かならず 読んでください

神谷美恵子

Dr. Mieko KAMIYA,1914-1979 a Japanese psychiatrist and writer

池田光穂

本文をここにかく

年譜(長島愛生園に時代に関連して)

1914 1月12日 岡山に長女・前田美恵子として生まれる(父:前田多門、母:前田房子)直後に長崎に転居。

1920 前田多門、東京市の助役に就任、一家は上京。

1921 聖心女学院小学部に入学

1923 前田多門、ILOの日本代表部に任命、ジュネーブに転居。ジャン=ジャック・ルソー・インスティテュート(Institut Jean-Jacques Rousseau)小学校に転校。同校は、1921-1925年にジャン・ピアジェが校長であった。新渡戸稲造(国際連盟事務次長)とも一家は親交。

 ca. 1926 ジュネーブ・インターナショナル・スクールに進学

1926 帰国、自由学園から成城高等女学校に転入学

ca. 1930 無癩県運動が始まる

1932 成城高等女学校を卒業、津田英語塾本科に入学(文学専攻)。結核で死亡する野村一彦と恋愛関係になる。

1934 叔父の金澤常雄(無教会派の伝道師)よりオルガン伴奏者として、多磨全生園に訪問。ハンセン病患者に衝撃を受けるとともに、召命感をえる。

1935 肺結核罹患

1937 盧溝橋事件、日中戦争はじまる。

1938 ニューヨークに創設された日本文化会館の館長に前田多門が任命され、家族で渡米。コロンビア大学大学院で古代ギリシャ文学を専攻(24歳)。

1939 フィラデルフィア近郊で、ペンシルバニア大学留学中の植物学者、浦口真佐を知己になる(往復書簡集が1999年に刊行)。

1940 2月コロンビア大学医学校に入学(コロンビア大学で知りあった男性[不祥]と婚約したがすぐに解消)

1941 12月真珠湾侵攻。一家はエリス島で敵国民として一時抑留。

1942 第一次交換船(Lourenço Marques[現モザンビーク首都]経由)で帰国。帰国後(秋?)東京女子医学専門学校本科に編入学。10月に太田正雄(木下杢太郎:1885-1945)東京帝国大学医学部教授(皮膚科学講座)を訪問。

1943 長島愛生園を12日間訪問、光田健輔(1876-1964)[当時67歳]と知己を得る。父多門は新潟県知事。

1944 東京女子医学専門学校本科を卒業(秋)。東京帝国大学精神科医局入局、メンターは内村祐之(Yuushi UCHIMURA, 1897-1980)

1945 3月11日東京大空襲。8月敗戦、GHQにで、父多門の秘書として翻訳などに従事。父は、貴族院議員。東久邇宮内閣で文相就任。幣原内閣でも留任したが公職追放となる。

1946 5月3日極東国際軍事裁判はじまる。内村教授につき、大川周明(Shūmei Ōkawa, 1886-1957)の精神鑑定を手伝う。7月、東京大学理学部講師(植物学)神谷宣郎と結婚。世田谷、上北沢に居住。

1949 神谷宣郎(Noburou KAMIYA, 1913-1999)大阪大学理学部教授。大阪に転居。マルクス・アウレリウス『自省録』創元社を翻訳出版。

1950 宣郎、ペンシルバニア大学の招聘。美恵子と子供は大阪に残り、アテネ・フランセ等で語学を教える。

1951 宣郎帰国、芦屋に住む。次男、結核に罹患。

1954 初期ガン発見、ラジウム治療をうける。

1956 神戸女学院大学で文学を教える(非常勤)。

1957 長島愛生園での精神医学調査を開始。

1958 京都でゴッホ展を鑑賞し衝撃をえる(『生きがいについて』)。

1960 大阪大学医学博士(精神医学教室)。神戸女学院大学教授。

1963 津田塾大学教授。宣郎の招聘先の米国を訪問。その後、渡欧、スイスで(ユネスコ勤務の)兄の前田陽一(Youichi MAEDA, 1911-1987)からミッシェル・フーコーを紹介される。

1964 光田健輔死去(享年89歳)

1965 長島愛生園園長に就任(51歳)。

1966 ヴァージニア・ウルフの寡夫レナード・ウルフを訪問。『生きがいについて』出版

1972 愛生園園長を辞職(58歳)。入退院を繰り返す。

1979 10月22日死去(65歳)

リンク(神谷個人や研究に関するもの)

リンク(ハンセン病関連)

文献

その他の情報


(c)Mitzub'ixi Quq Chi'j. Copy&wright[not rights] 2017