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Shisusko TOUMOTO, 1913-2005

塔本シスコ (1913-2005)

Shisuko and her work The Shisuko TOMOTO Official site, http://www.shisuko.com/works/

Mitzub'ixi Quq Chi'j

シスコさんと猫のミーィへの頌歌

シスコさんはぼくのアイドルです。まず九州熊本の「まつばせ(松橋)」出身であることですね。ぼくは熊本大学文学部で12年間にわたり文化人類学を教えま した。彼女のお父さんがつけた名前シスコがかっこいいこと。ぼくは中央アメリカのグアテマラというところでマヤの先住民の政治運動の研究をしていますが、 コロナが流行する以前にはほぼ毎年のように同地を訪れていました。その行き帰りの立ち寄り先カリフォルニア大学バークレー校を訪問するために、ぼくは必ず サンフランシスコを経由していたこと。ぼくには、バークレー校では客員研究員の経歴もあります。したがってサンフランシスコはグアテマラの調査地の次にお 気に入りの町なのです。シスコさんのお父さんが行ったこともないサンフランシスコの街を憧れて愛娘にシスコとつける気持ちがぼくには嬉しいし、また羨まし い。ぼくは自分の子どもに「グアテ」や「マヤ」などつけることはできなかったからです。でも大正期の熊本でうまれたシスコさんがそのようなハイカラな名前 を授かる理由は推測可能です。熊本の人が歴史的に海外に憧れや夢を抱くことには理由があるからです。ペルーの大統領になったこともあるアルベルト・フジモ リさん(1938- )は、首都リマの生まれですが、ご両親は熊本県飽託(ほうたく)郡河内(かわち)村の出身です。熊本は日本有数の移民送出県で明治18(1885)年に第 二回ハワイ官約移民を皮切りに戦前には6万8千人あまりが移民しています。シスコさんは20歳の時に結婚して長男、長女を授かりましたが、事故で亡くなっ た夫との結婚生活は26年間で断たれました。その後は体調不良が続きますが、夫との死別後2年後に脳溢血で倒れリハビリを兼ねて石を彫ったり、長男賢一さ んが絵を描かれていたために家にある画材で作品を作り始めたといいます。その数年後の昭和41(1967)年には、地元の新聞社が主催する「熊日総合美術 展」に出品されているので作家としての創作欲があったのでしょう。シスコ画伯の誕生です。賢一さんのエッセーでは、彼は広島県瀬戸内の因島の造船所で働い ていたといいます。ちなみにぼくの亡母は広島の呉の造船とヤスリで有名な町の出身なので、町自体が因島とは海上でも20キロ以上も離れてているが隣近所み たいな感覚で母が話していたことを思い起こします。さて、こちらのほうの母シスコさんの脳溢血の後遺症に心配して因島から帰省した賢一さんが、シスコさん の60号(97 × 130 cm)の大作「私が愛する生き物達」をながめて、よくこんなキャンバスが張れたものだと尋ねると、シスコさんは、賢一さんが描きかけの作品をなんとベビー オイルと包丁で削り落としてから作品を作ったといいます。まさに驚きのエピソードです。賢一さんは「なんばすっとな!」と怒ったのは言うまでもありませ ん。熊本にわずか10年少ししか住まなかったぼくでも、他人を眼前で非難するこのことばが、かなりキツイことはよく知っています。それを母親に投げかける わけですから。しかし、話はこれで終わりません。数日実家にいて賢一さんが因島に戻る日に、シスコさんはようやくためらいがちに、今度はさらに大きい 100号(130 × 162)の制作途中の「秋の庭」を出してきて、これまた絵の具を剥いで(たぶん包丁でしょうね?!)作っていると吐露したといいます。しかし、今度は「な んばすっとな!」ではなく、感動の沈黙だったようです。感動の思いを引きずりつつ、賢一さんは夜行列車に乗りながらアンリ・ルソーの「夢」を思い起こさざ るを得なかったのです。賢一さんを感動せしめた「秋の庭」は世田谷美術館に収蔵されました。脳溢血の後遺症を押してシスコさんを画作に向かわしめたもの、 その夢の成就への大きさはいかばかりのものだったでしょうか? 