中川米造論
On my mentor Dr. Yonezoh Nakagawa,
1926-1997
【構成】
はじめに——体験と学問あるいはモラルサイエンス(1996年7月27日の出来事)
中川米造(1926-1997) さ んは、医療人類学への言及は数知れないにもかかわらず、ご自身を医療人類学者と呼んだこ とはない【1】。しかし、彼の経験の中には、八〇年代前半に医療人 類学との出会いをもった多くの人と共通する体験があるのではないかと私は思う。中川さんと医療人類学の出会いを考察することで、日本において—— これは世 界の各地でも同じで、人がそれぞれに与えられた社会の文脈において——医療人類学をおこなう、つまり医療人類学者になるということの意味を考えるきっかけ になるだろう。
なぜこんな問題を考えるのかというと、それは私自身が医療人類学者である、あるいはそ う自認しているからであり、医療人類学という学問の存在理由ではなく、医療人類学者 という自己の存在理由を探究したいという理由からである。だから、これ は公共空間としてのシンポジウムにはふさわしくない問題提起かもしれない。しかし、中川さん——先生を知っている者にとっては、厳しい自己探究者であり、 かつ社会に対する批判者であった「前期」の中川先生と、常に学生に対して耳を傾けかつよき導師(グル)として、触媒のように振る舞った「後期」の中川先生 という2つの顔をもっているらしい——その後期の中川さんが日本での医療人類学の発生に際して強力な触媒として機能したことを、先生の褒め称える 意味での 顕彰(praise)とその成果と限界を定める検証(inspection)というふたつの意味をこめて、このパネルにおいて私が与えられた「医療人類学 の展開と可能性」という話題提供としたい。
さて、我々の学問の研究対象は大きく2つに分類できる。この2つの研究対象のカテゴ リーが、また我々の研究の態度を、ひいては研究者の態度を二分する。この2つの研究対象とは、つまり、ひとつは人畜無害な研究対象であり、他のひとつはそ うでない危険な研究対象である。危険な研究対象とは、たとえば水俣病、たとえばアウシュビッツ、たとえば障害者、たとえば被差別部落、たとえば外国人労働 者、たとえば在日朝鮮・韓国人、たとえば女性、そしてたとえば医療や福祉の社会問題である。誤解のないようにしてもらいたいのは、ここで「危険」というの は、我々の社会がそのような研究対象を「危険なもの」している事実について言っているのではなく——もちろんそれ自体も重要な問題だが——、そうではな く、そのような研究対象を選ぶ行為やその研究者そのものが、学問の同業者からラベルされる際に生じる「危険」についてである。それを研究対象にすること が、研究対象と同じカテゴリーにされることもあるかも知れない。彼らはその一味だと。しかし、事態はそんなナイーブなものではないし、研究対象に貴賎なし というほとんど偽りの大義名分があるので同業者はそのようなことには動じる気配をみせない。学問とはつねに対象への関与であるという、これまた偽りの大義 名分も用意されているからである。
したがって、「危険な」研究対象を選択することが、研究者にとって危険な行為であり、 かつ研究者自身が危険なものになるということは、次のようなようなことを言いたかったのである。つまり、常に研究対象に対してモラルのオーダーを要求する 研究者の自己言及的な態度、これが無反省な研究の日常性に埋没している研究者にとって「危険」であるということだ。このような異常な研究領域、つまり医療 や福祉の社会科学的研究領域では、つねに研究の成果が、ある種の道徳を暗示する(connotate)。論争とはこの場合、道徳の戦場のことである。価値 自由(Wertfreiheit) などはかない実践であるにもかかわらず、この時ばかりは「モラルにまみれる自己を見つめることで、そこから自由になる」 避難場所に私は逃れたくなる【2】。
