短歌とマイノリティ
Japanese Tanka, thirty‐one syllable tradicional poem and minorities
in imperial Japan
「不安、劣等コンプレックス、恐怖のおののき、卑 屈、絶望、下僕根性、これらを手慣れた仕方で詰め込まれた数限りない人間たちについて私は語っているのである」——エメ・セゼール『植民地主義について』 I am talking of millions of men who have been skillfully injected with fear, inferiority complexes, trepidation, servility, despair, abasement.—Aimé Césaire, Discours sur le Colonialisme
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このページ制作のきっかけは「終戦までのハンセン 病患者の「臣民」化における短歌と医療の関係をめぐって(松岡秀明)」からはじまる。
戦前の天皇制体制の強化と戦争遂行のための内外一体 化のために、日本の領土内ではさまざまな国民統合を促進させる運動があった。(御真影の掲示、皇居遥拝など)国家神道儀礼の励行や日本語の読み書きをおこ なうことの《想像の共同体》形成のために、多くの日本の国民(帝国臣民)が短歌を詠んでおり、内容を明示するよりも詠まれた詞の集積を意味する《万葉集》 の新たな編纂がおこなわれたりした(→「品川悦一『万葉集の発明』(2001)ノート」)。
歌を詠む人は、天皇や政治家、知識人のみならず、多くの多数派の国民、ハンセン病患者、植民地の人々(被支配者)、先住民や少数民族など、さまざまな人々の間で読まれた。
短歌前衛社編『プロレタリア短歌集』マルクス書房、1930年9月刊行
この日本語使用を前提にして他の外国語に「翻訳でき
ない」——他方俳句は定型詩だが三行詩の形への転用により外国語にも翻訳可能になった——言語芸術フォームである「短歌(tanka,
thirty‐one syllable Japanese
poem)」と、作歌のコミュニティ——短歌会や研究会と呼ばれる結社——に焦点をあてて、言語芸術がつくりだす「文化と政治」について考えてみたい。
以下、このことを考えるキーワード集である。
■橘曙覧(たちばな・あけみ)1812-1868(→続きは本サイトの「橘 曙覧」を御参照に)
「独楽吟(どくらくぎん)な どで有名:橘 曙覧(たちばな あけみ、文化9年(1812年)5月[1] - 慶応4年8月28日(1868年10月13日))は、日本の歌人、国学者。身近な言葉で日常生活を詠んだ和歌で知られる。/越前国石場町(現・福井県福井 市つくも町)に生まれる。生家は、紙、筆、墨などや家伝薬を扱う商家で[2]、父親は、正玄(正源とも表記)五郎右衛門[3]。曙覧は正玄家(木田橘家七 屋敷のひとつ)[4]の第六代目で、名は五三郎、諱は茂時[5]。後に、尚事(なおこと)、さらに1855年安政元年、43歳の時曙覧と改名する[6]。 橘諸兄の血筋を引く橘氏の家柄と称し[7]、そこから国学の師である田中大秀から号として橘の名を与えられた。/2歳で母に死別、15歳で父が死去。叔父 の後見を受け、家業を継ごうとするが、嫌気をさし、28歳で家督を弟の宣に譲り、隠遁。京都の頼山陽の弟子、児玉三郎の家塾に学ぶなどする。その後、飛騨 高山の田中大秀に入門し、歌を詠むようになる。田中大秀は、本居宣長の国学の弟子でもあり、曙覧は、宣長の諡号「秋津彦美豆桜根大人之霊位」を書いてもら い、それを床の間に奉って、独学で歌人としての精進を続ける。門弟からの援助、寺子屋の月謝などで妻子を養い、清貧な生活に甘んじた。当初足羽山で隠遁し ていたが、37歳の時、三ツ橋に住居を移し、「藁屋」(わらのや)と自称した。43歳の時、大病をし、名を曙覧と改めた。/1858年、安政の大獄で謹慎 中の松平春嶽の命を受け、万葉集の秀歌を選んだ。曙覧の学を慕った春嶽は、1865年、家老の中根雪江を案内に「藁屋」を訪れ、出仕を求めたが、曙覧は辞 退した[8]。/1868年(慶応4年)8月死去。明治に改元される10日前であった。」ウィキ「橘曙覧」
