各国別比較:優生学の年表
History of American Eugenics
優生学(eugenics)は、遺伝現象を利用して、 優良な遺伝子をもつ子孫を次世代に反映させようとする一種の応用遺伝学。今日では、当初の優生学的知見による科学的有効性はおおむね否定されており、疑似 科学のひとつとされている。
人種衛生学(日本語では民族衛生学といわれ、
Rassenhygiene あるいは racial hygine
と言われる)。ナチスドイツが、優生学の知識を最大限に正当化して、ユダヤ人をはじめ、さまざまな「劣等人種」の強制隔離や安楽殺を実践したために、ナチ
ス(国家社会学者の)人種衛生学あるいは、ナチスの優生学(Nationalsozialistische
Rassenhygiene, Nazi eugenics)と言
われることが多い。
英国・ヨーロッパ |
米国(→アメリカ合衆国の優生学) |
ドイツ(→ナチ優生学の時代) |
日本(→優生学の年表) |
||
1757 1855 1865-1866 |
・(1757)スウェーデンで「癲癇患者法」にて患者の結婚を禁止 ・(1855)アルチュール・ド・ゴビノー『人類の不平等に関する試論』 ・(1865-1866)グレゴール・メンデル1865年にブリュン自然協 会で口頭発表し、論文発表は1866年に『ブリュン自然科学会誌』で行われた(→メンデル遺伝現象の発見) |
1872年に最初の女性の「去勢」が行われて、1880-1900に盛
んに行われた(Baker-Benfield 2000:121) |
1757 1865-1866 |
||
1883 1884 |
・フランシス・ゴルトン(Francis Galton, 1822-1911)「優生学」を提唱。 Galton, F (1883). Inquiries into Human Faculty and Its Development. London: J.M. Dent & Company | 1883 1884 |
(1884)高橋義雄『日本人人種改良論』で黄白雑婚論を展開 |
||
1885 |
1885 |
||||
1886 |
1886 |
加藤弘之は、高橋義雄による雑婚論を批判 |
|||
1887 |
1887 |
||||
1888 |
1888 |
||||
1889 |
Galton, F (1889). Natural
Inheritance. London: Macmillan. |
1889 |
|||
1890 |
1st Boer War, 1880-1881 |
1890 |
|||
1891 |
1891 |
||||
1892 |
・スイスで精神障害者女性への(強制)断種手術を
[→Compulsory sterilization]実施。 ・マックス・ノルダウ『退化論』 |
1892 |
・エルン
スト・ヘッケル(Ernst Heinrich Philipp August Haeckel,
1834-1919)の講演(アルテンブルグ:Altenburg)。マルサスとホッブスより、人種差別と優生学を結びつける講演をおこなう |
||
1893 |
1893 |
||||
1894 |
1894 |
||||
1895 |
1895 |
・アルフ
レート・プレッツ(Alfred
Ploetz)『人種衛生の基本指針』を出版 |
|||
1896 |
1896 |
||||
1897 |
・ミシガンで最初の強制的断種の実施 |
1897 |
・ドイツで遺伝病の女性の(強制)断種手術 の実施 |
||
1898 |
1898 |
||||
1899 |
2ndBoer War, 1899-1902. |
1899 |
・
ヒューストン・チェンバレン『19世紀の基礎(Die Grundlagen des neunzehnten
Jahrhunderts)』にて、ドイツ民族はアーリア人であり、セム民族に代表されるようなユダヤ人は劣等と規定した。ヒトラーの反ユダヤ思想に、レ
ンツらとならんで大いなる影響を与える。 |
||
1900 |
・3人の学者、ユーゴー・ド・フリース(オランダ)、カール・エーリヒ・コレンス(ドイツ)、エーリヒ・フォン・チェルマク(オーストリア)らによりメンデルの法則が再発見される。 | 1900 |
1900年以前の優生学は、雑婚論などに留まり、萌芽的時代である
(横山 2020:200) |
||
1901 |
1901 |
||||
1902 |
1902 |
||||
1903 |
1903 |
・シャルマイヤー『諸民族の履歴における遺伝と淘汰』 | |||
1904 |
・UCL内にゴルトンは優生学研究所をつくる。 |
・チャールズ・ダベンポート(Charles
