はじめに よんでください

積極的な自由/消極的な 自由

Two kinds of Livetry: Negative liberty and positive liberty

池田光穂

Anima Sola, o Animas Del Purgatorio

自由(Liberty)と は、社会の中で、自分の生き方や行動、政治的見解に対して権力から課される抑圧的な制限から自由である状態のことである。自由の概念は、考え方や文脈に よって異なることがある。米国の憲法では、秩序ある自由とは、個人が不必要な干渉を受けることなく行動する自由(消極的自由)と、目標を追求するための機 会や資源へのアクセス(積極的自由)を公平な法制度の中で持つ、バランスの取れた社会を作ることを意味する。

消極的な自由状態、積極的な自由状態は、 それぞれ、消極的自由(negative liberty)と積極的自由(positive liberty)とも訳される。

消極的自由状態(negative freedom)とは、各人の活動が他者によって干渉されていない状態。自分がありたいようにある自由。積極的自由状態を、手の込んだ自由の抑圧と考え、 敵対する傾向がある。その主義主張には、無政府主義、リヴァータリアニズムが代表される。(以下はIsaiah Berlin"Two Concepts of Liberty"(1958),からの引用)

This makes it clear why the definition of negative liberty as the ability to do what one wishes - which is, in effect, the definition adopted by Mill - will not do. If I find that I am able to do little or nothing of what I wish, I need only contract or extinguish my wishes, and I am made free. If the tyrant (or 'hidden persuader') manages to condition his subjects (or customers) into losing their original wishes and embracing ('internalising') the form of life he has invented for them, he will, on this definition, have succeeded in liberating them. He will, no doubt, have made them feel free - as Epictetus feels freer than his master (and the proverbial good man is said to feel happy on the rack). But what he has created is the very antithesis of political freedom.

「このことは、事実上 J. S. ミルが採用した定義である、自分の望みをかなえる能力という消極的自由の定義がなぜ成り立たないかを明らかにしている。もし私が、自分の望むことをほとん ど、あるいは何もできないことに気づいたら、私は自分の望みを契約するか、あるいは消滅させればよいのであり、そうすれば私は自由になる。専制君主(ある いは「隠れた説得者」)が、自分の臣民(あるいは顧客)に対して、もともとの望みを失い、自分が彼らのために発明した生活様式を受け入れる(「内面化」す る)ように仕向けることに成功すれば、この定義によれば、彼は彼らを解放することに成功したことになる。エピクテトスが主人よりも自由だと感じているよう に(そして、善人は棚ぼた式に幸福を感じると言われている)。しかし、彼が作り出したものは、政治的自由のアンチテーゼそのものである。」

他方、積極的自由状態(positive freedom)とは、自分の自由を保障するためゆえに、政治(=一般意志)に関わりかつ自発的に政府の命令に従っている状態。自分が自分の身体を含めた 所有者であるという意志をもつために、それを自由に処分できる状態にある。多数者が積極的自由状態をとおして専制的になり、消極的自由状態を抑圧する危険 性をもつ。その主義主張には、社会契約論(ルソー)や民主主義が相当する。(以下はIsaiah Berlin"Two Concepts of Liberty"(1958),からの引用)

The 'positive' sense of the word 'liberty' derives from the wish on the part of the individual to be his own master. I wish my life and decisions to depend on myself, not on external forces of whatever kind. I wish to be the instrument of my own, not of other men's, acts of will. I wish to be a subject, not an object; to be moved by reasons, by conscious purposes, which are my own, not by causes which affect me, as it were, from outside. I wish to be somebody, not nobody; a doer - deciding, not being decided for, self-directed and not acted upon by external nature or by other men as if I were a thing, or an animal, or a slave incapable of playing a human role, that is, of conceiving goals and policies of my own and realising them. This is at least part of what I mean when I say that I am rational, and that it is my reason that distinguishes me as a human being from the rest of the world. I wish, above all, to be conscious of myself as a thinking, willing, active being, bearing responsibility for my choices and able to explain them by reference to my own ideas and purposes. I feel free to the degree that I believe this to be true, and enslaved to the degree that I am made to realise that it is not.

「「自由」という言葉の「肯定的」な意味は、個人が自分自身の主人になりたいと願うことから派生している。自分の人生と決断は、いかなる種類の 外的な力に依存するのではなく、自分自身に依存したい。他人の意志ではなく、自分の意志の道具でありたい。外から影響されるような原因によってではなく、 私自身の理由、意識的な目的によって動かされたい。物であったり、動物であったり、奴隷であったりするように、人間的な役割を果たすことができない、つま り自分自身で目標や方針を考え、それを実現することができない。これが、私が「私は理性的である」と言う意味、そして「私を人間として他の世界と区別する のは理性である」と言う意味の、少なくとも一部である。私は何よりも、自分が思考し、意思を持ち、活動する存在であることを自覚し、自分の選択に責任を持 ち、それを自分の考えや目的に照らして説明できるようになりたいと願っている。これが真実であると信じる限りにおいて自由であり、そうでないと気づかされ る限りにおいて奴隷であると感じる。」

この概念区分については、Isaiah Berlin(1909-1997) "Two Concepts of Liberty", delivered in 1958 as his inaugural lecture as Chichele Professor of Social and Political Theory at Oxford.

  • Berlin, I. (1958) “Two Concepts of Liberty.” In Isaiah Berlin (1969) Four Essays on Liberty. Oxford: Oxford University Press.(with password, pdf file)
  • 医療人類学辞典(自由)

  • Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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