フーコー「社会医学の誕生」ノート
Michel Foucault, 1977, El nacimiento de la medicina social. Revista centroamericana de Ciencia de la Salud
M・フーコー「社会医学の誕生」(1977)ノート:『帝国と 医療』協賛
【出典】Michel Foucault, 1977, El nacimiento de la medicina social. Revista centroamericana de Ciencia de la Salud 6:89-108. ;フランス語からの日本語訳「社会医学の誕生」小倉孝誠訳、『ミッシェル・フーコー思考集成VI:セクシュアリテ/真理』 Pp.277-300. 東京:筑摩書房、2000年;英訳は"The Essential Foucault" (2003) に収載されている。
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EL NACIMIENTO DE LA MEDICINA SOCIAL
* Segunda de una serie de conferencias sobre "Historia de la medicina" expuestas por el autor (profesor de la Facultad de Letras de Clermont Ferraud, Francia) en Río de Janeiro, Brasil, 1974.
Introducción, p.89
1) La bio-historia
2) la medicalización,
3) La economía de la salud,
Etapas en la formación de la medicina social, 91
I. Medicina de Estado, 92
II. Medicina urbana 96
III. Medicina de la fuerza de trabajo, 104
-------------p.277-------------
0.(はじめに—表題なし)
■前回(初回)の講義における3つの指摘:
「根本的な問題は医学と反医学の対立のうちにあるのではなく、18世紀以来の医療制度の発展と、西洋の医学や保健衛生の「テイク・オフ」に ために採用され てきたモデルの発展のうちにある」(p.277)。
(1)「生命=史(ビオ=イストワール)、つまり医学の介入が生物学的なレベルでおよぼす影響と、18世紀初頭に始まった医学の強力な介入が人類の歴史に 残す痕跡。実際、人間の歴史は医療化と無縁でいることはできません」(p.277)。
-------------p.278-------------
(2)「医療化、つまり人間の存在、行動、行為、身体が18世紀以来、ますます強力で大規模な医療化の網目のなかに組みこまれており、その 網目から逃れられるものはしだいに少なくなってきたという事実」(p.278)。
(3)「健康をめぐる経済学、つまり健康改善、健康サーヴィス、健康のための消費が特権的社会の経済発展のなかに組みこまれていること」(p.278)。
-------------p.279-------------
1.医療化の歴史
■古代医学は社会的で集団的な医学、という見解への疑義
・古代医学は(ギリシャ医学をみる限り)社会的で集団的な医学ではない。
・(結論を先取りすると)「中世の医学は個人主義的なものであり、他方で医療活動の集団性はきわめて弱く、限定されて」(p.280)いたのに対して、近 代医学は個人的なものではない、つまり社会的で集団的な医学である。(「問題は、18世紀末モルガーニからビシャにいたる間に、病理解剖学の導入によって 生まれた近代医学つまり科学的医学が個人的なものなのか、そうでないのかということです」p.279)。
-------------p.280-------------
■近代医学は社会医学である
・「近代医学は社会医学であり、その基礎は社会をめぐるある種のテクノロジーにほかなりません。医学とは社会的な実践であり、その一側面だ けが個人主義的 で、医者と患者の関係を重視するのです」(p.280)。
・「資本主義によって人々は集団的医学から私的医学に移行したのではなく、まさにその正反対のことが起こったのだ、というのが私の仮説です」 (p.280)。
■フーコーの仮説の中身
「18世紀末と19世紀初頭に発達した資本主義は、生産力と労働力にしたがってまず身体という第一の対象を社会化します。社会による個人の 管理は意識やイ デオロギーによっておこなわれるだけでなく、身体の内部で、身体とともに行われるものでもあります。資本主義社会にとって何よりも重要なのは生=政治(ビ オ=ポリティック)なものであり、生物学的なもの、身体的なもの、肉体的なものです。身体とは生=政治的な現実であり、医学とは生=政治的な戦略にほかな りません」(p.280)。
