池田光穂
1.【能力】世界を把握する感性
2.【感性】自己の達成と失敗を受け止める感性
3.【能力】物事を理解して、大切な事とそうでないことを識別する能力
4.【感性】事物のリアリティを受け取る感性
5.【能力】コミットメントできる能力
●カント「啓蒙とはなにか?」
1)啓蒙の定義:人間が自ら招いた未熟(=未成年の状態)の状態から抜け出ること
2)未熟(=未成年の状態)の利点:他人に依存するのでとっても便利、だって人に頼ればいいんだもーん。カントはセクシストだから、男性の未成年者と女性は、このような状態に甘んじたままだと批判
3)未熟から抜け出せない理由:上掲のごとく楽チンだからである
4)公衆の啓蒙:個人が未熟状態から脱するのは困難だが公衆はそうでもない。公衆に自由を与えれば、未熟から脱出しようとするからだ。革命は便利だが、革命に自ら委ねるだけではダメ。大衆に埋没してしまう
5)理性の公的利用、理性の私的利用:公衆が未熟から脱出するためには公衆に自由を与えればよい。理性の公的な利用は学者(おつむの賢いひと)がみんなの前で、理性を使ってみせることである。理性の私的利用とは、個人が理性を使うことである。
6)3つの事例:戦時に上官の命令に従う、市民として納税する。牧師が信徒の前で説教することは理性を使わないが、牧師が市民の前で公にはなすことは理性をつかう。
7)宗教家は、人間の自由をさまたげることを、市民の前で話してはならない。認識を拡張し、誤 りを取り除くき、一般に啓蒙することを禁じたら、それは人間性に対する犯罪である。国民と法の関係については、国民の間で法についての話し合うことで、法 が自由を制限してはならないことに気づくはずだ。あらゆる宗教は、人間の自由を妨げてはならない。
8)君主が法律を定めることができるのは、君主が国民の総意にある時にである。日本は象徴天皇制なので國民の総意を代表して議会が立法し政府がそれを実行しなきゃならない.つまり國民の総意を反映していない國葬儀をおこなうことは違憲なのだ。
9)カントが「啓蒙とはなにか」を書いたフリードリッヒ大王の世紀は、啓蒙された時代だろうか?とカントは問う。カントの答えは「そうではないが、啓蒙されつつある時代」だと診断する。つまり、今の時代は「啓蒙の時代」だ。カントは、理想的な啓蒙時代の君主像を提示する。
10)啓蒙の広がり、カントは、フリードリッヒ大王の世紀を一生懸命用語するが、とりわけ、宗教界への自由の抑圧を批判するために、啓蒙君主をよいしょする戦略をとっているかのようだ。
11)啓蒙は、かくのごとく、人間の自由の不可分でこのましいものだが、それを遂行するために
は、啓蒙君主のもとで自由を享受する臣民には、次のようなことが言われなければならない:「好きなだけ、何事についても議論しなさい、ただし(君主に)服
従せよ」。そのような逆説が、共和状態の市民の自由には課される。また、精神を多少なりとも制約するほうが精神の自由についてのその能力を発揮するような
自由の余地がうまれる。これもまた、啓蒙の逆説である。自由に行動する能力が高まると、統治の原則にまでおよんでゆく。統治者はもはや機械ではない、人間
(市民)をそれにふさわしく処遇することが、自らにとっても有益であることを理解するようになる。
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