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分析哲学に「検閲」の文字なし
芸術と社会の係留点に関する社会学的考察
池田光穂:大阪大学COデザインセンター
第94回日本社会学会大会;テーマセッション「芸術は社会の変容を予言する」落合仁司座長
2021年11月13日09:30-12:30
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【2】はじめに私の発表の結論の先取りをしておきます
政治的にデリケートな作品の排除や猥褻性の検閲の社会的効果とは、問題になった作品が「もはや/もともと芸術ではない」という判定がなされ、政治と芸術
という保護と被保護の政治的関係を意図的ないしは被意図的に忘却を促すものであることが示唆されます。このような境界領域における排除メカニズムは、プロ
パガンダ芸術と純粋芸術の間には線引きができ、純粋芸術こそが人類が継承すべき芸術であることを擁護するイデオロギーとして機能します。もし、芸術が社会
の変容を予見するという表現をより的確に表現すれば、現代では芸術から「あるものXを」排除するメカニズムの様態こそが来るべき社会の未来像を予見するこ
とになるように思えます。
なお、本発表の分析哲学とは、アーサー・ダントーらが切り開いた20世紀最後の四半世紀の美学研究に与えられた「分析美学」というニックネームに由来するもので、言葉の厳密な意味における分析哲学のことではないことを、あらかじめおことわりしておきます。
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【3】芸術は社会を予見するというテーマ部会における落合仁司先生の主張を命題化すると、次の3つにまとめられます。
(1)カントの『純粋理性批判』『実践理性批判』と『判断力批判』のあいだには、理性の感じ方には共通点をもたない2つの種類の理解がある。つまり思考や正義は共同体成員の共通感覚である。それに対しては、美的判断は個人固有の趣味判断に関わるものだということ。
(2)20世紀以降の芸術には芸術の定義をめぐる大いなる変革があった。それをまとめてアーサー・ダントーは、芸術定義を、次のように定式化します。つま
り芸術とは、芸術家の固有の思考を他者の感覚に触れることができるように具体化されたもの、であると。これを落合先生は〈遠近法による芸術表現〉観である
と主張されます。この遠近法の用語は次の(3)に続きます。
(3)近代社会と現代社会には、市民の探求の結果として異なる「個人化」の諸相がみられる、と言います。つまり、快楽の追求が「社会の功利主義的個人化」を生んだ近代社会と、遠近法の追求が「社会のパースペクティブな個人化」を生みつつある現代社会との違いです。
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【4】次に、落合先生の議論を受けて、パースペクティブな個人化の社会理論を構築した理論社会学者とも言える2人の理論家を挙げておきます。
(4)まず最初は、この用語と概念を実際に使って思索したフリードリヒ・ニーチェです。ニーチェには、その力づよい論調とは裏腹に対してその認識論には度
し難いペシミズムがあります。引用します「現存在のパースペクティブな性格はどこまで及ぶのか,あるいはまた、現存在は何かそれとは別な性格をも有ってい
るのか……それというのも、こうした分析をおこなう際に人間の知性は,自己自身を自分のパースペクティブな形式のもとに見るほかなく、しかもその形式の内
でのみ見るほかはないからである。わわわれは自分の存在する片隅の周囲を見ることができない。そのほかにもどんな種類の知性やパースペクティヴィズムがあ
りうるのかを知ろうとすることなどは、徒な好奇心でしかない」(『悦ばしき知識』)。
(5)それとは好対照なのがアルフレート・シュッツです。シュッツがパースペクティブ(=観点)を肯定的に捉えるのは、われわれがいかに思い悩もうとも自
明な経験——の記述——から出発するしかないという実践的理由に由来するのです。シュッツは言います「こうしたパースペクティブ(=観点)の互換性および
有意性の一致という二つの理念化は、思考対象の類型的構成物であり、私や他者の私的経験における思考対象を越えるものである。私は、こうした常識的思考の