・社会医学の形成については、3つの段階を再構成できるでしょう。まず(1)国家医学、次に(2)都市医学、そして最後に(3)労働力の医学です」 (p.280)。[これらは、おのおの近代化をとげるヨーロッパの国家における(1)ドイツの社会医学、(2)フランスの社会医学、(3)イギリスの社会 医学が、それぞれ対応することになる]。
-------------p.281-------------
2.国家医学(英訳ではState medicine)
■18世紀初頭のドイツ
・フーコーのアイディアは、K・マルクスの「経済はイギリス、政治はフランス、哲学はドイツ」という国家と社会現象の類別化の発想をなぞら える。
■ドイツにおける国家学(Staatswissenshaft)の2つの側面
(1)国家を対象とする知
(2)「国家の機能を保証してくれるような知識を国家が生産し、蓄積するためのさまざまな方法」(p.281)。
-------------p.282-------------
・ドイツが国家学を生んだことについて考えられる理由:統一国家になるのが他のヨーロッパに対して遅れた(19世紀)から。つまり英仏にく らべて警察や軍隊などの国家機構の整備が遅れていたから。また18世紀のドイツ経済は停滞していたから。
■ドイツ=最初の近代国家
・「近代国家は、政治権力も経済発展もなかったところに生まれました。まさしくそういった否定的な理由ゆえに、経済的にはそれほど発展して いない、そして 政治的にはより不安定なプロシアが、ヨーロッパの中央部で誕生した最初の近代国家だったのです」(p.282)。
-------------p.283-------------
■重商主義は「国民の健康」について気遣う
・「16世紀末から17世紀初頭にかけて、重商主義の支配する時代に特徴的な政治的、経済的、そして科学的な風土のなかで、ヨーロッパのあ らゆる国が国民 の健康に気を配りました。重商主義は単なる経済理論ではなく、国際的な通貨の流通、それに呼応する商品の流れ、そして国民の生産活動を調整しようとする政 治的な実践でもあります。重商主義政策は根本的に、生産と人口の増加にもとづいています」(p.283)。
・国民の労働力を測定:フランス、イギリス、オーストリア
・出生率と死亡率の統計:フランス、(イギリス)
・人口調査(17世紀以降):イギリス
・「フランスでもイギリスでも当時、国家にとって唯一の保健衛生上の関心は、国民の健康と人口の増加を示す指標である出生率と死亡率の表を作成することだ けであり、健康のレベルを高めるために介入することはありませんでした」(p.283)。
■医療警察(邦訳は「医療行政」)Medizinischepolizei
・(ヨハン・ペーター)フランクとダニエルが1750年と1770年に、公衆衛生改善のプログラムを提案する。「医療警察」の用語は、1764年に登場する。
-------------p.284-------------
■医療警察 Medizinischepolizei の4つの構成要素:19世紀初めのプロシアのシステム
(1)「出生率や死亡率の表よりもずっと網羅的な罹患率の観察システム」(p.283)で、都市や地方の医者からの情報と、風土病と伝染病 を国家レベルで 記録した。
(2)医学の実践と知の規範化:医師の資格を「大学と同業組合」から国家にゆだねられるようになる(大学と同業者組合からみれば簒奪される)。また、医学 の規範化の背景には、フランスおける大砲と銃の規範化が行われていた。フランスでは、さらに教師の規範化が進み、師範学校が創設される(1775年創設、 1790-91年に制度化される)。
(3)医師の活動を監視するための行政組織
(4)政府により任命された医学官僚:地方行政の担当者
-------------p.285-----------
■国家医学の成り立ち=特徴(p.285)[先の(1)から(4)に対応]
(a)国家による医学の知の編成、(b)医師職の規範化、(c)一般行政への医師の従属、(d)国家医学への医師の取り組み。
■国家医学は〈労働力形成〉への関心を持たなかった
「健康に配慮するこの公的行政にとって関心があったのは労働力の身体ではなく、集合することによって国家を形成する諸個人の身体」であった (p.285)。
・ドイツでは近代国家に成立において、近代医学の官僚化・集団化(=国家医学)がおこなわれた。それは「19世紀の偉大な臨床医学が成立す る直前」であった。
-------------p.286-------------
・G・ローゼン(1958):George Rosen. 1958. A History of Public Health. New York: M.D. Publications.
