かならず 読んでください

カント『判断力批判』第一部を

政治的判断力として読むハンナ・アーレントについて

Introduction to Kant's Critique of Judgment. by Prof. Hannah Arendt

池田光穂

判断力批判、 第一部を政治的判断力として読むハンナ・アーレントについて

「まず反省的判断力の働きに基づく趣味判断は、「関心」ないし「利害関心」と結びついていてはな らないということが重要です。カントの言い方では、あらゆる関心は趣 味判断を損ない、趣味判断か らその不偏不党性、つまり判断の公平性を奪う、ということになります。この見解は、この判断が存 在の認識に関わる理論的関心も、実践的行為に関わる道徳的な関心ももってはならない、という帰結 をもたらします。つまり、趣味判断は、知的欲求、感覚的・感性的欲求や道徳的意志などと関わる実 践的判断でもないのてす。したがって、趣味判断があらゆる目的とは分離された観想的な性格をもち、 こうした意味で趣味は自由であることになります。ここから、美感的判断力が自由な判 断でなければならないことが明らかでありましょう」牧野英二『カントを読む』Pp.258-259、岩波書店、2003年

1)反省的判断力は、関心や利害関心として結びつい てはならない

2)心や利害関心として結びついてはならない理由 は、趣味判断か らその不偏不党性、つまり判断の公平性を奪うからである

3)この判断認 識に関わる理論的関心も、実践的行為に関わる道徳的な関心ももってはならないからである。

4)趣味判断は、実践的な判断ではない。つまり、趣 味判断はあらゆる目的とは分離された観想的な性格をもち、 こうした意味で(のみ)趣味は自由である。

5)美感的判断力は自由な判断から生じる(アーレン トはフランス滞在中にSSの将校に捕まって尋問を受けるが、その時、その将校がとても「ハンサム」であったことを述懐している)

6)趣味の要求が、特定の共同体のなかで、排他的な 基準でなされることは「不道徳」をうむ——このような間主観的認識が「普遍性」をもつことは今後きちんと証明されなければならない。

7)美感的判断は、多様性をもつことが予測され、か つ、その「優劣をめぐって」論争的性格をもつが、潜在的には「その価値判断が多元性を担保する限り」は、調停可能である

8)調停可能という属性には、政治的判断も含まれよ う。美感的判断における反省的判断力は、政治的判断における判断のプロセスにも「応用」可能となる。

・カール・ヤスパースの「無限のコミュニケーション (Grenzenlose Kommunikation)」を手がかりにして

・「カール・ヤスパース:世界国家の市民」『暗い時 代の人々』ちくま文庫版、Pp.131-149(→レジュ メ:パスワード付

しかしながら、『判断力批判』におけるカント の諸命題のまったくの新しさ、それどころか驚くき斬新さは、次の点にある。カントが他者との世界の共有という現象をそのすべての威容において発 見したのは、まさに趣味の現象、つまり、美的=感性的な事柄にのみ関わるがゆえに、理性の管轄範 囲はもとより政治の領域の外部にあるとつねに見なされてきた判断の一つにすぎないものを検討して いたときであった、という点にある。カントは、趣味については論議するあたわず(de gustibus non disputandum est) ——当然これは私的な特性には完全に当てはまるの恣意性とか主観性といわれ るものに困惑せざるをえなかった。というのも、この恣意性はかれの政治的感覚——美的感覚ではな いを損なわずにはいなかったからである。カントは、たしかに美的なものへの溢れんばかりの感 受性の持ち主ではなかったが、美のもつ公的な性質は大いに意識していた。カントが、ありふれた格 言に対して、趣味判断は「われわれは同一のよろこび[適意]が他者によつても共有されるのを望 む」がゆえに論議しうるものであり、趣味はそれが「誰であれ他者による合意を期待する」が論争に服しうると強く主張したのも、美的なものが公的な意義を具 えるからにほかならない。それゆ え趣味は、他の判断と同様、共通感覚に訴えるかぎりで「私的感情」のまさに対極をなす。政治的判 断に劣らず美的判断においても何らかの決定が下される。たしかに、この決定はつねに一定の主観によって、つまり誰もがそこから世界を眺め判断する自分自身 の位置をもつという単純な事実によっ て規定されている。しかし、この決定は同時に、世界そのものは、客観的な与件すなわちそこに住ま う者すべてに共通のものである、という事実を拠りどころとするのである。趣味という活動様式は、 この世界が、その効用とかそれにわれわれが抱く重大な利害関心から切り離して、どのように見られ 聞かれるべきか、人びとが今後世界のうちで何を見、何を聞くかを決定する。趣味は、世界をその現 われと世界性において判断する。趣味が世界に抱く関心は純粋に「利害関心なき」ものであるが、 これは、趣味のうちには生命への個人の関心も道徳への自己の関心も含まれないことを意味する。趣 味判断にとっては、世界こそが第一のものであって、人間、つまり人間の生命あるいは人間の自己は 第一のものではないのである。
さらに、一般に趣味判断が恣意的であると考えられているのは、立証可能 な事実とか、論拠をもっ て証明されている真理が合意を強制するという意味では、趣味判断は合意を強制しないことによる。 趣味判断は、説得を試みるという性格を政治的意見と共有する。カントがこの上なく見事に描き出し たように、判断する者は、最終的には他者との合意に達する望みを抱きながら、ただ「あらゆる他者 の同意を請い求める」ことができるだけである。この「請い求め」いいかえれば説得は、ギリシア人 がペイテインと呼んだものにぴったり一致する。ギリシア人は、ペイテインすなわち他者 を納得させ説得する言論を、人びとが互いに語り合う典型的に政治的な形式と見なしていた。説得が ポリス市民の交わりの基調をなしたのは、それが物理的暴力を排除したからである。のみならずギリ シアの哲学者は、説得が、もう一つの、暴力によらない強制の形式、つまり真理による強制とも異な ることを意識していた。アリストテレスにおいては、説得は、ディアレゲスタイすな わち哲学の言論の形式に対立するものとして登場する。それはまさに、この種の哲学的な論証が認識 や真理の発見に関わり、それゆえ強制的な証明過程を要求したからである。こうしてみると、文化と 政治は同じものに属する。というのは、問題となるのはともに認識や真理ではなく、むしろ、判断と 決定——すなわち、公的生活の領域や共通世界についての賢明な意見交換と、今後世界はどのように見られるべきか、どのような類の事物がそこに現れるべき か、同様にそこでどのような行為の様式がとられるべきかの決定——だからである。

