統治性に関するノート
On Foucaudian Governmentality
MINISTRY OF HEALTH & WELFARE QUARANTINE SERVICE 貴方の健康のために FOR YOUR HEALTH 到着年月日 Date of arrival ________ あなたは、外国旅行中、自分でも気付かないうちに危険 な感染症に感染する機会があったかも知れません。 従って、日本に到着後21日以内に、発熱、異常な出血、 下痢又は黄疸があったときは、自分の健康のため、このカー ドを持参して医師の診断を受けて下さい。 During your stay abroad you may be exposed to dangerous infectious disease without your knowledge. If you should develop, therefore, any sumptom such as fever, abnormal bleeding, diarrhoea or jaundice within twenty-one (21) days after arriving in this country, you are kindly requested to consult a physician, for the sake of your health, showing him this card. ◎診察する医師は上記のことを参考にしてください。 検 疫 所 _____Quarantine Station |
M・フーコー「統治性」覚書(集成239)(Collage de France, Feb.1, 1978.『治安、領土、人口』第四回講義)
【テキスト】M・フーコー「統治術」石田英敬訳、『フーコー思考集成VII:1978 知/身体』Pp.246-272、東京:筑摩書房.
【訳者による注記】
フランス語によるgouvernement, gouverner, gouvernementalite' の相互の意味を理解する。ラテン語の「統治する」は gubernare は操舵に由来する。
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■統治の技法への関心(16世紀)
・2つの運動が交錯するところに統治の関心が生じる。
1)領土・行政・植民地の巨大国家の樹立と整備(=国家集中の運動)
2)精神的な願い方を問い直す(=宗教的分散と離反の運動)
・具体的にどのような関心が持ち上がったのか?
1)ストア主義への回帰――自己統治
2)魂と行動の統治――司牧神学
3)子供たちの統治
4)君主による国家の統治
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・ニッコロ・マキャベリNiccolò Machiavelli(1469―1527)『君主論』(1513、公刊は1532年)に焦点化 される統治に関する議論の系譜を検討する(Nicolo Machiavelli, THE PRINCE, Translated by W. K. Marriott)。
・マキャベリは、フィレンツェの共和政の第二書記局(軍事・外交担当)長官であった。
・石田訳では、「マキェヴェリ」と表記されている。佐々木毅は「マキャベッリ」と表記する。
・君主論のマキャベリは君主制論者で、ディスコルシにおいては共和論者なのか?という議論はこれまでしばしばおこなわれてきた(アルチュセール 2001:410)。
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献辞 - ロレンツォ・デ・メディチ殿下に捧げる 第1章 - 支配権の種類とその獲得方法 第2章 - 世襲の君主権について 第3章 - 複合的君主権について 第4章 - アレクサンドロスによって征服されたダレイオス王国では、アレクサンドロスの死後、その後継者に対して反乱が生じなかったのは何故か 第5章 - 征服される以前、固有の法に従って統治されていた都市や君主国をどう支配すべきか 第6章 - 自己の武力と能力とで獲得した新しい君主権に ついて 第7章 - 他人の武力または幸運によって得た君主権について 第8章 - 極悪非道な手段によって君主となった場合について 第9章 - 市民の支持によって得た君主権について 第10章 - どのようにすべての支配者の力を測定すべきか 第11章 - 教会の支配権について 第12章 - 軍隊の種類と傭兵について 第13章 - 援軍と自己の軍隊とについて 第14章 - 軍事に関する君主の義務について 第15章 - 人間、特に君主が称讃され、非難される原因となる事柄について 第16章 - 気前良さとけちについて 第17章 - 残酷さと慈悲深さとについて、敬愛されるのと恐れられるのとではどちらがよいか 第18章 - 君主は信義をどのように守るべきか 第19章 - 軽蔑と憎悪とを避けるべきである 第20章 - 砦やその他君主が日常的に行う事柄は有益かどうか 第21章 - 尊敬を得るためにはどのように行動したらよいか 第22章 - 君主の秘書官について 第23章 - 追従を避けるにはどうしたらよいか 第24章 - イタリアの君主達はどうして支配権を失ったのか 第25章 - 人間世界に対して運命の持つ力とそれに対決する方法について 第26章 - イタリアを蛮族から解放すべし 出典:ウィキ「君主論」 |
