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A Nahua man from the Florentine Codex, a 16th century ethnography. The speech scrolls indicate speech or song. (Photo from Wikimedia.)
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1750 デ・ブロス『物神崇拝論』
1751-1772 『百科全書』
1754 ルソー『人間不平等起源論』
1772 ウィルバーフォース(William Wilberforce, 1759-1833)、英国議会で「イギリスに上陸するすべての奴隷は自由である」旨の演説。
1776 イエズス会が南インド宣教から解任され、パリ外国宣教会(Missions
Étrangères de Paris, MEP)が引き継ぐ
1785 フランス、セネガル・ゴム会社に特許授与。
1788 アフリカ協会設立(英国)
1794 フランス国民公会、グレゴワール神父提案の仏領植民地の奴隷制 を廃止を採択。コンドルセ『人間精神進歩史』
1799 パーク『アフリカ内陸旅行記』。人類観察協会創設(仏国)
ジョ ルジュ・キュヴィエ(Baron Georges Léopold Chrétien Frédéric Dagobert Cuvier, 1769-1932)『さまざな人種の解剖学的相違に関する調査のための注意書』にて、スケッチにおいては、髪の毛や装身具の影響をすくなく描き、できる かぎり死体の骨格を入手するように指摘している。(山中浩司「人 間の科学」論文『科学思想の系譜学』ミネルヴァ書房、1994年所収、を参照)
ド・ジェランド『野蛮人の考察』
1802 ゴルベリー『アフリカ旅行記』
1806 ウィルバーフォース、英国議会に奴隷貿易廃止法案の採決を促 す。
1807 英国奴隷交易の廃止。
1812 Franz Joseph GallとJohann Gaspar Spurzheimは、Anatomie et physiologie du système nerveuxを発刊する。骨相学(Phrenology)研究のパイオニアにな る。
1824 エディンバラ骨相学協会のローバト・エリスとウィリアム・グレ
イは「クラニオメーター」の器具の使用を提案する。
1832
平村ペンリウク(〜1903)が生まれる。
1833
英国奴隷解放令。英領植民地での奴隷性の廃止。
1838 英国先住民保護協会の分派として、ロンドン民族学会が設立。
1839
Samuel George Morton, Crania Americana; or, A Comparative View of the Skulls of Various Aboriginal Nations of North and South America: To which is Prefixed An Essay on the Varieties of the Human Species. Philadelphia: J. Dobson, 1839.
フランス民族学会がパリで創設。
1840 『ビー グル号航海記』
1842 アメリカ民族学会創設。
1843 ロンドン民族学協会
1847 パリ民族学会、奴隷問題の評価をめぐって紛糾し事実上分解 (→1859年のブローカを参照)。
1848 仏領植民地で復活していた奴隷制を再度廃止。
1853-1856 リヴィングストンのアフリカ内陸旅行。
1854 7月11日(咸豊4年6月17日)琉米修好条約(亜米利加合衆国琉球王国政府トノ定約)
1854-1859 バルトのアフリカ内陸旅行。1854-1865
フェデルブは、セネガルの仏領植民地化を推進。
1855 カラフトアイヌ、バフンケ(木村愛吉, 1855-1919)樺太
東海岸のアイで出生。
1856 デュセルドルフ(ドイツ)近郊でネアンデルタール人骨が 「化石」かどうかに関する論争
1859(安 政6)
ワシントン(アメリカ合衆国)で人類学協会設立。
ダーウィ
ン
『種の起源』(On the origin of species : by means of
natural selection, or the
preservation of favoured races in the struggle for life)
ブローカ(Pierre Paul Broca, 1824-1880)を中心にパリ人類学会( l'École d'Anthropologie de Paris)[世界最初の人類学会と言われる]が創設
「1859年、彼はパリ人類学会を創設した。彼は
1862年以降この学会の書記の任に就いた。さらに彼は、1872年には"Revue
d'anthropologie"を創刊して1876年には人類学学校を創設した。教会はフランスにおける人類学の発展に反対し、1876年には
人類学学校(l'École
d'anthropologie de Paris)における教授をやめさせようというキャンペーンを行った」Memoir of Paul
Broca”. The Journal of the Anthropological Institute of Great Britain
and Ireland 10: 242–261. (1881). JSTOR 2841526;Dr. Paul Broca”. Science
1 (8): 93. (August 21, 1880). doi:10.1126/science.os-1.9.93 https://goo.gl/rO9PxY
Bulletins de la
Société d’anthropologie de Paris, Mémoires d’anthropologie ->
るBulletins et Mémoires de la Société d’anthropologie de Parisに
Broca est aussi un
pionnier en anthropologie physique. Il fonde la Société d’Anthropologie
de Paris en 1859, la Revue d'anthropologie en 1872 et l'École
d'anthropologie de Paris en 1876. Il fait avancer l'anthropométrie
craniale en développant de nouveaux instruments de mesure et de
nouveaux indices numériques. https://fr.wikipedia.org/wiki/Paul_Broca
1861 フランス、植民地特恵条約を廃止。メイン『古代法』
1863
ロンドンで人類学協会(Anthropological Society of London)設立:"The Anthropological Society of London was founded in 1863 by Richard Francis Burton and Dr. James Hunt. It broke away from the existing Ethnological Society of London, founded in 1843, and defined itself in opposition to the older society. The Anthropological Society, Hunt proclaimed, would concern itself with the collection of facts and the identification of natural laws that explained the diversity of humankind. It would also cast its intellectual nets more broadly, dealing with the physical as well as the cultural aspects of humans."
1865 マドリードで人類学協会設立。英国人アイヌ墳墓発掘事件(蝦夷地)(植木 2017:6-22)
1866 モスクワで人類学協会設立
1867 G.
Busk, ロンドン民族学会誌にアイヌ人骨に関する論文発表(植木 2017:24,268)
1868(明治元)
南西フランス・ドルドーニュ地方レゼジークロマニョン洞窟 におけるクロマニオン(クロマニョン=Cro -Magnon)人の「発見」
1869 (1870?)
ベルリン
で人類学・民族学・歴史学協会(Berliner
Gesellschaft für Anthropologie, Ethnologie und Urgeschichte)が結成。モーガン
『人類家族の血族と姻族の諸体系』
開拓使を設置、北海道と命名。場所請 負制度を 廃止。
1870 小金
井良精(こがねい・よしきよ)大学南校に入学(72年第一大学区医学
校を経て1880年に東京医学校を卒業)。
1871
ダー ウィン『人間の由来と、性的関連における淘汰』The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex, 1871。開拓使庁を開設。アイヌの平民化と和人式姓名を強要し、旧土人と公文書で指示。アイヌ習俗の禁止(→「アイヌ・コロニアリズム」)。アイヌへの歓農政策はじまる。
鳥居龍蔵(1870 -1953)、徳島市東船場町でうまれる。
タイ ラー『原始文化』
1871
Tylor,E.B.,"Primitive culture(1871)",Harper & Row,1958。英国人類学協会(→1907年に王立人類学協会に発展)
11月 宮古島 島民遭難事件が発生。鎮西鎮台設置(1873年に熊本鎮台に改称)。
10月8日付、開拓使「土人ヘ告論書写」を発行し、その一項に「自今出生ノ女子入墨等堅ク可 禁事」とある。
王立人 類学研究所(Anthropological Institute of Great Britain and Ireland→RAI) 創設。
1872
9月 日本、文部省博物局が設置。
ダーウィン『種の起源』第6版(最後の版)。
鹿
児島県参事大山綱良(1825-1877)らの台湾征伐論が台頭、自ら「征
伐」を宣言(→琉球処分に派生する植民地領有覇権思想のはじまり)
(明治5)地所規制・北海道土地売貸規
則。北海道の土地の私有制度の導入。ただし、アイヌが申請に必要な戸籍の制度が整備される1876(明治9)年までは法的にアイヌが土地所有するチャンス
は阻まれていた。またアイヌに識字者がほとんどおらず、実質的にアイヌは土地所有のチャンスから
完全に排除されていた。
Darwin,C.R.,1872, "On the expression of the emotion in man and animals",濱中濱太郎訳)「人及び動物の表情について」、岩波文庫、1931
1873
征韓論争がおこり、李氏朝鮮(-1897)への派兵論争が日本国内でおこる。しかし遣韓は中 止になり、征韓派は下野する(明治六年政変)。
鎮西鎮台は熊本鎮台に 改称、1883年に第六師団になるまで続く。
3月太政官は正院博覧会事務局に文部省博物局・博物館を合併。
Wilhelm
Dönitz来日、東京医学校で解剖学を教える(1886年帰国)。
1874 台湾出兵
「1871年(明治7年)11月、台湾に漂着した69名[3名の溺死者を含む]の宮古島島民 のうち山中を彷徨う54人が[先住民パイワン族と誤認され]殺害される事件(宮古島 島民遭難事件)が発生した。生存者は翌年6月那覇に帰着。この事件に対して、清政府が「台湾人は化外の民で清政府の責任範囲でない事件(清政府が 実効支配してない管轄地域外での事 件)」としたことが責任回避であるとして、犯罪捜査などを名目に軍を1874年5月(明治政府は初めて海外に)派兵・侵攻した」→ 「宮古島 島民遭難事件」「台湾出兵」)
撮影者不明、靖国神社蔵(先住民兵士も見える)1874年(→ 「宮古島 島民遭難事件」)
スタン
リーのアフリカ横断(1874-1877)
1875
3月博覧会事務局は内務省に移設、博物館と改称され、同年5月に第六局となる。
ブローカ、パリに人類学研究所を設置。日本政府、内務官僚松田道之を処
分官として琉球に派遣し,中国との関係を廃絶することを要求する。
(明 治8) 樺太千島交換条約:樺太(サハ リン)アイヌ、占守島(しゅむしゅとう)等の北千島の千島アイヌは、北海道本島や色丹島に移住を余儀なくされる。樺太アイヌ841名が日本国籍を取得後 に、対雁(ついしかり、現在の江別市)に移住したが、コレラ、天然痘で多数死亡。1950年代、最後の千島アイヌの死亡の報告。
H・
H・バンクロフト(Hubert
Howe Bancroft, 1832-1918)『北米太平洋沿岸州の土着民』の公刊。
1876
フランスで民族学、先史学、言語学などをカリキュラムに含む人類学校。アイヌ戸籍制度。魚場持の廃止。
ブラッセ
ル会議
エルヴィン・フォン・
エルツ来日。東京医学校で教鞭とる。
エドワード・ モース(Edward Sylvester Morse, 1838-1925)による大森貝塚の発見。「(Nature, 1877年12月19日号に、同年9月21日付として自身の大森貝塚発見の記事を投稿。Heinrich von Siebold, 1852-1908が、同誌に1878年1月31日号に寄稿し発見の先行を主張し、モースの激怒を買う」( ref. 吉岡 1987) 。
Morgan,L.H.,"Ancient society or researches in the lines of human progress from savave through barbarism to civilization",1877,(青山道夫訳)「古代社会」、岩波文庫、1958
(明治10)北海道地券発行条例:「アイ ヌの人々の居住地は官有地に編入して権利を留保し、地租を課さず、アイヌの人々との地域の状況に応じて所有権を与える」とされた(『報告書』2009: 13)。
※ルイス・ヘンリー・モーガン『古代社会』
京浜東北線・大森駅(東京都大田区)構内にある「日本考古学発 祥地」のモニュメント:2012年7月 14日撮影
1878
イザベラ・バード(Isabella Bird, 1831-1904)、アイヌコタンを訪問。
モース、小石川植物園を発掘。進化論を紹介する。
小シーボルト(Heinrich von
Siebold, 1952-1908)日本石器時代人を論じる。
1879
小シーボルト『考古説略』
エドワード・モース『理科会粹第一帙 大森貝墟古物編』(Shell Mounds of Omori)東京大學法理文学部[近藤義 郎・佐原真訳 『大森貝塚』 岩波文庫]
バチェラー、アイヌ伝道開始。3月政府は琉球藩を廃止し、沖縄県を設置する通告と 実施を実行する(いわゆる琉球処分の完了)。
1879-1896年頃(撮影者不明);写 真(『琉球新報』2014年7月11日記事より)は琉球処分のときに空け渡された首里城に駐屯した熊本鎮台沖縄分遣隊の可能性。また「首里 城正殿前の龍柱」破損事件は、上 間常道氏情報を参照(→「沖 縄大百科事典」)。
1881
Edward Burnett Tylor, Anthropology
an introduction to the study of man and civilization. London:
Macmillan and Co. 1881.
1882
北海道、札幌・根室・函館の三県一局時代(1882-1883)アイヌに対する勧農政策期。
1883 (明治16)
The bear-worshippers of Yezo and the Island of Karafuto (Saghalin), or, The adventures of the Jewett family and their friend Oto Nambo / by Edward Greey ; one hundred and eighty illustrations by Rinzo and by Ichiske Hamada, Boston : Lee & Shepard , 1883.
