内田守/内田守人(1900-1982)
制作担当:池田光穂
時ありて言にもたがひ癩者我れ癩を忘れて君にしたしむ——明石海人
ときありてことにもたがひらいしゃわれらいをわすれてきみにしたしむ
衰えし命のはてはこの大人に頼り縋りつつ安らがむとす——明石海人
おとろえしいのちのはてはこのうしによりすがりつつやすらかがむとす
※『杖』中の「潮音」より。「医官内田守博士は守人と号し、水甕社同人として歌道にも練達の人、公務の傍ら寸暇を惜みて療養短歌の普及に尽瘁[ジンスイ]せらる」の本人(=海人)解説がある。
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内田守(1900-1982)の略歴はウィキに詳しい。
「内田 守(うちだ まもる、1900年6月10日 -
1982年1月17日)は日本の医師。短歌の場合は内田守人(もりと)と称する。九州療養所国立療養所菊池恵楓園、国立療養所長島愛生園、国立療養所松丘
保養園で医師として働いた。ハンセン病研究家。ハンセン病療養所入所者に短歌の指導を行った。戦後は医院開業後、熊本短大で社会福祉を研究、講義した。ハ
ンセン病資料を多数集め、熊本県立図書館に内田文庫として寄贈した」——内田守(Mamoru UCHIDA, 1900-1982)
1900 熊本県菊池郡泗水村(現・菊池市)にて1900年(明治33年)6月10日父常平、母波津の三男として出生(翌年、明石海人[野田勝太郎; 1901-1939]生誕)
1907(明治40) 泗水村住吉尋常小学校入学
1913(大正2) 菊池西部高等学校入学
1914(大正3)県立中学済々黌、入学
1919(大正8)旅順工科学堂入学(20年中退)。旅順 工科学堂は「旅順工科学堂官制」 公布(勅令第133号、1909年5月10日)により設置された官立初の工科大学。1910年開学。1922年に工科大学に昇格。
1920 (大正9年)県立熊本医学専門学校に入学。県立移管により私立医学専門学校が 1904年に「熊本県立医学専門 学校」と改称されたもの。
1924 (大正13年)4月九州療養所(熊本県菊池郡合志村九州各県連立ライ療養所)の医局員。眼科担当(10月)。熊本医大の研究生として加藤七三教授(生化学)に師事。]
1925 (1926年の誤り?)合同歌集『檜の影』を出版、島田尺草(1904-1938)を発掘指導する。
島田尺草、1904−1938 昭和時代前期の歌人(「明治37年9月16日生まれ。ハンセン病にかかり,大正13年九州療養所にはいる。医師で「水甕 (みずがめ)」の歌人であった内田守人(もりと)に指導をうけ,病の苦痛や運命への諦観をうたった。昭和13年2月23日死去。35歳。福岡県出身。歌集 に「一握(ひとにぎり)の藁(わら)」「櫟(くぬぎ)の花」。」)コトバンク
1926 『檜の影1』 内田守人編集
1927 (昭和2年)から眼科(鹿児島教授)を学ぶ。『さざん花』 加藤七三著 に寄稿?
1929 『檜の影2』 内田守人編集
1930 『歌集古城』 熊本歌話会
1932 11月明石楽生病院[=明石叢生病院]の閉鎖のため明石海人(野田勝太郎)が長島愛生園へ移動。海人は当時、幻視、幻聴、追跡妄想にかられた。
1934 (昭和9年)鼠ライの眼疾患の研究で熊本大学(たぶん熊本官立医科大学(1929-1949))より医学博士:「熊本市中より捕獲せる自然感染鼠癩の眼領域の病理組織学的研究」
1934 海人は、野田青明、明石大三、明石青明で、作歌をはじめる。
1935 年頃:(海人は、歌人として知られるようになる)
「熊本市中より捕獲せる自然感染鼠癩の眼領域の病理組織学的研究」 1935年頃 九州療養所を辞職「内田の長男の語るところによれば九州療養所で素行が良くない職員1名を馘首することになって いたが、彼は患者受けがよく、反対運動が起き、あの堅物の内田を辞めさせろということになった。内田を支えたのは一束の手紙であった。九州療養所で短歌の 指導を受けた島田尺草や井藤保らからの手紙である」ウィキ「内田守」)文献は:医官、内田守と文芸活動 (2004) 歴史評論 No.656,12月号 p20-32.