Davenport, 1866-1944)がアンドリュー・カーネギーを動かしてコールドスプリングハーバーに「実験進化学研究所」を設置する。 |
1904 |
1904-1908「ヘレロおよびナマ虐殺」(ヘレロ戦争) |
|
1905 |
・スイスのグッド医師が精神病者の断種を議論する。 |
・ペンシルバニア州法が可決するが知事が拒否して廃案に |
1905 |
6月22日Alfred
Ploetz(1860
-1940)らにより〈人種衛生のためのドイツ協会: Gesellschaft für Rassenhygiene〉(German
Society for Racial Hygiene)が創設。その中には民族学者Richard Thurnwald
(1869-1954)も含まれていた。 |
・雑誌『人性』(主宰:富士川游) |
1906 |
Robert Reid Rentoul, Race
culture; or, Race suicide? (a plea for the unborn) |
1906 |
・フィッ
シャーは、ドイツ領南西アフリカ(現ナミビア)で「バスター」を対象とするフィールド調査
をおこなう。 |
||
1907 |
・インディアナ州で最初の最初の断種法(運用は2年後) |
1907 |
Gesellschaft für Rassenhygieneの頭にinternationaleの形容詞がつく. | ||
1908 |
1908 |
・オイゲ
ン・フィッシャー(Eugen Fischer,
1874-1967)はドイツ領南西アフリカ(現ナミビア)で、ブーア人(南アフリカに移住したオランダ系白人とその子孫)とホッテントットとの混血であ
るレーオボート(=バスター)を調査。ヘレロ=ナマ虐殺で得られた、頭蓋骨をドイツ国内に移送。 |
|||
1909 |
the Eugenics Education
Societyによる『優生学評論(Eugenics Review)』の創刊 |
1909 |
|||
1910 |
・1910年代には14州で断種法。 ・優生学記録局(Eugenics Record Office, ERO)が、コールドスプリングハーバーに開設、再びチャールズ・ダベンポート(Charles Davenport, 1866-1944)による。 |
1910 |
・海野幸徳『日本人種改造論』冨山房 |
||
1911 |
・ ゴルトンが死に、ロンドン大学優生学講座(後に遺伝学講座)が開設
され、カール・ピアソンが初代座長になる。 |
・ダ
ベンポート『優生学に関連する遺伝』を出版。長年にわたり大
学教科書として使われる。 |
1911 |
・国際衛生博覧会がドレスデンで開催。人種衛生学特別部会が開催され
る。 |
|
1912 |
・ロンドンで第1回国際優生学会議(レナー ド・ダーウィン会長、主席裁判官、海軍卿チャーチル)同時に国際優生学学会の開催:ただし、ジョサイア・ウェッジウッドIV世(Josiah Wedgwood, 1st Baron Wedgwood, 1872-1943)の抵抗により英国内では優生学的法案は通過しなかった。 | ・国際優生学学会(ロンドン) | 1912 |
・国際優生学学会(ロンドン) | ・国際優生学学会(ロンドン) |
1913 |
・アメリカ育種学会がアメリカ遺伝学会に名称変更 |
1913 |
|||
1914 |
1914 |
||||
1915 |
1915 |
・日本育種学会創設(→1920日本遺伝学会) |
|||
1916 |
・マディソン・グラント(Madison Grant,
1865-1937)が『偉大な人種の消滅(The passing of the great race)』を
出版。 ・サンガーのもとで、家族計画連盟が創設。 |
1916 |
・マディ
ソン・グラントは北方人種=優秀説(the Nordic
Theory)
を展開。この本は1924年の(北米)移民法に影響を与える。ヒトラーはグラントの説に感動し、彼に同書を「私の聖書だと」の手紙を認める。”Among
those who embraced the book and its message was Adolf Hitler, who wrote
to Grant to personally thank him for writing it, referring to the book
as "my Bible.” - Stefan Kühl. 2002. Nazi Connection: Eugenics, American
Racism, and German National Socialism. Oxford University Press, p. 85 ・Internationale Gesellschaft für Rassenhygiene,の国際的に代わってドイツ(Deutsche)がおきかわる。 |