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■「反マキャベリ文献」の登場(pp.249-)
例)フリードリヒ大王(二世)『反マキャベリ論』(1740)
・マキャベリ=君主の外在性・超越性。君主制における領土と住民の不在。「唯一の統治者」
・反マキャベリ=領土を保全する技巧としての統治の技法。統治の多元性、(世俗との)連続性。
・19世紀初頭にマキャベリ評価が再浮上する。
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【1】マキャベリの原理による統治(pp.250-1):反マキャベリ文献からの照射
(1)君主の単一性・外来性・超越性(→権謀術策の正当性)
(2)これにより君主は脆弱でヴァルネラブル(→権謀術策の行使理由)
(3)権力行使の目的における(君主の所有物である)領土維持の至高性(→権謀術策の絶対的根拠)
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■マキャベリ著作の分析の2つのあり方
(1)危険・危機の察知
(2)領土管理のための力の技法の探求
■反マキャベリ文献は〈技法の所有〉ではなく〈別の技法の提示〉をおこなっている。
「大まかに言えば、これらの明示的あるいは暗黙の反マキャベリの立場をとる様々な論の行間から垣間見える反マキャヴェリの『君主論』 は、本質的に君主が自らの領国を保全する技巧についての論として現れるのです。私の考えでは、反マキャヴェリ文献は、こうした技巧についての論、君主のノ ウハウについての論に対して、何か新しいものを対置しようとしているのであって、それこそが統治の技法というものだとされる。領国を巧みに保全するという ことは、統治の技法を所有するということはでは全然ない、というわけです」(p.251)。
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・ラ・ペリエール(1555):数多くの統治がある。
(君主、皇帝、領主、行政官、聖職者判事、はては教師や父に至るまで)「統治の形式の複数性と、統治の活動の国家に対する内在性とが 存在している。こうした多数性と内在性とは、マキャヴェリの君主の超越的単一性に根本的に対立するわけです」(p.252)。
--------p.253-------
・ラ・モット・ル・ヴェイエ(pp.253-4)
三形式統治:(a)自己の統治=道徳、(b)家族の統治=エコノミー、(c)国家の統治=政治
1)上昇的連続性:君主教育論/自己→家庭→国家の上昇的連続性
2)下降的連続性:政治/国家→家庭→自己
・これらの3形式の原理を調停しているのが家政=経済に由来する「エコノミー」である。エコノミーは、ルソーの百科全書の同項目を参照のこ と。
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■統治技法としての〈エコノミー〉……(1)
・ルソー、ケネーにみられる、技法と技法目的のトートロジカルな同一性
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■統治技法としての〈配列〉……(2)
・マキャベリ:領土に準拠する統治
・反マキャベリ:領土に準拠しない統治。
■事物の配置としての統治(ラ・ペリエール、p.256)
・ギョーム・ド・ラ・ペリエール「統治とは〈1〉諸々の事物の正しき配置であり、ひとは、〈2〉事物をふさわしき目的に導くため、事物に対する 責を負うのである」(p.256)。
・領土的概念なしの統治
1)マキャベリ:領土の統治で、人口は付加的条件として存在。
2)反マキャベリ=ラ・ペリエール:統治対象は、人間と事物からなる複合体。
・反マキャベリにおける「統治」概念のまとめ=事物を統治すること
--------p.257-------
■事物を統治すること
反マキャベリにみられる、領土に準拠しない統治の概念。では何を統治するのか? それは「事物」を統治することである。事物を統治する際の技
法は、操舵(-naut)である。
■本質的問い
国家統治と家族統治の技法の類縁性
【2】事物の配置としての統治
■〈事物は人間の対立物ではない〉ことの根拠(p.257)
・統治を船の操舵/操船にたとえること。すべての事物を関連づけること。
・ふさわしき目的に導くための事物の配置であり、主権に対立するもの。
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■(目的性としての)統治は主権に対立する。なぜなら、主権は目的をもちうるから……(?)