1936 (昭和11年)1月、長島愛生園の医官。光田健輔の指導を受ける。明石海人(1901-1939)を「育成」(作歌は1934年頃はじめていたので、この言及は留意が必要か?[池田])、小川正子の本「小島の春」の出版を尽力
1939 海人、2月歌集『白描』改造社。しかしながら、6月9日腸結核 にて海人死亡。
1941 (昭和16年)松丘保養園(Matsuoka Hoyoen Sanatorium)の医務課長。青森県無癩運動に関与。健康を害す(本人は「胸部疾患」と記載するが、浅虫付近の結核療養所に入院[内田1972:9])。療養に専念。
1943 プロミン Promin (c)(商品名:化学物質名は「グルコスルホンナトリウム」)開発。
1945 帰郷。全快する。翌年3月依願退職。
1946 (昭和21年)郷里で開業。社会教育、純潔教育、学校保健に精を出す
1950 (昭和25年)熊本短期大学教授
1965 (昭和40年)、第13回日本社会福祉学会総会を熊本短期大学で主催
1971 (昭和46年)厚生行政事務および教育功労者として勲四等瑞宝章
1981 死去。没後、ハンセン病資料を多数集め、熊本県立図書館に内田文庫として寄贈した。
【内田守(守人)作品リスト】
1926
桧の影, 内田守編, 菊池:九療慰安会(九州療養所檜の影会)、96pp.大正15年8月10日(1926年)
1927
内田守「癩病研究と熊本医大」『鎮西医海時報』第2号 発行 昭和2年8月(1927年)
1929
檜の影(第二集)発行 昭和4年12月10日(1929年) 発行所 檜の影発行所
1931
内田守「九州癩療養所の為に弁じ併せて軽快患者解放問題を論ず」『医海時報』第1908号P.499・第1909号P.547 発行 昭和6年3月(1931年) 発行所 医海時報社
1933
河村 正之・内田 守(守人)・下瀬 初太郎、「熊本市附近の癩部落の現状に就て」『レプラ』第4巻第1号P.228, 昭和8年1月25日 大阪皮膚病研究所
熊本市附近のらい部落、特に 本妙寺加藤清正公びよ う附近に散在するらい患者及び貧民部落の現状について調査報告したもの。 1.らい部落の位置と構成 2.生活状態、生活費、職業、周囲の貧民との関係 3.歴史 4.らい患者が集結する理由 (イ)加藤清正への祈願によるらい病へいゆへの信仰 (ロ)生活条件の安易(→出典はこ ちら)
河村 正之・内田 守「社会問題としての癩の治療に就いて」『レプラ』第4巻第1号 発行 昭和8年1月25日(1933年) 発行所 大阪皮膚病研究所
療養所に収容されている患者 のうち3分の1は、永 年月にわたり、なんら伝染の危険のない者である。しかし、軽快患者が退所を望まない理由は、社会的に一度らいを宣告された者は、治癒しても、健康者のよう には絶対に取り扱われないからである。それゆえ、らいの臨床的治癒の可能をけいもうしなければならない(→出典はこ ちら)
1936
内田 守(守人)・酒井 学 「熊本市附近の癩部落の検診成績」『レプラ』第7巻第1号P.112 発行 昭和11年1月25日(1936年)
第8回日本らい学会演説の抄 録である。 熊本市本妙寺附近のらい部落住民480名のうち約1/3を検診し、あらかじめらい患者家庭とわかつているものはほとんどのがさず検診した。らいを自覚する 者42名をみとめ、軽症な新患者10名を発見したことを報告している。(→出典はこ ちら)
内田 守「熊本清正公に何故癩が集まつたか」『愛生』第6巻第8号 発行 昭和11年6月1日(1936年) 発行所 長島愛生園慰安会