3.都市医学
・18世紀末のフランスは(ドイツと状況は異なり)都市化に基づいた社会医学が出現する。その理由:「1750年から1780年にかけての フランスの大都市は、異質な諸地域と、敵対する諸権力の雑然とした集合」(p.286)であった。
-------------p.287-------------
■都市住民の身体の制御という課題(p.287)
・「18世紀の後半に、都市権力の統一化という問題が出てきます。この時代、少なくとも大都市では、整合的かつ同質的なやり方で都市を統一 し、都市住民の 身体を編成し、統一的でしっかり規制された権力によって身体を統制すべきだという、と感じられるようになったのです」(p.286)[フーコーは、統治の タイプと身体の制御のタイプに、何からの相同現象をみているのか?]。
・その理由は:(1)経済的理由、(2)政治的理由。前者は産業流通における合理的な制御に由来するものである。後者は、都市における(将来——19世紀 ——プロレタリアートとなる)危険な貧民がおこす「生存のための反乱」を制御するという必要性が生じてきたため。
■治安の不安は、農村から都市へ移行する(p.287)
-------------p.288-------------
・都市に対する不安の増大と、識者(例:18世紀末のカバニス)による指摘。つまり、都市は病気の温床である。
・都市への恐怖は、もっととも典型的には〈墓地〉(例:パリのイノサン墓地)の衛生不安に現れる。
・これに対抗する唯一の手段は〈隔離〉だった。そして、隔離をとおして、都市における〈緊急政策〉の手法が洗練されてゆく。
-------------p.289-------------
■都市における〈緊急政策〉の5つの措置
(1)動かないこと:地区・家庭・家・部屋の中に留まる
(2)地区の責任者とその管理:全体監視システム
(3)地区の報告書の提出義務:情報集中システム
(4)検査官の定期的(日々の)検査と記録作成:生存者と死亡者数の網羅的な調査
(5)香料を用いた消毒[当時は殺菌の概念がなかったため——引用者]
■ハンセン病(中世)からペストへ
・中世におけるハンセン病者の都市からの排除。医学の性格は〈排除の医学〉であり、これが17世紀初頭まで続く。〈排除〉の発想は、宗教的
な浄化の概念と
変わらない。
-------------p.290-------------
・ペスト対策の医学システムは、〈隔離〉であり、患者を、細分化された空間に閉じこめ詳細に観察した。(ハンセン病の排除の〈宗教〉的図式と異なり)ペス
ト対策は、絶えず記録をとり、都市を綿密に分析した、いわば〈軍事〉的モデルに相当する対処の方法である。[それは、徴兵検査とアナロジーの関係にあ
る]。
■公衆衛生は隔離が洗練されたものだ
・「都市医学、その監視方法や入院方法などは、中世末期、そして16、17世紀に現れた隔離という政治的・医学的な図式を、18世紀後半に 改良したものに ほかなりません。公衆衛生とは、隔離の洗練されたかたちでした。18世紀後半に出現し、とりわけフランスで発達した偉大な都市医学は、この時から始まった のです」(p.290)。
■都市医学の目的
(1)都市の廃棄物の排出ルートをたどり、それを調べること。
-------------p.291-------------
(2)水と大気の流通の管理(pp.291-2)
[当時の公衆衛生がミアスマ説をとっていたことを予備知識として知らないと混乱するはずだ——引用者]。これはのちに都市計画の発想を生むことになる。
[のちの19世紀の植民地都市建設計画に連なる発想の系譜である]
-------------p.292-------------
(3)都市の共同生活に必要な分配と手順の編成(その例:パリの水路図[1742年]、地下の所有権)
・これらは革命の前からすでに準備実施されていた。「1789年にフランス革命が勃発したとき、パリの町は都市医療行政によってすでに詳しく分析され、そ
の都市医療行政が、パリの真の衛生学的組織を実現するためさまざまな行動指針を定めていたのです」(pp.292-3)。
-------------p.293-------------
■18世紀における医療化が重要な理由
(1)都市社会医学が、医学と化学の関連づけを深めた(「都市化をつうじて、医療が物理化学のコーパスの中に取り入れられました」 p.293)。
-------------p.294------------
(2)医療が「生存環境のなかの生活条件にかんする」ものとなった。後の環境医学のもとになる医学の質的な転換の糸口となった。
(3)「健康適性」(notion of salubility)という概念の誕生。これはフランス革命の直前に生まれ、革命後の1790-91年の憲法制定議会における、県と主要都市における保 健委員会の創設につながる。
・「健康適性と健康不適性は、健康に影響するかぎりでの物と環境状態を指し示しています。公衆衛生は、この環境を政治的・科学的に管理することにほかなり
