pp.226-)
■周辺参加と周辺非参加(p.227-9)
【周縁性のユートピア:人類学の場合】
「ヴィクター・ターナーが精緻に描いた通過儀礼は、社会の〈構造〉のな
かに育った若者が儀礼に特有な両義的な場である〈反構造〉をへて、ふたたび〈構造〉の
なかに回帰しながら新たな地位とアイデンティティを築いていく過程であった。しかし、
さまざまな民族誌においてしばしば露出する問題は、コミュニティに参加することに躊躇
し違和感をもち外部にとどまらざるをえない人びとの存在である」(田辺 2003:228)
・ダイアン・ボッジスの事例:レズビアンが幼児教育の教員養成カリキュラムに参加する時
・構築されていくアイデンティティそのものが〈幻想〉pp.228-229
・〈非参加〉という概念:「コミュニティへの参加は、むしろ彼女に〈非参加〉を促すことに なった」(p.228)。(→図式参照)
・「非参加とは、アイデンティティが単一ではなく多元的である可能性を示唆する。逆に言え ば、実践コミュニティ理論は行為者の帰属アイデンティティの構築にとられすぎることによって、アイデンティティの不安定性や多元的な可能性を排除してしま う危険性をともなうのである」(p.229)。
・「歴史を視点として組み込む」
■人類学批判としての実践コミュニティ論
「実践コミュニティのオリジナルなモデルは、人びとの認知や思考が他者とともに行われる実践 によって生みだされる過程を明瞭に主張している。それは文化、規則あるいは規範によって実践が生みだされるという伝統的な人類学の考えを否定し、実践の社 会的構築論を提起したものと言えるだろう」(p.229)。
■ウェンガーのアイデンティティ形成に関する〈交渉モデル〉批判(pp.230-1)
(1)交渉はコミュニティ内部へ向かう帰属意識を基盤としており、交渉を通して自己を差異化 するという発想(=過程)は考慮されていない。
(2)このモデルでは、自律的な行為者が言語によるコミュニケーション行為によって交渉可能 ということが前提にされている(→近代的な企業マネージメントが理想化されたもの)。
(2’)交渉の背景にある、権力関係が捨象されている(p.231)
■権力関係の中アイデンティティとは?
「〈権力関係〉とは、国家や政府のような装置や構造(cf. ウェーバー流の暴力装置論/生殺与奪の王権)をもって強制し抑圧する力(→「抑圧的権力」)だけを指すのではない。それは国際機構、グローバル資本主義、 民族関係から学校や会社、家族や親族、男性・女性にいたるまで社会の制度、組織や人間関係のすべてにわたってはりめぐらされた(cf.ネットワークの比 喩)力関係の網の目である(→「生産的権力」)」(p.232)。[→世に数多あるフーコーの解説書には、そのように書いてある]
・→「フーコー『知への意志』
ノート」
「権力関係は日常生活の実践のなかで複合的に作用する力の諸関係であり、アイデンティティは その関係性のなかで生まれる」(p.232)。
・「一点に凝縮するエッセンスのようなものではなく、権力関係のなかで発生する多くの要素が 偶発的に接合したセット」(p.232)。
■西欧的アイデンティティ批判(p.233-4)
・近代主体の自律的側 面を強調し、つねに独立した自己意識を形成するモーメント
・アイデンティティ構築の基底にあるのは「他者の存在」だ(→民族境界論)。
・権力関係のなかでつくりあげてゆくもの(前項参照)
・このようなアイデンティティ形成をおこなうことを、アイデンティティ化 (identification)と呼ぶ(p.235)。
■アイデンティティ化とは?
「権力関係のなかでより良 く生きる」とは?(p.234)
「主体は実体ではありません。それは一つの形式であり、とりわけこの形式はつねに自 己に対して同一になることはないのです。......人は自己とのあいだに、それぞれの場合ごと に、異なった形式の関係を働かせたり確立したりするのです」(フーコーからの引用、出典箇所の指定なし)(田辺 2003:235)
「フーコーはアイデンティティという言葉がきらいであり、それをつねに否定的にしか使 おうとしない。しかし、ここで彼が言う「一つの形式」とは、主体の自由に支えられた 生 きるためのアイデンティティにほかならない。アイデンティティとは主体の自由と表裏一 体であり、世界に対する自己の多様な関係性を創りあげていくことである。したがって、 権力関係のなかにおいて自らの位置を占有していく営みそのものが、アイデンティティと いう主体のあり方を創りあげていくと言ってよいだろう。ここでは、そうした創りあげて いく過程を〈アイデンティティ化〉(identification)と呼ぶことにしよう」(田辺 2003:235)
(1)不断の再構成(→バトラー)Judith P. Butler, Bodies that Matter: On the Discursive Limits of "Sex", (Routledge, 1993).