根室県「旧土人救済方法」に より歓農政策
エヴェラード・フェルデナンド・イム・サーン 『ギアナのインディアンのあいだで暮らして――英領ギアナ奥地に関する主として人類学的なスケッチ』ロンドン
フランシス・ゴルトン(Francis Galton, 1822-1911)「優生学」を提唱。(→「チャールズ・ダーウィン」「優生学の現代」)
1884 明治17
坪井正五郎(1863-1913)、東京大学理学部生物学科に入学し、「じんるいがくの とも」研究会を組織する(寺田 1975:31)。(それ以降、この会の名称は、〈人類学研究会〉→〈人類学会〉→〈東京人類学会〉と変遷:1886年の項を参照)以降、東京人類学会は1984年をもって創設の年と定めている(→1934年4月「東京人類学会創立五十年記念講演会」開 催)
高橋義雄『日本人種改造論』(西洋人との雑婚を説く)
Bronislaw Kasper Malinowski(-1942)生まれる
1884 ベルリン会議
1885(明治18)
札幌県「旧土人救済方法」に より歓農政策
6月20日 - 小金井良精が帰国
内閣制度の整備。伊藤博文初代総理就任。
1886 明治19
2月坪井『人類学会報 告』の第1号刊行し、会を「東京人類学会」と改称する。
(東京人類学会はのち[1935]に、この時を 『人類学雑誌』の創刊期としている)。同年(1886)6月には『東京人類学報告』と巻名が変わる。翌年すなわち1887年8月神田孝平・初代会長のもと で、この雑誌は『東京人類学雑誌』とされて、このタイトルは1910年の『人類学雑誌』への改称期まで続く。
3月内閣制施行に伴い農商務省博物局は廃され、宮内省図書寮付属博物館に移管(→出 典)。
この年に白井光太郎、はじめて「縄紋土器」という言葉を使う
3月帝国大学令(明治19年3月1日勅令第3号)公布。
藤井乾助「穢多は他国人なる可し」『東京人類学雑誌』10号(→金子「エッタハ越人ニシ テ・・」『東人雑誌』13号)
廃県置庁(北海道土地払下
規則)により北海道庁設置。
1887
3月札幌農学校で植民学講義(「農
政学及殖民学」)の開設。
松岡国男(後の柳田国男)12歳。茨城県北相馬郡布川待ちで開業していた兄・鼎 (かなえ)に預けられる。特満寺の地蔵堂絵馬「間引き絵馬」 に驚愕する。
神田孝平が東京人類学会初代会長に就任(〜1885)。白井光太郎との間にコロボックル論 争。『東京人類学雑誌』と改名。
田代安定は東大の命により、琉球を調査。小金井良精が、東京人類学会に入会12月「朝鮮人の頭骨」を講演する。
1888 明治21
2月小金井は東京医学会例会「アイノ人頭骨の毀傷痕」講演(→『人
類学研究(正・続)』)。
4月、志賀重昴(しげたか)、三宅雪嶺、杉浦重剛、井上円了らと政教社をつくり雑
誌『日本人』を創刊[→関連頁]
7月8日〜9月3日小金井良精、アイヌ人墳墓の発掘による人骨収集旅行[→詳報、シサム通信
2000年7月よりの資料]
これは同年7月8 日〜9月3日の調査紀行で、アイヌ人墳墓の学術的「盗掘」記録の傍証となる(小金井良精「アイノの人類学的調査の思ひ出」『ドルメン』1935); 植木哲也『学問の暴力』春風社、2008年(→2011 年の資料) 「1888年坪井正五郎と、その翌1889年の夏には[二番目の]妻・小金井喜美子[1871-1956;森林太郎[1862-1922]の妹]と、北海道でアイヌの墓地から166の 頭骨と副葬品を持ち去」る(→ウィキペディア「小金井良精(1859-1944)」)
小金井良精(1859-1944):写真は晩年のもの。
フランツ・ボアズ、合衆国で就
職。同年American Anthropologist 創刊される。
1889 明治22
小金井良精、平取においてイムの記載(『人類学研究』)。「アイノの⾐食住及び運命に就て」 『⼤⽇本私⽴衛生会雑誌』にて「一種の退廃人種」と表現。同年、石器時代人アイヌ説を唱える。坪井のコロボックル説と対立。
10月東京人類学会の事務が哲学書院に移行。
後藤新平『国家衛生原理』
大日本帝国憲法発布
1889-92
坪井、イギリス・フランスに留学
1890
アイヌにたいする歓
農政策(1882-1885)の廃止。
1891
坪井正五郎、トッコニバッコを人類学講義のなかで言及。坪井はこの年、万国東洋学会にて、日 本の横穴について発表。
12月田中正造、足尾鉱山の鉱毒について帝国議会第二議会本会議で質問。
佐藤昌介、札幌農学校にて「殖民史講義」を講じる。
この年、ウジェーヌ・デュボワ(Eugène Dubois, 1858-1940)がオランダ領であったインドネシアジャワ島トリニールでピテカントロプス(ジャワ原人; Java Man)頭骨発見。
1892 明治 25
坪井が帰朝、理科大学教授(現・東大理学部)。バチェラー札幌に転居し、ア イヌ施療病室をつくる。関場不 二彦が診療に参加。
橋口文蔵(1853-1903)のアイヌ共有財産を別会社の株券に替えた売却スキャンダ ルに対する抗議の「アイヌ講演会」札幌、東京、大阪で開催。橋口文蔵は、前年1891年に北 海道庁第二部長ならびに札幌農学校校長ともに「非職(諭旨免職)」となる。同年、十勝アイヌの請願(井上 2015:172-176)。
1893 明治26
帝国大学に講座生の導入される。坪井、理科大学・人類 学講座初代教授。鳥居龍蔵(1870-1953)・標本整理係に就 職。12月に西ヶ原発掘。
初代解剖学教授・小金井良精(こがねい・よしきよ、1858-1944)日本解剖学会を 創設。小金井良精のアイヌ人種論。
Alone with the hairy Ainu : 3800 miles on a pack saddle in Yeso and a cruise to the Kurile Islands / A.H.Savage Landor, London : John Murray , 1893
加藤政之助「北海道土人保護法」を帝国議会で議員提案。 (→優勝劣敗の理勢に言及)
1894
7月23日日本軍朝鮮王宮武力占拠事件より日清戦争始まる。坪井正五郎の人類学研究室に標本 整理係として、鳥居龍蔵が入る。
1895 明治28
日本、台湾領有/日本に留学していた大朝鮮人留学生親睦会発足し『会報』に人類学の研究 の嚆矢の論文「事物変遷の研究に対する人類学的方法」を高羲駿が寄稿する(全京秀「韓国人類学の黎明」『韓国人類学の百年』風響社、48ページ、2004 年)。
下関条約で割譲された遼東半島(同年三国干渉により清国に返還)に鳥居龍蔵らが調査派遣され
る。析木城付近で「ドルメン(支石墓)」を発見。
橋口文蔵(1891年に札幌農学校校長ほかを非職[諭旨免職]された)台湾総督府初代殖 産部長に就任。台湾先住民居住区にて、樟脳専売に着手。
6月鳥居、遼東に調査旅行。坪井は人類学会会長になる(〜1913年)。札幌人類学会ができ
る。同年考古学会。
1896
関場不二彦『あいぬ醫事談』。1896 -99 明治29-32 鳥居龍三、台湾に初めての調査(〜1900年までに 4回の調査)(→伊能嘉矩を参照)
弥生式土器の名称が雑誌に掲載。集古会がうまれる。社会学会が、布川孫市らによって 設立。
台湾東部・花蓮県北部の秀林郷、卓渓郷に日本人の入植が始まるとタロコ族と日本人移民との間
で紛争が起こるようになった。タロコ族が日本軍と森林資源などを争った「新城事件」
が起こる。「新城事件は花蓮港駐屯中の日本兵が地元の台湾人有力者・李阿隆の義妹を強姦したことを発端に起こった事件で日本人20数名が殺害された」(出典)。
1897
大韓帝国成立。北海道国有地未開地処分法: 和人の土地所有がすすむ
Erwin von Bälz, 樺太アイヌ調査の為、北海道石狩を訪問
1898
八木奘三郎(そうざぶろう)『日本考古学』坪井正五郎校閲、小 林新兵衛。
この年、言語学会、社会学研究会(加藤弘之、元良勇次郎、高木正義、富尾木知佳、岡百世、武
井悌四郎)が設立。
1899
対雁アイヌ民族組合長・上野正(和人)『北海道毎日新聞』に保護法案を批判する談話を発
表(井上 2005:176-177)。
北海道旧土人保護 法の公布(→「日本における先住民[問題]」)。鳥 居龍三、千島・カムチャッカ調査
足立文太郎、ヨーロッパ留学。
1900
明治33 伊能『台 湾蕃人事情』、新渡戸稲造『武士道』
佐藤昌介「植民論」の講義ノートから、それまであった先住民(土地)問題を取り扱った言 及がなくなる(井上 2015:182)
松岡国男(翌年、柳田姓になる)東京帝大法科大学在学のまま農商務省に入省。
東京帝大医科大教授小金井良精が1900年にハンス・ウィルヒョウ(Hans Virchow, 1852-1940; ルドルフの子)ベルリン大教授に宛てて送った遺骨提供への礼状(毎日新聞)
小金井は、この年に、パリ人類学会と万国医事会議に出席。
1900 英国ナイジェリア支配を確立。
1901 明治34
臨時台湾旧慣調査会、先住民への調査(→『蕃族調査報告書』全8巻、1913- 1921、『蕃族慣習調査報告書』全8巻、1915-1922)
榊保三郎、室蘭と日高 でのアイヌの精神病的調査をおこな い、イムバッコについて記載(→クレペリン、オッペンハイムの教科書に、ラターと共に記載)
田中正造、足尾鉱毒事件につき天皇に直訴。
新渡戸稲造(1862 -1933)、札幌農学校教授を辞して予てより同郷の後藤新平(1857-1929) 招聘の依頼を受けていた台湾総督府の技師に任命される。その後、殖産局長心 得、臨時台湾糖務局長となり、児玉源太郎(1852-1906)総督[1898-1906]に「糖業改良意見書(1901)」を提出した。新渡戸は1903年には京都帝国大学法 科大学教授を兼任し、1906年に第一高等学校校長に。
最後の琉球王尚泰、元沖縄藩主の葬儀(1901)東京で亡くなり玉陵(たまうどぅん)に埋葬される『写真集沖縄 : 失なわれた文化財と風俗』那覇出版社、1984年
この年(1901)アシュレー・ハードリチカ「エスキモーの脳」の中で、ミニックの父、キスクの脳について匿名原則を破り公表する(→「お父さんのからだを返して」)
※王立アフリカ協会がロンドンで創設。
1902 明治35
東大卒業式に天皇臨席、坪井より日本太古住民を新講。
坪井正五郎『人類談』開成館、鳥居龍蔵『千島アイヌ』(→「鳥 居龍蔵の千島調査」)。鳥居龍三、中国西南地域調査。
※アメリカ人類学会創設。
坪井、この年に『人類学講義』國光社、を出版。
新渡戸稲造・京都帝国大学法科大学教授兼職、台湾
での経験をもとに植民政策を講じる。新渡戸は1906年植民政策の論文にて法学博士を取得。
第五回内国勧業博覧会(大阪・天王寺)坪井正五郎による人類館に伏 根安太郎ら17人のアイヌが参加(→「異民族を生きたまま展示することの倫理 問題」)。
人類館事件: 「第5回内国勧業博覧会の「学術人類館」において、アイヌ・台湾高砂族(生蕃)・沖縄県(琉球人)・朝鮮(大韓帝国)・清国・インド・ジャワ・バルガリー (ベンガル)・トルコ・アフリカなど合計32名の人々が、民族衣装姿で一定の区域内に住みながら日常生活を見せる展示を行ったところ、沖縄県と清国が自分 たちの展示に抗議した事件」人類館事件)→「陳列されたる二人の本県婦人は正しく辻遊廓の娼妓にして、当初本人又は家族への 交渉は大阪に行ては別に六ヶ敷[むつかしき]事もさせず、勿論顔晒す様なことなく、只品物を売り又は客に茶を出す位ひの事なり云々と、種々甘言を以て誘ひ 出したるのみか、斯の婦人を指して琉球の貴婦人と云ふに至りては如何に善意を以て解 釈するも、学術の美名を藉りて以て、利を貪らんとするの所為と云ふの外なきなり。我輩は日本帝国に斯る冷酷なる貪欲の国民あるを恥つるなり。彼等が他府県に於ける異様な風俗を展陳せずして、特に台湾の生蕃、北海のアイヌ等と共に本県人 を撰みたるは、是れ我を生蕃アイヌ視したるものなり。我に対するの侮辱、豈これより大なるものあらんや」太田朝敷(ちょうふ:1865- 1938)『琉球新報』明治36年4月11日:人類館事件)
「宣伝によって事前に、学術人類館に漢民族の展示が予定されていることを知った在日留学生や 清国在神戸領事館員から抗議をうけて、日本政府はその展示を取りやめた。博覧会開催前に清国の皇族や高官を招待していたため、すぐに外交問題となったため であった。その学術人類館に「展示」される予定だったのは、阿片吸引の男性と纏足の 女性であった。清国人の展示が中止された後、今度は人類館に出演している台湾女性が実際には中国湖南省の人ではないか、という疑いが清国留学生からかけ られた。しかし、その留学生が自分で確かめたところ、台湾女性は本当に台湾出身で あることが判明し、一件落着とな」る——人類館事件)
平
林ペンリウク(1833-1903)死去
1904-1905 日露戦争(→「植民地・帝国主義時代の2つの時相」)
1904
小金井良精『日本石器時代の住民』春陽堂。
1905
坪井『人類学講義』東京高等師範学校地理歴史会編、国光社
An Ainu-English-Japanese dictionary : including a grammar of the Ainu language / by John Batchelor, 2nd ed. - Tokyo : Methodist Pub. House , 1905
日韓保護条約(乙巳保護条約)
ポーツマス条約(日露講和条
約)により北緯50度以南の樺太の日本領有(割譲)。翌1906年まで樺太アイヌが帰還する。
1906
朝鮮に総監府が設置される(韓国統監・寺内正毅)。鳥居龍三、満蒙調査。
小金井良精、卒業式にて「帝国版図内の人種」を御前講義。
東郷実『日本植民論』
Neil Gordon Munro, Primitive culture in Japan.
樟脳採取をめぐってぶつかり合った「威里事件では、花蓮港庁太魯閣族の部落が連合して樟脳作業所を襲撃し、日本人の支庁長の大山十郎、巡査
の阿部虎之助、 賀田組事務員の山田海三、鹿児島県人喜多川貞二郎など30名余りが首狩りなどで殺害された」(出典)
1907
日韓協約(丁未条約)
東北帝国大学が新設され、札幌農学校が東北帝国大学農科大学に昇格(創設費用は古河鉱業会社が 出資)。
英国で王立人類学協会が設立(起源は1871年設立の英国人類学協会)
札幌農学校が、東北帝国大学農科大学に昇格、「農政学殖民学」講座が開設される。
足立文太郎は、石器時代住民は、アイヌともエスキモーとも認められないと説く。
1908
柳田『後狩詞記(のちのかりことばのき)』;松村瞭『人 種名彙』丸善(英文:A gazetteer of ethnology)(参照『世界人種實観』1921?)
Prehistoric Japan / by Neil Gordon Munro.