「主権は哲学の文献においても司法文献においても、純粋かつ単純な権利そのものとして提示されたことなど一度もない。正統な主権者 [=君主]には自らの権力を行使する正当な理由がある、ピリオド、文終ワリなどと、法律家たちによって、また、なおさらもって神学者によって、言われたこ となど一度としてない。主権者は、良き主権者であるためには、つねに、ひとつの目的をみずから心がけねばならず、それはすなわち「共通の善と万人の救済」 ということであるのです」(p.258)。
--------p.259-------
■マキャベリ的主権の〈目的〉の循環性
・主権者は国家の益にならないのなら、自分にとっての益となしてはならない。他方、公共の善は「本質的には法への服従、地上における主権者の 法、あるいは絶対的主権者、つまり神の法への服従」(p.259)である。つまり、共通善=一般善は絶対的服従そのもの。したがって、主権の目的は循環的 である。主権の目的は行使そのものに他ならないものになり、それは絶対的価値をもつことになるので。
・ラ・ペリエールの統治目的との相違点:共通善にむかうものではなく、統治すべき事物を、それぞれにふさわしい目的に導いてゆく。
【3】事物の配列から生じる統治目的の複数性(pp.259-)
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■統治目的の複数性(p.260)
・富を産みだし、生活の糧を得ること、人口が増加すること……。目的が複数あるから、事物を配列する。そこにはマキャベリ的主権の目的であ る法への服従や強制はない。法律よりは戦術を使うことで、事物が配列されることを目的とする。
・ここでは、主権の〈目的〉と、統治の〈目的〉が対立概念となる。
・法律が後退し、経済学や重農派が浮上する。
■〈法の後退〉
・「主権の目的は主権それ自体のうちにあり、主権は自らの道具を法律という形でそれ自体から引き出すのに対して、統治の目的の方は、 それが導く事物のなかに存在する。統治が導くプロセスの完成、最適化、強化のなかに目的は求められなければならず、統治の道具とは、法律ではなく、さまざ まな戦術であるということになる。法はしたがって後退する、というかむしろ、統治のあるべき姿からいえば、法は主たる道具には決してならない」 (p.260)。
【4】統治者の忍耐・智慧・勤勉に表象される、統治者の性格付け(pp.260-)
・マルハナバチの毒針の不在=強制力の不在
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・必要なのは法の知識ではなく、〈目的〉に関する知識(→統計学:statistique は国家(Eatat')の学が原義)
・統治される者の範になる、統治者
・「統治の技法の理論は、16世紀以降、領土君主体制の発展(統治の機構、伝達系統等の出現)と結びつけられることとなった。また16世紀末以来発達し、 17世紀に勢いをもった分析と知識の総体とも結びつけられていた。分析と知識の総体とは、おもに、さまざまなデータ、さまざまな次元、勢いのさまざまな要 因としてのあの国家についての認識であって、まさしくひとが国家(Etat)の学としての「統計学(statistique)」と呼んだものでした。最後 に、三番目に、統治の技法の研究は、重商主義及び財政主義と相関関係にあらざるをえないのです」(pp.261-2)。
--------p.262-------
■17世紀における統治技法停滞の原因(pp.262-)
(1)17世紀における危機的状況:30年戦争とそれがもたらした社会的荒廃
(2)17世紀中期の農民暴動と都市暴動
(3)17世紀後半の財政危機と食糧危機
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■主権と統治技法を折衷させる重商主義の台頭(17世紀)
・
--------p.264-------
・2つの統治技法の方向性
α)主権の一般形式
β)家族の統治
■統治技法閉塞から18世紀の打開の背景(pp.264-)
1)人口増大
2)通貨の過剰
3)農業生産の増大
--------p.265-------
■人口の問題(p.265)
(1)人口の固有の規則性の発見(家族に還元できない)
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■人口の問題(続き)
(2)統治モデルとしての家族の消失
(3)統治=政府(グヴェルヌマン)の最終目的としての人口(p.266)
■統治=政府(グヴェルヌマン)の最終目的としての人口
・統治の機能が、領土内の人口の生命の伸展にあり、人口そのものに働きかけるようになる。
--------p.267-------
■統治の目的にして道具となる人口(前ページから引き継がれた結論)
・「人口は、必要や希求の主体として現れると同時に、また統治=政府の手のうちにある客体として現れる。人口は、統治=政府を前にし て自分たちが望んでいることについて意識しているが、同時に、ひとからするようにさせられていることについては無意識なのです」(p.267)。
・「人口は、統治=政府が、合理的かつ熟考されたやりかたで実効的に統治するにいたるために、自らの観測と自らの知において考慮に入れなければならない対 象となるのです。統治の知の成立は、広義の人口をめぐるあらゆるプロセスについての知、まさしく人々が「経済学」(エコノミー)と呼ぶ知の成立と絶対に切 り離しえない」(p.267)。
