『砂の器』異聞
The "Castel of Sand," overdrive
松本清張[1909-1992]の新聞小説『砂の器』(新聞連載:1960-1961、光文社1961)と松竹映画『砂の器』(1974年:監督:野村芳太郎[1919 -2005]、脚本:橋本忍[1918-2018]・佐藤正之・三島与四治、音楽:芥川也寸志)には、ライ(ハンセン病)の記述が共にある。ただ、映画化されるまでは少なくとも13年間の開きがある。このことを考えるのが、このページの目的である。
作品の中、本名 「秀夫」の出自を抹消し別人になるが、かつての恩人・三木謙一を殺害してしまう主人公・和賀英良(わが・えいりょう)の父・本浦千代吉が、ハンセン病の罹 患者であるが、小説では、主演(小説の主人公)の今西栄太郎刑事のハンセン病療養所に照会するがすでに死亡、他方、映画では、療養中の千代吉が今西刑事に 対して秀夫との関係を否認する——これがハンセン病の(一般の人が抱く)「悲劇」を表現して映画の中でも感動的な部分になる——ために、存命中である。ま た、小説では、和賀は前衛音楽の作曲家であり、その作曲装置を改造した「超音波発生装置」で関係者の殺害を企てるが、映画ではそのようなトリックは出てこない。
このように、小説と映画では、構成がかなり違う。人 口に膾炙しているのは、映画のほうであろう。だが、父親のハンセン病の罹患というスティグマを隠すために、その事情をよく知る、三木謙一を殺害してしまう 「不幸」——日本以上に人気のあった中国では「恩人を殺害」というふうに文化的解釈(文革期の記憶と重なる)がほどこされる——が涙を誘うのである。だ が、しかし、この映画を「ハンセン病に対する差別と偏見」の温存ないしは再生産と批判した人たちがいる。全患協(全国ハンセン氏病患者協議会→全国ハンセ ン病患者協議会に改称)の人たちである。同協議会編『全患協運動史』(1977:183-184)には、この映画作品について次のような言及がある。
「戦前に各園から出された機関紙や、その他の出版物 に掲載されている患者の文芸作品の中に「宿命」という文字が異様とさえ思えるほど多く使われ、それは昭和三十年頃(1955年—引用者)までのものに散見 することができる。……(全患協は、)「宿命」「業病」これらのことばをも死語にちかいものにし、努力次第によっては大きく変化させることができることを 実証した。/小説「砂の器」の作者松本清張は、この事実を知らなかったのか、或いは知りながらハンセン氏病の過去の暗いイメージ「宿命」を固定観念にして しまった上で作品を書いてしまったのである。患者の子供として幼年期から苦悩に満ちた生き方を強いられた主人公は、その苦しみから解かれたいためと、立身 出世のため殺人を犯してしまう……。小説が新聞に連載されている頃から療友の間で問題になっていたが、昭和48年(1973年—引用者)、橋本プロ※が、 この作品の映画化を発表するにおよんで一層深刻なものとなった。/以前、「ここに泉あり」で苦い汁をのまされた全患協は、早速映画化の/[p.184]」中止を申し入れ、また来訪を求めて強く要求したのであるが、しかし相手側はこの段階で相当な出費を重ねており、スタッフ、キャストも決定していて、それよりもこの映画を通して偏見是正を訴えをしてみてはということであった。やむなく全患協は、社会的偏見を助長するものであっては絶対にならないことを中心に、いくつかの条件を出した。シナリオの検討、患者の取り扱い、そのメーキャップにまで細かな要請をし、それに対し、むしろ好意的に配慮をしてもらったのである。……」
※註:橋本プロとは、松竹映画会社が、映画化の権利
を松本清張側のとの合意があり配給権を取得したが、全患協側のとの交渉などで映像化が進まないのを見かねて、脚本家橋本忍と山田洋次が、松竹の外側に制作
会社(プロダクション)をつくり映画化をすすめたものである。映画『砂の器』は、松竹と橋本プロの第一回提携作品となる。もちろん脚本家たちにとっては、
この原作のプロットや構成などに大いなる魅力を感じていたのだろう。また「相手側はこの段階で相当な出費を重ねており、スタッフ、キャストも決定していて」
というのは、この映画化の配給をめぐって別の映画会社に交渉する旨を、橋本らが松竹の首脳陣に談判したということも関係者の間ではエピソードとして知られ
ているそうである。また制作松竹側の制作許可がおりると、野村と橋本はすぐに2人の父子が流浪するシーンの撮影のために竜飛崎に旅立っていったそうである
(同企画展パンフレット, p.10)。
同、報告書(1977:184)には、実際の映画の中にも次のような字幕を挿入することに合意したという。
「ハンセン氏病は、医学の進歩により特効薬もあり、現在では完全に回復し、社会復帰は続いている。それを拒むものは、まだまだ根強く残っている非科学的な偏見と差別のみであり、戦前に発病した本浦千代吉(映画の中の主人公)のような患者は日本中どこにもいない」