8月威里事件(台
湾のタロコ族と日本人移民との間で樟脳採取をめぐってぶつかり合った。大山十郎事件ともいう。)
東京帝国大学に植民政策講座が新設され、新渡戸稲造(第一高等学校校長[1906- 1913]との兼任)が着任する。
柳田國男(1875-1962)、東北を旅 行し、初めて遠野を訪れる。
「新渡戸(稲造:1862 -1933)の提唱で「郷土会」が発足した。自主的な制約のない立場 から各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を研究し調査することを主眼とした。メンバーには、柳田國男、草野俊介(理学博士)、尾佐竹猛(法学博 士)、小野武夫(農学博士)、石黒忠篤(1884-1960)、牧口常三郎(1871-1944)、中山太郎(本名「太郎治」1876-1947民俗学者)、前田多門(1884-1962:長女は神谷美恵子[1914-1979])らが加入」
足立文太郎、体質人類学の講義をはじめる。
1910
『東京人類学会雑誌』はこの年に終刊、翌1911(明治44)年『人類学雑誌』と して公刊(〜1992)。
九州帝国大学設置(創設費用は古河鉱業会社が出資)。
海野幸徳『日本人種改造論』(優生学にもとづく淘汰論を展開)
朝鮮で土地調査事業がはじまる。韓国併合。朝鮮総督府が 設置、統監の寺内がそのまま初代総督として就任。
柳田国男『石神問答』『時代ト農政』『遠野物語』
1911
鳥居龍蔵、身体計測を含む、朝鮮半島調査をはじめる。F.ボアズ『未開人の心(The mind of primitive man)』初版(改訂版 1938)出版
『東京人類学雑誌』は『人類学雑誌』に改名。
6月 鳥居龍蔵『蒙古旅行』博文館。
今村鞆『朝 鮮社会考』
10月1日〜11月29日明治記念拓殖博覧会(上野公園・不忍池畔)に て、「新領土の土人」が陳列される。樺太アイヌについては記念絵葉書があり、はいじょう・はいばつてい、しらかわ・しえもん、しらかわ・くるぱるまは、に しひら・うめ、が写っている(Ziomek 2019:184)。
マンロー『石器時代の日本』刊行。
※デュルケム『宗教生活の原初形態』
1913 大正2
坪井、ペテルブルグでの国際学会中に客死。石田収蔵、講師に。長谷部、新潟医専
高木敏雄「郷土研究の本領」『郷土研究』創刊号(柳田國男)。『民俗』公刊(柳田は不参加)。
北海道庁『白老、敷生、元室蘭旧土人結核病トラホーム調査 復命書』
鳥居龍蔵による「東洋人種学」の提唱(『東亜之光』8(11),
1913/『鳥居龍三全集』第1巻, p.482)
1914
今村鞆(いまむら・とも、1870-1943)『朝鮮風俗集』。柳田國男、貴族院 書記官長に就任。
氏原左蔵『民族衛生学』Rassenhygieneを公刊。
6月〜8月末。タロコ戦争(Truku War)太魯閣戰爭 (Tàilǔgé zhànzhēng)「当時の台湾総督の佐久間左馬太(1844 -1915)は、わずか2,000人の原住民に対して20,000人もの兵士と警察官を動員し、タロコの戦士の抵抗を抑え、打ち負かすために莫大な資源を 使用した。 佐久間 左馬太は戦闘中に重傷を負ったが、1914年8月後半に日本軍がタロコに勝利を宣言し、8月28日に台湾総督が終戦を宣 言した」
写真はモノクロに着色か?(『台灣歷史珍稀影像1860-1960』徐宗懋圖文館製作出版)
清野謙次、 2年の留学より帰朝。
雑誌『白樺』の同人であり西洋近代美術の
紹介者でもあった柳宗悦(1889-1961)は、1914年(大正3年)朝鮮陶磁研究家の浅川伯教(あさかわ のりたか,
1884-1964)との出会いを通じて朝鮮の美術に関心をもつようになり朝鮮王朝時代の白磁、朝鮮民画、家具などの素朴な美を世に紹介することに努めた
(→「日本民芸運動と文化人類学」)
1915
永井潜『生命論(増補第三版)』において人種改善学(eugenics)を紹介。
朝鮮総督府、旧慣および制度の調査、朝鮮総統府博物館を創立。
長谷部・松村が南洋群島に調査。
7月鳥居龍蔵『蒙古及滿洲』富山房。7月ニコライ・ネフスキー2年間の留学予定で東京に到着。
1916
北海道庁『余市郡余市町旧土人衛生状態調査復命書』『旭川 区近文部落旧土人衛生状態調査復命書』『沙流郡ノ一部室蘭郡ノ一部旧土人衛生状態調査復命書』
アイヌの識字調査では30% (40歳以上では3%)
1916-1917 東京帝国大学法科大学政治学科学生、矢内原忠雄、植民政策講座の新 渡戸稲造の「植民政策講義」を受ける(1917年に卒業)。この授業ノートを中心にして1943年『新渡戸博士植民政策講義及論文集』矢内原忠雄編、岩波 書店が出版される。
鳥居龍蔵、日本
人混血民族説を唱える。
1918
新渡戸稲造「医学の進歩と殖民政策」『南太平洋協会会報』第4号、第6号
武隈徳三郎『アイヌ物語』(バチェラー序文、河野常吉校訂)富貴堂書房、1918(大正7) 年※徳三郎はアイヌ先住民で、バチェラーによると初めての先住民による自民族の文化を記した 書物と評する。
西村眞次が早稲田大学で文化人類学を教えはじめる。
7月鳥居龍蔵『有史以前乃日本』磯部甲陽堂 , 1918年。
1919
村山智順(1891 -1968)、東京帝国大学文学部哲学科を卒業後、朝鮮総督府の嘱託になる。柳田、官界を去る。東京帝国大学法学部(法科 大学は同年改組)植民政策講座の助教授として赴任。
松本彦七郎の汎アイヌ説(寺田 1975:151)。
3月1日に朝鮮半島で勃発した三・一独立 運動に対する朝鮮総督府の弾圧
に対し、柳宗悦は「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と批判した(「日
本民芸運動と文化人類学」)。
1920
平取、静内、浦河、白老に旧土人病院を設置(〜1922)。柳田國男、東京朝日新聞客員となり論説を執筆。全国を調査旅行。鳥居龍蔵、アムール川流域調査。
国際連盟事務次長に就任した新渡戸の後任として、矢内原忠雄は、東京帝国大学経済学部助教 授に就任、植民政策学を講じる。
※国際連 盟創設、委任統治制度発足
渋沢敬三(1896 -1963)、自宅にアチック・ミュージアム(屋根裏博物館)を開設。澁澤は同年横浜正金銀行に入行。柳田國男、 渡欧し、ジュネーヴの国際連盟委任統治委員に就任。国際連盟において、英語とフランス語のみが公用語となっていることによる小国代表の苦労を目の当たりに する。
浜田耕作は、縄文人と弥生人の間に人種的な断絶がないと主張。
"Swedish geologist Johan Gunnar Andersson
and American palaeontologist Walter W. Granger came to Zhoukoudian,
China in search of prehistoric fossils in 1921."-Peking Man.
クライナー 2012:19
クライナー、ヨゼフ「日本民俗学・民族学:昭和10年代から
40年代までの展開」『近代〈日本意識〉の成立』Pp.2-24、東京:東京堂、2012年。
From left of front row, Kyōsuke Kindaichi(1882-1971), Nikolai Aleksandrovich Nevsky(1892-1937), Kunio Yanagita(1875-1962), at his house of of Shinobu Orikuchi(1887-1953), in left end at standing. Picture was taken in March, 1921(TAISHO jyu-nen) .source: http://1000ya.isis.ne.jp/1510.html
++++
1922
小 山内通敏、今和次郎が朝鮮総督府の嘱託で「朝鮮部落調査」をおこなう。マリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者たち』;中村古峽『迷信と邪教』迷信と邪教、1922年
※ルガード『二重統治論』
1922
柳田國男、
新渡戸稲造と共に、エスペラントを世界の公立学校で教育するよう決議を求め、フランスの反対を押し切って可決される。エスペランティストのエドモン・プリ
ヴァ(Edmond Privat)と交流し、自身もエスペラントを学習する。翌1923年、
国際連盟委任統治委員、突如、辞任してを帰国(これを契機に柳田は新渡戸との交流が途絶える)(このあたりの事情は、民俗学会等には評判は芳しくないが、
村井紀『南島イデオロギーの発生』2004年が役に立つはずだ!)。
1923
関東大震災。満岡伸一「あいぬノ足跡」。道内の市町村に旧土人救療所を 開設。土人保導員を設置。(→「保健普及員」)。善生永助が、朝鮮総督府嘱託に。
関東大震災。京都に居を移した柳は、濱田
庄司、河井寛次郎(1890-1966)らとともに、いわゆる「民芸運動」。
「善生永助(1885〜1971)は、朝鮮総督府嘱託として同府刊行の調査資料の編纂に 携わった人物である。明治43年(1910)に早稲田大学専門部を卒業したのち、雑誌記者などを経て大正12年(1923)7月より朝鮮総督府官房調査課 嘱託となり、昭和10年(1935)まで調査活動に従事した。彼が調査および執筆を担当した資料の多くは、「調査資料」シリーズに収録されている。代表的 なものに『朝鮮の市場』(大正13年〔1924〕)、『朝鮮人の商業』(大正14年〔1925〕)、『朝鮮の物産』(昭和2年〔1927〕)、『朝鮮の市 場経済』(昭和4〔1929〕)、『朝鮮の生活状態調査1〜3』(昭和4〔1929〕ー昭和9年〔1934〕)、『朝鮮の聚落 前・中・後篇』(昭和8 〔1933〕ー昭和10〔1935〕)などがあり、現在でも植民地期朝鮮の社会経済状況を知るうえで大変貴重な資料とされている」(出典:「学 習院大学東洋文化研究所」)
"Excavation work was begun immediately by
Andersson's assistant Austrian palaeontologist Otto Zdansky, who found
what appeared to be a fossilised human molar. He returned to the site
in 1923, and materials excavated in the two subsequent digs were sent
to Uppsala University in Sweden for analysis. In 1926 Andersson
announced the discovery of two human molars in this material, and
Zdansky published his findings.."-Peking Man.
1923-1941
朝鮮総督府調査資料(1923-1941)に、総督府嘱託として村山智順、善生永助が関 与
京城帝国大学予科設置、1926年には法文学部・医学部が設置される。
オーストラロピテクス(Australopithecus afarensis)発見の嚆 矢〜1970年代
清野謙次研究室で日本人骨の統計的発表がはじまる。鳥 居龍蔵、東京帝国大学助教授を辞職。
7月?岡茂雄(Shigeo OKA, 1894-1989)は岡書院(1924-1935)を設立。
7月鳥居龍蔵『人 類學及人種學上より見たる北東亞細亞 : 西伯利、北満、樺太』岡書院。
9月鳥居龍蔵『日 本周圍民族の原始宗教 : 神話・宗教の人種學的研究』岡書院。『武藏野及其周圍』磯部甲陽堂
12月鳥居龍蔵『諏訪史』 上諏訪町 (長野県) : 信濃教育会諏訪部会
村山智順『朝鮮の独立思想及運動』調査資料第十輯
1925
5月鳥居龍蔵『有
史以前の日本』磯部甲陽堂。
9月、柳田国男・岡正雄ら『民族』を創刊。
10月、鳥居龍蔵『人
類學上より見たる我が上代の文化』叢文閣。
内村祐之、ミュンヘンのドイツ精神医学研究所に留学(〜 1927)。アメリカ合衆国で『ウラキ』(北米朝鮮人留学生雑誌)発刊。
矢内原忠雄『植民政策講義案』
小金井、東大を定年退官。
鳥居龍蔵『武藏野及其有史以前』磯部甲陽堂。
1925-1929
柳田国男・岡正雄ら『民族』刊行。岡は創刊号の巻頭論文「民族學の目 的」(1924年の記載あり)で、民族学をWHR.リヴァーズの用語としてい る(→当時の状況「人種概念としての「ミンゾク」」)。
1926 大正15→昭和元
京城帝国大学創設 ——予科は1924年設置(宗教学教室:赤松智城、社会学教室:秋葉隆、が翌年に就任)
小金井良精『人類学研究』。矢 内原忠雄『植民及植民政策』。清野謙次「津雲石器時代人はアイヌ人 なりや」(小金井良精『人類学研究』のアイヌ説への反論)
西村眞次『体 質人類学』早稲田大学出版部。体質人類学とはPhysical Anthropologyのこと(同書1ページより)
8月15日(財)啓明会第18回講演集で柳田國男「眼前の異人種問題」(柳田国男全集、第26巻 に収載)、金田一京助「アイヌ研究の現状」などを講演(『ア イヌ史資料集 / 河野本道選』)。
啓明会「1919
年(大正8)8月4日,その前年まで埼玉師範学校教員であった下中弥三郎を中心に県下の青年教師によって組織された教育運動団体。会は,教員の地位・待遇
の向上をめざす職能的な教員組合としての性格と〈教育的社会改造運動〉(下中)の性格とをもって出発した。翌20年5月の第1回メーデーには,教員組合と
して参加,一般労働組合との組織的連帯をはかっている。同年9月,全国的な運動への発展をめざし,〈日本教員組合啓明会〉と改め,〈教育改造の4綱領〉を
発表」(コトバンク)。
第3回汎太平洋学術会議が東京で
開催される。「人類学及び人種学」分科会。
小金井良精『人 類学研究』大岡山書店
柳宗悦は、陶芸家の富本憲吉(1886-1963)、濱田庄司、河井寛次郎の四人の連名で「日本 民藝 美術館設立趣意書」を発表(→「日本民芸運動と文化人類学」)。
※ルガード、マリノフスキー、ドラフォスらにより、国際アフリカ協会創設。
1927
4月『民
俗學概論 : 英國民俗學協會公刊 / バーン編著 ; 岡正雄譯』岡書院。
長谷部言人[1882-1969]『自然人類学概論』(人類学叢書第1篇、岡書 院)
6月20日小金井良精(70歳)「本邦先住民族の研究」について御前講演
「九、二〇赤坂離宮に到着、ただ一〇分を要したるのみ、講和の間に到りて持参標本を卓上に並
べ、廊下にて出御を奉迎、珍田侍従長自分を紹介せらるる、皇后陛下は時刻に到り出御無かりき、閑院宮載仁[か
んいんのみやことひと]殿下のみ。他は牧野内大臣、一木宮内大臣、珍田侍従長、奈良武官長始め宮内官二十名計、一〇、〇五講和を始む、時々写真を陛下御前
に持ち進みて説明申し上る、とくに頭骨脛骨の際は立御になりて窓際卓まで御出てなり天覧あらせらる、一一、一五「各方面から考慮致しまして私は本邦石器時
代民族はアイノであるという結論に達した次第でござります」と講了したり、別室に於て尚ほ御質問あり遺物飾物を持参す「小金井は先刻アイノ
と日本人との間
に混血したといふたが何処で如何にせしか、日本民族は何処から来たか」など御質しあり、入御の後別室にて茶菓一折を賜ふ、御下賜品(羽二重一疋[たん])
あり、一一、五五離宮を去る、教室に寄りて標本を置き、一時前家に帰る、先つ滞りなく「本邦先住民族の研究」御前講話終り安堵。」——『金井良精日記』昭
和篇、28ページ、2015年
内村祐之ロックフェラー研究所の野口英世を訪ねる。内村、 9月に渡道し 北海道帝国大学医学部精神科教室教授就任(1928〜1936)の準備をおこなう。
崔南善「薩満教箚記(さっき)」、李能和「朝鮮巫俗考」を『啓明』19号に寄稿。
村山智順『朝鮮の服装』朝鮮総督府、1927年;村山智順『朝鮮 人の思想と性格』調査資料第二十輯、朝鮮総督府、1927年
"Canadian anatomist Davidson Black of Peking Union Medical College, excited by Andersson and Zdansky's find, secured funding from the Rockefeller Foundation and recommenced excavations at the site in 1927 with both Western and Chinese scientists. Swedish palaeontologist Anders Birger Bohlin unearthed a tooth and Black placed it in a gold locket on his watch chain." -Peking Man.