法華経とらいの関係が主たる もので、加藤清正がら いを患つたとの伝説は其の死因等から云つて根拠がないとしている。(→出典はこ ちら)
1937
隅青鳥歌集, 内田守人編, 日本MTL, 147pp
当時、長島愛生園医師、長島短歌会指導者、『水 甕』同人・雅号を内田守人としていた。前年、野田勝太郎(明石海人)と長島で出会っている。
内田守「文芸による癩患者の精神開放運動」『社会事業研究』第25巻第9号 発行 昭和12年8月10日(1937年) 発行所 日本社会事業協会
内田守「癩盲と其文学的生活」『東西医学』第4巻第4号P.589 発行 昭和12年4月(1937年) 発行所 東西医学社
1938
内田守「癩盲人の生活と其の文芸作品」『 社会事業研究』第26巻第8号 発行 昭和13年8月(1938年) 発行所 社会事業研究会 所蔵者 邑久光明園
らい盲人の症状と療養生活、 らい盲人の療養所内に 占める位置と文芸活動、らい盲人の心理、らい盲人作品抄録
近世歌壇に占める病歌人の位置(随) 内田守人 白十字出版部 昭和13.1
内田守「新万葉集と癩短歌『 医事公論』第1370号 発行 昭和13年10月22日(1938年) 発行所 医事公論社
全国療養所の短歌会の現状の 紹介、登載されたらい 歌人の35%が盲人であることの説明、作品の紹介解説、病者の歌は単に文芸作品として鑑賞するよりも救らい運動の資料としても貴重である。(→出典はこ ちら)
1939
島田尺草全集 / 内田守人編<シマダ セキソウ ゼンシュウ>. -- (BN14250056) 東京 : 長崎書店, 1939.10 308p
解説:島田尺草 は16才でら いにかかり20年間の 斗病生活の後35才で亡くなる。水甕同人「一握の藁」「櫟の花」の2歌集が水甕叢書として刊行される。本歌集はこれら既発表の作品を集めた。
「1904−1938 昭和時代前期の歌人。/明治37年9月16日生まれ。ハンセン病にかかり,大正
13年九州療養所にはいる。医師で「水甕(みずがめ)」の歌人であった内田守人(もりと)に指導をうけ,病の苦痛や運命への諦観をうたった。昭和13年2
月23日死去。35歳。福岡県出身。歌集に「一握(ひとにぎり)の藁(わら)」「櫟(くぬぎ)の花」」島
田尺草(しまだ・しゃくそう:1904-1938)【コトバンク】
萩の島里, 内田守人編, 婦女界社, 266pp.
海人の巨匠的おもかげ(随) 内田守人 改造社 昭和14.8
瀬戸の曙, 内田守人編, 婦女界社, 280pp.
明石海人追悼記並びに病者の 手記
内田守「暗黒の運命から愛児を守つて下さい 癩は幼少年期にこうして伝染する」『婦女界』 発行 昭和14年12月(1939年) 発行所 婦女界社
内田守「癩盲人の感覚及び作業性能の研究:附其の心理状態に就いて」『レプラ』第10巻第1号 発行 昭和14年1月25日(1939年) 発行所 日本癩学会
愛生園に収容している150 人の盲人について、主 として彼らの自覚症を基としての感覚、作業性能、心理状態の調査である。(→出典はこ ちら)
1940
療養短歌讀本 / 内田守人著<リョウヨウ タンカ トクホン>. -- (BN15590559) 東京 : 白十字會, 1940.12 8, 3, 232p (→[再版] 療養短歌讀本 / 内田守人著<リョウヨウ タンカ トクホン>. -- 再版. -- (BN 07044145) 東京 : 白十字會, 1941.5 232p)
療養秀歌三千集, 内田守人編, 徳安堂書房, 352pp.
