優生学の現代
History of American Eugenics
優生学(eugenics) は、遺伝現象を利用して、優良な遺伝子をもつ子孫を次世代に反映させようとする一種の応用人類遺伝学。人類遺伝学(human genetics)は「ヒトの身体の特徴や精神など種々の正常および異常形質の起源、 発現、遺伝様式、あるいは民族など集団中における頻度や変化などを研究する学問」コトバンク)という意味であるため に、応用という文字をとると、優生学になってしまうという、やっかいな事情がある。しかし、極端で非科学的な応用をやめた優生学は、人類遺伝学であるとも定義 される。優生学は、今日では、当初の優生学的知見による科学的有効性はおおむね否定されており(最新の遺伝理論によりその有効性が否定されているため に)、疑似科学のひとつとされている。そのため、21世紀の現在では、自分は優生学者であると自称する人たちは極めてまれである(→「優生学大全」「各国別比較:優生学の年表」)。
ナチスの Gleichschaltung (強制的同質化) はユダヤ人排斥のための論理的予見をなしていたが、逆に論理的に突き詰めれば、なぜロマやユダヤ人への同質化(=強制的同化政策)のモーメントに繋がらなかったのだろう、と考 えることも可能だ。そうでなかった理由は、優生学や人種学によるロマやユダヤ人が同質化にそぐわない「科学的証明」が最初から必要だとしたらどうであろうか(あるいは、この学問の隠されたコンセンサスに、「白人の優越性を証明するために〈劣った他者〉が必要」という論点先取(Petitio Principi)の発想があったのではないかということだ)。つまり学問 そのものも「真理という法廷」では、しばしば戦争犯罪や人道的犯罪の被告になり得るのである。
Gleichschaltung (German pronunciation: [ˈɡlaɪçʃaltʊŋ]), or in English co-ordination, was in Nazi terminology the process of Nazification by which Adolf Hitler and the Nazi Party successively established a system of totalitarian control and coordination over all aspects of German society and societies occupied by Nazi Germany "from the economy and trade associations to the media, culture and education".[1]/ The apex of the Nazification of Germany was in the resolutions approved during the Nuremberg Rally of 1935, when the symbols of the Nazi Party and the State were fused (see Flag of Germany) and German Jews were deprived of their citizenship (see Nuremberg Laws).- Gleichschaltung.
●今後の更新作業は「優生学の年表」と「英国・ヨーロッパ・米国・ドイツ・日本の優生学年表」を中心におこないます。
《前史:英国ほか欧州》——この年表のオリジナルは
「アメリカ合衆国の優生学」
1798 トーマス・ロバート・マルサス(Thomas Robert Malthus, 1766-1834)匿名で『人口論(An Essay on the Principle of Population)』(初版)を出版
1803 マルサス『人口論』第2版、これによりマ ルサス主義(Malthusianism) が膾炙。
1932 1832 Royal
Commission's findings(Royal
Commission into the Operation of the Poor Laws 1832)
1834 英国で新・救貧法(Poor Law Amendment Act 1834, PLAA, New Poor Law)
1840年代 アイルランド・じゃがいも大飢饉
1853 Arthur de
Gobineau,
Essai sur l'inégalité des races humaines, tomes I et II (1853), III
[archive], IV [archive], V et VI (1855). Les livres 1 à 6 sont
disponibles sous format word et PDF ici : Uqac.ca [archive]
1859 チャールズ・ダーウィン『種の起源』
1869 Galton, F.
(1869). Hereditary Genius. London: Macmillan.