昭和44(1969)年には具現美術協会でカワチ賞奨励賞を受賞しています。カワチ賞は、 大阪の老舗画材店の名前を冠したもので、この画材店はシスコさん7歳の時にあたる大正9(1920)年の創業なのです。さて、ほどなくしてと言っていいで しょう昭和45(1970)年に賢一さんと同居するために大阪に出てきます。それ以来、在阪の作家として平成17(2005)年に92歳で亡くなるまで画 業を続けました。亡くなってから16年にもなるのにシスコさんの作品の破壊力と人気は増すばかりです。2013年の生誕百年には全国のさまざまな箇所で回 顧展開かれ、まとまった画集『シスコと生きる』が出版されました。そのなかに「桜島」と呼ばれる100号の雄大な作品を1970年7月に描いています。そ の絵に添えた文言なのでしょうか画集『シスコと生きる』の冒頭に「桜島」の制作の由来と大阪万博EXPO70について触れてあります。ぼくにとってあまり にも印象的なのでその箇所を引用しましょう;「大阪ではバンパクで、テレビはとても、めずらしい国の人達で、毎日テレビから、目おはなさない7月である其 の時桜島では、とてもめずらしい風景お、えがいていて、いましたのに.私は、あまりの、きれいさに、うっとり、ながめて、いました。これがトウヨウのナポ リだ、なあと、思いました[左側に囲みで](鹿児島市真砂町からながめました其のまゝのえです 塔本シスコ)」。シスコさんがテレビでみた大阪万博は、ぼくは地元の中学2年生でほとんど毎週末に生徒用の夜間割引で通っていた博覧会でもありました。現 在でも、ぼくのホームページでぼくと万博との由来について次のように書いています。「冷戦と高度経済成長の中で人工甘味料・保存料による食生活を送り、ベ トナム反戦と大阪万博の中で厭戦と科学技術信仰の思想を浴びる……大阪、鹿児島、中央アメリカ、北海道、熊本、万博跡地と遍歴を続け」た、と。シスコさん がテレビで大阪万博を見て、そして「東洋のナポリ」桜島をみて感動した、その6年後にぼくは鹿児島大学の理学部の学生としてほとんど毎日のように桜島を下 宿と校舎の窓から見続ける生活をはじめました。住んでみてわかったのですが桜島は雄大で冬の夜の噴火は、光の透過度も増してえもいわぬほど美しい。この噴 火は文字通り爆発とも言えるもので、岡本太郎さんがCMで「芸術は爆発だ」と叫んだのは1981年でした。冬の噴火は、昼間見ても噴煙も風向が垂水市とい う南東方面に流れて自然の驚異を伝えてほれぼれするほど見事なのです。しかし、夏の噴火では風向が鹿児島湾をはさんで真西の鹿児島市を直撃するので、火山 灰による降灰と窓を締め切り蒸し風呂状態——40年前は学生下宿には冷房は贅沢でぼくたちは汗を流しながらひたすら耐えたのです。紙面も終わりに近づきま した。まとめます。芸術家としてその後半の人生を朗らかに美しく生きたシスコさんの作品もぼくは大好きなのですが、それよりももっと好きなのは、絵画に寄 せられた文章や表題と、作品の前で笑顔でこちらをみるシスコさんの写真です。前者では「馬入レ川 川カラアガレバゴチソウアゲルヨ」です。ぼくは中央アメリカの3年住み、その後半の農村での2年には「レランパゴ(稲妻)」という名の馬を飼っていまし た。家畜に秣(まぐさ)をやりブラシをかけ体をあらってあげると気持ちいいのでしょう。じっとしています。困難な作業には馬やラバをけしかける農民も心に 負い目でもあったからでしょうか。夕暮れどきには昼間とはうって変わって家畜に優しくなります。「馬入レ川」の絵にある裸の男性の背中にはそのような優し さが満ち溢れています。大きな作品の前で笑顔でこちらをみるシスコさんの写真の眼差しが優しさがあるのは、そのような人たちに共感する彼女の感受性の高さ でしょうか?「よか男」の猫のミーィも忘れられませんね!!! というわけで、シスコさんと猫のミーィはぼくのアイドルであり続けています。

短いあとがき
一字下げも段落改行もありませんが、塔本シスコさんへのぼくの頌歌(しょうか)ですので、誤植でも校正ミスでもありませんので念の為。

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099



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