・橘曙覽 / 浅野晃著, 大日本雄弁会講談社 , 1944、などは国粋歌人としての曙覧を描写することに長けている。
■独楽吟
■新万葉集:
「1937年(昭和12)12月から 38年9月、改造社刊。本巻9巻、別巻「宮廷篇(へん)」、補遺「総索引」を加えて全11巻。本巻の作者は6675人、歌数2万6783首。広く一般から 募集し、太田水穂(みずほ)、北原白秋(はくしゅう)、窪田空穂(くぼたうつぼ)、斎藤茂吉、佐佐木信綱(のぶつな)、釈迢空(しゃくちょうくう)、土岐 善麿(ときぜんまろ)、前田夕暮(ゆうぐれ)、与謝野晶子(よさのあきこ)、尾上柴舟(おのえさいしゅう)の10人が審査委員として選歌にあたり、1人1 首から最高50首を収録」出典:「新万葉集」
■国民精神文化研究所:「戦前期に東京市品川区上大崎に設置された、文部省直轄研究所。略称は精研。「皇国教学ノ指導者トシテノ信念ト識見トノ醇化」を指導方針とする教育機関」出典「国民精神文化研究所」
「国民精神文化研究所は国民精神文化に関する研究、
指導、普及を担う文部省直轄の研究機関。1931年(昭和6)6月に学生思想問題調査委員会が設置され、翌年5月に「学生生徒左傾」への対策として「我が
国体、国民精神の原理を闡明し、国民文化を発揚し、外来思想を批判し、マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする、有力なる研究機関」の創
設が答申され、同年8月に国民精神文化研究所が設立された。研究所には所長のもとに研究部、事業部、庶務係が置かれた。研究部では歴史、国文、芸術、哲
学、教育、法政、経済、自然科学、思想の各学科が置かれ、所員、研究嘱託、助手、調査嘱託が所属しておのおのの研究をおこない、紀要『国民精神文化研究所
所報』や月刊誌『国民精神文化』、各種パンフレットを発行、また『国民精神文化文献』と題する叢書を刊行した。のちには編輯課を設けて出版事業をおこなっ
た。そのなかで、国民精神文化の源流として神道を研究するため、神道に関する史料を収集して体系化する「神道大系」の刊行事業も計画されたが、途中で頓挫
し、戦後、松下幸之助を代表とする財団により刊行された。事業部には教員研究科と研究生指導科が置かれ、教員研究科では全国の中等学校教員、高等専門学校
教員の再教育をおこない、研究生指導科では思想上問題のある学生の指導矯正をおこなった。1943年(昭和18)、行政整理のため、国民精神文化研究所は
国民錬成所と合併して、教学錬成所となった」国立公文書館・アジア歴史資料センター)。
■バチェラー八重子(1884-1962)アイヌ歌人:「向井(バチェラー)八重子」
■違星北斗(1901-1929):アイヌ歌人、社会運動家
■森竹竹市(1902-1976):アイヌ作家、歌人、アイヌ研究家
■台湾歌壇:1967年創設の台湾短歌研究会によって1968年に創刊された同名の雑誌『台湾歌壇』(→「台湾歌壇について」より)
「【「台湾歌壇」代表の蔡焜燦氏が死去 日台交流に
尽力】日本語で短歌を詠む台湾の愛好会「台湾歌壇」代表、蔡焜燦(さい・こんさん)氏が17日、台北市の自宅で死去した。90歳だった。日本統治下の台湾
