アイヌへのコロニアリズム(植民地主義)とは何か?
Japanese neo-colonialism of the
Ainu
people and their land, Hokkaido or Ezo
アイヌ民族、貝澤和明氏の言葉より。
「明治以降,数多くの和人が北海道に移住しました。明治政府の植民地政策による同化
政策が進められると同時にアイヌは生活手段を奪われ,急激な環境の変化を強いられて大きなダメージを受けました。今日のアイヌの置かれている生活状況が,
一般の北海道民に比べて厳しいという事実の裏には,そうした歴史があることは皆さんご承知かと思います。/そういった中で,研究として訪れる方々に対し
て,私の親の世代は研究がアイヌのためになったという実感が得られないまま今日に至っています。例えば,私の親などは北海道大学というと,過去に研究の名
のもとに行われた行為が思い出されて,アレルギーがあるわけです」(貝澤和明 2010:132)。[/は段落の移行部分]
同じく、野本正博氏の言葉より
「……研究の対象となるアイヌの立場としては,別に文化人類学者であろうと民族学者 であろうと,あるいは言語学者であろうと,皆研究者であることに変わりはないのです。私が興味を持っているのは,その研究者がアイヌをどのように研究し, その成果をどういった形で発表し,それがアイヌ自身に対していかなる影響を与えてきたのか,さらには,その研究成果がきちんとアイヌに還元されているのだ ろうか,ということです」(野本 2010:236)。
「日本民族学会(現、日本文化人類学会——引用者)は1988 年の学会において,「民族学と少数民族——調査する側とされる側」というテーマの分科会を開催し,そこに二人のアイヌが参加して調査される側の立場で意 見を述べました。そのお一方は,アイヌ民族は今も健在であり,その精神は変わらず脈々と受け継がれていることを強調し,いわゆる「アイヌ新法」の制定に向 けて民族学者に対して協力を要請しました。もうお一方は,研究者は若いアイヌとも交流し,次世代への文化伝承に手を貸してほしいと語りました。この分科会 は盛会に終わったようですが,結果的に学会としては,アイヌ新法制定につながるような積極的な姿勢は見られなかったように思います」(野本 2010:236-237)。
「近い将来アイヌをめぐる何らかの問題が起こったとき,それに対応できるような人材 を育成し研究を進めていくために,大学機関やここにおられる文化人類学を始めとする研究者の方々の力をお借りしたい,というのが私の率直な思いです。私の 周りでは,今実際にアイヌのフィールドワークをしている日本人の文化人類学者はいないし,現在行われているアイヌに関連した事業に,積極的に関わろうとす る研究者もそれほど多くはない。しかし,アイヌ文化振興法について言えば,事業そのものの構想は文化人類学者を始めとする有識者の方々,つまり皆様方の側 が作り上げたものです。例えば現在進められている,アイヌ文化を総合的に伝承するための「アイヌの伝統的生活空間の再生」という構想についてですが,伝統 的生活空間という建前だけで事業が進められでも,そこに本来の大地とのつながりは全く感じられない。今のところ,アイヌにとっても周囲に暮らす地元の人々 にとっても,文化伝承の実践の場という認識を得るには至っていない」(野本 2010:240-241)。
●久保寺逸彦(1933:38)
「アイヌ民族の衰滅に瀕しつつある主要原因は非衛生な生活によると考える人が多い が、本当の原因はあの民族の『血の古さ』にあるのであつて、決して架想的な非衛生の生活にあるのではない。現にその生活は、こちらの山間の農民・雉兎芻蕘 (ちとすうじょう)者流の生活と何ら擇(えら)ぶところがない」(1933:38)。
※雉兎芻蕘(ちとすうじょう)者とは、猟師や木こりなどの人々をさす当時の言葉。
「日本学術振興会でかねて着手したアイヌ民俗研究に関して設けられた第7回調査委員
会では、今夏暑休を利用して8月1日から1か月間室蘭を中心にアイヌ族の無料診科を行ふ一方、戸口調査をはじめ、人類学的立場から民族性、生理、解剖、衛
生、その他についてのアイヌ族研究を行ふことになり、そのプランを発表した。/亡び行く民族アイヌ族は、現在では室蘭を中心に約一万ゐるといはれるがアイ
ヌ族の民族病といはれる結核、黴毒、眼疾は依然猖獗をきはめてゐる有様でこの診療に当たる班は、内科を有馬北大教授、眼科を越智北大教授、皮膚科を高橋北
大助教授が担当し、戸口調査班は佐上北海道長官の行為によって井上委員が、同庁喜多局長と協力、戸口調査票一万枚をつくって必要な調査をすすめ、研究班は
解剖学を山崎北大助教授、生理学を永井東大教授、民族生物学を古屋金沢医大教授、衛生学を井上北大教授、病理学を今北大教授、内科学を有馬北大教授、精神
病学を内村北大教授が担当することになっている。/民族生物学研究の目的はアイヌの生体につき人類学的計測を行ってアイヌの人種的地位を決定しようとする
等珍しい研究がなされる筈」著者不明「学界彙報」『ドルメン』昭和十年八月号、Pp.79-71(Pp.822-823)
■西川長夫(2006)の『新・植民地主義論』では、グローバル化時代の植民地主義には 次の4つの点が認められるという。
西川の「新・植民地主義」を日本とアイヌの関係について考えるとどうなるでしょう か?
