エドワード・シルベスター・モース
Edward Sylvester Morse, 1838-1925
東京都品川区大森貝塚遺跡庭園内にあるエドワード・モース(1838-1925)の胸像
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解説:池田光穂
1938 アメリカ合州国メーン州ポートランドに生まれる。
ハーバード大学博物館の動物学者L・アガシーに師事(1859-62)。ピーボディ・アカデ ミー主事を経て、メーン州立大学、ボードウィン大学、ハーバード大学(比較解剖学、動物学)教授。
1875 First Book of Zoology
1877(明治10)来日(6 月〜11月):腕足類研究のため私費で来日。大森貝塚発見(Nature, 1877年12月19日号に、同年9月21日付として自身の大森貝塚発見の記事を投稿。Heinrich von Siebold, 1852-1908が、同誌に1878年1月31日号に寄稿し発見の先行を主張し、モースの激怒を買う。ウィキペディア日本語)
1878年4月より79年9月まで東京大学で教鞭をとる。
[東京開成学校が改称、Apr. 1877-1886、その後、東京帝国大学:ただし英語名は常にImperial University]動物学生理学教授(Shell Mounds of Omori, Aug.1879)。
ダーウィンの進化論の日本への紹介をする最初の科学者となる。
1878, Nov. Health-Matters in Japan.
1880-1914 Peabody museum 館長
1882-1883 日本に滞在(3度目)
1886-87 The American Association for the Advancement of Science 会長
1886 Japanese House and their Surroundings
1890 日本陶器のコレクションをボストン美術館に売却(借財より解放される)。
1917 Japan Day by Day
1922 勲二等瑞宝章
1923 関東大震災の報道を聞き、死後蔵書を東京帝国大学に寄贈を決意
1925 死亡(87歳)
【文献】
【オリジナルテキスト】
文明化の尺度(1878)
「もし、文明の指標の中にお互いを親切に取り扱うこと、子供達に対してつねに親切を示すこと、自分より下等の動物達をやさしく扱うこと、父 母を敬うこと、体を申し分なく清潔に保つこと、衣食住の習慣に関して、質素で節度ある暮らしをすることなどなどが数えられるならば、もしこういったことが 文明的ということだと認められるならば、この国民がこれらの点で我々をはるかに越えているものは、我々がフエゴ諸島民にまさっているのと同じである」(1878, Nov. Health-Matters in Japan.)[太田雄三訳:一部訳語を変えた、pp.83-4]。
注意!:
現在、この仮説を積極的に支持するような民族誌学上の証拠 はありません。また、用語や訳語の選択には、現在では人種主義的偏見にもとづいている見解もあります。この資料引用は、そのような推断の歴史的ならびに人 類学的な分析の資料のための提示で、モースの説を無批判に紹介するものではありません。
食人の風習(1879)
「大森貝塚に関連して最も興味のある発見の一つは、そこでみられた食人風習の証拠である。それは日本に人喰い人種[ママ] (cannibals―引用者)がいたことを、初めてしめる資料である。人骨は、イノシシ・シカその他の獣骨と混在した状況でみいだされている。これら は、獣骨と同様、すべて割れていた。これは、髄を得る目的か、その長さのままで煮るには土器が小さすぎるため、煮るに便利なように割ったのである。人骨各 部分は発見された際に、まったくばらばらであった。この場所が埋葬の目的で使われたという期待もいだかれた。しかし、とくに注意して一体分にまもとまる骨 を探したければこの仮定をささえる証拠はなにもなかった。骨のこの状況は、世界の他の場所で同種の貝塚(shell mounds―引用者)を調査した研究者の経験と一致する。人骨は、他の獣骨と識別できない状況に混在していた。ひっかいたり切りこんだりした傷がいちじ るしい骨もある。これはことに、筋肉の付着面、すなわち苦労して骨から筋肉をとり離さなければならない個所に著しい。割れ方自体が、はっきり人為的とわか るものもあり、筋肉の付着面に深く切りこみをいれてあるものもある。食人の風習を証明するこれらの事項は、フロリダの貝塚にかんする報告で、ワイマン教授 が推断したことに完全に一致している」(『大森貝塚』近藤・佐原訳、1983:49)。
「ニューイングランドおよびフロリダの貝塚における食人風習の事実は、当然予期されたものであった。なぜなら北米インディアンの多くの種族 は、人肉を食べたという記録があり、また南北両アメリカには、この風習をのこす種族が現存するからである。ところが、日本における食人風習の証拠は、別な 意義をもっている。なぜならば、日本の歴史著述者[ママ]による詳細かつ苦心の年代記は、かなりの正確さをもって一五〇〇年ないしはそれ以上もさかのぼる ことができるが、こうした奇異な習慣の形跡などうかがえない。日本人が人喰人種[ママ]でなかっただけではない。/彼らがが、こうした習慣をもった種族に 遭遇したという記録もない。このようないちじるしい習俗があれば、彼らの記録に何か言及されていてしかるべきだ。初期の歴史著述家[ママ]は、アイヌがひ じょうに温厚かつおだやかな気質であって、彼らの間では人を殺す術が知られていないとのべている。たとえ最も高い文明のしゅぞくであろうと、食物がじゅう ぶんに供給されなければ、必然的に人を食べるという極限状況においこまれる。しかし、大森貝塚時代の人々を、このようにショッキングな選択に追いこむ必然 性はなかった。これに関連して、緊急の状況においこまれ、人肉で命をつないだという記録が日本にあるかどうか判れば興味深い」(『大森貝塚』近藤・佐原 訳、1983:51-2)。
「なお最近、帝国の南部にある貝塚[熊本県下益城郡松橋町大野の当尾貝塚―引用者]を調査して、食人風習の明白な証拠をひじょうに多く発見 した」(『大森貝塚』近藤・佐原訳、1983:54)。
「私は肥後の国の巨大な一貝塚[上掲―引用者]を調査した。……人骨はすべて割れており、堆積層のあちこちに無秩序に散乱していた」(『大 森貝塚』近藤・佐原訳、1983:56)。
【出典】
E.S.モース『大森貝塚』近藤義郎・佐原真 編訳、岩波文庫、岩波書店、1983年
京浜東北線・大森駅(東京都大田区)構内にある「日本考古学発祥地」のモニュメント:2012年7月
14日撮影
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文化相対主義的な視点(1886)
「他の国民を研究する場合、望ましいのは色メガネをかけずに対象を見ることである。しかしながら、もしそれが出来ないならば偏見のススでよ ごれたメガネをかけるよりもバラ色のメガネをかける方がましである。民族学の研究者は自分がこれからその風俗習慣を調べようとする国民に対しては、まちが うなら好意的に見すぎるという方向でまちがう方が単に損得ということから言っても賢明であろう。世界中どこにいっても、批判のされることをいやがるのが人 情である。そして、研究者が自国中心的な偏見でこりかたまった目で多民族の風俗習慣を調査しようとするときは、彼はどこに行っても歓迎されない。彼は何も 見せてもらえない。したがって、彼の観察はまず皮相なものにとどまらざるをえない。逆に、研究者が他民族の長所をさぐろうと正直につとめるときには、彼が それがどんな調査であれ、自分の調査をすすめる際に進んで協力してもらうことができるのである。そして人々は不快に思えるような風習でさえも隠さずに自由 に見せてくれる。それはその研究者がはじめからみんなが悪習と認めているものをことさらゆがめて伝えて、不快さをつのらせるようなことを彼らが知っている からである」「序論」『日本の家とその周辺(Japanese House and their Surroundings)』(太田雄三訳、pp.155-6)。