・永井潜、保健衛生調査会で優生学の政策化を提唱 |
|
1917 |
1917 |
・日本優生学会設立(ほどなくして消滅) |
|||
1918 |
・Popence and Johnson, Applied eugenics. 1918 | 1918 |
・ワイマール共和国時代(1918-1933) | ||
1919 |
1919 |
||||
1920 |
・1920年代には24州で断種法。 |
1920 |
「刑法学者カール・ビンディングと精神科医アルフレート・ボーへが『生
きるに値しない生命の根絶の許容』を発表し、不治の者が死への意思を表明している場合や、瀕死の重傷を負った意識のない患者
は安楽死が認められるべきであるし、意思表明ができない「不治の痴呆者」については「彼らの生命自体が無目的で家族にとっても社会にとっても重荷であるゆ
え」、家族や後見人が申請し、医師と法律家から認定されるなら殺害を可能とした」(https://goo.gl/Wk6SXk) |
・日本育種学会は、日本遺伝学会に改称。 |
|
1921 |
・第 2回国際優生学会議がニューヨークで開 催(アレクサンダー・グラハム・ベル名誉議長)ヘンリー・オズボーン・フェアチャイルド(Henry Fairfield Osborn, 1857-1935)の司会。出席できなかったレナード・ダーウィン(Leonard Darwin, 1850-1943)は優生学的政策無き場合の人類の崩壊するとの確信を表明する。 | 1921 |
・1921年以来1925年まで、ザクセン州ツィッカウのベータース医
師は、法律の施行を待たずに独自に63件の断種手術を実施。 |
・『遺伝学雑誌』創刊 |
|
1922 |
1922 |
・3月マーガレット・サンガー来日、産児調整を訴えるが、永井潜や古屋
芳雄は人口減を 目標にするネオ・マルサス主義を批判。 ・Popence and Johnson「應用優生學」東京 : 大日本文明協会, 1922.(原著:Applied eugenics. 1918) |
|||
1923 |
1923 |
「遺伝学者エルヴィン・バウ
アー、オイゲ
ン・フィッシャー、フリッツ・レンツ(Fritz Lenz)共著
『人類遺伝学と人種衛生学の概説』で劣等な遺伝子の排除が民族衛生にとって最善であるとし、レンツは障害者の「繁殖」は安楽死よりも断種で予防できると
し、ヒトラーやナチスに影響を与え、「ナチス優生学のバイブル」と呼ばれた」(https://goo.gl/Wk6SXk) ・人種衛生学講座がミュンヘン大学に設置される。 |
|||
1924 |
・ロ
ナルド・フィッシャーOn
a distribution yielding the error functions of several well known
statistics(よく知られた統計集団の誤差関数を与える分布について)では、統計学全体の枠組みの中に、ピアソンのカイ二乗分布や、スチューデン
トのt分布を、正規分布や、彼自身の成果である分散分析やZ分布とともに位置付けた。フィッシャーは分散分析や最尤法の手法を編み出し、統計学的十分性、
フィッシャーの線形判別関数、フィッシャー情報行列などの概念を産んだ。 |
・(北米)移民法(ジョンソン・リード法; Immigration
Act of 1924)——これはアジアからの移民数の制限法と言われ1952年まで改正されず、1944年までのナチに迫害されたユダヤ人家
族の入国制限に寄与した。 |
1924 |
・後藤龍吉による日本優生学協会『優生学』誌 |
|
1925 |
1925 |
||||
1926 |
1926 |
・池
田林儀(しげのり)による優生運動協会『優生運動』誌 |
|||
1927 |
・
精神遅滞者のキャリー・バッグの断種の決定を8〈対〉1で1927年の連邦最高裁で決定(Buck v. Bell, 274
U.S. 200
(1927))(トロンブレイ 2000:138-139)——最高裁はそれまで違憲判断をしていたとリドレー(2000:363)は言うが、出所不明。 |
1927 |
・
カイザー・ヴィルヘルム人類学・優生学・人類遺伝学研究所(KWI-A)→人類学部門オイゲン・フィッシャー博士(初代所長);人類遺伝学部門オトマー
ル・フォン・フェアシュアー博士(2代目所長);優生学部門ムッカーマン博士、レンツ博士;実験遺伝病理学部門ナハッハイム博士 |
・池田林儀「日本優生学宣言」——日本は島国で人種の混交がおこりにく いという優越性の主張 | |
1928 |