(1927年以前に)景福宮光化門が取り壊されそうになると、 これに反対抗議する評論『失は
れんとする一朝鮮建築のために』を、雑誌『改造』に寄稿した。これが多大な反響を呼び、光化門は1927年に移築保存された(→「日本民芸運動と文化人類学」)。
1928 昭和3
移川子之蔵(1884-1947) が、台北帝国大学文政学部教授(兼・評議員)として赴任し、土俗学・人種学主任となる。移川は自分の教室をInstitute of Ethnologyと称した。
京城帝大に民俗参考品室設置(秋葉隆)。今村豊が京城帝国大学解剖学教室に赴任。
矢内原忠雄『人口問題』岩波書店。
足立文太郎『日本人体質の研究』岡書院(1944, 荻原星文館)。清野・金関丈夫『人類起源論』
村山智順『朝鮮の習俗』朝鮮総督府、1928年
野
村伸一「『朝鮮の習俗』という小冊子をみてみよう。これは全82頁のうちに51枚の図版を添えたなかなかよくできた案内書なのであるが、ここにはどこにも
村山の名前がない。そして、「はしがき」をみると、内鮮は一帯であり、日韓併合が「自然に帰したるもの」と強調している。
総督府の官僚にとって、朝鮮の風習を探求することは「今は学究的な興味からするやうな閑事業ではなくなりました」ということであり、すべては統治に供す
る道具である。つまり、孫晋泰の好意的な書評にもかかわらず、村山のすべての知的営為は公的には、個人の責任において著した作品ではなく、あくまでも内鮮
一体化をめざす植民地経営のための調査でしかないということである。
この匿名性はそうなまやさしい状況ではない。村山のすべての叙述はたとえ何千頁書こうとも、基本的には次の枠組、構図を逸れてはならない。すなわち日本
と朝鮮は同一系統の文化の上にあるにもかかわらず、片や陋習にまみれて劣っている朝鮮、片や開化し躍進する日本という基軸があり、こうした前提に立ちつ
つ、朝鮮を旧弊から解き放ち、やがて内地の日本人が違和感を感じないような水準にまで善導していくという構図が潜んでいたのだ」https://bit.ly/2LvcQIr
+
1929
内村祐之、北海道帝国大学に正式に着任。村山智順『朝鮮の鬼神』発刊。矢内原忠雄『帝国 主義下の台湾』岩波書店
村山智順『朝鮮の鬼神』調査資料第二十五輯、朝鮮総督府、1929年
9月ニコライ・ネフスキー単
身で帰国。
1929(昭和4)
北海道帝国大学医学部解剖学教室第二講座に児玉作左衛門(こだま・さくざえもん:1895-1970)教授が赴任。同教授 は、1959年まで30年間同講座の教授を務めアイヌの「医学的研究」ならびに文化史の研究に従事する[2018年に関 連記事]。
「昭和4年に平光教授は九州帝国大学に転任し、児玉作左衛門教授が第二講座を担当するこ とになった。山崎教授のもとではおもにアイヌの人類学的研究とくにそ の容貌の研究がすすめられ、児玉教授のもとではヒト大脳基底核を中心とした解剖学的研究に主力がそそがれた。これは児玉教授がチューリッヒのモナコフ教授 の所で行った研究の継続で あった。顕微鏡切片標本は児玉教授に従って東北大学からきた大場利夫(後の北大文学部教授)が作成した。昭和8年に、アイヌの医学的総合研究のために日本 学術振興 会学術部第八小委員会が 永井潜東大教授を委員長として編成され、北大医学部の教授陣を主力として2年間にわたって調査が行われた。このとき山崎・児玉両教授が解剖学の部門を協同 で担当した。この総合研究がきっかけと なって、その後、両講座の仕事の主力はアイヌ骨格の収集および人類学的研究に向けられた。この流れは昭和23年山崎教授の退官、同34年の児玉作左衛門教 授の退官 の後、伊藤昌一教授と松野正彦教授に引き継がれ、成果の多くは「北大解剖研究報告」に収録されている。 昭和7年7月26、27、28日の3日間、北海道で初めての日本解剖学会集会(第40回)が 会頭山崎教授、副会頭児玉教授のもとに北大で開かれた。演題数77、標本供覧7の計84題、参加者約100名であった。昭和15年には北大医学部に臨時附 属医学専門部が設置され、昭和18年には樺太医学専門学校が設立された。しかし、太平洋戦争が終了するとともに樺太医専は廃止になり、北大医専は昭和25 年に廃止になった。昭和33年には第63回日本解剖学会総会が、会頭児玉作左衛門北大教授、副会頭伊藤昌一北大教授・渡辺左武郎札幌医大教授のもとに 札幌医大を会場として7月4、5、6、の3日間開催された。演題は口演と紙上発表を合わせて277題であった」出典:https://aande.hokkaido.university/history.html(2018 年7月22日)
鹿野忠雄(1929): 出典不詳/宮本延人(前左起,臺北帝國大學教 官)、後藤武夫(巡查,臺東卑南族人)、小此木忠七郎(學者)、移川子之藏(臺 北帝國大學教授)、田中氏(後左起,巡查)、鹿野忠雄(東京帝國大學地理科動物學學生)、馬淵東一(臺北帝國大學學生)與眾達悟族人,紅頭社駐在所前 (1929年撮影と言われる)
1929-1933 雑誌『民族』の廃刊。民俗學会編の雑誌『民俗學』刊行(柳田の脱退を受 けて。岡は1929〜1935年オーストリアに留学)
1930-1933 台湾、高砂族全島調査(移川子之蔵、宮本延人[1901-1988]、 馬淵東一[1909-1988]の参加)
金関丈夫(1897-1983)「琉球人の人類学的研究」で京都帝国大学より医学 博士号を取得。金関は1928-1929年頃、沖縄県今帰仁(なきじん)村の百按司(むむじゃな)墓より少なくとも26体を持ち出し、京都大学などに保管 していたといわれる(琉球新報 2017年6月1日)。
小信小太郎「同族の喚起を促す」『蝦夷の光』
日本民族 衛生学会創設(→1935年・民族衛生協会へ改組)
移川子之蔵(うつしかわ・ねのぞう)は、南方土俗学会を組織し『南方土俗』を創刊[1931-1939](『臺灣 の土俗・人種』"改造社版日本地理大系臺灣篇抜刷 "16pp.)
岡田謙、台北帝国大学講師
10月7日〜12月 霧社事件(モーナ・ルダオは山中にて消息不詳、4年後に遺体とし て発見).
鹿野忠雄「鳥居博士の報告を疑ふわけではないが、物は試しで、一つ墓地の発掘と なったわけである。……発掘に仍(よ)つて、鳥居博士の報告とは違つた結果を得た。余の発掘は、唯の一回であるが、ヤミに聞いて見ても、皆、かくすると答 へるので、余は現在の所、此の形式である事を確信して居るものである。鳥居博士の報告されたのは、特別な例外であろう」狩野(1930:37-38)※出 典は全京秀(2020:222)
アメリカ自然人類学協会の発足。
柳田國男『明治大正史世相編』「朝日新聞の論説委員をしていた柳田が,60年間の各地の新聞記事をもとに明治・大正期 の世相を民俗学の手法で論評した」といわれる(平凡社サイトより)。
Año 1930. El periodista japonés Y. Okada, junto al hechicero
Selk'nam Pachek y su familia. Tierra del Fuego. República Argentina.
Dpto. Documentos Fotográficos. Inventario 350115. Caja 2508. Buenos
Aires. Argentina. (AGN│Archivo General de la Nación)
1931
貝澤正(1912 -1992)、アイヌ旧土人保護法を批判(「土人保護施設改正について」『アイヌわが人生』岩波書店、1993年)
直良信夫は西八木で洪積世人類化石を発見。
京城帝国大学解剖学教室で朝鮮人の生体計測がはじまる(〜1945年)。
村山智順『朝鮮の風水』調査資料第三十一輯、朝鮮総督府、1931年
※植民地博覧 会(パリ)開催
1932
満州国建国。朝 鮮民俗学会創設。宋錫夏が幹事に就任。
村山智順『朝鮮の巫覡』 調査資料第三十六輯、朝鮮総督府、1932年
8月陸軍軍医学校防疫部の下に石井四郎ら軍医5人が属する防疫研究室「三研」が開設され る。これが「関東軍防疫給水部本部」設立の嚆矢となる(日本の医療人類学と生命倫理学を 考えるためには重要な「事件」である)。
12月昭和天皇の150万円の御下賜により財団法人日本学術振興会が設置される。
1933
Masao OKA, Oka, Masao, "Kulturschichten in
Alt-Japan"にて、ウィーン大学・哲学博士(岡正雄)
『朝鮮民俗』創刊。京城帝大に満蒙文化研究会が設立される。赤松・秋葉による満蒙調査が 開始。
村山智順『朝鮮の占卜と預言』 調査資料第三十七輯、朝鮮総督府、1933年
10月22日、1903年11月に亡くなっ た平取の平村ペンリウク氏の遺骨が、北海道帝国大学の山崎春雄教 授、岡田正雄(夫)助教授らの指導のもとで「発掘」される。
足立文太郎『日本人の静脈系統』Das Venensystem der
Japaner / von Buntaro Adachi
1934 昭和9
朝鮮農地令公布。震檀学会創設(宋錫夏が幹事)
「植民地下の朝鮮で1934年5月に設立された研究会。李丙燾(이 병 도 1896-1989)ら歴史学者を中心に, 金台俊(1904?-1949),崔 鉉培,孫晋泰ら文学者,語学者,民俗学者も加わり,国学=朝鮮学研究の発展を目指した,朝鮮人自身による初め ての組織である。史学史的には,植 民地期の歴史研究の三大潮流,すなわち民族史学,実証史学,社会経済史学のうち,前2者に属する人たちが合流した組織であること,のちに朝鮮民主主義人民 共和国の歴史学界において指導的地位を占めることになる金錫亨,朴時亨も,学界へのデビューはこの学会を通じてであったことなど,その幅広い研究者の連合 戦線的な性格が注目される」「震檀学会」より)
「 金台俊(1904?-1949)朝鮮の文学者。出生地は不明。京城帝国大学朝鮮語学 科を卒業し,同学科の講師。1937年日中戦争が始まり植民地下の朝鮮で朝鮮語その他の民族文化が滅亡の危機にさらされるや,朝鮮語文学会,震檀学会など を組織して朝鮮学の研究と発展に努力した。また39年以後は朝鮮共産党再建のため地下活動に参加,44年秋に警察の保護観察を受ける身でありながらソウル から中国へ脱出し,延安の朝鮮独立同盟に参加した。解放後は南朝鮮労働党文化部長となって反米闘争を展開したが,49年秋に李承晩政権によって処刑」(金台俊)
「崔 鉉培(チュエ・ヒョンべ, 1894-1970)韓国の朝鮮語学者。慶尚南道蔚山出身。京都大学を卒業後、朝鮮語学会で働くが、朝鮮語学会事件(1942-1943)に連座して投獄 される。朝鮮解放後、ハングル専用主義者として朝鮮語文法の体系化に尽力した。著作に『우리 말본(国語文法)』『한글갈(正音学)』など」
「孫晋泰(Son
Chin‐t‘ae)1900-?:朝鮮の歴史・民俗学者。号は南滄。ソウルの出身。1927年早稲田大学文学部史学科を卒業。33年以降,延禧・普成両
専門学校講師,45年ソウル大学校教授,49年ソウル大学校師範大学長,文理大学長を歴任し,50年朝鮮戦争で朝鮮民主主義人民共和国に連行後,消息不
明。彼の史観は民族の発展だけでなく,その全構成員がすべて幸福になることを目ざす新民族主義で,主著は《韓国民族史概論》(1948),《国史大要》。
1932年4月宋錫夏(そうしやくか)らとともに朝鮮民俗学会を創設」
4月(1934年)「東京人類学会 創立五十年記念講演会」開催「東京人類學會創立五十年記念講演會記事」( https://doi.org/10.1537/ase1911.49.173)。 小金井「人類の咬合形式」(日、独)論文
日本民族学会の設立(初 代理事長:白鳥庫吉[しらとり・くらきち、1865- 1942]、理事:新村出、渋沢敬三、関屋貞三郎、桑田芳蔵、移川子之蔵)
平野義太郎(「すでに生活力を失ってゐるアイヌ族」→『思想』144号)
柳田国男『民間伝承論』
日本学術振興会「アイヌの医学的、生物学的研究」(永井 潜・班長)。児玉作左衛門は解剖小委員会委員となる。
11月 大阪民俗談話会発足(→近畿民俗刊行会)
今村鞆『人 参史』の刊行がはじまる(→1940)
矢内原忠雄『満洲問題』
この年、霧社事件のリーダー・モーナ・ルダオ(1880-1930)の白骨死体と思しき骨を発見。 その後台北帝国大学考古人類学科に「凶蕃」として陳列される(中川・和歌森編1980:102-103)。遺体は1974年に「霧社山胞抗日起義記念碑」 脇の「莫那魯道烈士之墓」に葬られる。
※ルース・ベネディクト『文化の型』
1935 昭和10
2.26事件
『民族學研究』(1巻1号)発刊。民間伝承の会『民間伝承』創刊。エイプ会発足。
J.エンブリー、熊本県球磨郡須恵村で調査[→リンク]。