なぜ冒頭にこのようなことを発言したのかと言えば、医学哲学や医療倫理あるいは医療人 類学などの学問をやることに、モラルのオーダーが暗黙のうちに要求されていることを確認したかったからである。事の是非はともかくとして、この種の学問 が、それに参与する人たちの特殊なモラルと経験によって支えられていることは明らかである。つまり経験が学問をつくるのであり、学問はその人の人生に大き な影を落とすのは、このことによる。では日本における医療人類学の発生について、中川さんの経験を通して考察してみよう。
日本における医療人類学は敗戦から始まった!(風が吹けば桶屋が・・)
中川さんと医療人類学をめぐるストーリーはこうである。なお、ここで依拠した資料は、 フォスターとアンダーソン『医療人類学』の監訳者の後書きに触れられている内容のみに限 定していることをお断りしておく。医療の思索者の流転は次のような ものである。
最初に、戦後の混乱期において医学を学ぶこととを支えてくれる哲学への期待とそれに対 する渇望が彼にはあった。次に、哲学から歴史や社会学へと関心の広がってゆく。つまり奥行きを広げる探究がある。さらには、その勢いで原始医療を調べる民 族誌学的な調査旅行に出掛ける。そして、その行為を学問的に根拠づける医療人類学という学問が彼の「外部」で進行しており、昆虫が集合フェロモンに惹きつ けられるように、その新興の学問が彼の研究室のドアをたたくのである。
1.中川さんは書く「私は 医学校に入学した途端に医学がわからなくなった」と。またあ る医療被害の訴訟の現場では次のように発言した。
「私は昭和20年に医学校に入学しましたが、医学そのものについて医学校では全く教 えない上に、医学の考え方が、はなはだアイマイな論理の上に立っていることに驚きと不満をもって勉強をはじめました。」(『医療的認識の探究』1975: 227)
ここでは若い医学生が医学とは何か?、という根源的不安に陥れられる状況が描かれてい る。彼の監訳者あとがきには、戦前と戦後の価値観の違いや混乱について(はなはだ抽象的な表現で!)触れられている【3】。それは誰もが共有する敗戦によ る社会状況であったのだろうか。また、多くの戦後知識人の知的出発点として共通のものであったのだろうか?
2.そして、最初は、お定まりの「哲学」への探究である。これは哲学が諸学の女王、学 問のαでありωである、という時代の処方箋あるいはカンフル剤であったことを意味する。しかし、同時代を体験した坂口安吾の小説では、価値観の崩壊が哲学 書を売り払うという行為を引き起こす場合もあるので、この当時の人びとの哲学に対するモーメントは、崇拝すべきものか唾棄すべきという両極端なもので あったのだろう。このような哲学に対する扱いを我々が見るときに(そしてハイデガー問題でも明らかだが)、哲学を崇拝することも、唾棄すべきものとして馬 鹿にすることも、同じコインの両面であることに気づく。人間は哲学するほど、上等な存在ではない。
3.哲学だけが唯一の救いでないことは明らかである。あるいは二度の世界大戦は、市民 に哲学の限界を感じさせたのかも知れない。あるいは社会的事実に重きを置けば、哲学は(人間を、ましてや人類を救済するような)それほどの「タマ」ではな かったのだ。中川さんの発言に耳を傾けよう。
「ただ哲学だけでは医学は理解できないので、医学の歴史や医療の社会学的な側面にも 目を向けはじめた。/その中の大きな関心の一つはいわゆる原始医療で あった。それは歴史的にいって医療の起源を理解させるものであり、社 会学的にいっても、もっとも単純な形で医療とは何かを告げるものであると思われたからである。」(医療人類学あとがき、p.346:/は改行)
ここでは医療の社会性の確認されている。つまり医療が社会性をもつから、歴史的変遷、 社会的相対性ということが理解可能になるのである。あるいは、思弁(=哲学)という器に、魂を与えるのは歴史であり社会的事実であるということかも知れな い。
4.我が導師は、そこから東パキスタンの東部国境地帯、ウガンダの西部国境地帯へと出 掛けてゆく。どちらも国境地帯というところが、良いではないか!。そして彼は民族医学的調査に従事する。しかし、彼の調査は、民族誌学者のような正統的な ものではない。それは調査の「意図」においてはやくから異端的(heterodox)なものだったのだ。中川さんは言う。