で育った日本語世代を代表する存在で、作家・司馬遼太郎の著書「街道をゆく 台湾紀行」では現地の案内役を務める「老台北」として登場した。日台の文化交
流に尽力し、2014年に旭日双光章を受章。台湾の半導体設計、偉詮電子の共同創業者で、1989~2001年に董事長を務めた」日経:
2017/7/17 20:40)
■金夏日(きん・はいる, 1926- )在日コリアンの歌人・作家、元ハンセン病患者
■村井紀(むらい・おさむ, 1945- )思想史家・ポストコロニアル批評家。『南島イデオロギーの発生』(1992,2004)の著書。『明石海人歌集』ならびにバチェラー八重子歌集『若きウタリに』の解説者。
■内田守(1900-1982):明石海人を実質的に指導し、小川正子『小島の春』(長崎次郎書店)、海人歌集『白描』、『島田尺草全集』プロモートした医師(医官)。『療養短歌讀本』
■明石海人(1901-1939)
■小川正子(1902- 1943; Masako Ogawa)
■黒いオルフェ(http://hechizado11.blogspot.com/2017/07/blog-post_28.html)よりの引用
「それと言うのも白人は、相手に見られずに見るという権利を三千年にわたって享受し続けてきたからだ。白人は純粋な眼差しだった。[……]今日では、これらの黒い人びとがわれわれを見つめており、われわれの眼差しはわれわれ自身の眼に送り返されてくる。」(159)
「かつて神権を有していたわれわれヨーロッパ人は、ここしばらく、アメリカやソヴィエトの眼差しの下で、自分たちの権威が崩れ去るのを感じていた。ヨーロッパはすでに地理上の偶然、アジアによって大西洋にまで押し出された半島にすぎなくなった。せめてアフリカ人の飼い馴らされた目の中に、自分たちの偉大さの片鱗を認めようとわれわれは望んでいたのだった。ところがもう飼いならされた眼はどこにもない。あるのはただ、われわれの大陸を裁く、野生の自由な眼差しだ。」(160)
「私がここで示したいと思うのは、いかなる道を経てこの漆黒の世界に近づきうるかということであり、一見人種的に見える彼らの詩が、究極においては、あらゆる人間の歌であり、あらゆる人間のための歌であるということだ。」(162)
「白人の労働者と同じく、ニグロもまたわれわれの社会の資本主義構造の犠牲者である。この状況は、皮膚の差を越えて、黒人が彼同様に抑圧されているある種の階級のヨーロッパ人と緊密な連帯関係にあることをあらわにする。」(164)
「〈物質〉は歌をうたわないのだ。」「白人の中の白人であるユダヤ人なら、ユダヤ人であることを否認し、自分も人間の中の人間であると宣言することができる。ニグロはニグロであることを否認することもできなければ、あの無色で抽象的な人類となる権利を要求することもできない。彼は黒いのだから」(164)
「黒人の魂を表明することだ。」(166)「彼らが話す国語(langage)の内部にさえ抑圧者が姿を現す以上、彼らはこの国語を破壊せんがためにこれを話そうとするだろう。」(172)
「白の持つ秘められた黒さ、黒の持つ秘められた白さというものがあり、存在と非存在の凍りついたきらめきがある。」(175)
「《骰子一擲》が存在の隠れた様相を引き渡してくれることを——さして信じもせずに——漠然と期待しながら、かけ離れた二つの表現のあいだに橋をかけようとするおきまりの手法である。」(179)
「セゼールにおいて、シュールレアリスムの偉大な伝統は完成され、決定的な意味を持ち、同時に破壊される。」(181)
◎歴史性の回復
「ネグリチュードとは、ニグロの世界—内—存在」に他ならない。つまり、いかなる反省にも先行して、ニグロ(性)は「世界のただなかに実存する(exister au millieu de monde)」出典?