ません。/健康適性という概念はフランス革命の初期に生まれました。公衆衛生という概念のほうは、19世紀フランスで社会医学の主要な部分を糾合する概念
になっていきます。この時代のもっとも重要な医学雑誌のひとつで、1892年に創刊された「公衆衛生・法医学年報」は、こうしてフランス社会医学のスポー
クスマンとなります(pp.294-5)。
-------------p.295------------
4.労働力の医学
・18世紀には貧困者の割合が少数で社会問題化されにくかった。都市住民のおける貧困層は、都市の公共サービスが提供される以前、そのイン フォーマルな部分に従事していた。
・この節の全体の要約:「18世紀ドイツの国家医療と異なり、貧困階級がより労働に適し、富裕階級にとってより安全になるように、貧困階級の健康と身体を 管理するのが主たる目的であるような医学が、19世紀に、とりわけイギリスで生まれた、と」(p.299)。
-------------p.296------------
■19世紀半ばより貧困が脅威=問題となる:その理由
(1)政治的理由:貧困者が政治的変革の勢力になる
(2)下層民のインフォーマルな活動が、都市の公共サービス(郵便、水の運搬、塵の除去など)に置き換わり、これが貧困民の騒擾の原因になる。
(3)都市コレラ(例:1832年のパリ・コレラ)の蔓延による、プロレタリア・貧民層に対する衛生学的恐怖。[→これはヨーロッパ全土での猖獗、さらに は第三世界へ広がる]。
・貧困層に対する政治的介入がもたらしたもの:都市空間の分離(スラムの人為的形成と、後にスラムに対する介入)、私的財産権・私的居住権に関する法的な 整備——不法居留民の排除の法的根拠の確立。その例:第二帝政期のパリの市街地の再開発。
-------------p.297------------
・プロレタリアに介入する医療はイギリスで始まるが、国家医学(ca.1840
チャドウィックの衛生改革計画)や都市医学(ラムゼー『都市住民の健康と病』1846※)の要素もみられる。
※:Rumsay. Health and Sickness of Town Populations. London: William
Ridgway.(書誌情報不詳)
■労働力の医学の確立要因としての貧民救済法
・「イギリスの医学は社会医学になっているのは、主として「貧民救済法」のおかげです」(p.297)。
・貧民を医学管理する根拠:扶助制度の恩恵、税金投入における扶助と医学による介入。つまり、貧者を守り、健康を維持することは、富者の保護に繋がるシス テムの確立である。そこから、(貧民の)政治的安全さと、公的資金の投入のバランスが議論されるようになる。[池田コメント:貧民に「健康への希求」が自 然なものとされる以前に、旧・救貧法により懲罰を含む強制的なイデオロギー注入があったのは、救貧法の性格からも想像できる]。
【復習】
◎英国の救貧法(1538,1601)の起源
「ヘンリー8世の1538年法(Poor
Law—引用者)は、浮浪と乞食の禁止を主たる目的とするものではあったが、無能力貧民の存在を認め、治安判事による乞食の許可を定める形で貧民救済に着
手した。同法は、一般に、もっとも初期の救貧法とされている。……労働の意志をもつ者、老人、無能力者などを労働意欲のない者とは区別し、彼らへの保護を
拡大するとともに、救貧財源を救貧税(poor
rate)によってまかなう方式が一般化していく。このような方向を集大成したのが1601年のエリザベス救貧法である。同法は、貧民・貧困児童の就業、
労働不能者・老人・盲人などの救済を教区の責任で行うことを規定した。同時に、労働意欲のない貧民の懲治監(House
of Correction)、監獄への収容を定め、従来の抑圧政策の継続も確認した」(横山寿一「救貧法」,小学館『スーパーニッポニカ2003』)。
◎英国救貧法略史
1538 ヘンリー8世の1538年法(Poor Law)
1601 エリザベス救貧法
1722 ワークハウス(workhouse)テスト法
1782 ギルバート法:賃金補助・雇用斡旋のSpeenhamland System
1834 新救貧法:ワークハウステストの制度化、院外救済の禁止
1948 国民扶助法(救貧法の実質上の発展解消)
(横山寿一「救貧法」より, op. sit)
-------------p.298------------
■公共医療サービスと保健所の設置(ca.1875)
・「ジョン・サイモンを代表とするこの創設者(=英国の社会医学の—引用者)たちは、住民の治療ではなく健康診断を実施する権威主義的な公 共機関によっ て、医療法制を補いました。それは1875年にイギリスで創設された公共医療サーヴィスと保健所の制度で、19世紀末期にはその数が千にも達したと見積も られています」(p.298)。[コメント:その頃、英領植民地のインドでは?]。
■保健所の3つの役割
(1)予防接種
(2)伝染病等の病気の記録の制度化と「危険な病気」の申告(具体的には何?)