・スイス・ウァート州で精神病者の断種を規定(保健法改正) |
1928 |
・日本遺伝学会第1回大会(九州帝国大学農学部) |
||
1929 |
・デンマーク断種法 |
1929 |
・阿部文夫が国際優生学会より帰国、消滅し
ていた優生学会(1917-)の(再)設立を提案。東京帝大医学部生理学教室にで設立会議開催。永井潜が理事長に内定。優生学の俗用を嫌い「民族衛生学」
を考案。 |
||
1930 |
・1930
年代で28州で断種法。それにプエルトリコで施行。 |
1930 |
・(1930年代)優生学に基づく断種が議論 |
日本民族衛生学会設立(1930)の趣旨
は「生命の根本を浄化し培養せんとするのが我が民族衛生学会の使命」であるとして「政治を浄化し、経済を浄化し、法律を浄化し、宗教を浄化し」と記載され
ている(莇 2002:346)。 ・1930年11月日本民族衛生学会設立 |
|
1931 |
1931 |
・レンツ『人類の淘汰と人種衛生学(優生学) 』第3
版(ハウア他,1921 年,第2 巻) |
・1931年日本民族衛生学会・第一回学術大会 ・永 井潜(1876-1957)による日本民族衛生学会『民族衛生(Race hygiene)』巻頭言。設立趣意書には、「新マルサス主義サンガー主義」を批判する旨が記載されており、当初から産児制限には消極的であったことがわ かる。 |
||
1932 |
国際優生学学会(N.Y.) |
・第
3回国際優生学会議がニューヨークで開
催:
The Third International Eugenics Congress (1932)&国際優生学学会(N.Y.) ・優生 学記録局ハ リー・ラフリン(Harry H. Laughlin, 1880-1943) は、優生学法の原型を提案。優生学法はやがて、米国30州の州法に取り入れられ て、1970年代前半に廃止されるまで、6万5千人が強制的不妊手術を受けた。その対象者は、知的障害、精神異常、犯罪常習、てんかん、アルコール依存、 薬物依存、視覚障害、聴覚障害、奇形、遺伝病などが対象になる。 |
1932 |
・7月30日にはプロイセン州で「劣等分子」の断種にかかわる法律が提
出(アクションT4の計画の立案はじまる) ・ヘルマン・ヴェルナー・ジーメンスが双子の研究でノーベル賞候補になる。 ・国際優生学学会(N.Y.) |
・国際優生学学会(N.Y.) |
1933 |
・カール・ピアソンの後を継いでUCLの優生学講座教授に就任(〜
1939) |
(この頃)カリフォルニア州は、米国でも有数の不妊手術の件数を誇る。 Eugenics Society of Northern Californiaを創設したCharles Matthias Goethe(1875-1966)が先導(→Eugenics in California)。 | 1933 |
・1月30日ナチによる全権委任法(権力掌握). ・7月14日ドイツ「遺伝性疾患の子孫予防に関する法律(Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses)」(英訳:Law for the Prevention of Hereditarily Diseased Offspring)成立。200箇所の優生裁判所 を設置。断種の法制化。法律施行最初の1年目で5万6千人に実施。最終的に40万件に上ったといわれる。 ・エゴン・フライヘル・フォン・アイクシュテット( Egon Freiherr von Eickstedt (1892 -1965)は、『人種学および人種史(Rassenkunde und Rassengeschichte der Menschheit)』 を著し人類を皮膚の色によって白・黒・黄色の三大人種系株に分け、地域別にその下に 36の人種をおいた(1933) ・ドイツでは人種科学の授業が大学での必修となる(レヴィン 2021:45) |
・精神病や性病等を防ぐための配偶者の相談者を受け付ける優生結婚相談
所の設置運営を開始する。 |
1934 |
・第4回国際優生学会議は不開催で、チュー
リッヒでこの年に会合。1936年にオランダのScheveningenで国際会合があったのを最後に以降開催されなくなる。 ・スウェーデンで精神病者等の断種法(最終的に6万人におこなわれる)。 ・ノルウェー断種法。 |
1934 |
|||
1935 |
・中南米やヨーロッパ(南欧)の国々による「ラテン国際優生学協会連
合」の結成(レヴィン 2021:24) |
1935 |
・9月
15日ニュルンベルグ法(Nürnberger Gesetze). ・12月ナチス、レーベンスボルン=生命の泉 (Lebensborn)協会を設置(→「ナチスの「生命の泉」計画と優生学」) ・断種法の改正。 ・国際人口科学学会(ベルリン)——ドイツの人種衛生学者は126演題のうち59を占める(47%)(キュール 1999:67) |
