ロックフェラー財団と長與又郎
Rockefeller foundation and Dr. Mataro Nagayo
【前史】 —— 松本良順と長 与専斎の時代 ——
1857(安政4年)
オランダ人軍医ポンペ(Johannes Lydius Catherinus Pompe van Meerdervoort,1829—1908)来日(〜1862)、長崎奉行所・西役所にて医学の伝習が始まる。
1861(文久元年)
長崎養生所(上記臨床医学教育の実習施設/近代病院)完成。松本良順、併設の医学所の頭取になる。
1862(文久2年)
西洋医学所(江戸):頭取・緒方洪庵(〜63)、副頭取:松本良順
1866(慶応2年)
オランダ人マンスフェルト(Constant George van Mansvelt, 1832-1912)来日(→1870年熊本で教鞭)
1868(明治元年)
長与専斎、長崎府医学校(→明治2年:長崎県病院医学校→明治3年:大学所管の長崎医学校)の学頭になる。大学(本科)・小学(予科) 制度の発足
1868-9
西洋医学所、大病院(=陸軍病院)に併合される
8月:会津戦争において政府はウィリアム・ウィリス(1837-94)を派遣、治療に当たらせる。
1869(明治2年)
[1月]政府は相良知安(佐賀藩医)と岩佐純(福井藩医)を医学校取調御用掛とし医学改 革の事を議せしめる(→『医制百年史』の表現)。
[2.17]オランダ人軍医ボードウィン、大阪の仮病院、医学校で教鞭(東京の医学校は 大学東校と称す)。
[7月]大学にオランダ人 ゲールツ(Antonius Johannes Cornelis eerts, 1843--****)着任。ゲールツは後に、司薬場(東京、京都、大阪)を開設し、衛生試験所に発展。
[6月]相良知安プロシアより医学教師招聘を建議
開成学校、医学校が大学校として統合(大 学校官制公布:1869.7.8)(→大学本 校、大学南校、大学東校(医学校))される[12.15]。東校は、第一大学区医学校、東京医 学校と変遷した。1877年東京大学として合併 される。
[12.12]ウィリス鹿児島に赴き、翌年より鹿児島医学校に教鞭をとる
1870(明治3年)
[2.14]ドイツ医学教師雇い入れ契約が成立
1871(明治4年)
長与専斎、欧米に派遣される
1872(明治5年)
文部省内に医務課を設立、初代課長に相良知安(→「医制」草案始まる)
1873(明治6年)
医務課は医務局に昇格、初代局長に長与専斎が就任。
1874(明治7年)
長谷川泰、長崎医学校長(→同年廃校)。政府は8月18日に76箇条の「医制」を公布。
1875(明治8年)
衛生行政は文部省から内務省へ移管。内務省初代衛生局長は長与専斎(〜 1891、明治24年)。
1877(明治10年)
ゲールツにより日本薬局方、草案完成(長与専斎、衛生局長)。
1878(明治11) 長与又郎、専斎の三男として東京・神田に生まれる。
1879(明治12年) コレラ流行(患者数162,000、死亡数 105,000)
1880(明治13年) 伝染病予防規則(〜1897年/明治30:伝染病予防法)
1882(明治15年) コレラ流行(患者数51,000、死亡数33,000)
1883(明治16年) 弟(つまり専斎の四男)長与裕吉生まれる(→岩永裕吉)
1886(明治19年) コレラ流行(患者数155,000、死亡数108,000)
1890(明治23年) コレラ流行(患者数46,000、死亡数35,000)
1895(明治28年) コレラ大流行(患者数55,000、死亡数40,000)
1900(明治33年) Rudolf B. Teusler (ルドルフ・トイスラー)米国聖公会宣教師として来日(24歳)
1902(明治35年) トイスラー聖路加病院の初代院長となる。
1904(明治37) 長与又郎、東京帝国大学医科大学卒業
1907(明治40)
山極勝三郎門下として病理学を学び、ドイツに留学L・アショフ(1866-1942)に 師事(→5年後に清野謙次が留学)
1909(明治42) ドイツより帰国
1910(明治43)
第1回極東熱帯医学会(マニラ)開催。長与又郎、東京帝国大学医科大学の助教授となる。