「そのころはまだ、民族学者たちもあまり医療を主な対象にしている人が多くなかった ので、自分にとってかなり大きな収穫になったと思っている。とくに、それまでの民族学が西欧の白人優位の基盤に立って、原始医療を珍奇な習俗の事例とし て、つまり、いかに現代医療と違っているかを強調して記載する傾向があったのに、わたくしは逆にどのような共通点があるかを観察することにつとめた。それ を発見することで時代をこえ、社会の差異をこえた医療の原型が明らかになると 考えたのである。」(前掲書、p.347)
5.このころ先進諸国ではいわば医療人類学の「同時多発革命」が進行中であった。中川 さんは大貫恵美子(Emiko Ohnuki-Tierney, )さんとの出会いを通してフォスターとアンダーソン『医療人類学』の監訳者となる。大貫さんは『日本人と病気観』(英語版出版1984年) の調査で来日している頃だろう。中川米造さん主宰のゼミナールで大貫さんは樺太アイヌの病気の分類について語る。そのゼミナールには、同じ阪大の人間科学 部で医療人類学調査研究に着手していた若き日の松岡悦子さ んもいた。彼女(大貫先生)は樺太アイヌに関する象徴人類学的研究(1981)を公刊していた。87年の国際 シンポジウムやMAOニュースレターの発刊('88)のはるか昔ことである。民族学会では83年にシンポジウム「病のシンボリズム」が開催されている。波 平恵美子さんは医療人類学のレビュー('82)を書き、日本で最初の医療人類学の著作『病気と治療の文化人類学』('84)を公刊する。だから、 日本にお ける医療人類学が人口に膾炙し一定の市民権を得るようになったのは八〇年代前半であり、ほとんど同時多発的現象であり、また、それらの関係者は相互に関係 してということである。
中川学派?医療人類学の認識論的前提の検証
中川さんの原始医療に対する先の発言にもう一度耳を傾けてみよう。
「そのころはまだ、民族学者たちもあまり医療を主な対象にしている人が多くなかった ので、自分にとってかなり大きな収穫になったと思っている。とくに、それまでの民族学が西欧の白人優位の基盤に立って、原始医療を珍奇な習俗の事例とし て、つまり、いかに現代医療と違っているかを強調して記載する傾向があったのに、わたくしは逆にどのような共通点があるかを観察することにつとめた。それ を発見することで時代をこえ、社会の差異をこえた医療の原型が明らかになると考えたのである。」
このストーリーが真実であるとすると、次のような3つの歴史的命題を引き出すことがで きる。
(1)医療は最初は民族学の研究領域からスポ イルされていた。 (2)民族学が非西洋 の原始医療の珍奇な面を強調し、現代医療との差異を主張してきたのは、白人優位思想によるものである。 (3)「医療」のようなもの——医療というラベルが貼られる以前の境界の曖昧な集合的 範疇のものである、名前はまだない——の共通点を発見することが人類にとっての「医療の原型」を明らかにすることにつながる。 以上である。この3つを現在の状況からチェックすると次のようなことが言える。 |
(1)「医療は最初は民 族学の研究領域からスポイルされていた」の検証:
欧米の人類学研究ではそうとは言えない。医療人類学の自然科学的研究のほとんど創始者 と言えるW・H・R・リヴァース(William Halse Rivers Rivers, 1864-1922)は医者であり1898年のトレース海峡調査において心理学研究班長をつとめ感覚心理学の調査に従事している。もちろん民族医学は、薬 草などのエスノサイエンス的研究か、呪術などの守備範囲に入っていたので、西洋医療とホモロジカルな対立項としてまじめにとらえられてことなかったことは 事実だろう。というか、これを学説史における中川さんの誤った評価というよりも、第三番目に触れる「西洋医療とホモロジカルな対立項としてまじめにとらえ る」という観点からの民族学批判として受けとめる場合、中川さんの指摘はきわめて真っ当なところを突いているように思える。