〔類型的〕構成物の働きによって、私が自明とみなしている世界の部分は、個性的な他者である汝にとっても自明なものであり、さらには、「われわれ」にとっ
ても自明なものである、と仮定しているのである(『現象学的社会学』)。ここからは全く蛇足ですが、形而上学的なものを嫌い思索を事象そのものへと謳う現
象学運動の帰結が、自明という出発点(=原理)を肯定する態度は、社会の形而上学に回帰していく暗い運命にあったことを示唆しています。
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【5】
落合理論ないしはダントーの芸術の定義、すなわち、芸術とは芸術家の固有の思考を他者の感覚に触れることができるように具体化されたもの、と首肯してもな
お、その「観念に権威を与え、理解し、それに基づいて何かの実践を引き出すことができるもの」すなわち芸術のイデオロギー機能について私は気がかりになり
ます。そのため、私は落合=ダントーの芸術(鑑賞)の社会的機能について、一定の見立て(パースペクティブ)を示しておきます。
それは、芸術の機能が、(i)啓蒙主義時代では精神的陶冶=趣味判断の訓育に作用し、(ii)快を生じせしめる功利の追求とその是認し、(iii)意味や
思考を訴える作品からパースペクティブな存在が受容するメッセージとして作用するものとして、捉えられてきた歴史があることを認めたいと思います。これら
の機能が、たんに時間の経過に伴い次から次へと推移するだけでなく、濃淡の変動を抱えながら重層的に存在すること。それが芸術の定義や正当性をめぐる闘争
の場を形成するという見方を提示したいと思います。それが芸術のイデオロギー機能と名付けられるものです。 |
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【6】
社会学的には、この3つの立場の理解する理論家が存在します。①趣味判断の良さでは、(社会階級)訓育や階級の再生産であるとするピーエル・ブルデュの立
場です。次に、②快を生じせしめる功利の追求では、(家庭教育)鑑賞のみならず芸術活動の模倣を実践する。そして、快は普遍的であると同時に文化の中で獲
得される立場です。そして最後は③意味や思考を訴える作品の理解こそが芸術の意味であること主張した落合=ダントーの芸術論である。芸術をめぐる論争に意
味を求めることは、言い方を変えると、現代の私たちは、《芸術が公共性を持つ》時相の中に生きていることになる。る
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【7】
ダントー=落合によると、芸術とは具象化された意味や思考であり、それは社会をみるパースペクティヴィズムそのものです。新しく生まれつつある芸術(=真
正性の美的判断)は、それゆえ社会の変容を予見するものです。問題は、現今の芸術性がどのように維持されているのか、また社会(の価値判断)はいかなるメ
カニズムを通して芸術の真正性を保証しようとするのかであり、それを検証するのが私の本報告の目的です。
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【8】繰り返しますが、新しく生まれつつある芸術(=真正性の美的判断)は、それゆえ社会の変容を予見します。私は、芸術の真正性に着目して「芸術と社会の付き合い方」について考察します。
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【9】制作されてから155年が経つのに今だにスキャンダラスな、ギュスターヴ・クールベ「世界の起源」を見てみましょう。
ギュスターヴ・クールベ「世界の起源」Gustave Courbet, L’Origine du monde, 1866
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【10】後年、藤田嗣治もこの絵の模写を試みています。
藤田嗣治, après Courbet L'origine du monde, n.d.
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【11】歌川国芳作といわれる、銘「逸見八景」をそれに添えられた景観的アイテムのせいで風景=パースペクティブとして捉えられていますね。
銘:逸見八景, 歌川國芳?
