かならずよんで ね!

ハンセン病対策と戦前の患者「浄化」運動としての無癩県運動

Hansen's Patients Cleansing and the role of Religions in 1930s Japan

池田光穂

このページでは、ハンセン病対策と戦前の患者「浄化」運動としての無癩県運動について考える。

■医療者と宗教家による「癩撲滅」スローガンと皇室および社会事業家のパターナリズムに自治体と国民が関わったいわゆる「無癩県運動」について考察する

1925 

貞明皇后は「後藤静香が主宰する教化団体 希望社を介してハンセン病患者の処遇に関心をいだき、「女官一同」の名で、金一封を後藤[静香](Sikou Goto, 1884-1971)に贈っていた(加藤義徳「後藤静香と救癩運動」『JLM』571 号、1980 年 11 月)」

1927

「日本 MTL の場合もその中心的人物の賀川豊彦は、1927 年の『雲の柱』6 巻 3 号に「社会問題と して見たる癩病絶滅運動」というタイトルで、「私が何故癩病問題を喧しく云うかと云えば、それは 国民の社会的能率を上げる為に云ふのである。日本 MTL の使命は、日本人である我々が同じ日本 人である癩病患者を、少しでも愛し様と云う」ことにあると説明する文章を記している」(厚労省 :436)。

1929 無癩県の名称は、1929年に愛知県で使 われたとある(畑谷 2006:85)——ただし出典典拠はない。

『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』がその出典か?しかしこのもっとも信頼性のある報告書すら典拠を示していないのは問題である!:

「「無癩県」とは文字通り、ハンセン病患者がいない県、すなわち、すべての患者を隔離して、放浪患者や在宅患者がひとりもいなくなった県を意味する。この語が初めて使用されたのは、1929(昭和 4)年、愛知県であったが、広く使用されるようになるのは、1931(昭和 6)年の「癩予防法」公布により絶対隔離政策が実施されてからで、特にハンセン病患者の「二十年根絶計画」が開始された 1936(昭和 11)年以降に強調されていく。「無癩県」を実現するため、患者を摘発して療養所に送り込もうとする官民一体となった運動が「無癩県運動」である」『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』より

ウィキペディア「無癩県運動」の内容記載もひどいものだが、まずここから手始めにするほかはない。

「無癩県運動は『日本らい史』など権威ある本が[1][2][3]、その発端を1929年(昭和4年)としている。これは光田健輔の『回春病室』の記述に基づいたもので あるが、佐藤労は愛知県の方面委員が愛生園を訪問した1934年(昭和9年)を根拠に1934年に始まったとしている[4]。ほかに山口県議会の議事録に よると、1930年(昭和5年)に開始されたという説がある[5]。ほかに、強制収容の嵐という題で1930年(昭和5年)から在宅患者強制収容の暗黒時 代が始まるとした本もある。この本(三宅 2006か?)によると、内務省が始めたとある[6]」ウィキペディア「無癩県運動

1.『日本らい史』山本俊一 東京 大学出版会 1993;2.熊本地方裁判所判決文 2001(なんと言ういい加減な書誌記載なのだ!);3.ハンセン病問題に関する検証会議 2005 (同じく!);4. ハンセン病市民学会年報 2007 p44-53;5.杉山博昭 『山口県におけるハンセン病対策の展開 -無らい県運動期を中心に-』山口県史研究 第14号 2006 p.46;6.『差別者のボクに捧げる』 三宅一志 晩聲社 1978

1930 時期は不詳:「内務省衛生局・癩の根絶策」の発表

1930 11 月10日癩予防協会の設立に貞明皇后、下賜金を付与(1932年11月10日「つれづれの友となりても慰めよ」)

6月8日 癩予防、救護慰安を目的に「大谷光明 会」設立

6月25日 癩予防デー制定(1964年以降「ハ ンセン病を正しく理解する週間」)

1931 大正5(1916)年3月11日「癩予防ニ関スル法律」改正(法律第21号)を「癩予防法」に改題。

「昭和6年4月2日(法律第58号)「癩予防法」と改題(「明治40年法律第11号」を改題)。隔離の対象となる患者 の範囲が広まる。この時、国立癩療養所患者懲戒検束規定が制定されて、収容ハンセン病療養者への管理や身体拘禁などの制御が強化される。それに呼応して、ハンセン病患者の収容政策も各都道府県の自発的な参画もあり「無癩県運動」が、実質的な国民運動として本格化するように思われる」(「ハンセン病元患者と 国家:法律関係の整理」「」)

1932 貞明皇大后11月10日「つれづれの友と なりても慰めよ」

つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたきわれにかはりて」—— 貞明皇后節子・御製歌、1932(昭和7)年11月10日、大宮御所歌会「癩患者を慰めて」(日弁連編 2007:202)※註:この歌を詠んだ時、節子は皇太后にあったが 1951年5月17日に崩御(=死亡)した時には、その諡号(=死んでから付けられる諡[おくりな])は「貞明皇后」とされたので、多くの文献では、その ように読んでいる。貞明皇太后節子の誕生日、6月25日「癩予防デー」 あるいは癩予防週間。癩予防協会長・澁澤栄一が、真宗大谷派光明会の相談役でもあった。