内田 守(守人)「小学校教材に現れた救癩問題 」『レプラ』第11巻第5号 発行 昭和15年9月25日(1940年)、日本癩学会
青少年を本病より予防する上 に重要であるとして、 らいに関係ある教科書8点をあげている。(→出典はこ ちら)
内田守「救癩資料概説(1)〜(4)」 『真理』 発行 昭和15年11月(1940年)・昭和16年2月(1941年) 発行所 真理社
(1)世界のらい病小史 (2)本邦における古代の らい(3)外国における救療の現況(4)わが国の近世及び現代における救らい施設(5)らい予防法発布から公立療養所時代(6)国立療養所の創設(7)沖 縄及び植民地の救らい施設(8)皇太后陛下の御仁慈(9)らい予防協会及びその他の救らい団体(10)らいの医学常識(11)療養所内の患者生活(→出典はこ ちら)
内田守「輓近の癩問題管見」『日本医事新報』第907号 発行 昭和15年1月27日(1940年) 発行所 日本医事新報社
1.前書き2.純粋医学にお けるらい研究の近況 3.社会医学的らい問題 (イ)らい統計の確立 (ロ)隔離の徹底 (ハ)らいと断種 (ニ)大陸のらい(→出典はこ ちら)
内田守「第14回癩学会と半島救癩事業の全貌」『日本医事新報』 発行 昭和15年9月(1940年) 発行所 日本医事新報社
朝鮮のらい問題と小鹿島更生 園について(→出典はこ ちら)
内田守「長島気象観測所を語る」『日本医事新報』第903号 発行 昭和15年1月(1940年) 発行所 日本医事新報社
内田守「癩根絶策の大衆化」『 関西医事』第12巻第4号 発行 昭和15年1月(1940年) 発行所 関西医事社
らいは根治薬の創製も必要で あるが、隔離によつて 解決出来るものである。 本邦らい患者数は15,000といわれ、三井財団の二百数十万円の寄付で1万床の設備も完成されようとしている。阪神地方に500〜1,000の患者のあ る現在、同地方の篤志家の協力をうつたえている。(→出典はこ ちら)
内田守「山脉の彼方へ」『真理』 発行 昭和15年6月(1940年) 発行所 真理社
岡山県北部のらい検診紀行文
内 田守「因伯の山野を跋渉して」小冊子 n.d.(推 測するに調査旅行をした1940年前後か?)
1941
内田守「青森県無癩戦線報告書」『甲田の裾』 発行 昭和16年10月1日(1941年) 発行所 松丘保養園慰安会
北進逆説−患者収容の遷延− 国立移管と無らい県運 動−定員超過と園内の臨悟−浪岡署管内の前衛線−津軽方面の収容陣−南部地方の収容陣−青森及び蟹田署管内の収容陣(→出典はこ ちら)
内田守「癩院の宗教問題管見」『レプラ』第12巻第4号 発行 昭和16年7月25日(1941年) 発行所 日本癩学会
1942
内田守「東北地方の無癩運動」『医事公論』 発行 昭和17年3月14日(1942年) 発行所 医事公論社
(1)北進逆説 (2)患者 収容の遷延 (3)国 立移管と定員超過運動 (4)青森県下の患者 (5)新収容200名についての諸問題 (6)東北地方無らい運動の提唱(→出典はこ ちら)
内田守「癩院の作業機構と結核療養所の問題 」『社会事業研究』第30巻第2号 発行 昭和17年2月1日(1942年) 発行所 大阪府厚生事業協会
内田守「笹森儀助翁と救癩精神」『甲田の裾』第14巻第6号 発行 昭和17年6月10日(1942年) 発行所 松丘保養園甲田の裾社
1.笹森儀助翁は弘化2年に 弘前市に生れ、明治 35年に青森市長(2代目)になつた人である 2.筆者はこの翁の伝記「笹森儀助伝」をその著者青森中学校教頭横山武夫氏から贈られたが、文中に翁の救らい精神に触れることができたので、特にこの面を あげてしるしたものである 3.文中の伝記内容 明治26[1893]年6月に翁が沖縄を踏査した際、多数のらい患者の惨状を目撃し、その探検記にわが国救らいの必要性を力説している。(→出典はこ ちら)
笹森儀助(ささもり・ぎすけ:Gisuke SASAMORI, 1845-1915)の1893年頃(ウィキペディア日本語)
(明治26[1893]年6
月)「沖縄に着いた笹森は、沖縄本島→慶良間諸島→宮古島→
石垣島→西表島→与那国島→石垣島→宮古島→沖縄本島と各島を回り、製糖の実情やその他農業・水産業の調査、伝存文書の発掘などを実行しているが、そのか