(2)「民族学が非西洋の 原始医療の珍奇な面を強調し、現代医療との差異を主張してき たのは、白人優位思想によるものだ」の検証:
贔屓の引き倒しにならないように注意したいのだが、これは今日におけるオリエンタリズ ム批判の論拠に符合する有益な指摘である。こういうことである。人類学者のなかには冒険家気取りや文化のブローケージするのはこの私でございとい う厚顔無 恥な連中がいる。そういう者がいう紋切り型のセリフは「私の研究するトンガでは・・」「いや済州島の文化ではそれが異なっておりまして・・」であり、相手 の社会を自文化の人たちに語るときにエクゾチックな手法をつかう。これが問題なのは、言い方が生意気だということではなくて、誰が文化を語る権利をあるの か、という反省心の欠如であり、その語りを根拠づけるものが、ほかならぬ知識と権力の融合によるものであるということへの無自覚なのである。だから、原始 医療に珍奇なものをみることを「白人の優越性」の根拠にしたという発言は卓見である。
(3)「『医療』のような ものを発見することが人類にとっての「医療の原型」を明らか にすることにつながる」という命題の検証:
これは中川医学概論が探究して止まなかった点である。そしてヒューマニスト研究者とし ての中川米造さんの情熱のエンジンの部分を形成する。
もちろんこれにはトートロジカルなところもある。なぜなら、「医療の原型」を明らかに するために、異文化の土地を訪れるのだが、そこには人類の共通の要素である医療システムがある、という前提を初めから信じないと、原型の要素を発見するこ とができない。だから、中川さんの実践の前提には、人間のやる行為には、どこかに共通の要素がある、という人類の普遍主義すなわちヒューマニズムに基づく 「人間の共通性」を最初から前提にしていることは明らかだ。
この3つのポイントは中川さんの研究と社会実践のスタイルを知るものにとっては、まっ たく違和感のない考え方ではないだろうか。それは、冒頭で述べた中川さんの研究スタイルの分離、つまり「前期」中川先生と「後期」中川先生の分離を超えて 共通する止むことのないニューマニズムの伝道者としての姿勢ではなかろうか。
だから、問題は次の2点に絞れる。
(1)中川さんが希求して止まなかった「医療の原型」というものが、はたして本当にあ るのか?、あるいはあるならば、それは何なのか?
(2)もし、中川さんの明らかにしたかった「医療の原型」が、ヒューマニズムの立場か ら常に批判してきた現代医療——それは中川さんからみればまさに「医療の原型」からの逸脱と推測できるのだが——その現代医療のなかに「医療の原型」が不 可避的に存在することが証明されたのなら、彼は「医療の原型」に今までどのように立 ち向かってきたのだろうか?、あるいは、これからどのように立ち向かっ ていくのだろうか?、という疑問である。その意味で、先生が最近刊行された著書のタイトルが『医療の原点』(岩波書店、1996年)である のは極めて興味 深い。
W・H・R・リヴァースの現代的意義(この部分は別の論文の再掲に なります)
中川さんはこのようにして医療の原型あるいは医療の原点を求める。では、同じようにし て我々は医療人類学の原点を求めてみることにしよう。
医療人類学という学問領域が形をなす1960年代末のアメリカよりも40年ほど遡る前 に、この学問的認識はすでに主張されていた。イギリスのW・H・R・リヴァースは、社会人類学における系譜的方法を確立したことで著名であるが、彼は人類 学者になる前はケンブリッジで実験心理学を専攻する研究者だった。リヴァースは自らも医師であり、1898年に始まるケンブリッジ・トーレス海峡調査隊に 参加し、医療研究の分野に人類学的なアイディアを持ち込んだ最初の一人である。彼は1915年と16年にロンドンの医学校で未開医療に関する講演をおこ なったが、死後『医学、魔術、宗教』というタイトルで出版され、今日の医療人類学者の見解と共有する次のような主張をおこなった。私は、リヴァースの主張 の今日的意義をここで三点にわけて紹介したい。
