戦争・観光・平和(第4章)池田光 穂
1994年一月ステレオタイプに満ちたチアパスの農民の苦悩とゲリラの蜂起というニュースがメ ディ アを通して配信された。しかし同時に、コンピュータ通信網であるインターネットを介してサパティスタ自身のコミュニケや支援団体によるチアパス情報をすぐ に入手することができた(Helleck,1994)。九五年二月現在でもゴーファーやワールド・ワイド・ウェブなどを介して膨大な情報を受け取ることが できる。蜂起当時、その同じインターネットを介して米国の旅行代理店は、すぐにチアパス州周辺の治安状況をつかみ顧客にこの地域への旅行を控えることを勧 告することができた。そのせいか紛争地域からほど遠くないパレンケ遺跡の入場者は激減した。パレンケ市は、ラカンドンのジャングルの遺跡ツアーの出発点に もなっているのだが、キャンセルが相次ぎ旅行業者は軒並み開店休業に追い込まれた。
観光産業に従事する人びとにとって、係争地とみなされているサンクリストバル市やオコシンゴ市 と非係争地であるパレンケ市とが、外国人観光客によって混同されていることは悩みの種である。パレンケ市のホテルの従業員の一人は言う。「サパティスタの 問題は高地インディオの問題で、パレンケは昔から平静なのだ。サンクストバルの問題、それ自体も危険ではないが、それとパレンケの安全を混同しないでほし い。武装蜂起は迷惑な話だ」と。
しかし、政府観光局は別の種類の対応をする。紛争地域の周辺で観光客が激減した後、観光局はそ の地域が安全であるということを宣伝するのではなく、紛争とは無関係に観光地の魅力を繰り返し宣伝する。あたかも紛争がなかったかのように、紛争の存在そ のものを無視するのだ。メキシコ市内のテレビは遺跡を背景に古代文明をイメージする短い宣伝映像を相変わらず放映していた。紛争に言及することはタブーで ある。似たようなことが湾岸戦争勃発後に観光客が激減したギリシャにおいてもおこった。政府観光局は歴史をこえた価値を強調した「神々が選んだギリシャの 海岸」キャンペーンを展開したのである(Bonifance and Fowler,1993:8)。裏を返せば、それほど観光客は紛争に敏感なのだ。現代の観光客は、紛争地域を避けるという行為を通して消極的ではあるが確 実に関わっている。戦争と観光はネガ(陰画)とポジ(陽画)の関係にあり、同じ映像を写す二つの側面といっても過言ではない。
その意味で平和を創出する「安全保障としての国際観光」(石森、一九九二、二六〇頁)という主 張はいま一度よく考えなければならない。石森の言うように国際観光は異文化との接触を通してホストとゲストの間に相互理解が育まれ世界の平和に貢献するか もしれない。だが、その可能性は機会的であり、相互不信も同じように起こり得ることを忘れている。この立論では、国際観光客のネガとなるゲストとしての 「難民」や「外国人労働者」がホスト側の異文化との接触を通してなぜ双方に相互理解が生まれないのか、について明快な解答を得ることができない。国際観光 が平和創出産業に見えるのは、紛争がないという条件のもとで国際観光が維持されるからであって、その逆ではない。事実は理想ほど透き通ってはおらず複雑怪 奇なのだ。
過去の歴史において、戦争と観光が競合的ではなく補完的な関係をもつという指摘がある。高岡 (一九九三)は歴史的資料から日中戦争前夜から太平洋戦争期つまり総力戦への突入以降、日本の観光客数は急成長していたことを明らかにしている。別の角度 から言うと二〇世紀前半において国際間の大衆の移動とは軍隊の移動のことだった。ミシガン大学は一九五八年に米国民の観光動向について調査したが、当時の 調査された米国人の五人に一人は海外渡航を経験していたが、その三分の二が軍務によるものだった(リード、一九九三、二頁)。戦争や冷戦が終わったから観 光に出かけるのではない。世界的な観光ブームの導火線は冷戦が終わるはるか以前から燃えていたのだ。
軍人や報道関係者という特殊な観光客を除けば、ふつうの観光客は紛争地域には旅をすることはな い。民族紛争や内戦状態にある地域は観光地にならない。旅を安全に快適に過ごしたいという希望が叶えらえるように計画は立てられるからだ。だがパールハー バーやアウシュヴィッツなどかつての忌まわしい場所が観光の目的地となる。沈没した戦艦や強制収容所は歴史の記念碑として文化遺産観光の目的地となる。平 和という文脈において観光対象になる「もの」が中和化されてはじめて観光地というものが成立するからだ。中和化は一種の忘却である。アンコール・ワット寺 院の輝ける伝統が、もともとフランスの学問によって授けられたが、そのことを忘れることができてはじめてクメール人はカンボジアの偉大さを確認し民族主義 の象徴としてそれを利用できたことを。ちょうどそのことに似ている(Chandler,1983:150-1)。
1994年一月のある日パレンケ遺跡を訪れる観光客はほとんどいなかった。紛争の中心地からは 離れてはいるものの上空にはメキシコ空軍機がときおり遠くに飛んでいた。だが、そこから五百キロ離れた低地マヤの巨大遺跡チチェン・イッツアにはいつもど おりたくさんの観光客が溢れていた。ゲリラの武装蜂起は間接的にもパレンケ遺跡に波及し、遺跡はたんに中和化されていた「もの」ではなくなっていた。マヤ の人たちは古代のイメージの中の住民ではなく現代の人たちであり、彼らの問題は我々の問題に連なるものであるということ。遺跡観光とは、現代人が投影する 古代のイメージと現実の社会の微妙な均衡のなかにあったということを。サパティスタの蜂起はそのことを我々に教えた。
クレジット:池田光穂「Anthropological analysis of
heritage tourism in "Mayan Civilizaion" in modern context」1996