6月22日Lectures delivered at Meiji-Seimei-Kan,
Tokyo, in 22 June, 1935, von W. Schmidt = ウイルルム・シュミット述 ; 岡正雄譯 ;
國際文化振興會編, Neue Wege zur
Erforschung der ethnologischen Stellung Japans (日本の民族學的地位探求への新しき途)
移川子之蔵・宮本延人・馬淵東一『臺灣高砂族系統所屬の研究』※臺北帝國大学土俗・人種學研究 室調査 ; 第1冊: 本篇, 第2冊:資料篇、刀江書院, 1935
「二つの「ミンゾク」学※が袂とを分かったのは、柳田[国男]が一国民俗学を提唱した翌 年の、1935年(昭和10)年ごろのことである」[伊藤 2006:5]。※2つのミンゾク学とは、民俗学と民族学(戦後の文化人類学)のことである。
小金井良精「アイノの人類学的調査の思ひ出」『ドルメン』(1888:明治21年7月8 日〜9月3日の調査紀行:アイヌ人墳墓の学術的「盗掘」記録の傍証となる)
高橋新吉『蝦夷痘黴史考』。北海道帝大医学部・児玉作左衛 門による森村・落部村の遺骨盗掘。
足立文太郎の古希記念論集、複数の大学から出版される。
岡茂雄は、岡書院、梓書房を閉店。
Ryuzo Torii, Ancient
Japan in the light of anthropology, Tokyo : Kokusai Bunka Shinkokai
, 1935
1936 昭和11
4月1〜2日東京人類学会・日本民族学会の第1回連合大会が 開催(大会会長:小金井良精。特別講演;F.Weidenreich(北 京医学院) "Sinanthropus pekinensis as a Distinct Primitive Hominid";駒井卓(京都帝国大学)「遺伝学上より見たる日本民族の特徴」;移川子之蔵(台 北帝国大学)「未開社會に於ける時の觀念」)。/日本民族衛生学会が民族衛生協 会に改組される。
内村祐之・東京帝国大学医学部精神病学教授(〜1958)
3月7日付「金
関丈夫、台北帝国大学医学部第二解剖学 教室の教授に就任(1936年に台北
医学専門学校は台北帝国大学附属医学専門部に改組)。赴任は3月下旬と言われる」(→金関丈夫)
4月2日東京人類学会・日 本民族学会の第一回連合大会第二日目に小金井良精[1859-1944]「日本民族中の南方要素の問題について」を発表する。
5月 近畿民俗刊行会を改名し近畿民俗学会と改称。『近畿民俗』の刊行がはじまる。
鳥居龍蔵『考古學上より見たる遼之文化圖譜(1〜4)』東方文化學院東京研究所
柳宗悦、東京・駒場の自邸隣
に日本民藝館を開設 (実業家の大原孫三郎の支援)
1937
1月、鳥居龍蔵『遼の文化を探る』章華社。
3月29〜31日日本人類学会・日本民族学会の第2回連合大会が 開催(於:東京帝国大学理学部)大会会長:白鳥倉吉 (東洋文庫);シンポジウム「最近のアイヌ民族問題」
7月7日 盧溝橋事件(日華事変:〜1945年、中国と の軍事衝突の嚆矢)
日本民族学会が主催した千島樺太調査(岡正雄はそれに随行)。泉靖一がオロチョン調査。
旧土人保護法9条の削除
(「土人学校」の廃止)昭和10年代以降、同法が廃止されるまで、土地の無償下付はなかった。
保谷に民族学博物館開設(渋沢のアチック・ミュージアム(1921-1937)資料を移 管)
村山智順『部落祭』調査資料第四十四輯、朝鮮総督府、1937年
Rassenkunde der Aino / von Y. Koya ; unter Mitwirkung von Assistenten, T. Mukai ... [et al.], [Tokyo] : Japanische Gesellschaft zur Förderung der wissenschaftlichen Forschungen , 1937
矢内原忠雄『帝国主義下の印度』
移川子之蔵「琉球藩民の墓」。移 川はオランダに赴き、台湾のオランダ統治時代の資料を写真にして2万5千枚を撮影し、帰国後に整理して約200冊の「台湾史料」にまとめた。
石田英一郎(Ishida Eiichirō, 1903-1968)は、ウィーン大学に留学(〜1939年)
11月24日ニコライ・ネフス
キー夫妻、処刑される。
クラ
イナー 1912:20
クライナー、ヨゼフ「日本民俗学・民族学:昭和10年代から40年代ま
での展開」『近代〈日本意識〉の成立』Pp.2-24、東京:東京堂、2012年。
※ルーシー・メア『アフリカの原住民政策』
1938 国家総動員法。
ウィーン大学が設置した日本学研究所に岡 正雄(Masao Oka, 1898-1982)が所長として就任。太平洋協会設立(実質的な組織運営者は、鶴見祐輔[1885 -1973])
3月所長である大久保幸次により設立され、当初の名称は「回教圏攷究所」であった。ほどなく
して善隣協会(1934年設立)の経営となり、1940年に回教圏研究所と
改称。
4月6〜8日日本人類学会・日本民族学会の第3回連合大会が 開催(於:東京帝国大学理学部・文学部)長谷部言人 (東京帝国大学理学部)シンポジウム: 「満蒙支諸民族の問題」
内村祐之ほか「あいぬノいむ二就イテ」(あいぬノ精神病学 的研究第1報)、内村祐之ほか「あいぬノ潜伏黴毒ト神経黴毒」(あいぬノ精神病学的研究第2報)
6月11日〜10月27日武漢作戦(漢口攻略戦)内閣情報部は文学者と懇談会を開いて漢口攻
略戦への従軍を要請し、陸軍部隊14名、海軍部隊8名、詩曲部隊2名の作家が従軍し、その見聞記を新聞・雑誌に掲載(通称「ペン部隊」)
京城帝大に大陸文化研究会が設立。長谷部言人が東北帝大から東京帝大に移動。モース生誕百年 祭。
村山智順『釈奠・祈雨・安宅』調査資料第四十五輯、朝鮮総督府、1938年
このころから、海外調
査がさかんになる。
9月 企画院の外郭団体として「東亜研究所」が設立される。
9月、岡正雄・馬場脩「北千島占守島及び樺太多來加地方に於ける考古學的調査豫報」日本民族
學會, 1938.9(民族學研究第4巻第3号(1938年9月号)抜刷, 第一回日本民族學會北方文化調査團報告)
里見甫(さ とみ・はじめ:1896-1965)3月阿片売買のために三井物産および興亜院主導で設置された宏済善堂(→「昭和通商」の阿片のブローカー組織)の副董事長(事実上の社長)に就任。
※ケニヤッタ『ケニア山のふもと』;グリオール『ドゴン族の仮面』;ハースコ ヴィッツ『文化変容』
1939
昭和14 東京帝国大学理学部人類学科創設(長谷部言人[はせべ・ことんど] 1882-1969)。最初の人類学専攻の学生は3名。
4月1〜3日日本人類学会・日本民族学会の第4回連合大会が
開催(於:慶應義塾大学医学部)大会会長: 桑田芳蔵
(慶應義塾大学医学部)シンポジウム:
「南方諸民族の問題」:公開講演・大山柏(慶応大学)「北支調査第二回報告」;公開講演・原田淑人(東京帝国大学)「元の上都の遺跡に就て」(これ以降は
中止)
小山栄三[社会学者]『人種学概論』(1929,1931の改訂再版)
高田保馬『東 亞民族論』岩波書店(同じ書名の白柳秀湖『東 亜民族論』は1941年刊)
鳥居龍蔵、Harvard–Yenching Instituteから招へいされ、Harvard–Yenching Instituteの客 員教授として燕京大学(Yenching University)に赴任。燕京大学は1941 年に閉鎖、北京に滞在する。1945年にHarvard–Yenching Instituteが復帰して、1951年まで滞在、同年帰国。
11月〜1940年企画院の岡倉古志郎・玉城肇ら4名が検挙された(「判任官グループ」事件)
※カーディナー『個人とその社会』
1940
2月7日アルフレート・ローゼンベルグ(Alfred Ernst Rosenberg, 1893-1946)はそれまでのInstituts für Biologie und Rassenkunde(ベルリン)を改組してInstitut für Biologie und Rassenlehreを創設する。
2月 学士院に、東亜 民族調査委員会設置(委員長:山田三郎)。4月12日初会合。
5月「回教圏攷究所」が、回教圏研究所に改名(東京市白金三光町から原宿に移転)
5月26日日本文学報国 会が設立(会長:徳富蘇峰、理事に折口信夫、柳田國男、顧問に正力松太郎などが見える)
9月30日施行の勅令第648号(総力戦研究所官制)により開設された内閣総理大臣直轄の研 究所「総力戦研究所」が企画院に設置される。
10月企画院が発表した「経済新体制確立要綱」
が財界などから赤化思想の産物として攻撃され、翌1941年1月~4月にかけて、原案作成にあたった稲葉秀三・正木千冬・佐多忠隆・和田博雄・勝間田清
一・和田耕作ら中心的な企画院調査官および元調査官(高等官)が治安維持法違反容疑で逮捕され、検挙者は合計17名となった(「高等官グループ」事件)
11月ウィーンから帰国したばかりの岡正雄(1898-1982)は、古野清人と 連れ立って帝国学士院会員であった晩年の白鳥庫吉を訪問した。当時の近衛文麿首相に民族研究所の設置への働きかけをおこなおうとしていた
秋、 旧制長崎医科大学に大陸医学研究班が設置。
田村幸雄「満洲國に於ける邪病、鬼病、巫醫及び過陰者、並 びに蒙古のビロンチ、ライチャン及びボウに就いて」。国民優生法施行
『朝鮮民俗』3号が、今村鞆(とも)古希記念特集号。(→『鼻 を撫りて : 螺炎隨筆 : 古稀自祝記念出版』)
移川子之蔵、台北帝国大学文政学部長に就任。
足立文太郎『日 本人の動脈系統 II』(独文)
※アメリカ応用人類学会創設;エヴァンズ=プリチャード『ヌアー族』
1941
昭和16 東京人類学会を日本人類学会(Anthropological Society of Nippon)に改称。
旧制長崎医科大学にあった大陸医学研究班が大陸医学研究所病理部と改称、拡充される。
6月民族研究所の設置が決定されるも、6月22日独ソ戦勃発、近衛内閣総辞職により研究所の
設置は無期延期(→1943年1月)
小山栄三『民族と人口の理論』(日本帝国における民族と人種の統一性を説き、民族の統一 概念が主張される)
内村祐之ほか「アイヌの内因性精神病と神経性疾患」(アイ ヌの精神醫學学的研究第3報)
京城帝大に秋葉隆ら陳列館を設置。村山智順『朝鮮の郷土娯楽』調査資料第四十七輯、朝鮮総督 府、1941年
12月12日日本政府は「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争 ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」を閣議決定。
1942
3月 旧制長崎医科大学の大陸医学研究所病理部が拡充され「東亜風土病研究所」が設置される。「東亜風土病研究所は九州南部の風土病調査な どを行う一方で、中国大陸の日本軍占領地で医療・衛生行政を担っていた同仁会と提携し、漢口などで野外調査を進めた。また当時長崎で大流行をみたデング熱 の調査も行った」東亜 風土病研究所)
大蔵公望日記「昭 和17年5月25日 九時三〇分、企カク院に秋永第一部長を訪ねしも不在。よって石田調査課長を訪ねて、左の事を秋月[永]氏へ伝言頼む。/一、来月より 約一ヶ月半にて満支に旅行すること。(略)/三、今度文部省で新設の民族研究所と 東研【東亜研究所:引用者】との間に摩擦の出来ぬよう、企カク院にて仕事の配 分を考へること」
5月東京帝大五月祭にて、理学部人類学科「南方民族の身長と頭の大きさの分布、南方の土俗
器、身体特徴を陳列」(全 2020:235)。
7月 東亜民族調査委員会報告。文科省「大東亜学術教育連絡協議会」の設置を答申。南方既設学術研究施設の管理運営、民族研究所の設置構想、学術探検派遣、熱帯 医学研究所などの設置などが審議されている(全 2020:234-235)。
7月、岡正雄、総力戦研究所(Institute for Total War,
1940-1945)にて研究生(=各官庁・陸海軍・民間などから選抜された若手エリート)に対して「民族問題」にて2回講義する。
平野義太郎[1897-1980]・清野謙次『太平洋の民族=政治学』:長谷部言人「大 東亜建設二関シ人類学研究者トシテノ意見」をはじめとして、この当時の専門家は日本人の人種的純粋性を説く。
鈴木栄太郎(1894 -1966)、京城帝大社会学教室に赴任。
9月第一次満鉄調査部
事件(満鉄調査部内の左翼分子とされた大上末広・具島兼三郎・野々村一雄・堀江邑一・小泉吉雄・渡辺雄二・稲葉四郎・横川次郎ら33名が検挙)
12月『民族學研究』8巻4号で巻号シリーズが終わる。「民族研究所」の設立に関 する閣議決定(?)
