かならず 読んでください

「考えることの自由」と「経験的事実の認定経験」について

John Austin and Isaiah Berlin in 1930s

カメレオン

池田光穂

オースティンによる「考えることの自由」と「経験的 事実の認定経験」について

「木曜日の夜に集ったわれわれは、時には道徳の問題 についても話し合ったが、これは本題の厳しい要求からの逃避と見られており、あまり何度もやってはならないことと考えられていた。意志の自由という問題を 論じたのはたしかである。それを論じている間にオースティンは、当時は確信に満ちた決定論者であったフレディ・エイヤーを挑発しないよう、低い声で私に 言った。「彼らはみな決定論について語り、そしてそれを信じていると言う。私は、これまで一度も決定論者に会ったことがない。君と私が人間はいつかは死ぬ と信じているのと同じような意味で、それを本当に信じている人という意味だがね。君は会ったことがあるかね。」私(=アイザイア・バーリン)はこの発言 で、彼が非常に好きになった。ある時、散歩しながら彼に質問を出したが、それにたいする彼の答によっても同じく私は彼が好きになった。私は彼に尋ねる。 「ある子供が、オーステリッツの戦いの時のナポレオンに会いたいというとしよう。私はいう、「それはできないよ」すると子供は言う、「何故できないの か」、それにたいして、「それは過去に起ったことだからだ。いま生きていて、同時に130年前に生き、同じ年齢でいることはできない」といったことを、私 が言う。その子はしっこく続けて、「何故できないのか」と言う。私は、「同時に二つの場所にいることができるとか、過去に《帰る》ことができるとか言うの は、われわれの言葉の使い方では意味をなさないからだ」等々のことを言う。するとこの高度に洗練された子は言う、「もしそれがたんなる言葉の問題ならば、 われわれの言葉の用法を変えさえすればよいではないか。そうすれば私はオーステリッツの戦いのナポレオンに会えて、しかももちろん場所と時間では今居ると ころに居られるようになるではないか」。私はオースティンに尋ねた。「その子に何と言うべきなのか。それは、いわば物質論と形式論を混同しているとでも言 えばよいのか」。オースティンは答えた。「そうは言うな。その子には、過去に帰ることを試してごらんと言えばよい。法則に反しているわけではないと言いた まえ。やらせてごらん。やらせて、どうなるか見させてごらん」。戦前にも思ったが、いま思っても、オースティンがいかに過度に学者振り、過度に慎重で、闘 技場に突入する前に防備を過度に完全にしようとしたとしても、彼は学の本性を理解していた——大抵の人よりもよく、哲学とは何であるかを理解していたと思 う」。

リンク

文献・出典

+++
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099