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【12】
しかし、私たちはこのような人の気持ちを逆なでするようなものを、落ち着いた芸術として「消費」することができません。クールベの「起源」の17年前に描
かれた「オルナンの埋葬」1849年をみつけた時の安堵は、皆さんにも共有していただけるのではないでしょうか?にも関わらず「世界の起源」はポルノグラ
フィーでもないし「逸見八景」もオリエンタリズムの対象というよりも浮世絵という限りなく手工芸品に近い複製技術と、そのようなジャンルの時代的背景に人
々は関心を持つようになります。言い方を変えると、落合=ダントーの芸術の定義の待つかのように「世界の起源」は155年間沈黙を守ってきたのでしょう
か? |
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【13】私はその理論に明るくありませんが、フロイト=ラカンにおける心理的な「検閲」について考えてみたいと思いますが、それと全く無関係ではない政治的な介入による「検閲機能」についての事例を、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」に求めてみましょう。
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国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」(津田大介芸術監督)の企画展「表現の不自由展・その後」の中止をめぐる愛知県の検証委員会(座長=山梨俊
夫・国立国際美術館長)は[2019年9月]25日、中間報告をまとめた。企画展の展示方法に多くの欠陥があったと指摘した上で、津田氏の責任に言及し、
リスクを回避する仕組みが芸術祭実行委や愛知県庁に用意されていなかったと批判している。……報告は、不自由展の展示方法を問題視した。慰安婦を表現した
少女像や昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品などに抗議が集中したことについて、「作者の制作意図等に照らすと展示すること自体に問題はない作品だ」と
するが、「制作の背景や内容の説明不足」を指摘。「政治性を認めた上で偏りのない説明」が必要で、「すなわちキュレーション(企画の実施手法)に失敗」し
たと批判した。(朝日新聞 2019年9月25日)
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【14】このスライドは、もはや日本人なら誰しもが知ることとなった、元慰安婦を象徴する「平和の少女像」の作者(キム・ソギョ ン)の作品ですね。
国際芸術祭「あいちトリエンナーレ
2019」の企画展「表現の不自由展・その後」は再開から3日目の10日、200人が鑑賞した。元慰安婦を象徴する「平和の少女像」の作者(キム・ソギョ
ン)らが自作を観客に紹介する場面もあった。9日に引き続き午前と午後の計6回公開され、計210人の定員に対し延べ1957人が抽選に参加した。目立っ
たトラブルはなかった——産経新聞 2019年10月10日
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【15】
ニック・ウット(AP通信)「ナパーム弾から逃げる少女(The Terror of
War)」ピュリツアー賞ニュース速報部門1973年受賞作品は、2015年から2016年ごろ「女児の裸」=児童ポルノと認定されて削除されましたが、
その後復活しました。この写真は、戦争当事者であるアメリカ合衆国の知識人が反戦のシンボルとして頻繁に利用されましたが、現在この女性は米国で生活して
います。Facebookもまたアメリカ合衆国発の世界企業です。バンクシーがどのような「意図」でアメリカ資本主義を代表するミッキーマウスとドナルド
を配したのかは計りかねますが、この作品がもつ「毒=薬(ファルマコン)」の効果の大きさは誰しもが認めるところでしょう。
ニック・ウット(AP通信)「ナパーム弾
から逃げる少女(The Terror of
War)」 ピュリツアー賞ニュース速報部門1973年受賞作品/バンクシー(n.d.)/ピュリツァー賞の写真を「児童ポルノ」として削除,
Facebookが検閲撤回へ(HUFFPOST, 2016年9月10日)
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【16】
このような話は他人事ではありません。私も関わった翻訳の中に、ピカソと思しき男性が描かれてる(作者不明)スケッチの男性性器がオリジナルでは隠されて
いることを、出版社が入手した電子データの解析からわかりましたが、これも、身の回りにある「検閲」でしょうね。
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【17】
このことは、現代社会では芸術を定義する否定的な力として「検閲」がもつ意味の考察を私たちに求めているといっても過言ではありません。猥褻の管理や、そ
れを運用する抑圧的権力が、じつは抑圧的に権力を行使しているのではなく、権力の「性の語り」を生産的な方向に持たせているというミッシェル・フーコーの
話も思い出すこともあるでしょう。
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【検閲】けんえつ・censorship「衝動(=欲望?)を評価し批判する(ことが検閲の機能である).超自我および自我は検閲の機能をもち、検閲する
ことによってもとの衝動を意識によって受け入れることができるように変容させる.……無意識的願望は検閲の目をごまかすことができるように変更され,移し
換えられたり,類似のものに置き換えられ比喩(換喩・隠喩)的に表現されたりする」ニッポニカ).つまり検閲は心の適応のためのメカニズムである.
• 猥褻についてはフーコー『性の歴史I
:知への意志』ヴィクトリア朝時代における「性の管理」とは、抑圧的権力がそれについて黙らせるのではなく,性について語らせることを通してコントロール
するというテーゼを主張.またチャタレー裁判(1951-1957)は,芸術作品であっても猥褻性がないとは言えないと判決趣旨に記すことで,表現の自由
と検閲の禁止(憲法第21条)を実質的に否認するという意味で「画期的」である.なぜなら検閲は「社会の適応」のためのメカニズムであり,人びとはそれを
逃れるために芸術という創造力=権力への意志を駆使する.
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【18】
時代が20世紀になって、ナチスドイツが「退廃芸術展」を開催し、検閲し隠蔽のために抑圧するのではなく、すくなくとも、その最後の部分では公開を大々的
におこない、否定の力をつかって全体主義的啓蒙を行うというのも、ある種のフーコー的な生産的権力の顕れなのでしょうか?