◆霊媒という生き方(236-)
(2)反復的構築
・「権力関係のゲームのひとまずの結末であり、そこで霊媒という心身統御が可能であるような 新たな自己の表象がつくりあげられる」(p.237)。
・PHAという生き方:「エイズ患者やHIV感染症者のアイデンティティは、彼らをさまざまな社会的活動から排除 しようとする行政的、社会的圧力によって、具体的かつ複雑な内面性をともなって構築されたものである」(p.238)
・「PHAとは、こうした権力関係の狭間にあって、彼らが自らを防衛し、生存を追求する/た めに選びとった自己表象であり、名乗りなのである。それはたんに社会が彼らにはりつけたラベルではない。むしろ、それは権力作用によって生みだされた、彼 ら自身のアイデンティティ化の過程においてもたらされたのである」(pp.238-9)。
※要するにプロセス重視というか、プロセスを本質化する実存主義ではないのか?(→サルトル 『ユダヤ人』)
【審問】では、どのようにしてPHAの人のアイデンティティに触れ、またそれを民族誌記述に
落とし込むことができうるのだろうか?
■ギデンズ(1991)の再帰的プロジェクト批判
・〈自己についての物 語〉を構築することにより自分の生き方を維持する(「自分は何をすべき か」「いかに行動すべきか」「いかなる人になるべきか」という問いかけを通して・・)pp.239-240
・再帰的プロジェクトを 実行に移すには、近代社会に発達した〈専門家〉を必要とし、また専門 家とその知識に依存することにより自己の再帰的プロジェクトは可能になる(p.240)。
・これらのギデンズが前提としている〈自己〉とは、西洋近代の自律的で合理的な〈自我〉にほ かならない(241)。
・「むしろ、必要なことは、不安な苦悩が権力関係のなかで発生し、そこで実践をとおして解決されなければならないという視
点なのである」(241)(※問題は、どのようにしてそれを知り得て、どのように処方を出せるか?)
・「彼ら(=霊媒やPHA)の実践がギデンズと決定的にちがうのは、彼らが過去・現在・未来 にわたって一貫する自己の持続性を求めるよりは、むしろ新たな生存の様式を求めていくことであろう。新たに霊媒になることは別個の存在様式を占有すること であり、感染者の療法の開拓と公共的なキャンペーンは、新しい生き方を創りだすことである。それらを貫くのは、未来における自己の存在の変革へ向けて開か れた物語である」(p.241)。
「したがって重要視されるのは、自己との関係の形式であり、それを磨きあげるさいの
手順や技術であり、認識すべき客体としての自己へ専心するさいの鍛錬であり、自己自
身の存在形式の変革を可能にしてくれる実践である」フーコー『快楽の活用』より(242)
・ヤッホー!! Marxist-Existentialist!
・「彼(=サムラーン君)の態度は自らを一個の倫理的主体として創りあげる道であるといって よい」(p.242)。
■自己の統治(243-):ほとんどフーコーの「自己統治論」
■統治(=権力)は細部に宿る
・「統治する権力は一枚岩のようなものではなく、大小の権力関係のネットワークとして機能す る。それは家族、地域社会、病院、医師、保健専門家、民間治療師、マスメディアなど社会のあらゆるレベルの活動領域を媒介として拡がっている」 (p.245)。
〈規律的権力論〉:「人びとの間で関係性として働き、個人を監視し規格化しながら管理さ れた主体に作りあげてゆく」資本主義にもっとも適合した身体と精神を主体として作りあげてゆく(→『監獄の誕生』『言葉と物』)
〈行かして支配する権力〉:「フーコーは権力が人びとの性的欲望、性的行動という個人の もっとも私的な部分に微細に介入しながら、人びとが自分の欲望を拡大させながら規範にそった「正常な」道徳的主体(cf. 倫理的主体p.242)として作りあげられる過程を示した。それは一般化して言えば、人びとの生存、欲望と幸福に配慮しながら彼らを〈生かして支配する権 力〉(→生−権力)の装置である。国民の安全と幸福を保障する近代の福祉国家も、住民の生活と身体のすみずみまで分けいって管理しようとすることの種の権 力の装置を引きついでいるのである」(p.243)。
・しかし、それは支配に抵抗する別の実践を根拠づける主体構築の可能性を拓く(→統治の技法、統治性)
・統治術は、臣民の統治の技法を召還する。(→「制度的な〈統治〉がつねに行為者自身の〈自 己の統治〉によって補完されることである。つまり、権力行使という統治の観念は、自分が自分を統治するという自分に対する関係性を含んでいるのである。し たがって、主体は自己の統治によって自律的、能動的に自分を形成してゆく可能性がある」(p.244):統治のフラクタル理論?あるいは星のカービィーの コ ピー機能?/他者をコピーできる者は自らをコピーすることができる)
※制度的な統治が、自己の統治により補完される:しかし、これは古くは虚偽意識論や、権 力による人民のコントロールやロボット化という表象により主張されてきたこと[正確には自己を統治する自己のアイデンティティという要素も加えて]と、そ れほど大きな違いがあるのだろうか?