〜1943 朝鮮語学会 事件
「朝鮮語学会の会員33名が治安維持法違反として検挙投獄された事件。42年夏,一女高
生の日記に〈日本語を使い処罰された〉とあったことに端を発し,同校教員が検挙され,10月にはソウルの朝鮮語学会にまで弾圧が及び,李克魯,崔鉉培,李
熙昇等の言語学者が検挙され,裁判に付された。李允宰,韓澄は拷問のため獄死している。同学会は,李朝末期に朝鮮語研究に大きな足跡を残した周時経のあと
を継いだ言語学者が1921年結成した〈朝鮮語研究会〉を,31年改称したもの」(平凡社「朝鮮語学会事件」)。
「朝鮮語学会は「ハングル表記法統一案」を作成し,機関紙
『ハングル』を発刊するなど,朝鮮語の啓蒙,普及活動を盛んに行なっていた。しかし,臨戦体制への移行が進むにつれ,朝鮮語使用に対する弾圧が強まった。
41年太平洋戦争の勃発を機に,弾圧は露骨になり,翌年
10月,治安維持法違反を理由に語学会員を大量検挙し,洪原警察署留置場に1
年間留置し,咸興(ハムン)に護送した。拘束されていた約 30人のうち
13人が公判に付されたが,2人は公判中に拷問により獄死,11人の被告は2~6年の懲役という判決を受け,語学会は解散」(ブリタニカ「朝鮮語学会事件」)
1942年11月1日 大 東亜省設置
「1942年6月16日の行政簡素化実施要領において、時局に適応した行
政各庁の組織簡素化が求められ、官吏削減を含む新官制案が各省庁で検討された。同年7月26日に行政簡素化実施案を閣議決定、各省庁等における簡素化案は
9月に纏まり、これらをもとに内閣や各省庁等の官吏削減とそれに伴う省務の調整、改組が進められた。こうした行政改編中に、9月15日、『大東亜省設置
案』と外務省行政簡素化実施案等が一括決定された。この『大東亜省設置案』は、日本
商工会議所等から広域経済圏の担当省庁設置が要望され、企画院を中心として既に検討されていた案のひとつであった。/大東亜省は、東條内閣
(提案の中心となったのは鈴木貞一企画院総裁)の大東亜省設置案に準じ、1942年(昭和17年)11月1日に設置された。大東亜省は、拓務省廃止に伴い、他省庁(興亜院、対満事務局、外務省東亜局及び南洋局)ととも
に一元化したものであり、官房、参事、総務局、満洲事務局、支那事務局及び南方事務局によって構成されていた。構想されていたのは、いわゆ
る大東亜共栄圏諸国を、他の外国とは別扱いとして外務省の管轄から分離させるこ
とにより、大日本帝国(日本)の対アジア・太平洋地域政策の中心に据えることであった」大東亜省 Wiki)
1943
昭和18年1月 民 族研究所、設立(〜1945年9月)。日本民族学会は、一 旦解散し、(財)民族学協会に改組される。『民族學研究』1月新1巻1号の創刊。1943 年11月から44年4月にかけて、民族研究所が主催した都合6回の連 続講義のべ42演者におよぶ「民族研究講座」が開催される[→国際常民文化研究叢書11: 「民族研究講座」講義録]。
●出典:清水昭俊(2020)「岡正雄」清水展・飯島秀治編『自前の思想』Pp.379-
416. 京都大学学術出版会(画像はp.381)
内村祐之、北支における麻薬問題視察、およびラバウルにお ける航空隊員の精神医学的診断に従事。
6月、鳥居龍蔵『黒龍江と北樺太』生活文化研究會。
7月『新 渡戸博士植民政策講義及論文集 』矢内原忠雄編、岩波書店。
7月 満鉄調査部のは憲兵隊に左翼思想者のリストを提出、これに基づき伊藤武雄・石堂清
倫・枝吉勇ら10名がさらに検挙された(第二次満鉄調査部事件)
11月7日国家の民族政策の大義とインテリジェンスに与みしていた民族研究所の所長・ 高田保馬(Yasuma TAKADA, 1883-1972)は民族研究講座において大東亜共栄圏の多民族 の共存共栄の未来を危惧。
移川子之蔵、台北帝国大学南方人文研究所所長に就任。
長谷部言人定年退官。鈴木尚が解剖学教室より移動して講師となる。
永橋卓介による
最初の『金枝篇・簡約版』one- volume abridgementの翻訳(生活社、三冊のうち上巻の上梓、1944年に中巻。下巻は発行されず)
1944
蒙古善隣協会・西北研究所(蒙古聯合自治政府首都・張家口に)設立(〜1945)退役軍人の 土橋一次機関長(理事長)、今西錦司が所長、石田英一郎が次長に就任。
民族研究所と民族學協
会は戦災を受けて彦根に疎開。高田保馬を新理事長に、岡正雄が事業部長
に就任する。
澁澤敬三、日本銀行総裁に就任。
小山栄三『南方民族と民族人口政策』(大和民族の雑婚・混血を嫌う)。東亜経済懇 談会編『大東亜民族誌』(大川周明、長谷部言人、清野謙次、美濃口時次郎、平野義太郎、大久保幸次、福田省三)『民族研究所紀要』(国立国会図書館)409pp. 内容[創刊の辞(高田保馬) 民族政策の基調(高田保馬) 東亜に於ける民族原理の開顕(中野清一) 匈奴・フン同族論(河上波夫) 甘粛回民の二類型(岩波忍) 南洋群島原住民の土地制度(杉浦健一) ラーマクリシュナの生涯とその宗教運動(渡辺照宏) ]
田村幸雄「満洲に於ける民族と精神病に就いて」
京城帝大に大陸資源科学研究所設置され、泉靖一が嘱託。
小金井良精死去。
『人類学雑誌』59巻686号までを出版し、中断を余儀なくされる(4年間の休刊)。
※マリノフスキー『文化の科学的理論』
1945 昭和20
5月東京大空襲。回教圏研究所も全焼。機能の停止(『回教圏』1938年7月に創刊1944
年12月号まで通巻69号)。
8月15日、敗戦。『民 族學研究』は新2巻6号まで刊行しその後停止。『民族研究彙報』(1945年8月30日)[民 族研究3(1-2)として発刊]
京城帝大が廃止され、京城大学に。法文学部に人類学科が設置。ソウルに国立民族博物館 (Museum of Anthropology)が設置される(館長;宋錫夏[ソン・ソクハ])。
足立文太郎死去。
※リントン編『世界危機下の人間科学』
1945 昭和20年9月、民 族研究所の廃止の決定(10月15日付で廃止)。ただし、その外郭団体(財)日本 民族學協会は、実質的に、民族学会の機能をもつ(→1964年まで続く)
R.ベネディクト「天皇はいかに処遇されるべきか」「日本人行動パターン」
※イギリス社会人類学会創設。
1946 昭和21
(財)日本民族学協会、GHQ民間情報教育(CIE)のパッシンによる講演会開催。 CIEは、国内における文化人類学民族誌調査を開始する。12月民族学協会は役員を改選し、会長・理事長に澁澤敬三を選出。『民族學研究』はこの年度に2冊発刊(『民族學研究』新3巻1輯、2輯 (昭22.2))——小山栄三編集(1946-1947)。
清野『日本民族生成論』(執筆は1943年)
1月「民科」(民 主主義科学者協会)発足。6月に民科は政治、経済、歴史地理、哲 学思想の5分野にわたる90名の「戦争責任者」のリストを公開する(清水 2009:21)。高田保馬(Yasuma Takata, 1883-1972)、肥後和男(民俗学:)は公職追放(高田の公職追放は1946.12-1951.06)。
高倉新一郎・北海道帝国大学農学部教授に昇進(植民地学講座)。
旧土人保護法「授産・医療・ 救済」に関する規定の削除。
5月8日朝鮮人類学会創設。8月22日京城大学がソウル大学校に改称。ソウル大学校文理
大学社会学部人類学科。
1947
昭和22 『民族學 研究』は新巻の巻号を引き継がず、この年度(それ以前の巻号を計上して)12巻1号 (昭22.7)-13巻4号 (昭23.4)と発行を続ける。
清水昭俊(2009:24)はそれを「日本民族學協會は、戦時の最末期における『民族研究』 への転換を無視し、その上で戦 後の『民族學研究』を日本民族學會発足以来の伝統に接続させようとしたといえる」と当時の日本民族学会(現在の日本文化人類学会)の姿勢を断罪している。 1947-1948年度の『民族学研究』は3号まで小山栄三を編集代表者としたまま、号ごとに、杉浦健一[1905-1954]、岡田謙、岩村忍が担当し た。
3月
学校教育法により新制大学が誕生。長崎医科大学は、長崎大学医学部になり、風土病研究所は、附属研究所になる。
アメリカ農務省A.F.レーパーら農地改革政策にともなう日本の農村調査を実施。
旧家の古文書・記録類の保存のための文部省が収集を開始(翌1948年、近世庶民史料調 査委員会)
第1回日本人類学会 日 本民族学協会 連合大会の開催(?)
5-6月台湾大学海洋研究所は蘭嶼(紅頭嶼)学術調査班を組織するが、そこに金関丈夫と国分直一が加わる。
7月、鳥居龍蔵が「遼上京城以南伊弗山上之遼代佛」を寄稿した遼海引年集編纂委員會編『遼
海引年集: 慶祝金靜庵先生六十生辰念記文集』出版地不詳。
日本学術振興会、翌1948年度の政府補助金が打ち切られることになり、同年度において「日 本学術振興会維持会」の形で続く。
柳宗悦『今も続く朝鮮の工藝』1930
年のものの再刊をする。
クライナー 1912:21
クライナー、ヨゼフ「日本民俗学・民族学:昭和10年代か
ら40年代までの展開」『近代〈日本意識〉の成立』Pp.2-24、東京:東京堂、2012年。
1948
朝鮮人類学会が、大韓人類学会と改称。
※グリオール『水の神』;ハースコヴィッツ『人間とその業績』
1949 昭和24
公職追放中(〜1951)の澁澤敬三、水産庁に水産資料館設置を進言。
石田英一郎民間情報教育局顧問に就任(6月)。石田は1951年東大・東洋文化研究所文 化人類学部門に就任。
柳田國男、日本学士院会員に選任。民間伝承の会を日本民俗学会に発展解消させ、初代会長に就任。
1949 南山大学(カソリック神言会)開学、同時に人類学民族学研究所を設置(民族学 部・言語学部・人類学 部を置く)
内村祐之、松沢病院を退職。東京大学教授は継続。
田村幸雄「蒙古民族のユム・オロショナ(ユム・オロショ ン)の症例
大韓人類学会『人類学研究』創刊。
岡正雄は日本民族学協会理事長を渋沢敬三から引き継ぎ理事長となる。
※レヴィ=ストロース『親族の基本構造』
1950
岡正雄の民族学協会の事業として、文部省助成事業として「アイヌ民族綜合調査」(1951-1952)が始まる。「学 界消息(アイヌ民族綜合調査の計 画)」『民族学研究』15(1):34,40,83, 1950.
「アイヌ民族綜合調査」 は、『民族学研究』16(3.4),1952に特集「沙流(さ る)アイヌ共同調査」というかたちで予備報告がされる。調査は1951年8月に実施され、協会からは、泉靖一、杉浦健一、瀬川清子、石田英 一郎、岡正雄の ほかに、現地では久保寺逸彦が参加した(清水 2009:37, n59,n60)。
泉は1950年に日本民族学協会が計画した「アイヌ 民族綜合調査」に参加し、1951年8月に杉浦健一(1905-1954)との沙流アイヌ集落でフィールド ワークをおこない、調査上の困難にであっていた。それは「半世紀以前の彼らの社会生活はあとかたなきまでに変貌」していたと記している(泉 1952:45)。また、同調査で石田英一郎(1952:185)は、この調査が「アイヌ民族の福祉」に寄与する可能性も示唆していた。しかし、この調査 は予備調査だけに終わった。(→「泉靖一とアイヌ民族」)
Michigan University, Okayama Project
(上掲の図を参照)
この年、朝鮮戦争勃発(-1952)
10月14〜15日日本人類学会・日本民族学会の第5回連合大会が 開催(於:東京大学理学部)大会会長: 長谷部言人 (東北大学)
1951 昭和26
杉浦健一『人類学』の刊行(日本学術会議人類学研究連絡委員会による新制大学教養科目 「人類学」教授要項による、戦後の代表的人類学教科書)
岡正雄(5/9-6/23;渡仏)
東京大学東洋文化研究所に文化人類学部門が設置される(石田英一郎、泉靖一)
柳田國男、國學院大學教授に就き、神道に関する講座を担当。
文部省資料館発足(〜1972年、後継組織、国文学研究資料館に組み込まれ「国立史料館 (〜2004)」となる。)
8月「アイヌ民族綜合調査」 (1951-1952)のうち沙流川地方で調査がはじまる。「学界消息(アイヌ民族綜合調査 の経過)」『民族学研究』16 (2):179, 1950.「アイヌ関係文献目録作成」(関)、「物質文化目録作成」(名取、八幡)、「アイヌ家系調査」(高倉・小山・泉・鈴木)、「アイヌの社会学的語 彙集成」(知里)
岩波文庫版『金枝篇(簡潔版)』永橋卓介訳で、全翻訳される。
10月27〜30日日本人類学会・日本民族学会の第6回連合大会が 開催(於:京都大学人文科学研究所・毎日新聞大阪本社)大会会長: 岩村忍 (京都大学人文科学研究所):公開講演(古野清人 (九州大学)「アジア民族の問題」;梅原末治(京都大学)「日本古代の文化」;長谷部言人(東北大学)「前期洪積世人類」)
1952
東京都立大学人文学部に社会人類学科が設置される(翌1953年東京都立大学大学 院社会科学研究科社会人類学専攻が設置)
第4回日本民俗学会年会(朝日新聞大阪本社)前列中央に、三笠宮崇仁親王(1915-2016)、左に柳田國男(1875-1962)、右に沢田四郎作(1889-1971)。
出典:近畿民俗学会:http://www.geocities.jp/abbchiro/newkinmin.html
10月11〜13日日本人類学会・日本民族学会の第7回連合大会が 開催(於:信州大学文理学部)大会会長: 鈴木誠 (信州大学医学部)公開講演(武田久吉「秘境秋山郷」;江上波夫(東京大学)「人類社会に於ける農耕民型と遊牧民型」;長谷部言人(東北大学)「人の進化 は手の働きから」)
1953 昭和28
1月、鳥居龍蔵『ある老学徒の手記』朝日新聞社。
澁澤敬三、KDD創設に伴い社長に就任。十和田科学博物館開設。
馬淵東一・東京都立大学(社会学・社会人類学)教授に就任。東京大学理学部人類学科を母 体として大学院生物系研究科に人類学課程が設置。
杉浦健一(1905-1954)東京大学教養部文化人類学科教授(設立は1954)
泉靖一の「アイヌ民族綜合 調査」における1953年8月29日の記録については「泉靖一とア イヌ民族」を参照。
8月22〜24日日本人類学会・日本民族学会の第8回連合大会が 開催(於:北海道大学医学部・札幌市民会館)大会会長: 児玉作佐衛門 (北海道大学医学部);シンポジウム: 「アイヌ問題」:公開講演(長谷部言人 (日本学士院)「最近20年間に於ける進化人類学」;岡正雄(東京都立大学)「熊祭の分布と源流」;解説:久保寺達彦(東京学芸大学)「記録映画『アイヌ の川漁』」;今西錦司(京都大 学)「ネパール・ヒマラヤの民族学的スライド」;泉靖一(東京大学)「在ブラジル日本人移民のスライド」)
朝鮮戦争休戦協定。
※クローバー編『今日の人類学(Anthropology Today: An Encyclopedic Inventory)』
1954 昭和29
東京大学教養学部教養学科文化人類学及び人文地理学分科の設立。杉浦健一死去(泉靖一(1954)「故杉浦健一教授と人類学・民族学:追悼と評伝」『民族学研究』18(3):266 -272.)