1871 チャールズ・ダーウィン、The
Descent
of Man, and Selection in Relation to Sex [pdf]、
で、マルサス的な優生概念を記す。
1877 マルサス主義者ロバート・ブリュアー= リットン、ベンジャミン・ディズレイリー首相の命によりインド総督に就任。(インドでは餓死で1000万人が餓死といわれる)
1880年代
"The American eugenics movement was rooted in the biological determinist ideas of Sir Francis Galton, which originated in the 1880s. Galton studied the upper classes of Britain, and arrived at the conclusion that their social positions were due to a superior genetic makeup" - Eugenics in the United States
1883 フランシス・ゴルトン(Francis Galton, 1822-1911)「優生学」を提唱
Galton, F (1883). Inquiries into Human Faculty and Its Development. London: J.M. Dent & Company
[This book's] intention is to touch on various topics more or less connected with that of the cultivation of race, or, as we might call it, with "eugenic"1 questions, and to present the results of several of my own separate investigations. →(脚注1の部分)"1 This is, with questions bearing on what is termed in Greek, eugenes, namely, good in stock, hereditarily endowed with noble qualities. This, and the allied words, eugeneia, etc., are equally applicable to men, brutes, and plants. We greatly want a brief word to express the science of improving stock, which is by no means confined to questions of judicious mating, but which, especially in the case of man, takes cognisance of all influences that tend in however remote a degree to give the more suitable races or strains of blood a better chance of prevailing speedily over the less suitable than they otherwise would have had. The word eugenics would sufficiently express the idea; it is at least a neater word and a more generalised one than viriculture, which I once ventured to use."
本書の意図は、多かれ少なかれ、人種の育成、あるい
は「優生学」とでも呼ぶべき問題に関連するさまざまな話題に触れ、私自身が個別に行ったいくつかの調査の結果を紹介することにある。
つまり、ギリシャ語で「オイゲネス(eugenes)」と呼ばれるもの、すなわち、遺伝的に高貴な資質を備えた優れた家系に関係する問題です。この言葉
や、関連する言葉であるオイゲニアなどは、人間、哺乳類、植物に等しく適用されます。家畜を改良する科学は、決して賢明な交配の問題にとどまらず、特に人
間の場合、より適した人種や血統が、そうでないものに比べてより早く優勢になる機会を与える傾向が、どんなに遠くとも、あらゆる影響を考慮に入れているこ
とを表す簡潔な言葉が非常に必要である。優生学という言葉は、この考えを十分に表している。少なくとも、かつて私があえて使ったことのある養蚕学よりは、
すっきりとした言葉で、より一般化されたものである。
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1889 Galton, F (1889). Natural Inheritance. London: Macmillan.
1892 エルンスト・ヘッケル(Ernst Heinrich Philipp August Haeckel, 1834-1919)の講演(アルテンブルグ:Altenburg)。マル サスとホッブスより、人種差別と優生学を結びつける講演をおこなう。
1892 スイスで精神障害者女性への(強制)断種 手術を[→Compulsory sterilization]実施。
1897 ドイツで遺伝病の女性の(強制)断種手術 の実施。
1897 "The first state to introduce a compulsory sterilization bill was Michigan, in 1897, but the proposed law failed to pass. Eight years later Pennsylvania's state legislators passed a sterilization bill that was vetoed by the governor. Indiana became the first state to enact sterilization legislation in 1907,[73] followed closely by California and Washington in 1909."[-> https://goo.gl/nJxGM7]
