美醜を超える芸術の力について
On Leprosy and Fine Arts ,
or Is really ugly the statue of Father Damian
?
舟越保武(Yasutake Funakoshi, 1912-2002)「病醜のダミアン(1975)Father Damian in Leprosy」(現在のタイトルは「ダミアン神父像」)である。ハンセン病の「東京退所者の会」の冬敏之(1933-2002)との間で、公開非公開との様々な議論があったそうだ。時代という ものは、この芸術作品を宗教的な聖像のような神々しさなものまで聖別——もちろん実際の神父も列聖されている——してしまった。この論争の教訓を我々は我 が身のように受け入れたら、「少女像(평화의 소녀상)の展示の 是非」をめぐる政治的圧力をかけたあの醜悪な為政者の愚行は、一笑に付されたかもしれない。私たちは、まだ歴史に向き合う勇気を持ち合わせていないようで ある(2019年8月)。
Father Damian,
1940-1889, and Father Damien on his deathbed, presumably taken by Dr.
Sydney B. Swift on Palm Sunday, April 14, 1889.
ダミアン神父像は、ハワイにも存在する。しかしながら舟越保武のような「病醜」さは強調されておらず、デフォルメされている。それゆえに、ポイントは舟越の作家としてのリアリズム表現方法と、ハンセン病退所会のメンバーの「当事者」としての病の表象(=病いの隠喩)の受け止めをめぐる齟齬論争でもあるようだ。
Monument at St. Benedict's Catholic Church in Honaunau (Hawaii) /
イバン・イリイチ(Iván Illich,
1926-2002)は次のような趣旨の発言をユダヤの
言い伝を捩っていたという。「犠牲をはらい
ながら世界の破滅に抵抗する人びとがいる。そういう人びとによって世界は支えられている。だが、彼(女)たちは、そのことを知らない。しかし、そのような
人たちが倒れる時、世界もまた崩壊するのだ」と。
ダミアン年譜
1800年代 サトウキビ農場の労働力として中国人
が入植しはじめる
1840 ベルギー生まれ
1859 ルーベン聖心会修道院入会
1860 年代、島民の10-15%がハンセン病に 罹患
1865 カメハメハ5世、隔離法の発布。モロカイ 島への隔離はじまる。
1870 ダミアンはモロカイ島に渡る。当時の患者 数8,000名。
1884 ハンセン病が発病
1889 4月14日に死亡。49歳。
資料
「『舟越保武《病醜のダミアン》を展
示しないという決断』
前山裕司
当時の記事や資料を見直すと1983年の8月頃だから、
埼玉県立近代美術館が開館して1年足らずのことだ。受
付からの電話で、話をしたいという来館者と地階で会った。
3階までの吹抜けの底面には、マンズーの枢機卿、クロ
チェッティのマグダラのマリア、舟越保武の《病醜のダミ
アン》が、御影石の壁の三方に展示され、宗教的な空間
を演出している。/
その来館者はハンセン病の「東京退所者の会」の人で
あると名乗り、ダミアン像について話し始めた。もちろん
ダミアン神父は知っているが、この恐ろしい顔は鑑賞者、
とくに子ども達にハンセン病についての誤解を与えかね
ない。だからこの作品をしまってほしい、という趣旨の話で、
それが冬敏之(1933-2002)氏だった。/
美術館では展示作品への不快感を語る来館者や電話
の対応を迫られることがあり、学芸員は誰であれ、美術館
を代表して作品と美術館の姿勢を擁護することになる。
この時も、キリスト教徒で優れた彫刻家、舟越保武の代
表作であること、複数の美術館で展示されていることなど、
美術館の論理で作品の価値を説明した。/
冬氏の回想によれば、市役所の同僚の、娘が怖がった
という会話でこの像のことを知り、数日後に美術館に見に
きたという。「台座が高すぎるためか、それとも採光の加
減が悪いのか、その悲しみに満ちた表情とうらはらに、
痛々しくも恐ろしい姿であった(註1)」。私が呼び出され
たのは、この日のことだったのだろう。10月下旬、退所者
の会の役員が集まり、「全員が像の余りにもリアルな表現
に驚くとともに、このまま放置はできないということで一致し
た」。美術館との電話での応対の後、11月中旬、冬氏と
役員の湯川恒美氏が来館、行政の副館長が対応した。/
「職員の中には、私たちのお願いを無視せよという強硬な
意見もあったらしいが、結局受け入れてくれた」と冬氏は
