学問はどのようにして人間を造るのか?
how academic activity makes a student as human being
【前口上】
中川古希記念シンポジウムで私が主張した命題について考える(→論文はこちら)。こ こで問題にしたいのは二者択一の命題である。つまり「人間が学問を造る」のか「学問が人間を造る」のかという仮想の問題である。この命題について議論する ことは次のような野心を私はもっているからである。人間が知識の支配者であるという傲慢な思想をもち(しかし、なぜそれが傲慢なのか?)、我々はつねに与 えられた認識空間のなかでしか生きていないにもかかわらず、そこから外部に出ること(認識?)を可能にし、世界を作成することができるという確信をもつに いたるのかについて、それとは全く異なったアプローチをすることによって、その論理的あるいは経験的経路を明らかにしたい。
0)ウェーバーに救いを求めたのが失敗だった!_より詳しくは、学問は時代や社会の政治経済ある いは社会文化的文脈の影響を受けて、さまざまな機能構造的分化を遂げることを考慮して学問論を理解しないかぎり、どうでもいい説教か、オワコン教授の講義 中の与太話のひとつにつぎなくなる。つまり、「学問は時代や社会の政治経済あるいは社会文化的文脈の影響を受けて、さまざまな機能構造的分化を遂げることを考慮して 学問論を理解しなければならない!」
『職業としての学問』
その批判的解釈→【振り出しに戻る】
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ウェーバー『職業としての学問』尾高邦雄 訳[1936]岩波文庫版(Max Weber, Wissenschaft als Beruf, 1919)ノート
Wissenschaft als
Beruf, Gesammelte Aufsätze zur Wissenschaftslehre (J.C.B. Mohr, 1922)
「大学に職を奉ずる者の生活はすべて僥倖の支配下にある」 (p.23)しかし、組織は自浄機能つまり自ら善をなすことも否定できぬ(p.20)。
(a)重箱の隅をつつくことに快感(=「情熱」)を覚えないものは学者にはなれぬ。
(b)「情熱」は「霊感」を生み出す基盤である。しかし「情熱」だけでは事実を構築する(でっちあげ る)ことはできない(p.25)。そこには「思いつき」を媒介とする何らかの?プロセスがある(p.26)。また「天賦」の要素もある。——「学問に生き る者はこの点でもかの僥倖の支配に甘んじねばならぬ。」(p.27)
(c)学問の生産のエンジン(=「個性」Persönlichkeitをもつ)のは、仕事に没入する ことである(p.29)。なぜなら学問は進歩するからであり、古い生産が陳腐なものになるから学問の意義はあるのだ(p.31)。
Nicht zuletzt auf Grund jener zweifellosen Wahrheit hat nun eine ganz begreiflicherweise gerade bei der Jugend sehr populäre Einstellung sich in den Dienst einiger Götzen gestellt, deren Kult wir heute an allen Straßenecken und in allen Zeitschriften sich breit machen finden. Jene Götzen sind: die »Persönlichkeit« und das »Erleben«.
The mathematical imagination of a Weierstrass is
naturally quite differently oriented in meaning and result than is the
imagination of an artist, and differs basically in quality. But the
psychological processes do not differ. Both are frenzy (in the sense of Plato's
'mania') and 'inspiration.'
(d)呪術からの解放:主知主義的合理化の根幹は、知識のストックを誇ることではなくて、欲しさえすれ ば学びうることができること、知識を意のままにすることができるということ。
※これはより高度な自由主義の主張であると同時に、学問する人としない人を峻別する記号(=合理化)で もある。
(e)学者の営為は社会性があるかという問題に転じる。ウェーバーはトルストイの例をあげる。つまり文 化人と民衆の峻別と後者の高揚から、学問は人の生活にいかなる意味をもつのかと問いかける(pp.35-6)。
Under these internal presuppositions, what is the
meaning of science as a vocation, now after all these former illusions,
the 'way to true being,' the 'way to true art,' the 'way to true
nature,' the 'way to true God,' the 'way to true happiness,' have been
dispelled? Tolstoy has given the simplest answer, with the words:
'Science is meaningless
because it gives no answer to our question, the only question important
for us: "What shall
we do and how shall we live?" That science does not give an answer to
this is
indisputable. The only question that remains is the sense in which
science gives 'no' answer,
and whether or not science might yet be of some use to the one who puts
the question
correctly.