1900 グレゴール・メンデルの遺伝法則の再発 見。
1904 Carnegie Institution of Washingtonは、Cold Spring Harborにthe Station for Experimental Evolution を設置する。
1905 Alfred Ploetz(1860 -1940)らにより〈民族衛生のためのドイツ協会: Gesellschaft für Rassenhygiene〉(German Society for Racial Hygiene)が創設。その中には民族学者Richard Thurnwald (1869-1954)も含まれていた。
《米国における優生学/欧州での重要な事件を含む》
1907 米国で最初の断種法
1907 U.K. Eugenics Education Society (-1926) Eugenics Society (-1989), Galton Institute (present)
1907 Japan: Compulsory sterilization in Japan
The Leprosy Prevention
laws of 1907, 1931 and 1953, permitted the segregation of patients in
sanitariums where forced abortions and sterilization were common and
authorized punishment of patients "disturbing peace" - Sato, Hajime
(February 2002). "Abolition of leprosy isolation policy in Japan:
policy termination through leadership". Policy Studies Journal. 30 (1):
29–46. doi:10.1111/j.1541-0072.2002.tb02126.x. [https://goo.gl/nJxGM7]
1909 U.K. Eugenics Education Society (-1926)が、The Eugenics Review, 1909-1968.を発刊
1910 優生学記録局(Eugenics Record Office, ERO)が、コールドスプリングス(ニューヨーク)に解説、チャールズ・ダベンポート(Charles Davenport, 1866-1944)による。
1910年代 ドイツ「「劣等分子」の断種や、治癒 不能の病人を要請に応じて殺すという「安楽死」の概念」の誕生(アクションT4)
1912 ロンドンで第1回国際優生学会議(レナー ド・ダーウィン会長、主席裁判官、海軍卿チャーチル):ただし、ジョサイア・ウェッジウッドIV世(Josiah Wedgwood, 1st Baron Wedgwood, 1872-1943)の抵抗により英国内では優生学的法案は通過しなかった。
1916 マディソン・グラント(Madison Grant, 1865-1937)が『偉大な人種の消滅(The passing of the great race)』を 出版。
北方人種=優秀説(the Nordic
Theory)
を展開。この本は1924年の(北米)移民法に影響を与える。ヒトラーはグラントの説に感動し、彼に同書を「私の聖書だと」の手紙を認める。”Among
those who embraced the book and its message was Adolf Hitler, who wrote
to Grant to personally thank him for writing it, referring to the book
as "my Bible.” - Stefan Kühl. 2002. Nazi Connection: Eugenics, American
Racism, and German National Socialism. Oxford University Press, p. 85
First Annual Field Workers' Conference, Eugenics Record Office, 1912
1916 サンガーのもとで、家族計画連盟が創設。
1917 日本優生学会設立(ほどなくして消滅)[岡田靖雄 2008:673]
1918 Popence, Paul Bowman(1888-1979) and Johnson, Roswell Hill(1877-1967), Applied eugenics. New York, MacMillan.(邦訳「應用優生學」東京 : 大日本文明協会, 1922.)
1920
ドイツ「刑法学者カール・ビンディングと精神科医ア ルフレート・ボーへが『生きるに値しない生命の根絶の許容』を発表し、不治の者が死への意思を表明している場合や、瀕死の重傷を負った意識のない患者は安 楽死が認められるべきであるし、意思表明ができない「不治の痴呆者」については「彼らの生命自体が無目的で家族にとっても社会にとっても重荷であるゆ え」、家族や後見人が申請し、医師と法律家から認定されるなら殺害を可能とした」(https://goo.gl/Wk6SXk)
1921 第2回国際優生学会議がニューヨークで開 催(アレクサンダー・グラハム・ベル名誉議長)ヘンリー・オズボーン・フェアチャイルド(Henry Fairfield Osborn, 1857-1935)の司会。
出席できなかったレナード・ダーウィン(Leonard Darwin, 1850-1943)は優生学的政策無き場合の人類の崩壊するとの確信を表明する。
この年(1921)the Station
for Experimental Evolution at Cold Spring Harbor は、the Carnegie
Institution Department of
Geneticsに再編された。1910年から1930年までは、カーネギーが支援する優生学登録所(Eugenics Record Office, ERO )だった。