松本清張が、この推理小説の制作過程のなかで、どの ような理由やきっかけでハンセン病に罹患した父と、非患児の父子の流浪者を登場させたのかわからない。また、松本清張がつけていた日記や取材ノートなどに ついて、非公開なので、これについては、今後の解明が待たれる。折しも、北九州市立松本清張記念館では、開館20周年記念特別企画展として『松本清張・砂 の器』展が開催された(2018年12月18日〜2019年3月31日)。展示は清張の小説と映画が同じ程度紹介される異例のものであり、この小説が作品 化された映画のほうが《社会現象》であったことが窺われる。
作品の新聞連載に先立つ12年以上も前の昭和23
(1948)年に清張は、山陰地方を旅行している。1955年のエッセー「ひとり旅」の中に、「出雲の言葉は東北弁を聞いているようだ」という文言があ
る。同企画展のパンフレットには、事件の解明に重要なキーとなる「カメダ」の地名出雲「亀嵩(かめだけ)」の方言について清張が小説連載時に参照した資料
なども展示してあった。
実際の小説と映像作品を見比べてみると、大きな違いがある。小説には、ハンセン病に関する記載は非常にすくなく、三木謙一が懐旧の情禁じがたく、ほとんど衝動的に和 賀を訪問してしまう。有名人になった我賀英良を地元でも誇りとして紹介してやるという三木の言葉がきっかけになり、自分の実の父親の身元がばれることで 「社会的名誉」を失墜させることを恐れて和賀は三木を殺害にいたる。しかし、小説には、映画には超音波殺害という別のトリックもあり、我賀は狡猾な連続殺 人者というイメージがつきまとう——それゆえ最後のシーンは海外出張にでかける我賀が逮捕されてしまう。他方、映画のほうは、最初から正統派の作曲家とし て成功しつつある自分の作曲したピアノ交響曲「宿命」が流れて、それが流浪の彼の幼年時代と重なるように構成されている。ハンセン病の父との流浪のシーンが、過酷 な差別にあい、放浪せざるをない状況——もちろんそれは国の強制収容政策ために親子が引き裂かれるという悲劇も加味される——のなかで劇的に表現される。 そのなかで、殺人を犯さざるをえない和賀は、社会の差別と偏見の犠牲者として二重の悲劇を犯すという「運命論」として描かれている。清張は「小説では絶対に表現できない」とまで書いたほどである(白井と橋本 1996)。
■歴史的検証:フィクションの登場人物「三木謙一」はどのようにして「無癩県運動」に関わったのか?
『砂の器』で扼殺される元巡査の三木謙一は、戦前期の1930年初頭から始まると言われている「無癩県運動」に関わっており、放浪する本浦千代吉とその子秀夫との遭遇により、患者であった千代吉は、岡山県にあるフィクションの療養所に送られる。父親と引き離された秀夫は、篤志家でもある三木に馴染めず出奔するのが、この親子の戦前の姿である(→「ハンセン病対策と戦前の患者「浄化」運動としての無癩県運動」)。
無癩県運動における患者収容政策は、まず療養所から派遣された医師が自治体を訪ね、地元の巡査と一緒に、癩患者と思しき家庭を訪問し、患者あるいは患児と思しき人たちを診察する。その後、自治体の役人や巡査が改めて、療養所への移送を督促するものである(→「『小島の春』断章」)。
■ハンセン病に対する差別を温存させる言葉と映画作品の関係について
上掲、全患協の引用文にも、また映画の和賀が作曲した曲名もあるような「宿命」をはじめ、「業病」「天刑病」などの表現は、「不治の病」と並んで、元患者当事者(つまりハンセン病回復者元
ハンセン病患者、元ハンセン病療養者など呼称される人々)には、差別のレッテル(=烙印、スティグマ)として、重くのしかかる。その意味で、映画になんど
も登場する「宿命」という言葉——和賀の曲名であり事件の真相を隠喩的に表現するものであるが——は、全患協も含めても忸怩たる思いがあったことは、想像
に難くない。ちなみに、小説には、ライ(癩)という言葉がわずかに出てくるのみで、「宿命」は出てこないということである。そのような「宿命」が重要な
キーワードになる野村監督の映画作品『砂の器』は、のちの2001年の小泉純一郎首相(当時)が、国家賠償訴訟の国側の控訴断念以前に、この映画を観ていたことを述懐することに触れたこと(→「中丸薫のワールドレポート」)といい、この映画の複雑な事情を反映する。
■記事:「元全国ハンセン病患者協議会事務局長、鈴木禎一さん死去」朝日新聞)
「鈴木禎一さん(すずき・ていいち=元全国ハンセン
病患者協議会〈全患協〉事務局長)が2019年1月16日死去、103歳。葬儀は1月22日午後1時、東京都東村山市青葉町4-1-4の国立ハンセン病療養所多磨全生園会堂(→国立療養所多磨全生園)
で。喪主は妻高橋貴美子さん。/全患協の事務局長としてハンセン病強制隔離政策に反対し、療養所入所者の権利向上や偏見の打破に取り組んだ」2019年1月17日配信)
■謝辞
北九州市立市民文化スポーツ局松本清張記念館事務局学芸員の小野芳美氏には、私の突然の訪問にも関わらず、ご公務のおり時間を割いて丁寧に応接していただいた。ここに記して謝辞する。
■クレジットとおことわり
リンク
リンク(ハンセン病関連のサイト内リンク)
文献
その他の情報