たわらで笹森が見たものは、悲惨な生活に追い込まれている住民の姿であった。当時の
沖縄では、琉球王国時代の支配者層への懐柔策として旧慣温存政策が行なわれており、過酷な税金や身分制度が多く残っていたのである。中で
も、人頭税が課されていた先島諸島は特に悲惨であり、例えば宮古島で笹森が見たものは、薄暗い織屋に懲役人のように座って、人頭税である先島上布を折り続
ける娘たちの姿であった。鳩間島や新城島、黒島などといった小島は、米の栽培ができないにもかかわらず人頭税として米が徴収されていたため、これらの島の
住人はサバニで西表島まで出かけて米の耕作をしなければならなかった。この他、小学校も開けないような僻地から学校税が取り立てられることさえあった。そ
の一方で、こうして集められた税金で旧支配者層である士族達は豊かな生活を送っていた。また、八重山ではマラリアの蔓延もひどいものであり、石垣島では半
分以上の集落が、西表島に至っては島全体がその巣となっていた。そして、そのような状態であるにもかかわらず、住民は薬代の請求を恐れて病気を言いだすこ
とができず、人々が次々と死んでいくことから島には廃屋があふれていた」
1951
村の燈台 : 公民舘体驗記 / 内田守著<ムラ ノ トウダイ : コウミンカン タ イケンキ>. -- (BA51233564) 熊本 : 熊本縣菊池郡泗水村永公民分館, 1951
1953
部落の實態に基ずいた永公民分舘の運営 / 熊本縣菊池郡泗水村永公民分館, 菊池郡公民館連絡協議会, 菊池郡地方教育委員会連絡協議会[編]. -- 謄写版. -- 熊本縣菊池郡泗水村永公民分館, 1953. -- (村の燈台 : 公民舘体驗記 / 内田守著 ; 續刊)
1955
壁をたたきて : 歌集 / 内田守人編<カベ オ タタキテ : カシュウ>. -- (BA5 6081022) 熊本 : 熊本刑務所文化教育後援会, 1955.11 89p
内田守「ハンゼン氏病子弟の保育について」『熊本社会福祉研究』第2巻第3号 発行 昭和30年8月15日(1955年) 発行所 熊本社会福祉研究所
著者は保育児童問題について 下記項目に分つていろ いろな面からみた児童福祉について記されている。療養所における携帯児問題 カトリック教団の救済 らい予防協会経営の保育所時代、保育児童の健康管理 児童福祉法の翼に抱け 在野の少年らい問題について(→出典はこ ちら)
1956
純潔教育への情熱 / 内田守著<ジュンケツ キョウイク エノ ジョウネツ>. -- (BA5306162X) 熊本 : 金龍堂書店, 1956.7 224p
日の本の癩者に生れて : 白描の歌人明石海人 / 内田守人著<ヒノモト ノ ラ イシャ ニ ウマレテ : ハクビョウ ノ カジン アカシ カイジン>. -- (BN1085 038X) 東京 : 第二書房, 1956.7 209p
1961
一本の道 : 歌集 / 内田守人著<イッポン ノ ミチ : カシュウ>. -- (BA55994 937) 東京 : 日本文芸社, 1961.3 305p
1964
壁をたたく者/ 内田守人編、昭39 熊本刑務所文化教育後援会
1965
熊本県社会事業史稿 / 内田守著<クマモトケン シャカイ ジギョウ シコウ>. -- (BN12337787) 熊本 : 熊本社会福祉研究所, 1965
1966
熊本縣社會事業史稿 / 内田守著<クマモトケン シャカイ ジギョウシ コウ>. -- 再版. -- (BN09100779) 熊本 : 内田守, 1966
内田守 編『巡査大明神全伝』1966
1968
壁をたたく者 III 内田守人編、昭43 熊本刑務所文化教育後援会
1969
九州社会福祉事業史 / 内田守著<キュウシュウ シャカイ フクシ ジギョウシ> . -- (BA40525706) 大阪 : 日本生命済生会社会事業局, 1969 320p
歌人岩谷莫哀研究 / 内田守人著<カジン イワヤ バクアイ ケンキュウ>. -- ( BN15435512) 国分寺 : 短歌新聞社, 1969.8 183p
1970
続一本の道 : 歌集 / 内田守人著<ゾク イッポン ノ ミチ : カシュウ>. -- ( BN1575965X) 東京 : 短歌研究社, 1970.9 362p
