海人の遺骨消息
How the Cremain of Kaijin Akashi had returned to his home
country and lied down in his family grave
I.I. さん
さて、明石海人の遺骨消息です。海人の遺骨ですが、内田守人は、海人の死(1939年6月9日)に目に会えず、死後の解剖は、光田健輔が担当し、後日、光田が内田にその脳髄が重かった(「一四九〇瓦」)と表現しています(跋『海人遺稿』)。内田は、海人死去の報をうけて、すぐに改造社に電報 を打ったところ、遺稿を保全してほしいという返報と香典三十円を受けたそうです。『白描』の印税は、のちに愛生園歌壇に「明石海人 賞」の原資になったとのこと。海人死去の報は、「故郷の母」に伝えられて、後日、 東京に[美容師として自立]別居している妻・浅子から「大野(悦子)先生」に感謝の書簡(S.16.06.12付)が届いた。その中で、妻は遺骨は、長島に留め置いて、秋に引き 取りに行くことを、「母」(たぶん姑)と相談して決めたと記載しています——全文は補筆して荒波力氏が復元している。手紙のなかで、『白描』の印税の落掌についても書い てあります。内田は、手紙を書き、8月——(内田1956:8)『日の本』では9月あるがこれは間違いで、なぜなら(内田1956:197-198)『改造』への内田の寄稿に8月4日と記載しているからである——に学会出張で静岡地方を通 過するので、持参してあげようと申し出たところ、是非との返信。
橋本明子(内田 1956:33)=大野悦子(おおの・えつこ)[1890-1966]
は、本名:大野ゑつ。神奈川県小田原幸町に小田原基督教会牧師池田清道・さとの長女として生まれ、父の転地で仙台に転居。1908年尚絅女学校を卒業。福
岡県大牟田市の第三尋常小学校で代用教員となる。のち正教員の資格を得、そのかたわら紡績女工たちに英語、音楽を教える。1911年父と死別、1914年
母とも死別。1918年6月九州日報記者大野直弼と結婚。脳脊髄炎を煩い病魔に犯されたが、やがて回復。直弼は結核により1923年に死去。夫の「あなた
の気が向くなら不幸なハンセン病患者のために尽くしてほしい」と語った言葉に従い、1924年明石楽生病院に勤務するようになる。1932年11月楽生病
院が閉鎖したが、国立[長島]愛生園に移り、未感染児童保育所保母。1950年大阪東淀川に白鳥園の運営に従事。1966年東京で死去。出典:http:
//www5e.biglobe.ne.jp/~BCM27946/ohnoetuko.html
『日本歌人』の同人が、大阪に在住するので、同時に 知らせたようです。そして、同人が大阪で対面したのですが、それは海人の妻子ではありません。
「大阪駅には『日本歌人』の前川佐美雄主幹と幹部同人数名、『日本歌壇』の吉川則比古と幹部同人数名遺骨を送る」(岡野編 1993:493)。
前川[1903-1990]は『日本歌人』(1934年6月創刊)の主宰者(1990年の死去まで続ける)(※「日本歌人クラブ」 とは別団体)。吉川[1902-1945]は正富汪洋主宰の「新進歌人」にはじまり「高踏」の編集者。1933年から1944年まで「日本歌壇」の主宰 者。海人は1935年、前川佐美雄が創刊した同名の、短歌結社「日本歌人」に入会する。前川は海人が癩者 であることを知らず、他方で斎藤瀏(Ryu Saito, 1879-1953: 226事件に関与し禁固刑に処せられた)を歌人として評価し、また斎藤の娘・史も同人で、史の同年の青年将校の処刑という事実と関係しているかも、 というのが村井紀の推理である(村井 2012:304-305)。
○○駅と伏せ字になり、これが沼津であろうと推測で きますが、夜の11時に○○駅に、海人の母と、妻と兄の3人が、守人を迎えた、そのまま「妻」の手にわたされたとのことです(1939年8月4日)。守人は、そのまま、下車し、遺族の家に訪問していま す。自宅の仏壇に安置し、(富士山の見える)累代の墓——沼津市西間門共同墓地——に 埋葬するということで、(おそらく)よく日、守人と妻と子は墓参(戒名「光阿勝道信士」)にいっています。その後、(東京に住む)妻と子と(たぶん)は、守人 とともに上京しています。
以上、内田守人『日の本の癩者に生まれて』第二書 房、192-199ページ、1956年、かれの出典であり、その抜粋です。これは、荒波力『幾夜の底より』453ページ、 2016年と合致します。というか、その出典は、『日の本の癩者に生まれて』だからです。
「かたゐ等は家さえ名さえむなしけれ白米[ひらよ
ね]の飯を珍[とも]しらに食む——ここに海人の伝記を書くに当って、その出生地を静岡県下の某地と訂正しよう。私は昭和14年9月、海人の遺骨を抱い
て、富士の見える、とある海岸の白砂を領している明石家の祖先の塋域[えいいき]に納骨したのであるが、いま走らせているペン先に木槿[もくげ]の花を
もって従ってくれた妻と、可憐な遺子の姿がちらついてならない」内田『日の本の癩者』12ページ。
さらに、松村好之『慟哭の歌人』小峯書店、214 ページ、1980年の年譜にも、大阪で「前川氏(らに)..送迎され、」という記述がありますが、「母、妻、兄との無言の対面」が必ずしも大阪と解釈する のは無理があります。
松村好之年譜(1911-?)まつむら・よしゆき [ペンネームか実名かは不祥]:1911(明治44)年10月14日香川県大川郡引田町生まれ。1919(大正8)4月相生尋常高等小学校入学。1923 (大正12)年神戸市東川崎小学校に転校。1925(大正14)年兵庫実業学校に入学。1926(大正15)年12月ハンセン病を発病。1927(昭和 2)年3月明石楽生病院に入院。堀井順次牧師、大野悦子(1890-1966)に導かれキリスト教に入信。1930(昭和5)年12月受洗(堀井牧師)。 1932(昭和7)年明石楽生病院の閉鎖に先立ち長島愛生園に転園。曙教会の会長(信徒代表)を長く務め、1980年当時、名誉長老。——出典は松村『慟哭の歌人』の奥付ほか
従って、「療友」の松村は、園の外側で遺骨との対面を目撃し たわけでなく、年譜の記述も、1956年の内田の守人に準拠したものと思われます。愛生園の中でも特別に輝いていた海人ですので、愛生園内でも遺骨がどの ように家族に渡されて、遺族の元に戻ったのかは(ハンセン病と共にいる内田をはじめ)医師を経由して、その直後から口頭伝承のように伝わっていたからこ そ、内田はそのように述懐できたのではないかというのが、私の想像です。他方、(長く匿名のままになっていた)妻、浅子への気配りなどは同時代人として、 ほとんど邂逅もなかったにも関わらず(また曖昧な表現にはなっているが)配慮が届いておりきめ細かい。
以上が、明石海人の遺骨がふるさとに戻った(=帰郷した)経緯であると思われます。
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