次の4点にまとめられると思います。
1.植民地放棄せず同時に植民地であったこと
を忘却させようとする日本政府、 2.植民地(北海道)における植民地状況の継続が現在においてもある。 3.植民地であると同時に国内植民地でもある北海道の状況はもはや見過ごせない。 4.内面化された植民地主義の継続を想起し、過去の歴史的事実と対話すべきである! |
それぞれを解説していきましょう。
1.植民地放棄せず同時に植民地であったことを忘却させようとする日本政府
日本は、明治2(1869)年8月15日太政官布告による蝦夷地を北海道と改める以 前の江戸時代を日本の領土とみなし、北海道旧土人保護法(明治32(1899)年3月2日法律第27号)以前より旧土人としてアイヌ民族を国民の一員とし て北海道の領土の住民として、そして保護法はアイヌの国民国家への同化政策としてアイヌ文化の存続には否定的で優勝劣敗によりやがてアイヌ民族は国民とし て包摂されることを前提に政策を遂行してきた。日本の北方領土の拡張や割譲・領有さらには領有の放棄などを通してもなお、先住民としてのアイヌを国民を構 成する成員として認めつつも、現実におけるアイヌに対する経済的文化的差別の現状に消極的な対応をもって続いてきたのも事実である(旭川人権擁護委員連合 会 1971)(アイヌとシサムためのアイヌ文化入門)。
1997年(平成9年)7月1日、アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知 識の普及及び啓発に関する法律(1997年(平成9年)法律第52号、アイヌ文化振 興法)の施行に伴い旧土人保護法ならびに旭川市旧土人保護地処分法(1934年(昭和9年)法律第9号)も廃止された。また、2007(平 成19)年9月「先住民族の権利に関する国際連合宣言」、2008(平成20)年6月6日衆参両議院にて「ア イヌ民族を先住民族とすることを求める決議」採択、2009(平成21)年7月「アイヌ政策のあり方に 関する有識者懇談会」が官房長官に報告書提出されてもなお、日本政府はアイヌを先住民(先住民族)として認めつつも、「先住民族の権利に関する国際連合宣 言」で保障された先住民族の自己決定権を容認していない。
つまり日本国政府は、江戸幕府時代から北海道に居住するアイヌを先住民(=自分たち とは異なる先住の民)とし、(土地所有の概念が無いという認識のもとで)「彼/彼女らの土地」を植民化してきたことについての認識がありながら、北海道の 他、北方領土ふくめて、それが先住民の土地であったことをすら認めていない(=歴史的に植民地であったという事実の否認)。
日本政府にとって北海道は植民地でありつづけている事実があるにも関わらず、それが 植民地であったことを忘却するのみならず明確に否認している。
2.植民地(北海道)における植民地状況の継続がある
皮肉なことに、北海道は植民地であるにも変わらずそれを植民地であるという認識がな い(ないしは忘却している)ために、北海道は植民地であり、その植民地を支配するイデオロギーが現在までも続いている。西川の用語に倣うと、「植民地ある 真正の植民地主義」とりわけ、彼/彼女らの文化を保護するという名目を掲げつつ日本国における文化多元主義を実現するための同化主義を続けていることにな る。
3.植民地であると同時に国内植民地でもある北海道
北海道はアイヌの自己決定を認めず、日本国民としての同化主義を続けている点で、植 民地であると同時に国内植民地でもある。
西川は、グローバル化時代には戦争というものが内戦のような様相を示すのと同様に、
グローバル化時代の「国内植民地」の国内は「地球内」と理解すべきだと提唱する(西川 2006:20)。
参照文献:Internal colonialism : the Celtic
fringe in British national development / Michael Hechter ; with a new
introduction and a new appendix by the author, New Brunswick, N.J. :
Transaction Publishers , c1999.
