リデルと癩救済事業関連
Hannah Riddell and her salvation for the Hansen disease patients
ハンナ・リデル(Hannah Riddell ,1855—1932)
1855 ロンドンに生まれる
1890(明治23)英国聖公会宣教協会・宣教師(Church Mission Society, CMS; 聖公会)として香港経由で神戸に到着、大阪滞在などをへて翌年(1891)熊本へ。Grace Catherine Neil Nottも随行した。
リデルは、癩病者を熊本においてはじめて知る(1892[明治25※]4月3日、本妙寺での五校教授・本田増次郎(らと花見の際に)※飛松の伝記では23年となるが誤り(猪飼 2005:127)
リデル宅は、新屋敷436.
1895(明治28) 11月12日、熊本回春病院設立(Nov.,12)。英名はThe Kumamoto Hospital of the Resurrection of Hope. 五校に近接した4000坪の土地に設置——この措置に聖公会は反対した。
1899 「国会で、米国の新聞ニューヨーク・トリビューンに掲載された日本批判の記事が国会で問題」に。トリビューンの記事は、日本政府のハンセン病対策への未着手を批判。
1905(明治38) 英国からの支援の打ち切り。財政援助を求めて上京。11月、日本橋・銀行会館で癩救済講演会(大隈重信/渋沢栄一(Eiichi SHIBUSAWA, 1840-1931)の支援/内務
省・窪田衛生局長)(藤野 1993:11)
それ以外の関係者、児玉源太郎(1852-1906),本田増次郎(1865-1925)第五高等学校教授・東京高等師範学校教授,
ジョン・ バッブス・ブラントラム(1858-1900), Miss.コンウオ−ル・リ−(1857-1941),
田尻寅雄(1866-1947)医師、回春病院初代院長,三宅俊輔(1854-1926)医師、回春病院二代院長,飛松甚吾(1883〜1945),以上
出典は「大隈重信ほか(リデルライトホーム)」にある。
1906 5月「大隈、渋沢ら13人の有力者が「癩予防に関する協議会」を開催」。藍綬褒章。9月には病院の財団法人化がなる。
1907(明治40) 「癩予防に関する件」制定。放浪患者の隔離がはじまる。療養所は2年後、府県立で青森、東京、大阪、香川、熊本の5カ所に開設。
1909 大阪に外島保養院「第三区連合府県立外島保養院」
1913 大阪府知事(14代)大久保利武は、賀川豊彦らに講演を依頼し、賀川は専門の研究所建設を提言。
1916(大正5) 草津に聖バルナバ医院建設
1924(大正14) 東宮殿下(→昭和天皇)御慶事記念に日時計を建設
1932(昭和7) 熊本で死亡
Hannah Riddell ,1855—1932
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疑問:癩病者の埋葬問題と納骨堂の設置の時期、当時の説明など
アダ・ハンナ・ライト(Ada Hannah Wright, 1870—1950):リデルの姪
1870 ロンドンで生まれる(→スイスで教育を受ける)
1896 伝道師として来日、水戸などで伝道
1900 熊本に到着。
1923(大正12) リデルの事業を受け継ぐ
1930 12月7〜13日国際連盟主催の癩会議(バンコク:会場はチュラロンコン王記念病院およびバストエル研究所)。長与又郎が出席予定だったが太田正雄が代理出席。(『東京医事新誌』2718:737-739.)
1931 太田正雄(東北帝大教授)が三宅勇(熊本医科大学教授)に、回春病院に関する書簡のやりとりがある(小野 201:209)。
1931 陸軍特別大演習で昭和天皇が熊本に行幸する。裕仁は回春病院の訪問を希望するが、最終的に侍従が代理訪問。
1932(昭和7) リデルの死亡にともない回春病院院長にアダ・ハンナ・ライトが就任。同年、貞明皇后節子・御製歌、1932(昭和7)年11月10日、大宮御所歌会「癩患者を慰めて」
1941(昭和16) 熊本回春病院の強制解散(Feb., 12?, 3 in the official site)[→国外追放、離日]
1950 熊本で死亡
文献
光田健輔 (Kensuke MITSUDA, 1876—1964)
志賀潔(Kiyoshi SHIGA, 1870-1957)
文献
書誌:
藤楓協会 編『光田健輔と日本のらい予防事業』藤楓協会、1958年
青柳緑『癩に捧げた八十年——光田健輔の生涯』新潮社、1965年
内田守『光田健輔』吉川弘文館、1971年
リンク
文献
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