1923 【ドイツ】「遺伝学者エルヴィン・バウ アー、オイゲ ン・フィッシャー、フリッツ・レンツ(Fritz Lenz)共著 『人類遺伝学と民族衛生学の概説』で劣等な遺伝子の排除が民族衛生にとって最善であるとし、レンツは障害者の「繁殖」は安楽死よりも断種で予防できると し、ヒトラーやナチスに影響を与え、「ナチス優生学のバイブル」と呼ばれた」(https://goo.gl/Wk6SXk)
1924 (北米)移民法
1926 U.K. Eugenics Education Societyが、Eugenics Society (1926-1989)に改称。The Eugenics Reviewは引き続き刊行(1909 to 1968)。
1929 A map from a 1929 Swedish royal commission report displays the U.S. states that had implemented sterilization legislation by then
1929 阿部文夫が国際優生学会より帰国、消滅していた優生学会(1917-)の設立を提案。東京帝大医学部生理学教室にで設立会議開催。永井潜が理事長に内定。優生学の俗用を嫌い「民族衛生学」を考案。
1930 日本民族衛生学会設立(1930)の趣旨 は「生命の根本を浄化し培養せんとするのが我が民族衛生学会の使命」であるとして「政治を浄化し、経済を浄化し、法律を浄化し、宗教を浄化し」と記載され ている(莇 2002:346)。
1930年代 ドイツ:優生学に基づく断種が議論
1931 「レンツ『人種衛生学に対する国民社会主 義の立場』で「ナチスは人種衛生学をその綱領の中心的な要求として代表する最初の政党」であると称賛」(https://goo.gl/Wk6SXk)
1931 日本民族衛生学会『民族衛生(Race hygiene)』を発刊。
古屋芳雄(1890-1974)『優生學原理と人類遺傳學』雄山閣、1931年を出版——ただし、これは(当時の)進化学と人類遺伝学の基礎の教科書であり、有害遺伝子を断種を通して排除するのかというものについての言及はない。
永井潜(1876-1957)による巻頭言
1932 優生学記録局ハ リー・ラフリン(Harry H. Laughlin, 1880-1943)は、優生学法の原型を提案。
優生学法はやがて、米国30州の州法に取り入れられ て、1970年代前半に廃止されるまで、6万5千人が強制的不妊手術を受けた。その対象者は、知的障害、精神異常、犯罪常習、てんかん、アルコール依存、 薬物依存、視覚障害、聴覚障害、奇形、遺伝病などが対象になる。
古屋芳雄(1890-1974)『民族生物學概論』雄山閣、1933年は、(同じ著者『優生學原理と人類遺傳學』の続編であるが)実質的には人種学概論であり、優生学的な人類集団への介入についての記述はない。
1932 第3回国際優生学会議がニューヨークで開 催: The Third International Eugenics Congress (1932)
1932 7月30日にはプロイセン州で「劣等分 子」の断種にかかわる法律が提出(アクションT4)
ca. 1933 カリフォルニア州は、米国でも有数の不妊手術の件数を誇る。Eugenics Society of Northern Californiaを創設したCharles Matthias Goethe(1875-1966)が先導(→Eugenics in California)。
1933
1月30日ナチス政権掌握
7月14日ドイツ「遺伝病根絶法(Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses)」(英訳:Law for the Prevention of Hereditarily Diseased Offspring)成立。断種の法制化。
日本では、この年に精神病や性病等を防ぐための配偶者の相談者を受け付ける優生結婚相談所の設置運営を開始する。
1934 第4回国際優生学会議は不開催で、チュー リッヒでこの年に会合。1936年にオランダのScheveningenで国際会合があったのを最後に以降開催されなくなる。
1935
9月15日 ニュルンベルク法(Nürnberger Gesetze; 「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」(Gesetz zum Schutze des deutschen Blutes und der deutschen Ehre)と「帝国市民法」(Reichsbürgergesetz)の総称)の制定
12月ナチス、レーベンスボルン=生命の泉(Lebensborn)協会を設置(→「ナチスの「生命の泉」計画と優生学」)
1936 永井潜らは断種法の制定を建議(「民族衛生振興の建議」 民族衛生 1936 年 5 巻 (1936) 3-4 号 p. 401-414)[本文pdf]
ca. 1938 重度の身体障害と知的障害を持つクナウアーという少年の父親が、少年の「慈悲殺」を総統アドルフ・ヒトラーに訴える。これは後にプロパンガンダ 映画『私は告発する(Ich klage an)』となる。
1939 マーガレット・サンガー(Margaret Sanger (1879-1966))、黒人の産児制限である〈ニグロ・プロジェクト; The Negro Project〉を発足。
1939 ユダヤ人の子供たちの受け入れ法案が連邦 議会で否決。反対派の頭目は、ハリー・ラフリン(Harry H. Laughlin, 1880-1943)。930人のユダヤ人を乗せたセントルイス号は、その多数がヨーロッパに帰還を余儀なくされ収容所で亡 くなる。
1939
9月1日「ヒトラーは日付のない秘密命令書を発令 し、指定の医師が「不治の患者」に対して「慈悲死」を下す権限を委任する責任をもつ、「計画の全権委任者」としての地位をフィリップ・ボウラー(Philipp Bouhler, 1899-1945)とカール・ブラント(Karl Brandt, 1904-1948) に与え」T4作戦(アクショ ンT4)の実施がはじまる。
1940 Japan: The Race
Eugenic Protection Law was submitted from 1934 to 1938 to the Diet.