4.内面化された植民地主義の継続
アイヌは日本国民でありながら文化的な他者として保護対象となる。また、そのような 社会と文化の運命を国家に奪われて、自分のことを自己決定できない状況に留め置かれているというのがアイヌの現状であると判断せざるをえない。日本の文化 人類学者を含むアイヌ研究者は、この事実を知りながら明確に言明化せず、また、研究対象であったアイヌ民族当事者たちに、きちんと説明してこなかった。
注記:2017年1月10日 池田光穂,大阪
■西川長夫先生とは?:西川長夫(Nagao NISHIKAWA, 1934-2013)
"What can we expect concerning conflicts for difference and identity from Tagore on anti-nationalism and Illich on vernacular value?" - International Symposium, Identity and Alterity in Multiculturalism and Social Justice: "Conflicts", "Identity", "Alterity", "Solutions?" February 18, 2008, Ristumeikan University, Kyoto, Japan. http://www.arsvi.com/a/e2008ae.htm#0217
「反ナショナリズムに関するタゴールやヴァナキュラーな価値に関するイリッチから、差異やアイデンティティをめぐる葛藤について何を期待できるだろうか?」
■知 里真志保「和人わ船お食う」(1947)、「学問ある蛙の話」(1949)
■日本政府の観光庁の英文のアイヌ観光の紹介ページには、これ までの幕府ならびに近代政府が、先住民たるアイヌの「国民」としての尊厳はおろか、現在にいたるまでさまざまな差別や偏見の被害者になっており、政府はそ れとようやく対話しようとしている、という姿勢についての紹介を怠ってきました。
■ディアスポラと民族「殲滅」は、日本およびロシア——つまり帝国と国際社会——の 責任
千島アイヌ(ウルップから占守[シュムシュ]島に居住、人口256人)は、 1875 (明治8)年、樺太千島交換条約後、北海道本島や色丹島に移住を余儀なくされる。とりわけ、1884(明治17)年色丹島に強制移住させられる(人口97 人)。戦後は北海道領内に。1950年代、最後の千島アイヌの死亡の報告。(→「アイヌとシサム ためのアイヌ文化入門」)
1875(明治8)樺太千島交換条約:日本国籍を選択した樺太(サハ リン)アイヌ(108戸841人が記録)は、最初、宗谷に移住移住。その後(1876=明治9)、対雁に強制移住(854人)。1882=明治15、鉄道 敷設で江別、野幌にも移住。ストレス、コレラ、天然痘のため多数(300名以上)の死者を出す。1885=明治18年、対雁の「駅逓所」(=役場と郵便 局)の廃止、江別村に移転。1905(明治38) ポーツマス条約(日露講和条 約)により北緯50度以南の樺太の日本領有(割譲)。翌1906年まで樺太アイヌが帰還する。——なお対雁は、津石狩として、1868=慶応4年に立花由 松が和人として定住。1871=明治4年に宮城から76人が入植していた(江別市教育委員会)。
■岩波書店のネオコロニアリズム——ホメロスにされてしまった知里幸恵に「反論の権 利」 はないのか?
《活字化されたアイヌ神謡集の著者は知里幸恵であることは自明》
それをホメロスを持ち出してアイヌに対する集合的遺産と解釈するのは岩波書店の コン センサスを得難い「独自見解」にすぎない。従ってどのような理由においても、岩波書店の恣意的な解釈には《抵抗》すべき理由が市民にはあります。例えば、 神謡の部分だけをpdfにして無料配布して、岩波書店に経済的打撃を与えるのもその市民的制裁のひとつです。著作権法 第五十二条 無名又は変名の著作物の著作権は、その著作物の公表後七十年を経過するまでの間、存続する。ただし、その存続期間の満了前にその著作者の死後 七十年を経過していると認められる無名又は変名の著作物の著作権は、その著作者の死後七十年を経過したと認められる時において、消滅したものとする.
ホメロスにされてしまった知里幸恵に「反論の権利」はないのか?知里幸恵をホメ ロス にして誉め殺しにするのは、知里真志保のいう「和人」の論理ではないのか?
リンク
文献
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099
For all undergraduate students!!!, you do not paste but
[re]think
my
message.
Remind Wittgenstein's phrase, "I should not like my writing to
spare
other people the trouble of thinking. But, if possible, to stimulate
someone to thoughts of his own," - Ludwig Wittgenstein