書いている。/ この文章から、11月の来館までに学芸で会議が開かれ
たことが読み取れる。その時、当時の館長、本間正義の、
決断までの速さと意外性は驚くべきものだった。それは
「しまおう。ただし収蔵庫でなく、応接室に。希望者には見
てもらう」。つまり、受付で見学希望と申し出れば職員が
館長室隣の応接室まで案内するという解決策だった。聞
いた瞬間、なんと弱腰な、と感じた記憶がある。/
1984年1月応接室へ移動、それから1999年8月6日まで
の15年そこに置かれることになる。冬氏は、3月号の『多
磨』誌に「『病醜のダミアン』像」を発表。展示している岩
手県立博物館と兵庫県立近代美術館に展示中止の要
請をするが、両館とも展示を継続という文書を返信した。
4月5日には多磨全生園で舟越保武氏本人と会うなど、こ
の時期次々と手を打っている。学芸員としては、8月4日
に兵庫近美を訪れた冬氏が、「意外に小さく、親しみや
すくさえ感じた」、「恐ろしい感じなどしない」という印象を
受けたことが気になるが、これは本論の範囲から外れる。
翌年12月号の『多磨』に元患者の伊波敏男氏(1943
生)の、展示を継続するべきとする「沈黙のダミアン」とい
う反論が出る。冬氏の主張と伊波氏の反論が出たことで、
関係者内で議論が展開されることになる(註2)。/
美術館でダミアン像の見学希望者を案内するのはまれ
だったが、応接室に来客を通すたびに顛末を説明したこ
とで情報が美術関係者に広がったと思う。1986年11月4
日、毎日新聞夕刊の全国版は「同団体の撤去要請に対
し『愛の気高さにあふれる作品』と拒否しており、二つの
判断は改めて芸術と人権、偏見をめぐり議論を呼びそう
だ」と大きく報じた。1990年、戸田市の小学校では、6年
生に舟越保武の制作時の心情を考える道徳の授業を
行っている。/
関係者内での論争を経たことで1999年に状況は変化し、
冬氏が事態収拾に動き出した。6月には作品名を《ダミア
ン神父像》に変更してほしいという冬氏側の申し出を舟
越氏が了承する。題名の変更に加え、ハンセン病につい
ての説明文を付すことで8月、応接室から元の場所に戻
された。再展示には美術館職員の意志と相手側との交
渉が不可欠だったが、この経緯は概略にとどめる。筆者
が再展示に直接関わっていないことと、応接室での、い
わば収蔵展示という判断に焦点を与えたいためである。
収蔵庫への撤去から展示継続まで幅のある対応方法
の中で、この中途半端ともいえる奇手は異様な解決策で
あったためにより注目された。事実は隠されず、作品にア
クセスする余地を確保しながら、議論が継続する道筋を
残すこととなった、と今は評価する。/
この問題が幸福な結果につながったことには、いくつか
の条件があった。匿名の個人の苦情、政治的圧力、横
やり、自己規制でなかったこと。つまり、抗議する側が名
前を明らかにして発言し、文章を発表したことだ。急増す
る圧力の不健全さを想定していることはいうまでもない」。」
出典:http://www.aicajapan.com/newsletter_n/webnewsletter_6.pdf
●伊波敏男さんについて
1943(昭和18)年、沖縄県生まれ。作家。人権 教育家。長野大学客員教授。NPO法人クリオン虹の基金理事長。ハンセン病療養施設「沖縄愛楽園」、鹿児島県の国立療養所「星塚敬愛園」を経て、1961 (昭和36)年、岡山県の「県立邑久高等学校新良田教室」に入学。その後、東京の中央労働学院で学び、社会福祉法人東京コロニーに入所。1993(平成 5)年より約3年間、東京コロニーおよび社団法人ゼンコロ常務理事を務める。1997(平成9)年、自らの半生の記『花 に逢はん』(NHK出版)を上梓、 同年12月、第18回沖縄タイムス出版文化賞を受賞。2004(平成16)年より、長野県上田市で信州沖縄塾を主宰し、塾長となる。2007(平成19) 年11月、伊波基金日本委員会を創設(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
「沈黙のダミアン」 は『花 に逢はん』に附録として所収されている。
●W. EUGENE SMITH, Leper Patient and Religious Medal from A Man of Mercy, 1954-printed later
Source:
https://www.artsy.net/artwork/w-eugene-smith-leper-patient-and-religious-medal-from-a-man-of-mercy
リンク
リンク(サイト内)
文献
その他の情報