まず最初にリヴァースは、「野蛮人」——当時の人類学では異文化の他者である未開人を こう呼んでいたのだが——は非合理的ではない、と主張した(Rivers 1924:51)。今日では、一見非合理的な観念や行動の背景には何かの理由がある、という見方は多くの人に受け入れられるようになっている。しかしなが ら最も初期の組織的なフィールドワークに参加した医者であり人類学者である彼がそのような主張をしたことはまさに画期的であり、記憶されてよい。彼は人類 学に転向してからは進化主義的な見方をとりつづけていたが、医学校での講演をおこなう頃には文化の伝播説を支持するようになる。このことが、進化主義に見 られるような、未開から文明への知識と認識の進歩という一種の知的発達の図式を放棄させたのではないかと私には思える。彼は、現地の人たちの病因論と治療 には論理的な関係があることを発見して、環境に対する人間の反応の均質性を説き、同時に、違った地域にこの事実が分布していることを伝播の証としたのであ る。
この指摘の延長上にさらに彼は、人びとがおこなう病気の分類はきわめて体系的におこな われるということも指摘した。これは後に、文化というものが人間に対して、たんなる「役にたつ・役に立たない」というレベル以上の認識能力を付与すること は、認識人類学やその研究成果を踏まえて発展させたC・レヴィ=ストロース『野生の思考』などで人びとに知られることになる。
リヴァースの第二の主張は、メラネシアとニューギニアで観察された大半の病気というも のはマイナーなものであり、ほとんどは家庭内で処理されるというものである(Rives 1924:41,81)。これは後に登場する医療人類学者の間の合意というよりも、むしろ今日において強調されるべき指摘である。というのは、医療人類学 者おいてすら、あるいは医療人類学だからこそ、その研究の対象を制度的な医療や人間の生き方に大きな影響をあたえる重い病気に求めがちだからである 【4】。また、近代社会においては医療制度が人びとの生活の中に深く浸透するようになって以降、「医療」をひたすら深刻で重要なものとみなし、医療にかか る前の自己治療や家庭内での処方を軽視する傾向があったからである。しかし、医療を人間の病気に対する対処行動の全体系であるとみたときに、リヴァースの この第二の主張が意外な盲点であると同時に、マイナーな病気やそれに対処する個人や社会の様態に着目することの重要性を再確認せざるを得ない。そして、こ れは彼自身が指摘した人びとの病気の分類は体系的におこなわれるという事実について、それを裏付ける根拠にもなる。
彼の三番目の重要な指摘とは、その社会における諸関係——とくに権力関係——が、病気 と治療の形態と深い関わりをもっているということである(Rivers 1924:94)。彼は、宗教性の強いポリネシアでは、病気の原因は神々や他の霊的存在に帰され、治療もまたそれらの超自然的な存在の力を必要とする。そ れに対して、メラネシアでは病気は人間あるいは人間によって導かれたりコントロールされている霊的存在によって引き起こされるので、治療においても、その 霊的な知識や操作に長けている人間が介入する、とリヴァースは指摘する。とくに後者のような呪術を主とするような土着的医療においては、呪医と病人の関係 は権力関係にもとづくという指摘もおこなっている。
医療を権力という観点からみる立場は、医学者としての彼の人生における次のようなエピ ソードと絡み合わせて考えると、より感慨深いものがある。今世紀初頭からメラネシア研究者として華々しい業績をあげた彼は、後にイギリスが第一次大戦に参 戦したときに軍医として戦争神経症研究に携わる。イギリスのネオ・フロイト学派の第一人者として、晩年は心理学研究にふたたび戻ってゆくのである。
