はじめによんでね

黒人奴隷の歴史

こくじんどれいれきし

【しつもん】

黒人のひとが、これまでどのような差別を受けてきたの か? 教えてください。

たるみ げんのすけ の こたえ (奴隷=どれい、について のせつめい

現在の北アメリカ大陸のアメリカ合衆国(がっしゅうこく、合州国と書く人もいます)が、まだ独立する前の 1619年ごろは、それはイギリスの植民地でした。そのころから、黒人(こくじん)の人がアメリカに移り住んでいました。

黒人のひとたちは、アフリカ大陸に多く住んでいたので、アメリカに住んでいる黒人の人たちを、現在では、 ご先祖さまが住んでいた土地の名前に由来してアフリカ系アメリカ人(アフロ・アメリカン/アフリカン・アメリカン)と言います。

しかし、このころにアメリカにやってきて開拓しようとした白人は、アメリカにもともと住んでいた先住民族 (せんじゅうみんぞく)であるネイティブ・アメリカン(昔はアメリカ・インディアンと言っていましたが今日ではこちらのほうをよく使います)を、奴隷化し て使おうとしました。ただし、ネイティブ・アメリカンの人たちは、自分たちの住処を追われたり、迫害(はくがい、差別[さべつ]のこと)を受けていたの で、それに抵抗し、奴隷になることはありませんでした(→「奴隷とは、なにか?」)。

そこで考えたのが、おなじ開拓のために移民してきた白人でも、貧しい人たちを使用人としてつかうことにし ました。これを年季契約奉公人(ねんきけいやくほうこうにん)と言いました。

1700年代の後半になると、現在のバージニア州やメリーランド州(地図で場所を確かめましょう!)で、 タバコの葉の栽培をおこなうようになりました。その時に、広い畑で植え付けたり、刈り入れするために、働く人が必要になりました。

この時に、イギリスの本国や、アメリカのニューイングランドには、黒人の奴隷を商う人たち、つまり奴隷商 人たちが、このタバコ畑の持ち主(プランターと言います)に奴隷を「購入」するように持ちかけました。

イギリスは、奴隷を「商品」として売り買いしたりできるような法律をつくっていきました。その時の白人の 人たちの頭の中には、(今から考えると信じられないことですが!)黒人が白人と同じ人間であるという考えはありませんでした。イギリス政府が、奴隷の貿易 を正式に廃止したのは1807年(→リンク)です。

1776年にアメリカはイギリスから独立してアメリカ合衆国という独立国になりました。その時にも、同じ 国に住んでいた黒人が、白人と同じ国民であるという意識は少数意見でした。黒人奴隷の廃止を訴えた人たち努力は、その後少しずつアメリカの北部より広がっ ていきましたが、1861-65年の南北戦争(=アメリカ合衆国の内戦)が終わるまで約90年間、憲法は奴隷制を認めていたことになります。この時に「解 放」された黒人奴隷は、およそ400万人いたといわれています。

アメリカの奴隷廃止運動は、1831年に『解放者(Liberator)』という雑誌を発行したギャリソ ン(人名)たちのグループにはじまると言われています。彼らはキリスト教の教えから、奴隷制度は不道徳であると主張しました。ギャリソンたちの教えは、奴 隷制度を維持したい人には煙たい存在でした。その数年後、彼らの多くは暴力を受けたり、殺されたりしました。

なぜ1世紀近く奴隷制が残っていたのでしょうか? 現在の多くの歴史家たちは、それはアメリカの経済が奴 隷労働に依存していたからだ、つまり、黒人の労働なしにアメリカという国はありえなかったからだ、と言います。まさに黒人奴隷がアメリカをつくったので す!。その理由をこれからお話しましょう。

その理由は、イギリスの本国で産業革命(さんぎょうかくめい、くわしくは歴史事典で調べよう!)が始まっ たからです。産業革命では、蒸気機関の発明により人間が簡単な機械で布を織っていたのに対して、もっと大がかりな機械でどんどん効率的に、また安く——短 時間に多く作れば「もの」は相対的に安く※作れますね——布を織ることができるようになったからです。

布(多くは綿製品)の原料は、綿花(めんか、綿[わた]のことです)でした。アメリカの南部では、タバコ よりも綿花が大量に栽培されるようになりました。19世紀初め(つまり1800年代のはじめ)の綿花栽培量は、その50年後にはおよそ30倍以上になりま した。奴隷の人口も、約90万でしたが、やはり半世紀後には、400万近くになっていました(この数字は南北戦争が終わった時点での解放された奴隷の数と 近い数字です)。もちろん、綿花以外でも、それまで続いていたタバコ、サトウキビ、麻(あさ:ロープの原料)、米などをアメリカの南部ではずっと栽培して いました。アメリカは現在でも世界最大の農業国ですが、機械化される以前の農業大国の基盤のほとんどはアフリカ系アメリカ人によって形づくられました。

Emancipation Proclamation (奴隷解放宣言, 1862年9月)

The five page original document, held in the National Archives Building. Until 1936 it had been bound with other proclamations in a large volume held by the Department of State.


This illustration visualizes the Emancipation Proclamation, September 22, 1862 (1919), by E.G. Renesch.png

奴隷解放問題は、人間のモラルや人権の問題だけでなく、経済的問題でもあったのです。

では、南北戦争が終わった1865年に奴隷が解放されて、黒人=アフリカ系アメリカ人への差別は本当に解 決したのでしょうか? 

その答えは「いいえ」です。


Anti-slavery medal, 1787, UK 33mm, "Am I not a man and a brother? " - "What so ever Ye would that men should do to you, do Ye even so to them"

Martin Luther King Jr. and Ralph Abernathy (center, back) kneel with a group in prayer prior to going to jail in Selma, Alabama. The group was arrested on February 1st after attempting to gain the right to vote. February 10, 1965

しかし、ここから先の答えは、皆さんたちが協力して調べてください。参考に調べておくべき用語を下にまと めておきます。

KKK(ケー・ケー・ケー/クー・クラックス・クラン)

南部諸州のアフリカ系アメリカ人への選挙権剥奪

(アメリカの)人種隔離政策

W・B・E・デュボイス(1868-1963)

マーカス・ガーベイ

ハーレム・ルネサンス

公民権運動(civil rights movement)

フレデリック・ダグラス(Frederick Douglass, 1818-1895)

ジャズ、ブルース、ファンク、ブラック・コンテンポラ リー、ラップなど

《関連性にもとづく批判的日本史学習法》

世界史ではなくて、日本史の中で部落解放運動を取り上げた時に、その差別は racial discrimination と英訳されたきたことに鑑み、F・ダグラスを参考に、黒人解放と(被差別)部落解放を比較して学習者(生徒や学生)に教えることはありや?「それは人権教 育でおこなうべき」ともし教諭や教授がおっしゃったなら、生徒や学生は「それはあんた(=糞オトナ)が墨守している学問のセクショナリズムから来る狭量さ じゃないのかね?」と突っ込んでやろう!

リンク
文献
その他の情報