サピア=ウォーフの仮説
Sapir-Whorf hypothesis
解説:池田光穂
言語が人間の認識を形作るという学問上の見解である。
ここでいう認識とは、我々が自分たちがおかれている状況についてみたり、感じたりすることである。これらは経験様式(文化や思考)とよばれ ることもある。
このような主張を幅広い言語学上の事実から説明した、2名の言語人類学者のエド ワード・サピア(Edward Sapir, 1884-1939)とベンジャミン・リー・ウォーフ(Benjamin Lee Whorf, 1897-1941)[前者は後者の師匠]から名付けられているが、本人たちが命名したものではない。
彼らが活躍した1930年代によく議論された。
ウォーフによると、北米の英語には雪を表現するのに4〜5種類の単語と表現があるのに、エスキモー語(北米の北方先住民の言語集団の総称/アメ
リカはそのままだが、現在ではカナダではイヌイットと呼ばれる)には、30以上の雪を表現する言葉があると言われる。この差異は、言語の話者が生活する環
境が異なり、極北で生活する人たちは、より詳細に氷雪に囲まれた世界を観る語彙が育まれてきたのではないかと考える(=仮説する、解釈する)わけである。
仮説というぐらいだから、この主張は誰にも異論なく受け入れられた主張ではないことを意味している。その理由は、言語の相対性の議論を極限 まで押し進めるとすべての認識を言語体系との関連の中で論じなければならないが、現実には不可能であるからだ。しかし、言語が認識を規定するという現象は 経験的に広くみられるために、この仮説の意義が失われることはないだろう。
Edward
Sapir (1884-1939):エドワード・サピア |
Benjamin Lee
Whorf(1897-1941)ベンジャミン・リー・ウォーフ |
1884 ドイツ、ポメラニア州ローエンブルグのユダヤ人 家族(父親はラビ)に生まれる(1月26日) 1889 アメリカへ移住、ニューヨークで少年時代をおく る 1900 コロンビア大学入学(16歳) 1904 コロンビア大学卒業、大学院に進学し、ゲルマン 語とセム語を専攻(同時期フランツ・ボアズに師事) 1905 初の調査旅行、ウィシュラム・インディアンの言 語調査、ゲルマン語研究で修士号 1906 UCバークレー校に新設された人類学部に助手と して赴任、この頃オレゴン州タケルマ・インディアン研究(タケルマ語文法は博士論文となる) 1908 バークレーでテニュアが得られずペンシルバニア 大学フェロー、パイウート語研究 1909 ペンシルバニア大学人類学部講師、博士号(コロ ンビア大学) 1910 カナダ国立博物館地質調査部に人類学課主任、オ タワ在住(~1925)、フローレンス・デルソンと結婚 1921 『言語――ことばの研究入門』出版(37 歳) 1924 フローレンス死亡 Culture, Genuine and Spurious, 1924 Racial Superiority, 1924 1925 シカゴ大学人類学部准教授 1926 ジーン・マクレナガンと結婚 1927 シカゴ大学教授 The Unconscious Patterning of Behavior in Society, 1927 1931 イエール大学人類学部学部長。国立研究協議会・ 心理学・人類学部門議長「パーソナリティと文化に関する委員会」 1932 「文化がパーソナリティにおよぼす影響につい て」国際セミナー Cultural Anthropology and Psychiatry, 1932 1933 アメリカ言語学会会長 1934 アメリカ学士院会員 The Emergence of the Concept of Personality in a Study of Culture, 1934 Personality, in Encyclopedia of Social Science ,1934 1937 持病の心臓病悪化 The Contribution of Psychiatry to an Understanding of Behavior in Society, 1937 1938 アメリカ人類学会会長 1939 心臓病で死亡(2月4日、享年55歳) |
1897 マサチューセッツ州のウィンスロップに生まれる(April 24, 1897 in Winthrop, Massachusetts) 1918 MIT卒業(化学工学)ハートフォード火災保険会社(The Hartford)で防火技師として働く 1930 he received a grant to study the Nahuatl language in Mexico; on his return home he presented several influential papers on the language at linguistics conferences. 1931 サピアのもとで研究に従事 1935 The Comparative Linguistics of Uto-Aztecan 1935 Maya Writing and Its Decipherment 1936 イェール大学客員研究員 1937 Discussion of Hopi Linguistics 1938 He was chosen as the substitute for Sapir during his medical leave in 1938 1940 Science and Linguistics 1940 Linguistics as an Exact Science 1941 Languages and Logic 1945 Grammatical Categories 1950 An American Indian Model of the Universe 1950 A Review of General-Semantics |
余滴
Stephen O. Murray, Edward Sapir and the Chicago School of
Sociology, in: New Perspectives in Language, Culture, and
Personality: Proceedings of the Edward Sapir Centenary Conference
(Ottawa, 1–3 October 1984) Edited by William Cowan, Michael Foster and
E.F.K. Koerner, 1986, pp.241-
「シカゴ学派がサピアの影響をあまり受けていないということは、歴史的な謎である。サピアがシカゴの社会学者たちと良好な関係にあったこと、同
化に対するシカゴ学派の一般的枠内でのことではあるが英語以外の言語で書かれたアメリカ人の日記に関するロバート・パークの労作に示されている言語に対す
る関心、ならびにG・H・ミードの社会哲学において言語に認められた重要性といったことを考えあわせると、何らかの形の社会言語学があの時点で生起しな
かったのは意外というほかはない」(ヴァンカン、1999:171からの引用)
【文献】
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