10月15〜18日日本人類学会・日本民族学会の第9回連合大会が 開催(於:小田原=城内高等学校・鎌倉=横浜国立大学・東京=東京大学医学部)大会会長: 鈴木尚 (東京大学);公開講演(︎「トルキスタンとヒンズークシュ山脈の旅」 ・岩村 忍(京都大学)▶︎「ユーカラの伝承」 ・金田一京助(国学院大学)▶︎︎記録映画「アイヌの川漁」 「人類の進化と日本人の起源」 ・長谷部言人(日本学士院)▶︎「日本に於けるドルメンについて」 ・藤田亮策(東京芸術大学)スライド 解説:斉藤忠、九州北端ドルメンの発掘、大湯の環状列石の発掘︎)
クラ
イナー 1912:22
クライナー、ヨゼフ「日本民俗学・民族学:昭和10年代から40年代ま
での展開」『近代〈日本意識〉の成立』Pp.2-24、東京:東京堂、2012年。
クラ
イナー 1912:23
クライナー、ヨゼフ「日本民俗学・民族学:昭和10年代から40年代ま
での展開」『近代〈日本意識〉の成立』Pp.2-24、東京:東京堂、2012年。
1955
10月15〜17日日本人類学会・日本民族学会の第10回連合大会が 開催(於:南山大学・愛知県文化会館・名古屋大学医学部)大会会長:アントン・レンメルヒルト (南山大学)公開講演(︎「カラコラム探検」 ・今西錦司(京都大学)▶「真正原始民族とその文化」 ・M.Gausinde(アメリカ・カトリック大学)︎▶︎︎「文明の発祥地メソポタミア」 ・江上波夫(東京大学)▶︎記録映画3本▶︎︎「サルンクルの踊り(平取アイヌ)」知里真志保(北海道大学)▶︎「アイヌの古式舞踊(釧路アイヌ)」河野 広道(北海道大学)▶「ヒシ祭(釧路・塘路アイヌ)」更科源蔵︎︎)
※バランディエ『黒アフリカの現代社会学』
1956
澁澤敬三、日本モンキーセンター初代会長に就任。
11月4〜6日日本人類学会・日本民族学会の第11回連合大会が 開催(於:天理大学)大会会長: 丸山仁夫 (天理大学);シンポジウム: 「農耕」;公開講演(︎「近東古代文化」C.Coon(ペンシルヴァニア大学)▶︎「アフガニスタンの蒙古族 -故 山崎忠教教授を偲びて-」 ・岩村 忍(京都大学)・中山正善(天理教)▶︎︎映画「新しい米つくり」 「みちの動き」 スライド「アフガニスタン」 ・梅棹忠夫(大阪市立大学)︎)
1957
10月24〜27日日本人類学会・日本民族学会の第12回連合大会が 開催(於:九州大学医学部・玉屋ホール)大会会長: 金関丈夫 (九州大学医学部);特別講演(︎「Racial Alignment of the Indian Population」B.S.Guha(インド政府人類学研究所)▶︎「Origin and Spread of the Dongson Culture Asiatic Influence in South America in Pre Columbian Times」R.Heine-Geldern (ウィーン人類学会)▶︎︎「戦後における九州の考古学的調査」 ・鏡山猛 (九州大学)︎);シンポジウム: 「日本語の起源」 ・長谷部言人(日本学士院):公開講演(「中国先史時代の諸問題」 ・水野清一(京都大学)▶「西 アジアに文明の起源を尋ねて」 ・江上波夫(東京大学))
1950年代 最後の千島アイヌの死亡の報告。
1958
10月11〜14日日本人類学会・日本民族学会の第13回連合大会が 開催(於:新潟大学医学部・新潟日報ホール・新潟大学工学部)大会会長:今村豊 (新潟大学医学部);特別講演(「信濃川沿岸の遺跡」 ・中村孝三郎(長岡博物館)▶「Pictorail Representation of God and Dieties in the Religions of Mankind」 ・W.Koppers(ウィーン大学));シンポジウム: 「日本人の起源」 ・岡正雄(東京都立大学);公開講演(「アンデス地帯の諸遺跡」泉靖一(東京大学)▶「メーコン河を遡る」松本信廣(慶応大学)▶「中近東の旅」池田次郎(新潟大学)▶「インドにおける未開と文明の人々」 中根千枝(東京大学))
1959
10月9〜13日日本人類学会・日本民族学会の第14回連合大会が 開催(於:大阪大学医学部・毎日新聞ホール)大会会長: 小浜基次 (大阪大学医学部);特別講演(︎「イラン・ペルセポリス付近の先史時代遺跡発掘 略報」江上波夫(東京大学)▶︎「熱帯アフリカ横断の印象」 今西錦司(京都大学)▶︎︎「アンデスの古代文化」 石田英一郎(東京大学)▶︎「チベット人の鳥葬」 川喜田二郎(大阪市立大学)▶︎︎「Anthropology and Ethnography for the Pygmy Tribes」M.Gusinde(南山大学)▶︎「マラヤの社会制度」鈴木二郎(東京都立大学)▶︎︎「戦後のメラネシヤ」鳥越憲三郎(大阪学芸大学) ▶︎調査旅行報告についての討議」 司会;岡正雄(東京都立大学)▶増上寺徳川将軍墓の調査について」 ・鈴木尚(東京大学)・矢島恭介(上野博物館)映画「北欧史前考古学復元」 デンマーク、ナショナル・ミュージアム製作︎︎▶︎「The Life of the Bushmen in Kalahari Desert, South Africa」M.Gusinde(南山大学)︎)シンポジウム: 「大阪」 蔵内敷太 (大阪大学)/喜多野清一 (大阪大学);公開講演(「アンデスの遺跡」泉靖一(東京大学)▶「チベット人の村に住みて -映画・秘境ヒマラヤを征く-」 川喜田二郎(大阪市立大学))
1960
10月30〜11月3日日本人類学会・日本民族学会の第15回連合大会が
開催(於:熊本大学医学部・熊本日日新聞ホール)大会会長:忽那将愛[くつな・まさちか]
(熊本大学医学部);特別講演(「ポリネシアの人類学的調査」 鈴木誠(信州大学)︎▶「西南諸島の家族制」
大山彦一(鹿児島大学)︎▶︎︎「ヒマラヤ雪男踏査の結果報告」 小川鼎三(東京大学)▶︎「隠れキリシタンの諸相」 古野清人(北九州大学)
)公開講演(「バリー島の農民」宮本延人(東海大学)▶︎︎「極北の人と文化」岡正雄(明治
大学)▶︎「ヨーロッパの晩期最新世人類と日本新石期人の関係について」 長谷部言人(日本学士院)▶︎︎映画「ヒマラヤの雪男を求めて」
小川鼎三(東京大学)山崎英雄(札幌医科大学)︎)
1961
澁澤敬三、東洋大学理事に就任。小川原湖民俗博物館開設。
アイヌ人への道庁による福祉政策はじまる(→「アイヌとシサムのためのアイヌ文化入門」)
池田・ケネディ日米首脳会談で、日米間の科学協力事業実施が定められ、日本学術振興会と米国科学財団(NSF)がその実施機関に指定
10月13〜16日日本人類学会・日本民族学会の第16回連合大会が 開催(於:神戸医科大学・神戸新聞会館)大会会長:武田創 (神戸医科大学);特別講演(「ビルマ言語調査の旅」西田龍雄 (京都大学)▶ 「アイヌ軟部人類学」渡辺左武郎(札幌医科大学))公開講演(︎「明石原人について」長谷部言人(東京大学)▶︎「家島調査報告」和島誠一(資源科学研究 所)▶︎︎「パキスタン、アフガニスタンの旅」 水野清一(京都大学)▶映画「アンデス山脈東斜面コトシュの発掘」 ・泉 靖一(東京大学)︎)
※ファノン『地に呪われたる者』
柳田國男死 去、日本民俗学会葬が営まれる。
Ainu creed and cult / by Neil Gordon Munro ; edited with a preface and an additional chapter by B.Z. Seligman ; introduction by H. Watanabe, Routledge & K. Paul , 1962
10月12〜15日日本人類学会・日本民族学会の第17回連合大会が 開催(於:東京大学理学部・明治大学)大会会長:泉靖一 (東京大学教養学部);特別講演(「The Central Highlands of East New Guinea」 ・H.Aufenanger(南山大学)▶︎︎「The Dignified Attitude of the Royal Uigurs」 ・A.von Gabain(ハンブルグ大学))公開講演(「ネアンデルタール人類の発掘」 鈴木尚(東京大学)▶「アラスカのエスキモー」岡正雄(明治大学)▶「ポリネシアン人類学紀 行」 島五郎(大阪市立大学))
1963
10月11〜16日日本人類学会・日本民族学会の第18回連合大会が 開催(於:鹿児島大学医学部・鹿児島銀行別館ホール)大会会長:大森浅吉 (鹿児島大学文医学部);特別講演(「種子島々民に関する生体学的検索」 大森浅吉(鹿児島大学)▶「南海諸地域と西南日本」 国分直一(下関水産大学)▶「日本在来馬の源流」 林田重幸(鹿児島大学))公開講演(「印度の農村生活」 中根千枝(東京大学)▶「ネアンデルタール人について」 鈴木尚(東京大学)▶「エスキモー 人の生活」岡正雄(明治大学))
1964
(財)日本民族学 協会の、日本民族学会へ の再組織化。日本民族学会(Japanese Society of Ethnology)の[再]創設。日本民族学協会は、(財)民族学振興会と改称。
11月28〜30日日本人類学会・日本民族学会の第19回連合大会が 開催(於:京都会館大会議場)大会会長:今西錦司 (京都大学理学部);特別講演(「科学文明と人類」 湯川秀樹 (京都大学) 「日本の近代」 桑原武夫(京都大学))
1965
10月16〜18日日本人類学会・日本民族学会の第20回連合大会が 開催(於:東北大学医学部)大会会長:石田英一郎 (東北大学人文学部);特別講演(「文化 の解析」梅棹忠夫 (京都大学)▶「古代東北における稲作農耕の展開と蝦夷」伊東信雄(東北 大学))
1966
10月5〜6日日本人類学会・日本民族学会の第21回連合大会が 開催(於:長崎大学医学部)大会会長:安中正哉 (長崎大学医学部)特別講演(「西北九州出土の古人骨」 内藤芳篤(長崎大学)▶「南蛮唐紅毛の影響を受けた長崎年中行事」永島正一 (長崎県立図書館))
1967
2月中根千枝『タテ社会の人間関係』講談社。
「月刊誌『中央公論』から「どんなテーマでもいいから論文を書いて」といった注文を受
け、「日本の集団構造はどこでも同じ」というテーマを思いつく。ホテルにこもり、2週間ほどで「日本的社会構造の発見」(『中央公論』昭和39年5月号)
を書き上げたところ、猪木正道(Masamichi
INOKI,
1914-2012)がその論文を評価した事も手伝い複数の出版社から書籍化の話を持ちかけられ、論文を加筆・修正した『タテ社会の人間関係』を1967
年に(昭和42年)に刊行。2015年(平成27年)現在までに124刷116万部超のロングセラーを記録し、イギリスで出版された英語版(Japanese
society, University of California Press, 1970)は、13カ国で翻訳出版された」ウィキ日語)
長崎大学医学部の風土病研究所は、国立学校設置法の一部改正により「熱帯医学研究所」と改称される。
特殊法人「日本学術振興会」が設置される。
11月11〜12日日本人類学会・日本民族学会の第22回連合大会が 開催(於:南山大学)大会会長:アントン・レンメルヒルト (南山大学);特別講演(「チン パンジーの社会」 伊谷純一郎(京都大学)▶「東ニューギニア高地人」小林知生(南山大学))
山口昌男「海外調査のモラル」『A・A通信』3号。
1968
日本人類学会・日本民族学会の連合大会が 開催されず(大学紛争のため)
※『カレント・アンソロポロジー』誌、2月に「社会的責 任」を特集に組む。
1969
11月12〜14日日本人類学会・日本民族学会の第23回連合大会が 開催(於:名鉄犬山ホテル)大会会長:近藤四郎 (京都大学霊長類研究所)シンポジウム(「生 体と生活」 篠崎信男(人口問題研究所)▶人類学におけるフィールドワークの諸問題」 佐々木高明(立命館大学))
※『カレント・アンソロポロジー』誌、「社会研究におけ る役割葛藤の諸問題」を特集に組む。
1970
本多勝一「調査される者の眼:人類学入門以前」『思想の科学』1970 年6月号
山口昌男「調査する者の眼:人類学批判の批判」『展望』 1970年10月(→後に『新編人類学的思考』筑摩書房、pp.43-71、1979年に収録/『山口昌男著作集4:アフリカ』筑摩書房、2003、所 収)
11月6〜7日日本人類学会・日本民族学会の第24回連合大会が 開催(於:久留米市民会館)大会会長:竹重順夫 (久留米大学医学部)特別講演(「弥生時代 の貝論」永井昌文(九州大学)▶「オーストラリア農村の調査から」 岡正雄(東京外語大学))シンポジウム(「歯の人類学」 桐野忠大(東京医科歯科大学)▶「末子相続と社会構造」 青山道夫(東京経済大学)吉田禎吾(東京大学))
内村祐之・ 天皇への御進講「異常な精神現象の進化論的解釈」
明治前日本人類学・先史学史 : アイヌ民族史の研究(黎明期) / [児玉作左衛門著] ; 明治前日本科学史刊行会編, 日本学術振興会 , 1971年
ニコライ・ネフスキー『月 と不死』平凡社
11月6〜7日日本人類学会・日本民族学会の第25回連合大会が 開催(於:東京慈恵会医科大学)大会会長:森田茂 (東京慈恵会医科大学);特別講演(「東 南アジアにカミを訪ねて」 岩田慶治(大阪市立大学)▶「アムッド人の形質とその進化上の意 義」 鈴木 尚(東京大学) )
※『カレント・アンソロポロジー』誌、「人類学者の倫理 をめざして」を特集に組む。
The Ainu ecosystem : environment and group structure / by Hitoshi Watanabe, revised ed.. - Tokyo : University of Tokyo Press , 1972.
第26回日本人類学会・日本民族学会連合大会(於:札幌医科大学)開催(8月25-26日) 大会会長: 渡辺左武郎 (札幌医科大学)シンポジウム: 「北方圏の人類学と民族学」 渡辺左武郎(札幌医科大学)。
同連合大会にて、新 谷行[本名:新屋英行、北方民族研究所を 主宰](Gyo SHINYA, 1932-1972)とアイヌ解放同盟(1972 -)の結城庄司(Shoji YUUKI, 1938-1983)および、太田竜(Ryu OTA, 1930-2009)とシンポジウム壇上を占拠し「公開質問状」を提出(→「アイヌ文化略奪史入 門」)。
ウタリ生活実態調査。
文部省資料館が、国文学研究資料館に組み込まれ「国立史料館(〜2004)」となる。
津村 喬「<
同化>する者の眼〔本多勝一,山口昌男論争によせて〕」『中央公論』87(2), 172-196, 1972-02.
1973
11月23〜24日日本人類学会・日本民族学会の第27回連合大会が
開催(於:国立京都国際会館)大会会長:梅棹忠夫 (京都大学人文科学研究所);特別講演: 「精神人類学の構想」 藤岡喜愛(愛媛大学)
※T. Asad (ed),
Anthropology and Colonial Encounter. ; D. Hymes, eds.,
Reinventing Anthropology.