• 芸術と政治(=社会批判)の結びつき:ナチス政権時代に新即物主義(Neue
Sachlichkeit)の作品を退廃芸術展として批判することと,ソビエトや革命後の中国におけるプロレタリア芸術の称揚は鏡像の現象である.ここで
焦点化されているのは芸術作品の(プロパガンダを含めて)社会的批判/無批判の機能である.この現象への嫌悪から,芸術と政治は近くべきではないという
「反面教師的教え」が導かれる.
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2019年「表現の不自由展・その後」におけるキム・ソギョンによる少女像,大浦信行の動画作品「遠近を抱えて Part.
II」を批判したり展覧会全体を中止に追いやった人びとは「芸術に政治を持ち込むな」という検閲政治(=威圧行為)に成功し,その後の議論に人びとに沈黙
をもたらした点で恐怖による政治(=テロリズム)を実行したと言える.
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【19】芸術とならび、それに随伴する検閲現象の遍在化については時間の関係で省略させていただきます。
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【検閲現象の遍在化】「芸術が社会の変容を予言している」現代社会において、検閲がこれほどまでに横溢する——検閲は細部に宿る(Sensorship
is in
detail)——のはどうしてか?E・フロム流にいえば超自我や自我による芸術を我有(appropriation)するプロジェクトが進行しつつある
ということだろう.他方,検閲が強化されればされるほど抑圧している衝動(=欲望?)の暴発は時間の問題となる(=求む!W・ライヒのオルゴンボック
ス).そして暴発までの時間を人びとは現在以上に神経症とうつ症状で過ごすことになる.
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【検閲との付き合い方】他方、検閲は心の適応のためのメカニズムでもある.なぜなら,検閲することによってもとの衝動(=欲望?)を意識によって受け入れ
ることができるようなるからだ.だが,伝統社会における祝祭のサイクルのように,検閲の意識化(conscientization of
sensorship)と衝動(=欲望)の定期的な解放は——チベット密教やニューエイジのスピリチュアリズムに帰依する以外は——不可欠であるように思
われる.20世紀末から活発になりつつある政治的ポピュリズムや原理主義の台頭はニューエイジの瞑想と同様の機能をもつ(S.Zizekの所論)
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【20】
アーサー・ダントーが、アンディ・ウォーホールの作品「ブリロボックス」をみて、芸術の社会的機能を「発見」したように、私にとっての思考を大いに刺激す
るサルバードール・ダリの作品『聖アントニウスの誘惑』——ヒエロニムス・ボッシュの同名の宗教絵画と併置される——をみてみましょう。
ヒエロニムス・ボッシュ《聖アントニウスの誘惑》1450-1516年
サルバドール・ダリ《聖アントニウスの誘惑》1946年
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【21】
また中米グアテマラ先住民の内戦期の虐殺の社会的トラウマとそこからの克服を描いた『暴力の政治民族誌』の作者である私にとってはラテンアメリカの政治思
想の考察にとって不可欠なエスパーニャ(スペイン)の政治状況とその暗い未来を予告した『茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)』とフランシス
コ・フランコ将軍の写真の併置をもって締めくくろうと思います。ちなみに、ダリは、ゲルニカのピカソのように市民戦線派ではなく、政治的には右派ないしは
保守派の人間でした。
Francisco Franco Bahamonde, 1892-1975
Salvador Dalí, Construcción blanda con judías hervidas (Premonición de la Guerra Civil) 1936.
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【22】終わりに私の発表の結論を再度繰り返すことにします
政治的にデリケートな作品の排除や猥褻性の検閲の社会的効果とは、問題になった作品が「もはや/もともと芸術ではない」という判定がなされ、政治と芸術
という保護と被保護の政治的関係を意図的ないしは被意図的に忘却を促すものであることが示唆されます。このような境界領域における排除メカニズムは、プロ
パガンダ芸術と純粋芸術の間には線引きができ、純粋芸術こそが人類が継承すべき芸術であることを擁護するイデオロギーとして機能します。もし、芸術が社会
の変容を予見するという表現をより的確に表現すれば、現代では芸術から「あるものXを」排除するメカニズムの様態こそが来るべき社会の未来像を予見するこ
とになるように思えます。
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分析哲学に「検閲」の文字なし
ご静聴ありがとうございました。
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