「道具について白人は全てを知っている。しかし道具は事物の表面を引掻くだけで、持続、生命を知らない。これに反してネグリチュードとは感応による会得のことである。黒人の秘密とは、彼の実存の源泉と〈存在〉の根とが同一であるということだ。」(185)
「われらの黒人詩人にとっては、存在は起ち上がる陰茎のように、〈無〉から出現する。」(187)
「自己の苦悩を意識する黒人は、いっさいの人間の苦悩を引き受け、すべての人間にかわって、白人にさえもかわって苦しむ人間として、自分自身の眼に描かれるのである」(189)
「黒人は〈生命〉に対する性的な感応であるかぎりにおいて〈自然〉全体と融合し、反抗的苦悩の〈受難〉であるかぎりにおいて〈人間〉としての自己の復権を要求する」(189)
「黒人は一つの集団の記憶を共有している」(192)
「苦しみの直感が集団的過去を授け、未来に一つの目的を与えるに応じて、ついには黒人は自己を歴史化する」(193)
「ネグリチュードは、その〈過去〉及び〈未来〉ともろともに、〈世界史〉の中へ挿入される。」 「いまや彼は自己の使命の上に、生きる権利を打ち樹てる。この使命はプロレタリアの使命とまったく同様、彼の歴史的状況に由来する。黒人は他の人間以上に 資本主義の搾取に苦しんできたから、他の人間以上に反抗と自由への愛を獲得している。また誰よりも抑圧されたものなのだから、彼が自分自身の救済に努める とき、必然的に彼はあらゆる人間の解放を追求していることになる。」(195)
「人種のない社会における人間的なものの実現」→「このように、〈ネグリチュード〉は己れを破壊する性質のものであり、経過であって到達点ではなく、手段であって最終目的ではない」(197)
「〈ネグリチュード〉は自己を抛棄するその瞬間に自己を見出す。 負ける〔滅びる〕ことを受け容れるその瞬間に、勝を収めるのである。」「苦悩にあふれ、だが希望にみちた神話、〈悪〉から生まれて〈善〉を孕んでいる〈ネ グリチュード〉は、死ぬために生まれて生涯のもっとも素晴らしい瞬間においてすら死を感じ続けている一人の女のように生き生きとしている。それは不安定な 休息であり、爆発的な固定性であり、自己を放棄する自尊心であり、一時的であることを自覚している絶対である。」(199)
「〈ネグリチュード〉は、黒人がもう完全には帰れな
い郷愁の〈過去〉と、〈ネグリチュード〉が新しい価値にその場を譲るであろう〈未来〉とのあいだにかけられたあの緊張である。」「〈ネグリチュード〉は客
観的なものの中に刻まれる主観性である。だから一篇の詩、すなわち一個の客体となった主観性(subjectivité-objet)の中に具象化されね
ばならない。」(200)
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フランス語で表現せざるをえないの蹉跌こそが、詩を生み出しうるとサルトルは考える(→サルトルは[未だ]自分の言語で文学を表現すべきだということをデフォルトとする)。「彼らが話す国語(langage)の内部にさえ抑圧者が姿を現す以上、彼らはこの国語を破壊せんがためにこれを話そうとするだろう」(172)
「ここに至って、黒は色以上のものとなる。黒は悪全体、善全体を同時に含む。「白の持つ秘められた黒さ、黒の持つ秘められた白さというものがあり、存在と非存在の凍りついたきらめきがある」(175)
「セゼールの詩はこのことを十全に語っている。「夜はもはや不在ではなく、拒否となる。」白い太陽の光を破壊する黒。こうしてニグロ革命家は、自身が否定そのものとなりおおせる。この闇の否定性こそが価値となる。「自由が夜の色となるのだ。」ニグロは、ネグリチュードの中で自分自身を発見し、そのものとなる。
「彼(=エティエンヌ・レロ)の詩法は、シュルレアリスムの模倣でしかない。「《骰子一擲》が存在の隠れた様相を引き渡してくれることを——さして信じもせずに——漠然と期待しながら、かけ離れた二つの表現のあいだに橋をかけようとするおきまりの手法である」(179)
「セゼールにおいて、シュールレアリスムの偉大な伝統は完成され、決定的な意味を持ち、同時に破壊される」(181)
「詩が客体となることを欲求するシュールレアリスム の伝統を貫いている」。「セゼールの言葉は、ネグリチュードを叙述するのではない。指示するのではない。[……]彼の言葉はネグリチュードを作る。われわ れの目の前でそれを構成してみせる。今やそれは、読者が観察し、学習しうる事物となる。彼が選んだ主観的方法はわれわれが先に語った客観的方法に合流す る。他の詩人たちが黒人の魂を内面化しようとしているときに、彼は自分の外にこれを放逐するのである」(182)
サルトル, ジャン=ポール「黒いオルフェ」『シチュアシオンⅢ』佐藤朔ほか訳. 人文書院, 1964. pp.159-207.
■ブロニスラウ・ピウスツキ「ギリヤークとアイヌにおけるハンセン病」(1913)ainu_leprosy_Pilsudski.pdf with password
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