・能動性は統治される/する領域のなかで保障される。ギリシャローマの養生術、家庭管理術、 恋愛術は、霊媒の憑依術、PHAの身体管理術や交渉術と比較考量される必要性を主張(p.244)。
■救済を放置することは 〈暴力〉を構成する
「国家とその医療行政機関は国民全体のHIV感染予防という使命を果たすために、感染者や患 者に対する救済や福祉向上についてほとんど有効な手段をとってこなかった。国民全体の利益のために敗者を切り捨てるこの統治の方策は、PHAに対して振る われる〈暴力〉にほかならない」(p.245)。
・(α)暴力による統治、(β)統治が生みだす暴力、を区分すべき。
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4.生き方の人類学(pp.247-)
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※実践=遍在論:「すべての実践は私たちにとって確実なところに属する。つまり、疑う余地のない ことである」(227)。それは言語ゲームにより説明されている。
【再掲】(狭義の)言語ゲームとは?:「子どもが本や椅子があるということを学ぶとき、それ
は同時
に本を取りに行ったり、椅子に座ることを学ぶという活動であり、それが言語ゲームである。すなわち、語(発話)と行為が一体となった活動の全過程」
(p.50)がそれである。(広義の)言語ゲーム:「言語と、言語の織りこまれたさまざまな活動の総体」
(p.50)。「言語ゲームとは、語とその対象といった固定された対応関係から解放された概念であり、それ
自体に多義性を含んでいる。しかし、しばしば批判されてきたその多義性、あいまいさそのものが、根源的に本質主義の対極にある人間の実践の多様な場面をと
らえるのにふさわしいのである」(p.51)。(→「実践知の世界」)
■彼らが実践の日法を編み出す=彼ら自身が社会的実践(p.246)
・生き方そのものが〈実践〉となる、というのはトートロジー? この論法でいけば、〈権力〉 に対抗できるのは〈権力〉や〜!ということになる。たぶんそうだろう。(→転生は、ここではトロツキーの永続革命論になる)
■人類学的命令語法
(1)「人類学はこの確実性をもった実践が社会のなかでいかに発生し、いかに機能し、伝達さ れていくかに注目しなければない」(p.247)
・実践コミュニ ティにおいて反復が変動をともなうのは、参加の実践は社会的行為だから。
(2)人類学=社会科学の「共同体」概念の放棄:「私たちはコミュニティの名のもとに「文 化」を共有しその規則と規範によって統合された「共同体」を想定することはやめにしよう。「共同体」の幻想のもとに、コミュニティを越えた実践の可能性と 拘束性、および権力の作用はしばしば隠蔽されてしまうからである。むしろ、実践コミュニティの考えは、人類学者自身が実践の生起し変動する現場に身をおく ことによって、そこにおける行為者の参加、協働、さらに〈アイデンティティ化〉の過程を明らかにすることに向けられる」(p.248)。(→「コミュニ ティの地平(248)」)
・松田『抵抗する都市:ナイロビ』のように「実践コミュニティは行為者が他者に対立し、戦略 を駆使し、また折り合いながら権力関係のゲームをくりひろげるミクロの場である」(249)。
スチュアート・ホールの引用(「誰がアイデンティティを必要とするのか」)
「私は〈アイデンティティ〉を、出会いの場、縫合点を表すものとして使用する。
一方で、私たちを特定の言説の社会的主体としてその場に召喚するために、「呼びか
け」、話しかけ、あるいは呼び止めようとする言説と実践がある。他方には、さまざ
まな主体性を生みだし、「語られ」うる主体として私たちを構築する過程がある。し
たがってアイデンティティとは、言説実践が私たちを構築しようとする主体の位置へ
の暫定的な結節点なのである」(249)。
(2’)自由=実践の差異化:「生き方の人類学は人びとの間のミクロの権力関係が凝集するコ ミュニティのなかの人びとの参加、協働、あるいは対立、交渉を記述するとともに、彼らの実践の差異化の過程、すなわち彼らのの〈自由〉を描かなければなら ないだろう」(p.250)。(民族誌としての「生き方の人類学」)
■田 辺の実践人類学:キーワード集
実
践、社会関係、慣習、権力関係、権力支配、差異化、ハビトゥス、参加、協働、対立、交渉、社会性、〈自己の統治〉、〈アイデンティティ化〉 |
■教訓
「この本は、霊媒やPHAたちがいかにより良い生を追求していくかという民族誌の実例をあつ かってきた。そこに示された実践の技法は彼らだけのものではなく、私たちにとっても、新しい生き方を創りだしていく可能性を指し示しているはずである」 (p.250)。
リンク(これを使った授業)
文献
その他の情報