アーレント「文化の危機:その社会的・政治的意義」『過去と未来の間』 引田・斎藤訳、Pp.300-302, 1994年


しかしながら、『判断力批判』におけるカント の諸命題のまったくの新しさ、それどころか驚くき斬新さは、次の点にある。カントが 他者との世界の共有という現象をそのすべての威容において発 見したのは、まさに趣味の現象、つまり、美的=感性的な事柄にのみ関わるがゆえに、理性の管轄範 囲はもとより政治の領域の外部にあるとつねに見なされてきた判断の一つにすぎないものを検討して いたときであった、という点にある。カントは、趣味については論議するあたわず(de gustibus non disputandum est) ——当然これは私的な特性には完全に当てはまるの恣意性とか主観性といわれ るものに困惑せざるをえなかった。というのも、この恣意性はかれの政治的感覚——美的感覚ではな いを損なわずにはいなかったからである。カントは、たしかに美的なものへの溢れんばかりの感 受性の持ち主ではなかったが、美のもつ公的な性質は大いに意識していた。カントが、ありふれた格 言に対して、趣味判断は「われわれは同一のよろこび[適意]が他者によつても共有されるのを望 む」がゆえに論議しうるものであり、趣味はそれが「誰であれ他者による合意を期待する」が論争に服しうると強く主張したのも、美的なものが公的な意義を具 えるからにほかならないそれゆ え趣味は、他の判断と同様、共通感覚に訴えるかぎりで「私的感情」のまさに対極をなす。政治的判 断に劣らず美的判断においても何らかの決定が下される。たしかに、この決定はつねに一定の主観によって、つまり誰もがそこから世界を眺め判断する自分自身 の位置をもつという単純な事実によっ て規定されている。しかし、この決定は同時に、世界そのものは、客観的な与件すなわちそこに住ま う者すべてに共通のものである、という事実を拠りどころとするのである。趣味という活動様式は、 この世界が、その効用とかそれにわれわれが抱く重大な利害関心から切り離して、どのように見られ 聞かれるべきか、人びとが今後世界のうちで何を見、何を聞くかを決定する。趣味は、世界をその現 われと世界性において判断する。趣味が世界に抱く関心は純粋に「利害関心なき」ものであるが、 これは、趣味のうちには生命への個人の関心も道徳への自己の関心も含まれないことを意味する。趣 味判断にとっては、世界こそが第一のものであって、人間、つまり人間の生命あるいは人間の自己は 第一のものではないのである。


さらに、一般に趣味判断が恣意的であると考えられて いるのは、立証可能な事実とか、論拠をもっ て証明されている真理が合意を強制するという意味では、趣味判断は合意を強制しない ことによる。 趣味判断は、説得を試みるという性格を政治的意見と共有する。カントがこの上なく見事に描き出し たように、判断する者は、最終的には他者との合意に達する望みを抱きながら、ただ「あらゆる他者 の同意を請い求める」ことができるだけである。この「請い求め」いいかえれば説得は、ギリシア人 がペイテインと呼んだものにぴったり一致する。ギリシア人は、ペイテインすなわち他 者 を納得させ説得する言論を、人びとが互いに語り合う典型的に政治的な形式と見なしていた。説得が ポリス市民の交わりの基調をなしたのは、それが物理的暴力を排除したからである。のみならずギリ シアの哲学者は、説得が、もう一つの、暴力によらない強制の形式、つまり真理による強制とも異な ることを意識していた。アリストテレスにおいては、説得は、ディアレゲスタイすな わち哲学の言論の形式に対立するものとして登場する。それはまさに、この種の哲学的な論証が認識 や真理の発見に関わり、それゆえ強制的な証明過程を要求したからである。こうしてみると、文化と 政治は同じものに属する。というのは、問題となるのはともに認識や真理ではなく、むしろ、判断と 決定——すなわち、公的生活の領域や共通世界についての賢明な意見交換と、今後世界はどのように見られるべきか、どのような類の事物がそこに現れるべき か、同様にそこでどのような行為の様式がとられるべきかの決定——だからである。

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