以上、リヴァースの指摘した三つの独自性について紹介した。医療人類学の神話的な始祖 としての彼をこれ以上持ち上げる必要はないだろう。しかし現代社会の文脈に即して、彼から受け継ぐものがあるとすれば、およそ次のようにまとめることがで きる。
一、人びとの病気理解は、 不可知なものでなく外部から理解することが可能であること。 これは近代になって以降、医学が「病気」そのものを研究することになった傾向に対抗して、彼の学問が「病人」あるいは「病人を支える社会」の理解への指針 を確立したことを意味する。
二、病気の発生とその処方 の場とは「家庭内」という身近な場所であること。これは「病 人」を理解するためには、病気そのものよりも病人の身の回りの日常の空間を把握することが重要であること再確認させた。
三、病気を治療と社会との 深い関係であり、治療とは何らかの権力の行使であること。し たがって医療は、日常の世俗権力から超越した独自の社会空間ではなく、政治や社会を分析するのと同じ方法で理解することができるという可能性を提示した。
まとめ——医療人類学のポストモダン?としての中川米造
今日我々の身の回りでは、ポ ストモダンというと、さも当たり前というような顔をする人 と、その言葉を聞くだけで怪訝な顔をする2つのタイプをみることができる。今をモダンの最終段階だという人もいるが、私はここでその時代区分や内容につい て果てしのない議論をするつもりはない。ただ、冒頭にあげたようなモラルサイエンスとして強いられてきた医療の社会科学的研究にひとつの傾向——あるいは 予兆としてのアウラ——をみとめたい衝動に私は駆られている。それは、やはり冒頭に述べたように学問の経験を語ることと関係している。
つまり医療の社会科学的あるいは人文科学的研究に従事する人たちが、淡々とモノグラフ を書くだけでなく、自分の声つまり自分の体験を著作のなかに込めようとしている動向である。たとえばA・クラインマンの『病いの語り』(The Illness Narratives,1988)では、冒頭にクラインマンが研修医時代に、全身に酷い火傷を負った少女や梅毒に感染した年輩の女性と出会い病気を語るこ との重要性について説き起こしている。E・マーチン『柔軟な身体』(Emly Martin, Flexible Body,1994)は1952年のポリオ流行で亡くなった彼女の弟のことからかき始められており、推測するに著作自体が弟に捧げられている。あるいは村 上陽一郎の20世紀の日本というシリーズの近代日本の医療史である『医療』(1996)という著作の冒頭には、彼が小学校の身体検査で「扁桃腺肥大」を言 い渡された経験から始まっている。
病気や医療の社会的研究を言上げする際に、自己の経験を語るようになったのは最近に なってからではないだろうか?。このような現象は私にとっては幸福のアウラである。というのは、我々のおこなっている「危険」な学問においては、自分に科 せられたモラルを払いのけるときウェーバーやマルクスの呪詛を通して、ある種の客観化ないしは絶対化のふりをして考察してきたのだが、今日において、その ような呪詛でなく、自分に科せられているモラルのオーダーを意識化させることで自分たちが紡ぎ上げる作品を、語りかける読者に対してより親しみのあるもの にすることができるからである。
ここまでくれば、私のここでの問題提起の締めくくりが何であるか容易に想像できるだろ う。そのような語りをご自身の研究の弁明としてあるいは著作の中で早くから言ってきたのは我々の師匠である中川さんである。中川さんが医療研究のポストモ ダンとして早くから我々のずっと先を走っていたのか?、それとも一周遅れのランナーがトップを走ってるように見えるのか、それは中川さん自身にお聞きした いと思う。我々の目的は、中川さんの独白/セリフをそれぞれに自分に科せられた目標に応じてパラフレーズすることだと思う。その独白/セリフを繰り返せば こうである「私は医学校に入学した途端に医学がわからなくなった」 と。
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脚注