1932 総督府は朝鮮癩予防協会を設立(貞明皇太后からの下賜金)。

1933 

6月台湾癩予防協会設立(貞明皇太后からの下賜金)。

9月飯野十造(静岡・其枝基督教会牧師)は、満州癩予防協会を設立する。

1935 

関屋貞三郎『皇太后陛下の御仁慈と癩予防事業』癩予防協会。

11 月 10 日:「まず一つ目は「祖国の血を浄化せよ」という 1935 年 11 月 10 日「御恵みの日」講演会における 講演の要旨である(『岩下壮一全集 第 8 巻』)。そこでは、「ライは日章旗の汚点だからこれをぜひ とも洗い落とさなければならぬ」に始まり、内務省の立てた 30 年根絶計画のプランを実行すること、 愛国心からもこの問題の解決につくさねばならない等と主張している。 さらに復生病院の姿勢を物語っているのが、岩下が 1932 年 7 月 16 日に「復生病院について」と いうタイトルで放送した時の原稿である。そこには「療養所は犠牲の礎の上に築かれた地上の楽園 でなければならない。現世のすべての希望を絶たれた者に対して、私たちは最大の同情をそそがな ければならない。自分からすすんで療養所に入る患者は、自分の養生のためばかりで行くのではな い。祖国の血を浄めるために、人間最高の犠牲をあえてするのである。私はこうした人に対して社 会は敬意を表すべきであると思う。わが復生病院は…略…、この犠牲にもとづいた楽園の建設に向 かっては、他のどの療養所にも劣らぬ努力をしている」(同上)と記されており岩下院長とその病院 の姿勢が明らかにされている」(厚労省 :436)

1932年11月10日(癩予防協会の「御恵みの 日」とする)

1936 

2.26事件:「昭和11(1936)年の春、長島愛生園の医師・小川正子(1902- 1943; Masako Ogawa) は、ハンセン病患者を収容するために瀬戸内の小島を、園長であった光田健輔の「御命令で検診」巡回していた」(→「『小島の春』断章」)。収容は、訪問した医師が自治体を訪ね、地元の巡査と一緒に、癩患者と思しき家庭を訪問し、患者あるいは患児と思しき人たちを診察する。その後、自治体の役人や巡査が改めて、療養所への移送を督促するものである(→「『砂の器』『砂器』異聞」)。

1940 厚生省「患者収容の完全を期せんがためには、いわゆる無癩運動の徹底を必要なりと認む」を通達(自治体への通報や投書を受け入れ、いわゆる「患者狩り」の強化)。

1951 5月17日貞明皇太后死去。

1964 「ハンセン病を正しく理解する週間」とし て、現在までもなお継続中。私(池田)は、無癩県運動が今度は、啓蒙運動の形をとって継続していたと考える。

1998 

「7月31日、国立療養所星塚敬愛園療養者9名と 国立療養所菊池恵楓園療養者4名の合計13名が熊本地方裁判所に提訴し、2001年(平成13年)5月11日に、原告全面勝訴の判決が下された。……、5 月25日に法務大臣森山眞弓と厚生労働大臣坂口力が協議したのち、内閣総理大臣小泉純一郎の政治決断によって総理大臣談話を発表して、福岡高等裁判所への 控訴を断念し、一審が確定判決となった」(「らい予防法違憲国家賠償訴訟」より)

2001 

3月26日民主党江田五月参議院議員ならびに川内博史衆議院議員が3月26日国会内で記者会見し「ハンセン病問題の最終解決を進める国会議員懇談会」の設立を呼びかけることを発表する。

私(池田)は、この「最終解決」という用語がどのような経緯で採択されたのかわからないが、江田五月(1941- )や川内博史(1961- )という学識のある人たちが、このような用語を使うことには、いささか奇異な感じがする。なぜならば、普通の歴史家は「最終解決」という用語を聞けば、通常はナチスにおける「ユダヤ人問題の最終解決Die Endlösung der Judenfrage; Solution to the Jewish Question)」 を想起するからである。また、最終解決は、水俣病事件に関わった原田正純や石牟礼道子などの支援者たちが、その社会問題を「決着済み」として、以降問題に しない態度の無責任性を追求し「水俣病問題は終わらない」と主張し続けた精神性にも反しているからである。つまり、この「ハンセン病問題の最終解決を進める」というマインドは、元ハンセン病患者、回復者、ならびに死者(堕胎中絶された胎児を含む)の苦悩の歴史を、残された世界の人々への永遠の課題として、二度とハンセン病の問題の災禍を決して忘れないという態度を、今後も続けてゆく精神性にいささかかけるものであるからだ。

2009 ハンセン病問題の解決の促進に関する法律(平成20年法律第82号)施行

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文献(無癩県関連)※書誌の書き方がいい加減だが寛恕すべし

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