ポスト帝国医療:沖縄の公衆衛生看護婦を中心に
Post-imperial Medicine, the Rykukyuan Public health nurses in 1950s
1.Made in Occupied Japan
連合 軍占領下に造られた日本製品には"Made in Occupied Japan"が刻印されていた。日本の「戦後」の歴史的位置づけをめぐる議論とは、この空間的イメージをめぐる「日本 人」のアイデンティティ・ポリティクス、あるいはジェンダー・ポリティクスそのものではなかったか?
その ような視点を沖縄に移してみよう。沖縄は誰によってOccupyされたのか?
琉球 は、「琉球処分」(1879,明治12年※)以来、日本国の領土の一部であり続け た。他方、1945年6月下旬の沖縄本島のアメリカ軍の軍事的制圧は沖縄県を、米軍政府の司令官ないしは高等弁務官(high commissioner)による統治におき、その行政組織を、沖縄諮詢会(しじゅんかい)、沖縄民政府、沖縄群島政府、(沖縄臨時中央政府)、琉球政府 へとした。アメリカ政府は1952年、もとの鹿児島県に帰属していた奄美群島を日本に返還したのち、1972年5月に沖縄を最終的に日本政府に「返還」す るにいたった。
※琉 球処分は、台湾における宮古島民遭難事件(1871年11月)という日本国の外交問 題に端を発し、宮古・八重山の帰属を日本国のものとして位置づけると同時に、廃藩置県の一環として琉球を沖縄県として実質的に日本領土化したものであると 沖縄の歴史家たち(金城正篤、高良倉吉)は指摘する。
この 歴史的経緯に対する「琉球人」のアイデンティティ・ポリティクス問題が存在すると すれば、それは1972年当時、沖縄返還問題において日本政府の沖縄政策を批判する際に、現地においては日本への沖縄の「返還」が「第二の琉球処分」と表 現されたことに典型的にあらわれる。この議論は返還後30数年後の今日においても続いているのは米軍基地問題を例をあげるまでもないだろう。
沖縄 を帝国の植民地として位置づけて見るときに、それは古代ローマ帝国、近代の大英帝 国、あるいはグローバル化した現在のアメリカ合州国などをモデルとする「帝国研究」の視座がそれほど有効性を発揮しないことがわかるだろう。あるいは、世 に数多ある植民地とは、無数の沖縄のような歴史的経験を積んだものなのかもしれない。
とい うことは世に数多ある植民地の経験を思い起こすためにも、また紋切り型の帝国医療の モデルを再生産しないためにも、無数の沖縄の帝国医療の研究が必要になるだろう。
したがって私がここで言う「ポスト帝国医療」とは、 日本帝国の統治が終わった後の医療と いう歴史時間におけるポストの意味よりも、帝国医療研究のイメージ造りができあがった後に出てくるそこから逸脱する医療のモデルという研究過程の手続きに おいて後に表面化するという意味でのポストをさしていることになる。
2. 1950年代の琉球
・1950年12月:中部保健所(コザ保健所)設置
・1951年1月:北部保健所(名護保健所)、6月:南部保健所(那覇保健所)、同年:八重山、宮古、奄美保健所が設置される。
・1951年7月:各保健所に公衆衛生看護婦(「公看」)が配置され、彼女たちの地区駐在制度が開始される。
・1951
年:米国NRC(National Research Council)の太平洋学術調査団の派遣(Pasquera, Gilberto s.:
The Program in Tuberculosis Control Among the Ryukyuans. Division of
Medical Sciences, NRC, 1953)
パスケラは沖縄に1年半滞在し、群島内に高率の結核病患者を報告し、その患者数を
6000人と推定し、結核の総合対策を立案する。彼は実際に、米軍兵舎などを150床と50床の結核療養所をつくった。
パスケラの報告によりNRCの医療委員会・結核小委員会(Subcommittee on Tuberculosis, the Committee
on Medicine and Surgery)は沖縄における結核対策事業に乗り出すことを決定する。
・1954年10月:琉球政府は結核予防対策暫定要綱を公布(日本政府の結核予防法は昭和26年=1951)。
・1955年7月:日本結核予防会保生園(東村山市)より医師2名が派遣されコザ病院で肺外科手術が開始される。
・1956年:琉球政府・結核予防法(立法第85号)の制定=暫定要綱の廃止、結核の公費負担の開始
リンク
文献