1974
北海道ウタリ福祉対策を道が 策定
モー ナ・ルダオ(1880-1930)の遺体は1974年に「霧社山胞抗日起義記念碑」 脇の「莫那魯道烈士之墓」に葬られる。
11月1〜2日日本人類学会・日本民族学会の第28回連合大会が 開催(於:農協ビル)大会会長:加藤守男 (東邦大学医学部);特別講演(「海上の道 -海流・季節風・動物をめぐる問題-」 国分直一(梅光女子大学)▶「新発見の彩色画階段について -エジプト・ルクソール近郊マルカタ遺跡の発掘ー」 桜井清彦(早稲田大学) )
1975
11月15〜16日日本人類学会・日本民族学会の第29回連合大会が 開催(於:八王子 (大学セミナーハウス))大会会長:宮本馨太郎 (立教大学文学部);特別講演(「人類学における人口研究の課題」 小林和正(京都大学)▶「東京 の水」 宮本馨太郎(立教大学) )
1976
11月12〜13日日本人類学会・日本民族学会の第30回連合大会が
開催(於:愛知会館)大会会長:酒井琢朗 (愛知学院大学歯学部);特別講演:「イランにおける人類学研究-その課題と展望」 池田次郎(京都大学)
1977
10月29〜30日日本人類学会・日本民族学会の第31回連合大会が
開催(於:早稲田大学15号館)大会会長:西村朝日太郎 (早稲田大学文学部);特別講演: 「人類学より見た日本古代文化」 水野 裕(早稲田大学)
1978
11月9〜10日日本人類学会・日本民族学会の第32回連合大会が 開催(於:新潟厚生年金会館)大会会長:大会会長: 小片保 (新潟大学医学部);公開講演(「エ ジプト・マルカタ遺跡の発掘調査」 川村喜一(早稲田大学)▶「E.S.Morse 来日100年を記念して」 渡辺直経(東京大学))
1979
10月6〜7日日本人類学会・日本民族学会の第33回連合大会が 開催(於:東京外国語大学・朝日講堂)大会会長:北村甫 (東京外国語大学アジア・アフリカ 言語文化研究所)公開講演(「日本人のなりたち」 鈴木尚(成蹊大学)▶「日本人の あゆんできた道」 宮本常一(武蔵野美術大学)▶「日本人のことばのなりたち」 大野晋(学習院大学))
1980
11月20〜21日日本人類学会・日本民族学会の第34回連合大会が 開催(於:長崎市民会館)大会会長:内藤芳篤 (長崎大学医学部):シンポジウム: 「骨からみた日本人の起源」 池田次郎(京都大学)
1981
9月10〜11日日本人類学会・日本民族学会の第35回連合大会が
開催(於:札幌大学・共済ホール)大会会長:宮良高弘 (札幌大学);公開講演(「アイヌ民族の自然観について」 萱野茂▶「日本の生態史的位置づけ」川喜田二郎)
1982
10月15〜16日日本人類学会・日本民族学会の第36回連合大会が 開催(於:東京慈恵会医科大学) 大会会長:徳留三俊 (東京慈恵会医科大学);特別講演(「わが国戦後の人類学の傾向」 近藤四郎(大妻女子大学)▶「民族宗教の座標」 岩田慶治(国立民族学博物館))
1983
9月25〜26日日本人類学会・日本民族学会の第37回連合大会が 開催(於:信州大学)大会会 長:大参義一 (信州大学人文学部);特別講演(「儀礼とコスモロジー」 吉田禎吾(聖心女子大学)▶「日本の古代アンデス文化研究」寺田和夫(東京大学))
1984
11月16〜17日本人類学会・日本民族学会の第38回連合大会が 開催(於:全共連ビル)大会会 長:猪口清一郎 (昭和大学医学部):シンポジウム: 日本人類学会創立百年記念シンポジウム 『我が国の人類学の現状と将来』 木村邦彦(防衛医科大学校)
1985
アイヌ肖像権裁判はじまる(チカップ美恵子(1948-2010)が、『アイヌ民族誌』(第一法規出版)に撮影され「滅びゆく民族」のキャプションとともに使われた謝罪要求。同年に 著者の更科源蔵(Genzo SARASHINA, 1904-1985)は死亡するが、裁判はつづく。原告側の証人の萱野茂(1926 -2006)は『アイヌ民族誌』 は調査時期の明記や引用文献の記載などの研究倫理上の瑕疵があると指 摘。裁判は1988年に和解。監修者の高倉新一郎(1902-1990)と犬飼哲夫(1897-1989)は謝罪する。)。
11月29〜30日本人類学会・日本民族学会の第39回連合大会が
開催(於:筑波大学)大会会
長:綾部恒雄 (筑波大学歴史人類学系);シンポジウム: 「スポーツと人類学」 香原志勢(立教大学) 長島信弘(一橋大学)
1986
11月2〜3日本人類学会・日本民族学会の第40回連合大会が 開催(於:九州大学医学部)大会会長:永井昌文 (九州大学医学部);シンポジウム: 「西南日本人ー文化とヒトの渡来をめ ぐって」 埴原和郎(東京大学)
1987
10月10〜11日日本人類学会・日本民族学会の第41回連合大会が 開催(於:京都大学教養部)大会会長:米山俊直 (京都大学教養部);特別講演(「古代東アジアと日本」上田正昭(京都大学)▶「トカゲの尻尾切り」 岡田節人(岡崎国立共同研究機構))
1988
東京都調査、都内に2700 名余のアイヌ人口
11月29〜30日日本人類学会・日本民族学会の第42回連合大会が 開催(於:大阪国際交流センター)大会会長: 寺門之隆 (大阪市立大学医学部)シンポジウム: 「オセアニアにおける移住史をめぐって」 石川栄吉(中京大学) 畑中幸子(中部大学)
1989
10月21〜22日日本人類学会・日本民族学会の第43回連合大会が 開催(於:岡山理科大学理学部)大会会長:川中健二 (岡山理科大学理学部);特別講演(「瀬戸内の民族学-海人・王権・環シナ海文化-」 佐々木高明(国立民族学博物館)▶「瀬戸内の考古学-縄文文化の研究史について-」 鎌木義昌(岡山理科大学)▶「瀬戸内の人類学-吉備地方と人骨研究を中心として-」 池田次郎(岡山理科大学))
1990
米国「ネイ ティブ・アメリカンの墳墓保護と返還に関する法律」(NAGPRA, Native American Graves Protection and Repatriation Act)が制定。
11月12〜13日日本人類学会・日本民族学会の第44回連合大会が 開催(於:かながわサイエンスパーク)大会会長:森本岩太郎 (聖マリアンナ医科大学);特別講演(「日本のミイラ仏の形質」森本岩太郎(聖マリアンナ医 科大学)▶「日本のミイラの思想的背景」 松本昭(昭和女子大学)▶「岩手県平泉、中尊寺の藤原氏4代のミイラについて」 鈴木尚(東京大学))
1991
10月11〜12日日本人類学会・日本民族学会の第45回連合大会が 開催(於:東京大学教養学部)大会会長:大貫良夫 (東京大学教養学部);シンポジウム: 「子供を持つとはどういうことか」 内堀基光(一橋大学)
12月、東京大学総合研究資料館特別展示実行委員会編『乾板に刻まれた世界 :
鳥居龍蔵の見たアジア』東京大学総合研究資料館
1992
10月24〜25日日本人類学会・日本民族学会の第46回連合大会が 開催(於:大阪大学医学部)大会会長: 俣野彰三 (大阪大学人間科学部)特別講演(「死にゆく人々の心理ーホスピスケアの実践からー」 柏木哲夫(淀川キリスト教病院)▶「Images in Advertizing: Japan and the West」 B.D. Moeran (ロンドン大学))
1993
10月29〜30日日本人類学会・日本民族学会の第47回連合大会が
開催(於:立教大学新座キャンパス)大会会長:香原志勢
(立教大学一般教育部)シンポジウム: 「身体と文化のはざま」 香原志勢(立教大学);公開講演(「ヒトを見る楽しみ」 曾野綾子(作家)▶「ヒトはサルの仲間の優等生か」 香原志勢(立教大学))
1994
10月8〜9日日本人類学会・日本民族学会の第48回連合大会が 開催(於:鹿児島大学)大会会長:小片丘彦 (鹿児島大学歯学部)シンポジウム: 「隼人の原像」 池田次郎(京都大学)
1994-1995 日本民族学会会長・青木保(第16期)
エピソード、X会員(SNSへの投稿より):「むかし会長だった(1994-95年)青木保 さん(元文化庁長官、現国立新美術館館長)が、学会理事会の承認なしに。民族学会→文化人類学会への名称変更を読売新聞に打ち上げたので、その翌年の改称 決議は大荒れで大会で否認されました。その後、2002-03年に非常に人望の厚かった大塚和夫さん(故人)の会長時にようやく改称に至りました。学会と 言えども、会長が合意形成をえることなく専横したために徒労な7年以上時間が経過しました」
「「改称問題」に
関わるお知らせとお願い」2002年7月9日大塚和夫
1995
「ウタリ対策のあり方に関する 有識者懇談会」設置
10月14〜15日日本人類学会・日本民族学会の第49回連合大会が 開催(於:千葉大学)大会会長:大給近達 (千葉大学文学部)特別講演: 「生命活動としての文化」 多田富雄(東京大学)
1996
官房長官に提出された「ウタリ 対策のあり方に関する 有識者懇談会報告書」にて、アイヌの先住民性に関する事実確認。
川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』講談社、にて池田敏雄・金関丈夫らの『民俗台湾』における 台湾趣味エキゾチズムを批判。
10月18〜19日日本人類学会・日本民族学会の第50回連合大会が
開催(於:マリトピア)大会会長:穐吉敏男 (佐賀医科大学)特別講演:
「吉野ヶ里について」 高島忠平(佐賀県教育庁) ;公開講演: 池田次郎(京都大学) 佐原真(国立歴史民俗博物館)※は第50回をもって終了。
1997
旧土人保護法廃止。旭川市旧土
人保護地処分法廃止。アイヌ文化振興法の制定(5月制定、7月施行)。11月アイヌ文化振興法の指定法人として(財)アイヌ文化振興・研究推進機構を指
定。
1999
10月(財)民族 学振興会は、財政難を理由に解散する(財政難のために解散し現在は公益信託・澁澤民族学振興基金となっている——解散時の理事長は中根千枝会員である[中 根 1999])。振興会の資料は、神奈川大学・日本日本常民文化研究所に移管。日本民族学会と共同で管理するようになる。
2001
小熊英二「金関丈夫と『民俗台湾』」論文において、金関丈夫の優生学政策を批判。
2002
アイヌの人たちの生活向上に 関する推進方策
「「改称問題」に 関わるお知らせとお願い」2002年7月9日大塚和夫(日本民族学会会長,第20期, 2002-2003年度)
2003
坂野徹「漢化・日本化・文明化」論文において、『民俗台湾』における池田敏雄の生活改善=文
明化を批判。
2004
日本民族学会(1964-2004)は、日本文化人類学会(Japanese Society of Cultural Anthropology)に改称——この時の学会は任意団体(2004-2019)のまま引き継ぐ。
国文学研究資料館が大学共同利用機関法人人間文化研究機構傘下となったことに伴い組織が 改組され、国立史料館は廃止に。
三尾裕子『台湾文献』にて、『民俗台湾』がもつ内在的抵抗と植民地主義の共存と いう「グレーゾン」に、川村(1996)や小熊(2001)らの戦前の日本人人類学者への植 民地主義批判を読み込む行為であると批判(→日本語文献は三尾(2006))
2006 北海道アイヌ実態調査、道内 約24000人(23,782)の居住の報告
2007 9月「先 住民族の権利に関する国際連合宣言」
2008
北海道大学アイヌ民族生活実 態調査(北大アイヌ・先住民研究センター):経済格差すなわち、生活保護率の高さ、大学進学率の低さが指摘される。
6月5日日本文化人類学会・山本真鳥会長は「アイヌ民族の権利確立を考える議員の会」(世話
人代表・今津寛)に旧民族学会の「アイヌ研究に関する日本民族
学会研究倫理委員会の見解(1989)」が変わらないことを通知。
6月6日衆参両議院にて「ア
イヌ民族を先住民族とすることを求める決議」採択。7月「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」設置
2009 7月「アイヌ政策のあり方に 関する有識者懇談会」が官房長官に報告書提出。12月「アイヌ政策推進会議」(座長:平 野博文・官房長官)発足
2010
3月「民族共生の象徴となる 空間」「北海道外アイヌの生活実態調査」両作業部会設置。
国立博物館と山梨大学の研究グループは、札幌医大に保管されている約100体の遺骨
DNAを採取し「アイヌ民族の起源を調べる研究」を2010年頃より開始した。『北海道新聞』2017年6月7日における「オピニオン」記事において、国立博物館の篠
田謙一は
「盗掘された遺骨」ではないとし「江戸時代以前に埋葬された遺骨」であると「判断」したと発言している——ただし「判断」の実証的根拠は示されていない。
クイーンズランド大学のMorris Low(2012)は"Physical Anthropology in Japan:The Ainu
and the Search for the Origins of the Japanese," Current Anthropology,
53(S5):S57-S68, 2012.
は、この種の自然人類学者の研究は(科学的には)あり得ない日本人の「純粋性」の固執するイデオロギーに満ちたものであると批判している。
2011
魏徳聖(Wei Te-sheng, 1969-)監督『セデック・バレ(賽德克巴萊』の公開。同劇映画は先住民セデック族による抗日暴動である霧社事件を描いた作品(→「Seediq Bale(真の人)と医学倫理について」)。
6月「民族共生の象徴となる
空間」「北海道外アイヌの生活実態調査」両作業部会より報告書提出。
2012 内閣官房アイヌ総合政策室は 「アイヌ政策関係省庁連絡会議」において「民族共生の象徴となる空間」基本構想の決定を発表(7月21日)
2014 6月『アイヌ文化の復興等を
促進するための「民族共生の象徴となる空間」の整備及び管理運営に関する基本方針について』 閣議決定
2015年
3月、日本文化人類学会は、日 本日本常民文化研究所と覚書を交換し、「民族学振興会資料」の資料公開のイニシアチブを日本 日本常民文化研究所に委譲し、円滑な学会資料の公開を促進することを決定。「『民族研究講座』講義録」(国 際常民文化研究叢書、第 11巻)が公刊される。
2015
2016
2017
アイヌ民族から日本の大学で保管されている遺骨の返還運動が本格化する
(再掲)国立博物館と山梨大学の研究グループは、札幌医大に保管されている約100体の 遺骨DNAを採取し「アイヌ民族の起源を調べる研究」を2010年より開始した。『北海道新聞』2017年6月7日における「オピニオン」記事において、 国立博物館の篠田謙一は「盗掘された遺骨」ではないとし「江戸時代以前に埋葬された遺骨」であると「判断」したと発言している——ただし「判断」の実証的 根拠は示されていない。
e.g. Adachi, N. et al. 2018. Ethnic
derivation of the Ainu inferred from ancientmitochondrial DNA data, Am
J Phys Anthropol. 2018;165:139–148.
サハリンのアイヌ墓地から持ち出された地 元集落の首長、バフンケ(1855-ca.1919; 日本名・木村愛吉)の遺骨が、北海道大から遺族へ返還される[→「アイヌ遺骨等返還の研究倫理」]
7月29日九州人類学研究会、事務局の解散を決定
9月1日紋別アイヌ協会の畠山敏会長ら20名は儀礼につかうための鮭を手に入れるために藻別川に網を入れたが、行政は警察を使いそれを阻止した(同年8月30日に人種差別撤廃条約委員会は、日本政府に対し て天然資源や土地に関する権利が十分に保障されていないとして改善を求める勧告をしたばかりであった)。
2018年12月 琉球民族遺骨返還請求訴訟(京都地裁)提訴。
2019
日本文化人類学会は3月31日をもって任意団体として組織を解消する。同年4月1日より 一般社団法人日本文化人類学会(会長:清水展)となる。
4月2019年通常国会に「アイヌの人々の誇りが 尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律案」を提出。あわせて「アイヌ文化振興法」を廃止した(→「アイヌ文化略奪史入門」)。
2020
7月21日民族共生象徴空間(北海道白老郡白老町)ウポポイ開業。
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