・日本民族衛生学会は、日本民族衛生協会に改称。 |
|
1936 |
・モスクワでの1937年国際遺伝学会議開催(不開催)をめぐり、アメリカの遺伝学者たちが人種優越論に疑義を示すようになる(キュール 199:141) |
1936 |
・日本民族衛生協会の永井潜らは1936年7月に断種法の制定を建議
(「民族衛生振興の建議」 民族衛生 1936 年 5 巻 (1936) 3-4 号 p. 401-414 ・国会で断種法(八木逸郎)の提出(70,73,74議会)(→1940) |
||
1937 |
・この時点で32州で断種法が施行。 |
1937 |
|||
1938 |
・アイスランド断種法。 |
1938 |
・1月内務省から衛生局及び社会局が分離される形で、厚生省が設置され
る。設置当初は1官房5局(体力局、衛生局、予防局、社会局及 び労働局)からなり、外局として保険院が置かれた。予防局内に優生課がおかれる。 ・4月民族衛生協議会が(厚生省内に?)設置。 ・日本学術振興会に第26小委員会設置(優生学的遺伝研究:三宅鉱一委員長) ・精神神経遺伝に関する学術調査(日本精神神経学会) ・11月厚生省・民族衛生研究会(永井潜、三宅鉱一、古屋芳雄、川 上理一、吉益脩夫、青木延春、) |
||
1939 |
・遺伝学者宣言(世界32名の学者の署名) ・UCLの優生学講座が解体される。フィッシャーは元の職場ロザムステッド農事試験場に戻る。 |
・マーガレット・サンガー(Margaret Sanger
(1879-1966))、黒人の産児制限である〈ニグロ・プロジェクト; The Negro Project〉を発足。 ・ユダヤ人の子供たちの受け入れ法案が連邦議会で否決。反対派の頭目は、ハリー・ラフリン(Harry H. Laughlin, 1880-1943)。930人のユダヤ人を乗せたセントルイス号は、その多数がヨーロッパに帰還を余儀なくされ収容所で亡くなる。 |
1939 |
・8月「ヒトラーは医師と助産婦に対する内務省令を発し、「障害者と障害新生児」を保健局 に届けることを義務化し、身体障害児の安楽死計画が開始する」 ・T4 作戦(計画)の実施 ・ウィーンで第四回国際人種衛生学・優生学学会が1940年に開催されることが「国際優生学協会連盟」が決定したが、不開催となる(キュール 1999:67) |
・10
月国民体力審議会において、民族優生制度の審議。同会議において、厚生省作成の「民族優生制度案」において「癩患者の断種を是認」において、癩は遺伝にあ
らずとされているが、出産時に母子において感染する可能性をあげ、遺伝学者には「不純の立法」であっても「優秀なる民族の繁栄を期待せんとする此の法律永
遠の目的の為」に癩の断種を是認すべきだと、正木亮は主張した(正木 1939)。ただし、国民優生法には、この主張は盛り込まれず、癩予防法の改正にも反映されなかった。 |
1940 |
1940 |
・3月国民優生法の成立(断種は1948年の法の廃止まで538件) ・池見猛『斷種の理論と國民優生法の解説』巖松堂書店, 1940年。 |
|||
1941 |
・スウェーデン対象者の拡大を含めた断種法の改正(最終的に6万人にな
される)。 |
1941 |
・T4による安楽殺が中止され、収容所に送致する方針転換。 ・ナチの安楽死推奨を訴える宣伝映画「私は告発する」(1941)の主人公ハンナ・ヘイトの病名は多発性硬化症。プロパンガンダ 映画『私は告発する(Ich klage an)』の公開。 |
||
1942 |
1942 |
・ヴァンゼー会議(Wannseekonferenz, Wannsee
Conference) ・ロマやシンティに対する、ハインリッヒ・ヒムラーに よる絶滅命令は1942年12月16日におこなわれる。 |
|||
1943 |
1943 |
||||
1944 |
1944 |
||||
1945 |
1945 |
||||
1946 |
1946 |
||||
1947 |
1947 |
||||
1948 |
・1950年ユネスコ「人種に関する問題(The Race
question)」 ・南アでアパルトヘイト政策はじまる |
・ヘンリー・フェアフィールド・オズボーン・ジュニア(Henry
Fairfield Osborn Jr.)が、Our Plundered Planet、を公刊。人類の人口増加を懸念。 |
1948 |
・国民優生法を廃止して優生保護法を制定 |
◎優生学用語集・人名集(→「優生学」の項目に移動しました)
Links
リンク
文献
その他の情報