【1】「医学概論について、筆者(中川——引用者)は医学史と医療社会学と医哲学又は医 療認識論の三つのアプローチを一体化したものと考えている」(医療的認識の探究、p.ii、1975年)と中川さんは述べている。したがって、医療人類学 は彼のいう医学概論の下位領域だと少なくとも70年代中頃にはそう考えていた。贔屓の引き倒しになるが、リヴァースが未開医療研究を述べた(本文後述)講 演の中で、社会制度を調べる3つの方法として、(1)歴史学、(2)心理学、(3)社会学をあげていたことを思い起こさせる。
【2】もちろん、そのようなモラルの拘束性から「自由」になったり、無視する処方箋はす でに用意されている。たとえばウェーバーやポパーに学んで研究のポジションをつねに再確認する方法があり、他方ではマルクス主義的イデオロギー批判に学ん で、そのようなナイーブな経験をつねに撃破し続ける方法がある。
【3】これには後日談がある。1996年7月27日のシンポジウムの会場で、私の発表が 終わったあと中川米造さん自身がコメントされた以下のような(要約)の恐るべき事実である。
つまり、彼は1945年つまり昭和20年の4月に京都帝国大学医学部に入学する。彼—— いや誰でもそうだろう——をパニックに陥れたのは、731部隊に関与する医者の武官が言う、“医学とは人の病気を直すものではない。今時の戦争を遂行する ためのものである”。“お前たち医学生は、誤って静脈注射に空気を入れることがいけないと思っているが、そのような科学的根拠を知らないだろう。だが我々 は知っている”と称しながら、恐らく大陸で撮影された人体実験の16ミリフィルムを上映し、数ミリリットルの空気の静脈注射では死なず、何百ミリリットル の空気を入れた被験者——もちろん人体実験である——が死んでゆく様子を通して教育したという。あるいはこういうのもある。“お前たちは、人間の首を切っ たら、どの角度で血が飛ぶか知っているか?”という分けで実証主義ならぬ実写が上映されるというわけである。血も凍るこのような情景をその教官たちは医学 生たちに見せて「教育」していたのだ。もちろん、それから4カ月後にくる日本の敗戦でこのような「教育手法」は終わりをつげた。ここでの問題は教育の現場 に残虐な資料が使われたことではない。そのような事実が人知れず忘れられようとしていることなのである。
【4】このような「重病中心主義」は第一級の医療人類学者からも聞かれる。「経験を凝縮 し、生きていることの中心となる状況を際だたせるものとしては、深刻な病いにまさるものはない」(クラインマン 1996:ix)。だが、リヴァースの格率(maxim)に従えば、この重病中心主義は、医療人類学を学ぶ基本的な方法としては明確に誤りである。
【ご注意】このテキストは1996年7月27日に大阪市の山西記念福祉会館において開催 された「中川米造先生古希記念シンポジウム」で発表された内容、池田光穂「人はどのようにして医療の思索者になるのか?——中川米造と医療人類学」に加筆 訂正したものです。
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文献
よくぞ最後までお読みくださいました。最後まで見てくださった方には《中 川米造先生の業績リスト》をご覧にいただけます。該当個所をクリックしてく ださい。
さらに、この論文の後に、「学問が人間を造る」という一般的命題に取り組み、それをウェー バーんに求め、見事失敗した恥ずかしいケースがあります。興味のある方は、ここからリンクしてくだ さい。
Copyright Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2018
■生きんとする者は希望を余儀なくされる ——フィリップ・ ミューラー
■私は医学校に入学した途端に医学がわか らなくなった——中川 米造(1925-97)
■人間を社会的にするのはその弱さであ る。私たちの心に人類愛 をいだかせるのは、私たち人間に共通の苦しみなのだ。こうして私たちの弱さそのものから、私たちのはなかい幸福が生まれるのです——ルソー