三つの門 : ハンセン氏病短歌の世紀 / 内田守人編<ミッツ ノ モン : ハンセ ンシビョウ タンカ ノ セイキ>. -- (BA37920145) 熊本 : 人間的社, 1970.4 382p
1971
光 田健輔 / 内田守著 ; 日本歴史学会編<ミツダ ケンスケ>. -- (BN02284720) 東京 : 吉川弘文館, 1971.6 13, 289p
イギリス児童福祉発達史 / J.S.ヘイウッド著 ; 内田守訳<イギリス ジドウ フクシ ハッタツシ>. -- (BN02170437) 京都 : ミネルヴァ書房, 1971 254p
仁医神宮良一博士小伝、内田守 編著, 九州MTL
1972
珠を掘りつつ / 内田守著<タマ オ ホリツツ>. -- (BN12182986) 熊本 : 金龍堂書店, 1972 259p
医療社会事業の実際 / 内田守, 野村茂編著<イリョウ シャカイ ジギョウ ノ ジッサイ>. -- (BN03648006) 東京 : 光生館, 1972.3 192p
壁をたたく者 第五集 内田守人編、昭47 熊本刑務所文化教育後援会
1973
波田愛子と高宮安子 内田守人編、昭48
1974
わが実存 : 歌集 / 内田守人著<ワガ ジツゾン : カシュウ>. -- (BN14090302 ) 東京 : 短歌研究社, 1974.9 299p
合同歌集 人間的 / 内田守人編、人間的社 内田守人編、昭49
1976
ユーカリの実るを待ちて : リデルとライトの生涯 / 志賀一親著 ; 内田守編< ユーカリ ノ ミノル オ マチテ>. -- (BA59129409) 熊本 : リデル・ライト記念老人ホーム, 1976 410p.
(→[同ホームより復刊【熊本大学所蔵】] ユーカリの実るを待ちて : リデルとライトの生涯 / 志賀一親著 ; 内田守編< ユーカリ ノ ミノル オ マチテ>. -- (BN13799879) 熊本 : リデル・ライト記念老人ホーム, 1990.5 iii,410p)
生れざりせば : ハンセン氏病歌人群像 / 内田守人著<ウマレザリセバ : ハン センシビョウ カジン グン ゾウ>. -- (BN06648498) 東京 : 春秋社, 1976 256p ; 20cm 注記: 癩文学史年表:p.241-253
落花の円座 : 内田守人自選百首 / 内田守人著<ラッカ ノ エンザ : ウチダ モロト ジセン ヒャクシュ>. -- (BA36982941) 熊本 : 内田守人歌碑建設委員会, 1976.6 55p ; 18cm 注記: 歌碑建設記念 ; 巻末に、略歴・賞罰・出版目録など掲載
神風連百年祭奉賛短歌大会詠草 内田守人編、昭51、1冊 B6 81
1978
明石海人全歌集 / 内田守人編<アカシ カイジン ゼンカシュウ>. -- (BN07382 16X) 東京 : 短歌新聞社, 1978.8 280p
1980
医療福祉の研究 / 内田守,岡本民夫編<イリョウ フクシ ノ ケンキュウ>. -- (BN01428188) 京都 : ミネルヴァ書房, 1980.9 409,2p(注記:内田守博士喜寿記念論集)
【詳細情報】
1982年1月17日 死去。1982 年(昭和57)4月刊行の『社会福祉研 究所 報』第10号(現:熊本学園大学)に、所長,岡田武世による「内田守先生の御逝去を悼む」と岡本民夫(同志社大学文学部教授)「内田守先生の社会福祉論」 という文章が寄稿されている。
【内田守と明石海人をめぐる思考実験】(2018年2月)
1)内田がいなければ海人は現れ出でなかったか?
2)内田のプロデュース説のパフォーマンスの評価、
3)日本歌壇の成立過程(=下部構造)の概略、
4)被抑圧者の歌という意味での、戦前の被差別民は歌を読んだのか? ルンペンプロレタリアートは歌を読んだのか?
5)ブルジョア芸術という批判は歌壇にもたらされたことはなかったのか?
リンク
文献
その他の情報
obitu 内田守の没年については1981年。1982年(昭和57)4月刊行の『社会福祉研 究所 報』第10号(現:熊本学園大学)に、所長,岡田武世による「内田守先生の御逝去を悼む」と岡本民夫(同志社大学文学部教授)「内田守先生の社会福祉論」 という文章が寄稿されている。
参照文献
関連サイト
〈広告:ら以病の神剤〉北 海タイムス 第4439号、6面、明治35 (1902)年5月14日発行