08 下痢と治療師
このコーナーでは、「いのち」に関する世界のさまざまな民族や社会でみられる興味深い慣習や信条 を紹介します。そのねらいは、周囲から消え去ってゆく「変わった習慣」を面白がったり、懐かしむことではありません。むしろ「いのち」の多様なあり方につ いて読者の皆さんとともに考えたいのです。いろいろなテーマについて多角的に取りあげますので、皆さんからのご意見をお待ちしております。
08 下痢と治療師
近代医療は確かに発展した。しかし、それは福音と同時に、大きな弊害ももたらした。このジレンマを克服するために、“医療”のあり方その ものを検討の対象にする幾つかの学問領域が登場してきた。現代医学を再考する“人間の鏡”として、伝統的治療者や民間医療を考察する気運が高まったのであ る。そして、数多くの調査報告や論文が公刊されてきた。今回は、カリブ海のハイチの民間医療者とそれらの「下痢」治療を例にとり、多様な“伝統的治療者” 像について考えてみよう。(資料はJ・コレーの諸著作に負った)。
ハイチ共和国は、カリブ海のイスパニオラ島の西半分を占め、ドミニカ共和国と隣接する。国民の9割をしめる黒人を中心に人口は六百万。公 用語はフランス語だが、多くの人びとの日常生活ではクレオール語が話されている。宗教はカトリックが多数派を占めるが、村落部においては(カトリックとア フリカ的宗教要素が混交した)ブードゥーがひろくみられる。
ハイチの山間および海岸の村落の人びとは「下痢」という言葉を、ひとつの“病気”と見なすが、それはまた身体の状態を表現する“症状”と しても用いる。下痢になったとき、人びとは、いくつかの原因があったことを想定する。このような原因にまつわる説明は、文化人類学の領域では“民俗的な病 因論”と呼ぶ。ハイチにおける下痢の民俗病因論では、それは「寄生虫」「歯の生え替わり」「邪視」「消化不良」「乳児の“おどりこ[泉門]”が落ちるこ と」「身体が“熱くなる”こと」などが挙げられる。
民俗的な病因論(→民俗病因論)の具体的な説明は次のよ うなものである。寄生虫は、お腹の中で“暴れる”と下痢になる。幼児の歯の生え替 わりの時期に、抜 け落ちた歯を呑込むと子供が下痢になる。そのため母親は抜け落ちる乳歯を子供が呑込まないよう気を配る。邪視とは、人には“強い視線”を持つ人がいて、そ の人に見つめられると病気や不幸――この場合は下痢――が引き起こされるというものである。「おどりこが落ちる」とは、子供が外的なショックを受けたり、 驚いたりすると、泉門が落ちると人びとが信じ、下痢を引き起こすという。
身体が“熱くなり”下痢になるとは、人びとの身体観に由来する。ここでは“熱い”ものと“冷たい”ものがバランスが保たれている身体の状 態を、健康とみなしている。この場合、熱い/冷たいは、実際の体温のことではなく、あくまでも身体の“内的な状態”を表現する言葉である。身体の状態のほ かに、食物や薬草にも熱い/冷たいという属性があるから、“熱い”下痢には、“熱い”食物が制限されたり、“冷たい”薬草などが処方されるのである。
さて、ハイチにおける西洋医学ではない民間医療の治療者には、伝統的な出産介護者(産婆)、薬草師、シャーマン、注射を処方できる民間人 ――ここでは“民間注射処方師”と呼んでおこう――がいる。
産婆は、伝統的な知識や技術を先輩の産婆より伝授され、また自分で独特な処方を実修している。また現在では、公的な医療制度から補習ト レーニングが産婆たちに提供され、地方の診療所では産婆が登録され、彼女たちを通して基礎的な出産の資料が収集されている。
“民間注射処方師”の多くは相対的に高い公的教育を受けている。彼らは、近代的な医薬品の商業的な流通という情況のなかで、科学的な処方 のシンボルである“注射”を人びとの求めに応じて処方する。つまり、ハイチの医療の近代化のなかで、十分に近代医療を利用することができない人びとが、代 替的に利用する。しかし、処方の様式や中味は、近代医療というよりも“民間医療”的である。
薬草師は、伝統的な知識に基づいて、薬草の処方をおこなう。薬草の知識は、人びとにも共有されているものもあるが、薬草師が重宝されるの はやはり、彼らだけが知っている特殊な知識と技能である。
ブードゥーのシャーマンは、治療において超自然的な存在と交流することに重きをおいている。その治療は、呪文を唱えたり、祭壇に供犠を捧 げたりする。むろん薬草を患者に対して用いるが、“薬草の中の成分”が患者に効くのではなく、(守護神などの)超自然的な存在によって効を奏したと主張す る。
これらの、どの種類の治療者たちも「下痢」については人びとと同じ病因論を共有している。しかしながら、彼らは百年一日のごとし同じ治療 をおこなっているのではない。程度の差はあれ、新しい治療法にも関心を持つ。とくに下痢性疾患に対しては政府保健省や国際協力機関が推奨する経口補水療法 と補水塩――脱水症状に対してスポーツドリンクのような等張液を経口的に与えること――はとみに普及するようになってきた。そして、興味深いことに、この 外来の“新しい療法”への対応は、治療者たちによって異なる。
概して薬草師やシャーマンは受容に保守的であり、産婆や民間注射療法師は積極的に受容した。前者が補水療法を受け入れにくい理由は、その 治療実践が伝統的な知識に依存する度合が高いからであり、政府が説明する補水塩の“科学的効果”の説明は彼らの“治療理論”に合わないからである。他方、 後者では、産婆は下痢を抱える母親と接触する機会が多く、実際様々な機関から補水塩が与えられている。また注射療法師は、常に注射薬という近代医薬と接触 しており、そのために新しい新種の療法を好んで受容する――近代医学において“新しさ”は大いなる期待と幻影を醸し出すことは、ここでも同じである。
こうして見ると、近代医療を映し出す鏡として“一般的なハイチの民間治療者”の像を見いだすことは難しいことがわかる。治療者といって も、民間にも実は多様な専門家がいるからである。近代医療の見直しのために、ともすれば“伝統的な治療者の知恵に学ぼう”と叫ばれることがあるが、どの地 域のどの種類の治療者なのかを想定するかで、事情はたいへん異なってくる。同じようなことは近代医療についても言える。同じように均質に思える西洋医学 も、定着した文化や社会のなかで多様に展開していることが指摘されている。なおこちらのほうは、別の機会に紹介することにしよう。
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