After four amendments, this draft was promulgated as a National Eugenic
Law in 1940 by the Konoe government.[-> https://goo.gl/nJxGM7]
1941 T4による安楽殺が中止され、収容所に送
致する方針転換。プロパンガンダ映画『私は告発する(Ich klage
an)』(身体障害と知的障害の少年を慈悲殺してほしいという父親の訴えの映画)
1942 ヴァンゼー会議(Wannseekonferenz, Wannsee Conference)
1946 The myth of the state / by Ernst Cassirer. New Haven : Yale University Press , c1946.(カッシーラ『国家の神話』)にて、カッシーラは、ゴビノー優生学と人種主義の国家との結びつきを批判する。(第16章「英雄崇拝から人種崇 拝へ」)
1948 Henry Fairfield Osborn Jr. (1887-1969)が、Our Plundered Planet、を公刊。人類の人口増加を懸念。
1948 Japan: "According to the Eugenic Protection Law (1948), sterilization could be enforced on criminals "with genetic predisposition to commit crime", patients with genetic diseases including mild ones such as total color-blindness, hemophilia, albinism and ichthyosis, and mental affections such as schizophrenia, manic-depression possibly deemed occurrent in their opposition and epilepsy, the sickness of Caesar.[52] The mental sicknesses were added in 1952."[-> https://goo.gl/nJxGM7]
1948 青木延春『応用優生学としての断種』竜吟社、1948年
第2次大戦後は、声高に優生政策を唱える論者は少な くなったが、途上国における人口増加抑制政策を通して、西洋開発国側の「成長の限界」を回避するための政策は継続している。
1968 The Eugenics Review (1909-1968) が終刊(→The Eugenics Review, Archives)。
1975 アシロマ会議 (Asilomar conference) により、遺伝子組換えに関するガイドラインが議論された。
1981 胚性幹細胞(ES細胞)が、マウスの胚から2つの研究グループ(Martin J.Evans and Matthew H. Kaufman; Gail R. Martin)によって独立に樹立される。Gail R. Martinは、embryonic stem cells (ES cells)と命名する。
1984 Eugenic Review 終刊になり、Journal of Biosocial Science に吸収される
1989 Eugenics Society (U.K.) は The Galton Institute に改称。
1993 ハバードとウォルド『遺伝子神話の爆発(Exploding of the Gene Myth)』出版
1994 シュテファン・キール(Stefan Kühl, b. 1966)『ナチコネクション(The Nazi Connection)』出版
1996 世界初の哺乳類の体細胞クローンである雌羊ドリー(Dolly, sheep)が生まれた。
2006 山中伸弥らは、マウスの線維芽細胞より人工多能性幹細胞( induced pluripotent stem cells, iPS)を作り上げた。
リンク
文献
その他の情報