1913(大正2)
John D. Rockefeller 父子ロックフェラー財団設立。公衆衛生学校(ハーバードとMITの連合)開校。長 与又郎、東 京帝国大学医科大学・教授。
1914(大正3)
野口英世、帰国。[伝染病研究所の移管問題で北里所長辞職:関連リン ク]
1916(大正5年) 12月トイスラー、財団の援助を受けて日米医学交通委員会発 足
1918(大正7) 大学令
1920(大正9) 国際連盟、発足。学位令改正。
1921(大正10)
国際連盟・衛生機関、発足。第4回極東熱帯医学会(バタビア→ジャカルタの旧名)開催
1923(大正12年)
2月〜5月、長與ら一行渡米。
9月1日関東大震災。聖路加病院消失。トイスラーの介在により財団のInternational Health Board, Division of Medical Education 震災復興を申し入れる。
1924(大正13) 米国、新移民法(排日条項を含む)を可決。
1925(大正14年)
10月第6回極東熱帯医学会(東京)開催[加藤高明首相・総裁、北里柴三郎会長、長與又 郎副会長]。国際衛生技術官交換会議。財団との交渉は中断。
1926(大正15/昭和元)
ロックフェラー財団は、ドイツにて優生学、カイザー・ウィルヘルム精神医学研究所(ミュ ンヘン)、カ イザー・ウィルヘルム人類学人類遺伝学優生学研究所(ベルリン,1927-)の研究所設置に財政的援助を開始する(キュール『ナチ・コネクション』邦訳、 Pp.48-50を参照)。
1927(昭和2年) 第1回衛生学微生物学寄生虫学聯合学会
1928(昭和3) 国際連盟・衛生会議
1929-1932 世界恐慌
1930(昭和5)
ロックフェラー財団との交渉再開。長与又郎、ツツガムシ病の学名を命名。
12月7〜13日国際連盟主催の癩会議(バンコク:会場はチュラロンコン王記念病院およびバストエル研究所)。長与又郎が 出席予定だったが太田正雄が代理出席(→「リデルと癩救済事業関連」)。
1931(昭和6) 日本学術振興会、設置。上海自然科学研究所、発足
1932(昭和7) 国立公衆衛生院(林春雄院長)発足
1934(昭和9)
長与又郎、東京帝国大学・総長に就任。保健制度統一法(ナチスドイツ)
1935(昭和10)
第3回国際人口科学学会(ベルリン)[ナチの人種衛生学(Rassenhygiene)が主張する断種の科学的根拠のプ ロパガンダが成功したと言われている。『ナチ・コネクション』邦訳、pp.67-参照]
1936(昭和11) 又郎、帝国学士院会員
1937(昭和12) 保健所法施行
1938(昭和13) 厚生省設置。国立公衆衛生院発足(林春雄院長)
1941(昭和16) 又郎、東京帝国大学退官、8月16日死亡
【リンク】
「沿革」 聖路加国際病院
【文献】
小川鼎三・酒井シズ 1980「解説」『松本順自伝・長与専斎自伝』東洋文庫、pp.215-222、東京:平凡社。
小高健 編 2001『長與又郎日記 上』東京:学会出版センター。(ウェブ紹介: 上巻 下巻)
神谷昭典 1979 『日本近代医学のあけぼの』東京:医療図書出版社。
厚生省医務局編『医制百年史(資料編)』ぎょうせい、1976年
キュール、シュテファン(Stefan KU"HL)『ナチ・コネクション』麻生九美訳、東京:明石書店。
【註】
岩永裕吉(Yukichi, Iwanaga) 1883(明治16)〜1939(昭和14)
衛生行政創立者の長与専斎の四男。兄は医学者の長与弥(→称)吉、又郎、 弟に作家の善郎。
1890(M23)年 母の弟で日本郵船専務・岩 永省一の養子
1909年京大法科卒。南満州鉄道・鉄道院・欧米 各国外遊
1920年岩永事務所を創設し「岩永通信」発刊。
1923年古野伊之助の呼び かけで国際通信社の専務、通信事業に本格的に参入、ロイター通信との 関係を強化するとともに地方紙との通信契約の拡大に奔走する。
1926年 国際通信社と東方通信社が合併し日本新聞連合社が誕生して専務理事に就任。
1936年日本をめぐる国際関係が悪化。軍部・政 府に働きかけ ライバルの電報通信社と連合の合併、誕生した同盟通信社の初代社長となった。