(f)プラトンの洞窟の教訓は、ウェーバーにとっては<真理=権力>の発見であり、その手段は「概念」 を通してである。学問研究の手段のこれが一番目。次にルネサンス時代には第二の手段、つまり「合理的実験」が得られる。しかしルネサンス時代には実験は真 の芸術や自然の真相へいたる道であり、神の道であった。ただし、後者の理念は近代の合理化のなかで否定された。
Well, who today views science in such a manner? Today youth feels rather the reverse: the intellectual constructions of science constitute an unreal realm of artificial abstractions, which with their bony hands seek to grasp the blood‐and‐the‐sap of true life without ever catching up with it. But here in life, in what for Plato was the play of shadows on the walls of the cave, genuine reality is pulsating; and the rest are derivatives of life, lifeless ghosts, and nothing else. How did this change come about?
※<真理=権力>とは「論理の万力を以て人を押しつける手段」(p.38)。
It is the same as with Kant's epistemology. He
took for his point of departure the presupposition: 'Scientific truth
exists and it is valid,' and then asked: 'Under which presuppositions
of thought is truth possible and meaningful?' The modern aestheticians
(actually or expressly, as for instance, G. V. Lukacs) proceed from the
presupposition that 'works of art exist,' and then ask: 'How is their
existence meaningful and possible?' - Max Weber, Wissenschaft als Beruf,
(a)では学問の職分とはなにか?、それは「何をなすべきか」「いかにいくべきか」について答えないこ とである。より積極的には、答えないことで、別のことに答える(=「貢献する」)のだ(p.43)。
(b)ウェーバーの修辞法:
学問はあることがらについて知ることが重要であるという「前提」にたって出発する。しかし、そこで得 たものが重要であるかどうかを「学問上の手段」によって論証することはできない。人びとはそのような成果を受け入れるあるいは拒否することによって「解 釈」するだけである(p.44)。
「医学の根本の「前提」は普通には単に生命そのものを保持すること及び単に苦痛そのものをできうる かぎり軽減することを以て己が使命とするころであると考えられている。だがこれは問題である。医者は、例えば重態の患者がむしろ死ぬことを欲するような場 合にも、またその身寄りの人たちが——彼が生きていても仕方がないという理由で——死によってその苦痛を取り去ってやることに同意したような場合にも、ま た例えば患者が貧乏な狂人であって、その身寄りの人たちがこの生きても仕方のない病人を助けるために多大の費用を出す訳にはいかないという理由で、彼の死 を——あからさまに知らそうではなにしろ——欲せざるを得ないような場合にも、あらゆる手だてを尽くして彼の命を取り留めようとするのである。つまり医学 の前提とそうして刑法がこれらの願いをきくことを医者に禁ずるのである。だが、生命が保持する値するものであるかどうかということ、またどういう場合には そうであるかということ、——こうしたことは医学の問うところではない」(p.45)
(c)ここからは延々と社会的実践や理念と、(価値中立な?)学問の理念との峻別が延々と主張されてい るが、省略する。当時(ca.1919)学生が学問の社会実践を求める風潮——教師ではなく指導者を求める——に対する批判として講演されたというウェー バー側の意図もあった(訳者・尾高の解説)。
(d)学問の寄与とはなにか?。技術——否、ものの考え方や訓練——否、そうではなく明晰さである (p.60)。学問によって明晰さを得ることは、学問の限界を知ること。究極の内的整合へ到達するために、学問以外の「神」に侮辱を与え、自己の行為の意 味について自ら責任を負う(p.62)。
(e)学問が天職となりえるかという価値判断には答えられない。天職であることは、それ自体の前提にな るからだ(p.63)。※これは議論の「オチ」としてはかなり強烈なものだ。というのは、結局それまで述べた彼の議論は学問論であって、学問は天職たりえ るか?というに回答を与えたい読者の気持ちをはぐらかすだけでなく、「それはお前らが、学問の外側で自分で決めることだから」と門前払いすることだから だ。
【批判的解釈】
・当時の社会科学をめぐる状況:当時の学生のあいだでの、理想主義の蔓延(指導者を求める)、学問を現実 に対する批判に直結する(政策を論じる)という当時の社会状況に対して、ウェーバーは現実主義で臨む(教師であることを確認させる)、学問を理想的な論理 空間のなかで明晰さを追求する(概念<理念?>を論じる)。
・ウェーバーは、自分の言っていることが当時の状況に対する対抗言説であることを理解していたかどうか (つまり確信犯であったか否か)は別にして、学問の限界を論じることで、学問がその領域のなかで極限まで概念を明晰化させる自由を保証する。
・大戦後、政策科学の領域では、ウェーバーの議論を批判的に継承して、その学問領域の合理化を推し進める 動きがあった。(ウェーバーのように忌避するのではなく。)
・控えめに言うと、ウェーバーは学問がおこなえることの限界を熟知していて、政策と密着することによる学 問の誤謬を戒めた(アメリカの学問を例にとって?)
