はじめに よんでください

社会科学への審問としての強制絶滅収容所

Concentration and extermination camps as an inquisition into the social sciences


池田光穂

《事態の破格さについて》

「私たちは、そうしたプロセスがいったんその極限に まで達すると人間の社会的・個人的行動に何が起こるかという点についても、ただ推測するほかない。私たちは、生存者がそれについて一様に説明する、非現実 性という一般的な雰囲気は知っている。しかし、あたかも別の天体に生きるかのように人間が生きるとき、人間の生がどのようなものになるかについてはただ推 し測ることしかできないのである」(p.40)。

「私たちの常識は、情念が鼓舞するのでもなく功利主 義的でもない行為に直面すると動揺をきたす。他方、私たちの倫理は十戒が予見しなかった犯罪には対処することができない。死体製造に加担した者を殺人の廉 で絞首刑にしたところで無意味だろう(といっても、もちろんそれに代わる方途は見いだしがたい)。このような罪にはどのような刑罰もうまく対応しないよう に思える。なぜなら、あらゆる刑罰は死刑をその上限としているからである」(p.40)。

——コメント:はははは!(大量殺戮者への罪の計量 を論じた文脈の中で、そのような当事者には刑罰が科せられると言った上で)「あらゆる刑罰は死刑をその上限としているからである」(アーレント)——笑っ ちゃうよね。彼女は真剣な思想家というよりも、啓蒙主義理性が生んだ素晴らしい漫談家と評したほうがよろしいのではないかと思う切れ味である。

「近年の歴史を適切に理解するための最大の危険は、 何か類似性を引きだそうとする歴史家のあまりもの当然な傾向である。肝要なのは、ヒトラーは、チンギス・ハーンに似た人物でもなければ、誰か他の極悪の犯 罪者よりもさらに悪しき人物でもなく、そうした者たちとはまったく異なるという点である。未曾有であったのは、殺裁それ自体でも犠牲者の数でもなく、「殺 裁を行なうために結集した人間の数」でさえない。殺裁を惹き起こし、殺裁の遂行を機械的なものにし、もはや一切が意味をもたなくなるような死の世界を入念 に計算して構築させたのは、他の何にもましてイデオロギー的な無意味さなのである」(p.41)。

——コメント:アーレントは、全体主義への理解に対 して、単なるアナロジーによる歴史的判断を下そうとすると、起こってしまったことに対する《意図的忘却》を試み——これは近年のPTSDの流行病のエート スと通底する——をしてしまうとんでもない茶番を犯してしまうことを警告しているのである。

《受苦者の側の事情》

強制収容所では無垢な人が先にだめになる一方で、犯罪 (の履歴がある)者が収容所生活の破壊的な影響力に長い間耐えることができたのか、その理由は分からない(=彼女は分からない)とハンナ・ アーレントはい う(p.39)。

「ふつうの人間である社会科学者は、次のことを理解 するうえで大きな難点をかかえている。すなわち、第一に人間の条件に内在すると通常見なされている限界は乗り越えられうるということ、第二に、通常、歴史 のある特定の時点におけるある特定の国民や階級の心理ではなく人間一般の心理として同定されているような行動パターンや行動の動機は廃棄されるか、まった く二次的な役割しか果たさないということ、第三に、リアリティそのものの構成要素をなすと見なされる客観的な必要——それに応じることは正気を失わないた めの最低限の条件であるように思えるーーは無視されうるものだということがそれである」。——「社会科学のテクニックと強制収容所の研究」『アーレント政 治思想集成2』pp.38-39.

「このような極端な状況のもとでは、自らの苦しみを 実際に行なわれた何らかの犯罪や支配集団への反抗に対する罰として解釈しうるということが、いわゆる曇りなき良心をもつよりも個人にとっては、はるかに重 要であったのではないかと思える。終戦後、迫害者の側に後悔のきざしがいささかも見られなかったことは、責任をとることへの恐れはたんに良心を圧倒するだ けでなく、ある環境のもとでは、死の恐怖にすら打ち克つということを暗示しているように思われる」(pp.39-40)。

《加害者の側の事情》

「終戦後、迫害者の側に後悔のきざしがいささかも見 られなかったことは、責任をとることへの恐れはた んに良心を圧倒するだけでなく、ある環境のもとで は、死の恐怖にすら打ち克つということを暗示して いるように思える」(p.40)。

*「総統は幸福である。……ユダヤ人がベルリンから 一掃されたところである。戦争は、通常の時代にはけっして解決されたためしのないあらゆる問題を解決することを可能にする、と述べた総統は正しい。この先 どうなろうと、ユダヤ人がこの戦争の敗者になることだけは事実である」——ゲッベルス日録(1943年3月)(p.41)

「ドイツは、ユダヤ人の拡散を引きつづき維持するこ とに重大な関心をもっている。……世界の各地にユダヤ人が流れ込むようになれば、それは、現地の住民の反発を惹き起こし、ドイツの対ユダヤ人政策の最良の プロパガンダとなる。……ユダヤ人移民がそれを迎える国にとって、貧しくしたがってやっかいな者であればあるほど、その国はより強く反応するはずである」 (Nazi Conspiracy VI, 87ff.)——ドイツ外務省が海外のドイツ公館にあてた1939年の回状(アーレント 2002:41-42)

《マルチン・ブーバーの怒り》

1955年頃、グラスゴーのユダヤ人協会でのマルチ ン・ブーバーの講演会で、神とかアブラハムとの契約について語ったあとに、重い聖書を頭の上に掲げ、そこから講演台にバタンと落とし、こう叫んだそうだ: 「強制収容所であの大虐殺が起こってしまった現在、この本ががいったいなんの役にたつというのだ!」——ロナルド・デイヴィッド・レイン(Ronald David Laing, 1927-1989)の証言

レイ ンわが半生 : 精神医学への道 / R.D.レイン著 ; 中村保男訳, 東京 : 岩波書店 , 1986( Wisdom, madness, and folly : the making of a psychiatrist / R.D. Laing, McGraw-Hill (1985))

《私のコメント》

*アーレントは、戦後を生きたSA隊員らの迫害者た ちに「責任をとることへの恐れ」を、どのように感じたのか、あるいは本当に信じたのか? ボクには分からないし、日本にいる凡百の彼女のエピゴーネンたち が、このことについて応えてくれているような気がしない……

*僕たちは、安倍晋三や百田尚樹を、血に飢えた好戦 鬼のようにカリカチャーして(のちに血祭りにあげるためにサディスティクに)喜ぶけど、彼らとて、日本軍の兵隊として超法規的な処刑を占領地の民に対して おこなったわけでもないし、また、そのような先達の責任を担っているわけでもない——国民国家の国民の歴史責任という観点からみれば(百田を糾弾する側 の)俺たちにも責任は均分されているだろう。したがってアーレントの「責任をとることへの恐れ」は「責任があることの忘却」「(ありもしない歴史的ファン タジーへの)道徳的負債」と解釈し直すほうがよいのではないか? アーレントの詰めの甘さは、政治イデオロギー的にはマイナーであろうとも、被害ユダヤ人 の《当事者性》を《いまだに》背負っているように思われる。

文献

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