近代医療の欠如概念としての伝統医療
【命題】
伝統的医療が、近代医療の倒立像・欠如概念としてみえる理由は、伝統医療の概念が、本来、植民地科学 のカテゴリー由来であるからである。
【論証されるべき課題】
・初期の医療の専門家たちは、不定形の<治療システム>*から、西洋医療の<要素>を抽出してきた。
*註:<治療システム>というからには、そこには何らかの体系性・全体性があることを示唆するがここ では、その内実については不問にする
・これは製薬企業の研究室の中で、薬草から有効成分を抽出するのと同じ作業をおこなっている。それが 示唆する意味は、要素(=薬効成分)の抽出は、何か我々の生活の改善(=病気の治療)にとって何か役に立つことのできるものを取り出すことができる、とい うことである。
・伝統的医療の場合は、<医療>を構成するそれ以上に分解することのできない<要素>を抽出すること を意味する。
・植民地科学における<比較研究法>というのは、研究対象の多様性のあり方、それ自体への認識に到達 することを目的とするのではなく、なにか<有益>なものを引き出すという作業手順を意味する。植民地において地質学的な多様性を調べるということは、その 多様性の中にみられる特定鉱物資源の潜在的可能性をセンサスすることであり、薬効成分と植物の分類上の諸特性を比較し、分類学上の特定の植物群から有効成 分をサンプリングすることと同様の手続きをとることである。
・従って、植民地科学のおける未開医療の探求とは、人間の<治療システム>における多様性それ自体を 探求したのではなく、分類表のうえに、それらの<要素>を配列し、<何か>を理解しようとしたのであり、そこから、功利的な答えを引き出そうとしたのであ る。
【具体的検証】
1.ヌエバ・エスパーニャ
・ヌエバ・エスパーニャの時代では、治療システムの大部分は宗教のカテゴリーに属するものにあったの で、未開医療=伝統的医療は、異端的行為あるいは異端的信仰として、排斥の対象にしかならなかった。ただし、異端審問の対象になり、カトリック信仰の強化 が叫ばれたわけだから、それは未開医療が<信仰>のカテゴリーを形成していたという意識は萌芽的ではあるが、あった[はずである]。
・唯一の例外は、薬草学(botica<薬局・薬剤> flora, hierbaria?)で、これは近代の製薬学の発達により、名実共に有効成分を抽出し、その化学構造を明らかにし、作用機序を解明し、より強力な成分を 合成するという手続きにより、大きな科学産業へと発展する初発の段階を形成した。
2.アメリカ合衆国から中央アメリカへ
・植民地科学としての人類学は、ヨーロッパとは異なる発展をとげる。(a)ボアズの影響のもとで、内 的植民地の滅びゆくインディアンの文化と言語についての記録を残すことを通して、文化を(最低限の努力ではあるが)救済する。(b)文化の多様性を求め て、アメリカ合衆国の南部やメキシコ、ユカタン半島、そしてグアテマラに出かけてゆく。後者の領域では、文化の多様性について比較的自由に調査することが できた。と同時に、文化変化(culture change)についての関心が生じてきた。文化国家メキシコの成立過程とは、国民統合の時代であり、近代化に直面する先住民族のあり方について議論でき る場が人類学であった。メキシコの「国学」(落合一泰)としての人類学=先史考古学の父、マヌエル・ガミオはボアズの弟子。インデヘニスモ (Indigenismo)は国家統合の理論をなす。
・国民統合や文化政策に、人類学が政策科学として関与することができる基礎が、そこではできていた。 しかし、それは未だ実現することのなかった可能性にしかすぎない。
・他方、スミソニアン研究所(Handbook of South American Indian)、カーネギー研究所、ロックフェラー財団ミッションなどを介して、ラテンアメリカにおけるフィランソロピー(philanthropy:博 愛慈善事業)にもとづく、人類学・医学の調査研究や熱帯病対策が始まる。
・Interamerican Instituteなどを介して、ラテンアメリカにおける医療援助の試みがはじまる。他方、PAHOの前身は、WHOが成立する前からその基礎ができてい た(このようなラテンアメリカの一体性は、植民地時代における言語的統一性、国民国家成立時における国家間を超えた「国民国家思想」の普及伝達、そしてそ の上に被さるモンロードクトリンなどの歴史的所産である)。
・グアテマラ共和国では、そのようなラテンアメリカ的状況の中で、たまたま<栄養学>と<人類学>が 邂逅するのだ。邂逅と記すのは、そこに政治的野心や意図が存在しない、あるいは結果的に生まれることはあるものの初発の状態ではほとんど稀薄であったから だ。