越境する「書評」あるいは知の限界
栗原彬・小森陽一・佐藤学・吉見俊哉[編]『身体:よみがえる』越境する知(1)、東京大学出版会、2000年7月
【ご注意】本書評の一部は、オンラインブックストアbk1(びー・けー・わん)のウェブページに収載されたものです。依頼された書評の画面が限られているので、オルタナティブなリリースとしてここで注釈をつけて公表します。著作人格権は執筆者本人にあり、引用の許諾に関する権利は書評本文を掲載しているbk1にあります。また本書評の目的の中には、(私じしんは利害に直接関わっていませんが)この本の販売促進のためにあります。以下、黒字の部分が書評本文からの引用です。
「威勢のよい知の越境宣言!に度肝を抜かれ読み始めて、なんとなく中途半端な満足で読み終える。そんな心証をもった類書がいくつも目に浮かんだ」。
冒頭に「「越境する知」への誘い」という恐ろしく元気のよい宣言がある。
「シリーズ第一段にふさわしい執筆陣――芸術、社会実践、そして学問の領域でユニークな業績をあげている人たちによる言葉が満載されている。それぞれの論説・随想・議論・談話には、なるほど!と唸らせるものがある」。
「だがそれらはモノローグとなって大きなうねりには展開しない」。
「身体をキーワードにしながら実際は各人の話が交差しないことが問題なのだ」。
「この違和感は実践の場からうまれてきた言葉を綴った本書にとっては些細な非難にすぎないだろうか」。
「反面教師として私が学んだのは、まず現場での実体験を言葉や理屈として読者に訴えかけようと紡ぎ出す際の言葉の豊かさだ」。
日頃アカ(デミック)系のものばかり読んで読んで食傷気味だったので、以下の章は読んでおもしろかった。
2.<からだ>の情景 如月小春
3.共生する身体 安積遊歩
6.「合理化運動」のなかの身体 鎌田慧
あとは、5.戦争と植民地の展示 千野香織、の内容も惹かれたが、なんで身体をめぐる論文集に?という疑問が残る。
「それに対してこれらを上手に理論化し手際よく大きな文脈の中に位置づけることに長けた学者たちの言葉の貧弱さである」。
最悪なのが巻末にある鼎談、単なる建築家・荒川修作のヨイショ鼎談という感はぬぐいきれぬ。あのような駄弁を乗せるぐらいなら、本巻の各執筆者を集めて現代の身体をめぐるバトルロイヤルをやったほうがよかったのでは?
「この越境の知という現実を触知するためにもこの本は多くの人たちに読まれなければならない」。
上記bk1にある栗原インタビューの以下の発言に注目すべきである。
■栗原「最初の出発点は佐藤学・小森陽一・吉見俊哉、この三人が飲み屋かなにかで話をしたんで すね。三人の共通点は今の知の状況に飽き足りないことで、各自が何かもどかしいものを抱えてい る。それを形にできないだろうかと話す中で、それまであまり交流のなかった面々がお互いに意識 しあって、さらに私を引っ張り込もうと相談したらしいんです。それで四人で始まったんですが、 編集会議の最初に私は「私自身が変わりたい」と言ったんです。
「変わりたい」というのは、つまりある種の理論モデルなり方法論を使って現実をきれいに整合的 に分析して説明することに嫌気が差していたというのがあるんですね。そこから「自分が変わりた い」という意識が出てきた。それに形を与えてあげたいということで始まったんです。
決して言葉尻をとらえて誹謗する気はないが、ガクシャの飲み屋話で本をつくって、それをダシに「自分が変わりたい」という発言とはどういう了見なのか。自分がかわりたいために抑圧者をリプリゼントしてゲバルトしてた連中がかっていたが、そんな連中でも、発言に対しては聞き手に対してもうちょっと真摯な語り口をしていたんじゃないでしょうかね。
だから、この本は、ん十年前の類似の議論をした書物とつきあわせて、精読され、かつ批判されなければならない本だと、私は強く確信するのです。
池田光穂(いけだ・みつほ)
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