・ウェーバーの主張を最大限に批判すると、分けることのできない学問と政策(社会的実践)を理念化して、 学問の反動化を極限まで推し進めたという俗流マルクス主義的な見解に到達する。他方、もっとも好意的に彼の主張から得られることを教訓にすると、
(a)学問の限界を能力の限界を知れ、
(b)学問が何かをできうるという認識の諸前提を問え、
(c)実践にかまけて学問本来の目標である明晰さを犠牲にしてはならぬ、ということになるか。
・ウェーバーとその俗的な社会的受容を審問にかけると、ウェーバーは無罪である。なぜなら、彼は呼びかけ る対象を意識し、自分のおこなっている言説の行使をちゃんとわきまえていたから。他方、ウェーバーの主張を普遍化する俗流解釈は有罪。なぜなら、発話のコ ンテクストにおける彼の主張の可能性と限界を混同し、彼の主張を神学にまで高めたからである。
----------------ここまで『職業としての学問』に関する議論------------- -----
1)いま私が、ここにあること。
1.1 存在の社会的拘束性——コギトでも「世界内存在」ではなく「階級選別の産物」としての私 (←これもまた一種の想像の産物なのだが)。
1.2 そのような存在拘束性から脱出できる契機——強制体験、経験、自発的体験
1.3 存在拘束性からの解放の条件——それを保証するイデオロギーの承認、自発的体験(投企)、 そして想像力
2)想像とは社会的行為である。
3)想像の再生産行為
「想像の共同体」論(B. Anderson)
下部構造と上部構造
学界・学校・フリースクール
4)文化生産の理論
私が採用する文化の定義は、ウィリアムズのものである。彼によると文化とは「芸術や学習のみなら ず、制度や日常行動の中にも存在する、ある種の意味と価値を表現する特定の生き方」である。したがって「文化の分析とは……特定の生き方すなわち特定の文 化のなかに、暗黙的および明示的な意味と価値を明らかにすること」である(Williams 1965、引用はHebdige 1979:6)。
ウィリアムズの議論の前提には、文化は我々の生き方に対して価値や意味を与えるものであるが、誰もが 平等にその可能性を享受しているのではなく、文化が社会という外部性によって規定されていることが示唆される。太田はこのことを踏まえて、文化の生産につ いて、次のように述べる。「文化がつくりだされる状況は、外部からの構造によって規定されているわけだが、そのような<場>を<生きる価値がある場>へと 変換する社会的プロセスが文化を生み出す」(太田 一九九六、一三三頁)。
誰もが容易に想像できるように、人びとの「意味と価値を表現する」生き方(=文化)は社会や歴史に よってさまざまな拘束を受ける。しかし人間は、それらの拘束の存在を自覚することで生き方を自らの手によって変更する可能性が与えられる。もちろん、変更 の方法もまたさまざまな拘束のもとにあり、必ずしも無限の選択肢があるわけではない。しかし、この枠組の全体に気づけば、文化を規定する外部からの拘束性 は、人間にとってより積極的な意味をもつことがわかるはずだ。外部から拘束をうけている条件が、それまでの生き方を打ち壊し、あたらしい生き方を生み出す (=文化生産の)契機になるということである。百年以上も前にすでに人類学者ボアズはこのことの意義に触れて「部族の慣習に抵抗する個人の戦いを観察する ことは重要である」と述べている(Boas 1982[1940]:638)。
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