■政治経済学における人口という新しい主体の出現
・「統治の技法から政治学への移行、主権の諸構造に支配された体制からの統治=政府の諸技術に支配された体制への移行は、18世紀 に、人口をめぐって、したがって、政治経済学の誕生をめぐって行われたのです」(p.267)。
■主権の問題(pp.267-)
--------p.268-------
■規律(ディシプリン)の問題(p.268)
--------p.269-------
■人口にまつわる問題(p.269)
「事態は、主権の社会が規律の社会に、次いで、規律の社会が、いわば、統治の社会に置き換えられた、というように理解されるべきでは ありません。じっさいは、主権――規律――統治的管理という三角形があるわけで、その主要な標的が人口であり、その基本的メカニズムが治安の装置なので す」(p.269)。
■3つの運動(p.269)
(1)統治の選択という問題の背景に主権の恒常要素を追いやった運動
(2)人口をデータ/介入領域/統治技術の目的として出現させる運動
(3)経済の固有領域化/政治経済学の科学化/政府の技術的介入として位置づける運動
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■「統治性」の3つの含意(p.270)
(α)諸々の制度
(β)諸々の手続きと分析と考察、計算
(γ)戦術からなる全体
■国家への愛と嫌悪(p.270)
「私たちは18世紀に発見された統治(=政府)性の時代に生きているのです」(p.271)。
「もしも国家がいま存在しているように存在しているとすれば、それはまさに、同時に国家に内在的でも外在的でもある、この統治性のお かげであるというのはありえることなのです。というのも、統治の戦略こそが、個々の瞬間に、国家の管轄であるべきもの、国家の管轄であるべきでないもの、 公的なもの、私的なもの、国家的なもの、国家的でないものを定義することを可能にするからです。したがって、いうならば、統治性の諸々の一般戦術からし か、延命した国家、限界においてある国家は理解されるべきではないのです」(p.271)。
--------p.271-------
■権力のエコノミーの3タイプ(p.271)
(1)裁判国家:
「封建的タイプの領土性において誕生し、概ね掟の社会――慣習法と成文法――に対応し、約束と争いのゲームを繰り広げる」。
(2)行政国家:
「15世紀と16世紀に、もはや封建的ではなく辺境的なタイプの領土性において誕生し、規則と規律の社会に対応」する。
(3)統治国家:
「集団(マス)によって定義される」。
■統治性の配置ついての話題(pp.271-272)
(1)「この統治性は、キリスト教の司牧神学というアルカイックなモデルからどのように生まれたのか」。……〈司牧神学系の問い〉
(2)「この統治性は、モデルというより、外交的、軍事的技術に依拠することによって、どのように生まれたのか」。……〈外交−軍事 技術系の問い〉
(3)「この統治性は、どのようにして、現在それがもつ規模を、かなり特殊な一連の道具によってしか獲得しえなかったのか」。…… 〈ポリスの問題〉
「私の考えでは、これらの三大要素(〈司牧神学系の問い〉、〈外交−軍事技術系の問い〉、〈ポ リスの問題〉で示された要素――引用者)から発して、国家の統治化=政府化という、西洋の歴史において根本的な意義をもつ現象はおこったのです」 (p.272)。
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【応用問題】
・植民地状況における、法の強制と統治目的の共存。
マキャベリ的主権からラ・ペリエール的統治目的へと事態が、すんなりと断絶しているわけではない。また、西欧においても、フーコーが断絶と して描いた、法による強制はなくなった訳ではない。フーコーなら、かつて法の強制が公共善の中心として存在したのが、統治術の機能の一つに法的制度が組み 込まれたと言うかも知れない。
ホッブス的理性の動員
◎「おそらくここに、マキャヴェリの孤独の極みがある。政治思想史の中につかのまに彼が占めた、ユニークな席に。道
徳的強化をめざして長らく続いてきた宗教的・理想主義的政治思想の伝統、彼が峻拒した伝統と、それに続く自然法
という政治哲学の新しい伝統、すべてを覆い尽くし、新興ブルジョアジーの自己確認をなした伝統との隙間に在る席。
後者の伝統がすべてを覆い尽くしてしまう前に、前者の伝統から自由になったこと、これがマキヤヴェリの孤独であ
る。後続する自然法の伝統の中で、ブルジョア・イデオローグたちは、以後も営々と語り継がれていく国家の歴史=
物語を語りはじめた。はじめに自然状態があった、それは戦争状態へと続き、やがて戦争状態は、国家と実定法とを
誕生させる社会契約で終息する。完全に神話的な歴史=物語だが、それは耳に快い。国家の中で生活する人々に、そ
れは、要するに、こう説明するわけだから。国家の起源には、いささかの恐怖もない。そこに在るのは自然と法であ
る。国家は法的なものにほかならず、法のごとく純粋で、法のごとく、人間の本性=自然の中にある。国家ほど自然
的かつ人間的なものがあろうか?」(アルチュセール 2001:416-417)。
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