癌告知の位相
On informed consent and truth telling
癌告知の位相
「文化による比較」という方法が、看護研究の領域においても有効性をもつことが注目されています。しかしながら「比較文化」という言葉を 聞いて改めて新鮮に感じるということは少ないでしょう。にもかかわらず、この方法にはまだ十分に知られていないことも多くあります。例えば“日米文化の比 較”という言葉に代表されるように、どちらかというと、この比較法は対照にすることに力点が置かれているようです。今回は、カナダのクリニックにおいて医 師が「がん告知」するという行動から、私たちの社会におけるそれとの共通点について考えます。
1980年ごろを前後してK・テーラーは、カナダのある病院に附属した乳がんを専門に診断治療する診療室で実地調査に従事していた。彼女 は、およそ4年間にわたり17人の医師について、癌が告知される現場に立会い、また医師たちへのインタビューを行ない、100以上におよぶ告知がおこなわ れる場面を観察している。
私たちにとってこの調査が興味深いのは、従来の研究はおもに“告知を受けた側”すなわち患者側の心理的側面が多く取り扱われているのに対 して、彼女のそれは“告知する側”すなわち医療者の行動に関心を引きつけて論じている点にある。
がん告知の状況は時間の経緯にそって3つの様相が展開する。それは、まず医師の「口上」があり、次に患者が告知の事実を感じとり、同時に 感情的な質問を医師に浴びせかけるという、その場面に「直面」すること。そして、医師の告知に関する情報が患者に伝わるという「拡散」の段階である。もっ とも、これは通常の臨床の現場においても、患者に情報が伝えられる一般的な構図とさほど変わったものではない。問題は、その情報が伝える側にとっても受け 取る側にとってもたいへん辛いものであるということだ。
悪いニュースを患者に伝える際に、カナダの医師たちが過重なストレスを感じていることは言うまでもない。よく私たちは、“欧米における告 知は割に平然となされており、それがわが国と比べて著しく異なる”と聞くことがあるが、やはり、好ましくない情報を伝えることはカナダの医師にとっても嫌 なこと、あるいは苦渋に満ちたものであることに変わりはない。それは、告知が一般的でなかった1970年代以前のカナダの状況においても、告知が一般的に なった現在に至るまで同様であると指摘されている。
告知後、予後などの臨床データをクールに告げるにせよ、それぞれの医師に独特の言いくるめの論法があるにせよ、そこには医師の様々な対応 が観察される。その中でも最も多く見られる医師の行動パターンは、やはり、患者からぶつけられる疑問に直接答えなかったり、実質的な予後について触れな かったりして、回避することである。それは観察された事例の45パーセントを占めるという。次に続くのが、患者の診断や予後に対して、臨床的に確実でない という口実を見つけて、とぼけたり偽装したりすることであり、残りの3割の医師はそのように振舞う。
それに対して、患者には病気の予後が「不確実であること」を明言するタイプは少なく15パーセントとなる。そして、患者に理解できる言葉 でコミュニケーションをおこない、正確さを期そうと試みている、と調査者の立場から観察されるケースはわずか1割だ。がん告知されるような社会的状況が形 成されても、常にその情報が明確に伝わるというわけではない、と言えるようである。
さて、テーラーは、がん告知をおこなっている医師のタイプを、“実験家タイプ”と“治療家タイプ”の2種類に分けている。“実験家”とは ――もう読者の皆さんにも容易に想像できると思われるかも知れないけれども――、告知された後では患者は、気の動転、怒りや抑うつなど感情の起伏や著しい 態度の変容が見られるが、そのようなことなどに関心を向けず(逃避して?)臨床データに基づいた情報を伝えることに重点をおく人である。では、“治療家” はそれよりもよりましか、というと決してそうではない。“治療家”は、患者に対して自己の経験を披瀝しつつ、患者の顔色を窺いながら、実は不正確なデータ をもって説得しようとするタイプなのである。
患者にとって望まれない情報を告知することは、どのような状況においてもストレスに満ちたものだ。インフォームド・コンセントの達成で は、わが国よりはるかに進展しているカナダにおいても、実際の情報開示の実態はきわめて曖昧であり、情報は依然「情報の門番」たる医師の権力に守られるよ うである。この調査をおこなったテーラーは、患者への情報開示に関して、“現場の医師たちはそれを議論することを嫌い、医学教育ではまともに取り上げられ ず、真実味のある実態調査がなされたことはない”と、その状況を厳しく批判している。
この事実が私たちに教えることとは、“なにも告知することがすべてではない”と現在の日本の現状を肯定することではない。むしろ、“告知 しても医療を提供する側の情報の開示をめぐる現場の構造が変わらない限り、告知に関わる問題は容易には解消しない”と考えてみることではなかろうか。
その技術水準の差や人口への浸透に違いこそあれ、近代医療はほとんど全世界の国々で公的な医療の一つとして採用されている。一見共通して いるかに思える、近代医療に則った医師や看護者の行動は、実は彼らが拠っている固有の価値観や理念の影響を受けており、それらの間には明らかな差異が見ら れる。これが、お互いの文化を比較することの一つの意義であろう。
にもかかわらず、このカナダにおけるがん告知にみられるように、「好ましくない情報」をその当事者に告げることの苦悩や、それにまつわる 行動には、何か私たちの周囲にも観察されることと共通していることも多いようである。それを、“人びとの苦悩に関わることの辛さはみな同じだ”と性急に結 論づけるのではなく、“似たような感情の操作や対処行動がなぜ見られるのか?”と用心深く問うことも、比較文化という方法における重要な視点なのである。
このコーナーでは、「いのち」に関する世界のさまざまな民族や社会でみられる興味深い慣習や 信条 を紹介します。そのねらいは、周囲から消え去ってゆく「変わった習慣」を面白がったり、懐かしむことではありません。むしろ「いのち」の多様なあり方につ いて読者の皆さんとともに考えたいのです。いろいろなテーマについて多角的に取りあげますので、皆さんからのご意見をお待ちしております。
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