病=気持ち、あるいは病いの安楽ならざること について
On Dis-Ease
or dis-ease feeling
Dis-Easeの用語法探求の続報です。
オーストラリア(当時)のDr. Karen-Sue Taussigさん(2019年現在はミネソタ大学)と2,3メールをやりとりをして、以下の ようなことを教えてもらいました。我ながら酷い拙訳ですが、文意はある程度おわか りになると思います。[ ]内は私による補足です。
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【池田の質問】
私は、英語ネイティヴスピーカーの一般的な学術用語において、Dis-Easeがどのよ うに使われているかを知りたいと思います。ご存じのように疾病(disease)と病い (illness)の二分法のように、あなたは、Dis-Easeを「社会化した疾患 (socialized disease)」というふうに[疾病概念を]拡大したかたちで使った、す なわち[Dis-Easeを]疾病あるいは人間の苦悩の社会的意味である、というふうにお 考えなのでしょうか。
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【Karen-Sue Taussig さんの答】
私は、病気=安易ならざるもの("dis-ease")概念というふうに[disと easeを] 節合させたあなたの理解――少なくとも私はそう考えますが――は、まったく正しい と思います。
私は、この用語を第一に次のことを想起させる、あるいは発見的な手段としてとら えています。つまり、個人の「疾病(disease)」から、社会の疾病へと移行させる ことです。それは、「障害」[という言葉]のように、規範の外にある存在として見 なされかつ理解がなされているような、具体的な状態が容易に引き起こしている、社 会的落胆、不快、不安、安楽の欠如[そのものである]というふうに、疾病をとらえ ることです。
もちろん、医療人類学の研究者として、私たちはdis-ease[という言葉]を「疾病 (disease)」の理念がどのように理解されているかと仮想的に定義していると考え たいのですが、しかしながら「病気=安易ならざるもの("dis-ease")」という言葉 を使用することによって、我々自身(=医療人類学者)と人類学の他の下位領域とそ れらの幅広い関連領域における我々の同僚の双方に対して、[この病気=容易ならざ るものの存在を]常に思い起こさせてくれるものとして考えたいのです。
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【池田による解説】
要するに、大文字のDisease概念の解体がはじまっているということでしょうか。
これは、1990年代の中盤から後半からかけておこっている北米の医療人類学や英国 の医療社会学における「人文科学的転回」――医療人類学が医療/人類学の折衷的分 野からとくに生物医療概念批判を含んだ人文社会科学的傾斜の度合いが転換点を超え ること――の帰結であるように思われます。
この頃の北米の生物医療は、EBMに代表されるように質的情報の大規模集積と、 それにもとづく「情報論的転回」――認知や倫理という医療者の行為主体中心から医 療を情報システムの中での確実性に基づいた操作体系とみなす変化――を遂げるわけ ですから、この動きは医療人類学における「人文科学的転回」と無関係ではないよう です。
とにかくここいらあたりは、要チェックですねぇ。
※ご注意※:人文科学的転回とか情報論的転回は、池田が勝手につけた造語なので、 他の人に言いふらしても通じないかも知れません。もし他人と議論する場合でした ら、その文意をご自身なりに翻訳して流用したほうがよいでしょう。
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