(3)不衛生な場所の特定と、不衛生の温床の破壊
■公共医療サービスの特徴
・最大の特徴は、救貧法が貧民を対象としているのに対して、公共医療サービスの対象はすべての住民であり、医師は個人ではなく住民全体に関 わる治療を施す ようになった。(真の?社会医学の誕生:フーコーのニュアンスは確かにそうだ)
・ただし、公共医療サービスの社会的「機能」は救貧法と変わっていない、とフーコーは指摘する。つまり、「困窮した社会階級を監視することが目的だった」 (p.298)。その傍証として、保健所による医学管理に対して住民が抵抗したり、小さな暴動を引き起こした(マクロードの論文による指摘※)。
※R.M. MacLeod, 1967. Law, Medicine and Public Opinion: The resistance to compulsory health legislation, 1870-1907. Public Law, 2:107-128, 3:189. (詳しい書誌は、p.299)[熊本大学法学部図書室所蔵]
-------------p.299------------
■分離派プロテスタントの派生の反医療化説
・「プロテスタントのアングロ=サクソン諸国にたくさんある分離派の宗教グループのおもな目的は、17世紀、18世紀においては国家宗教 と、国家の宗教へ の干渉に抵抗することだったのです。それに対して、19世紀にあらためて出現した宗教グループの目的は医療化と闘うことであり、生きる権利を要求し、みず からの欲求にしたがって病気になり、養生し、死ぬ権利を要求することでした。権威主義的な医療化から逃れたいという気持ちは、19世紀末にきわめて活発 で、現在でもそうであるような、おそらくは宗教的で多様なグループの特徴のひとつでした」(p.299)。[フーコーはこの後続けて、カトリックでは事情 が異なり、ルルドに代表されるように、宗派内の活動の範囲での〈反医療化〉へ漠然と節合していったことを示唆している]。
■反医療化の兆候の解釈
・「こういった宗教的実践のうちに、旧弊な信仰の現代的な残滓をみるのではなく、むしろそこに、政治的に権威主義的な医療化や、医学の国家管理や、おもに
貧しい人々に重くのしかかる医療管理などに対する政治闘争の、現代的なかたちを認めるべきではないでしょうか」(p.299)。
-------------p.300------------
■イギリス社会医学の歴史的帰結
・「(ジョン・)サイモンとその継承者たちが樹立したイギリスの制度は、一方で貧しい人々への医療扶助、労働力の健康管理、公衆衛生面での 全体調査という 三つのものを確立させ、それをつうじて富裕な階級をもっとも大きな危険から守ることになりました。また他方で——それがイギリスの制度の独自性なのですが ——、相互に付加され共存している三つの医療システムを実現させました。すなわち(a)もっとも貧しい人々のための扶助医学、(b)予防接種や伝染病など 一般的問題に対処する行政医学、そして(c)それを利用できる人々が恩恵をこうむる私的な医学です。/ドイツの国家医学システムは高くつき、フランスの都 市医学は明瞭な権力装置を欠いた一般的な管理計画にすぎませんでした。それに対してイギリスの制度は、扶助医学、行政医学、あるいは私的な医学が問題にな るに応じて、さまざまな側面や権力形態をそなえた医学の確立を可能にしました。そしてまた19世紀末期と20世紀前半に、かなり完璧な医学調査をもたらし てくれるような、はっきり限定された部局の創設も可能にしました」(p.300)。
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文献
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